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2006年8月19日 (土) 12:00時点における版
筑紫 満門(つくし みつかど ? - 大永4年(1524年)?)は筑前・肥前地域に勢力を張った大身筑紫氏の当主。少弐氏・大内氏に仕えた。父は筑紫教門(秀門ともされるなど、異説も多い)。子は尚門(または秀門、正門)、馬場頼周妻。筑紫惟門は孫か。この時代の筑紫氏の系図は諸説あり、はっきりしない。
筑紫氏は足利直冬の末裔とも少弐氏の庶流ともいう。満門ははじめ少弐政資に従い、九州探題の渋川氏の勢力を駆逐するのに貢献した。しかし大内氏が九州に侵攻してくると、少弐氏はしだいに劣勢になり、ついに1497年には政資が自刃し少弐氏が一時滅亡する結果になる。このとき満門は東尚盛らとともに大内義興に降伏し許され、以後は大内方として北九州での筑紫氏の立場を強化した。
没年は1524年ごろとされている。一説には、少弐氏を復活させた少弐資元の家臣であり満門の娘婿の馬場頼周の寝返りの誘いを満門が拒否し、逆に頼周の大内氏への帰順をうながそうとしたため頼周の怒りを買い、娘と孫に会わせるからと満門を自分の居城綾部城に誘い出し殺害したという。