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「ウリ党」の版間の差分

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同年[[4月15日]]、総選挙で過半数となる152議席を獲得するも、その後の補欠選挙では10戦全敗した。
同年[[4月15日]]、総選挙で過半数となる152議席を獲得するも、その後の補欠選挙では10戦全敗した。
[[2006年]]の統一地方選では[[ソウル特別市|ソウル]]や[[釜山広域市|釜山]]をはじめ当初優位に立っていた[[大田広域市|大田]]など七つの主要市長選で全敗し、九つの道知事選でも1勝8敗と大敗を喫し、選挙の陣頭指揮を取った[[鄭東泳]]議長が引責辞任することとなり、その後[[金槿泰]]前保健福祉部長官を中心とした運営体制が発足することになった。後任の議長には[[文喜相]]が当選。しかし、同年[[7月26日]]の国会議員補欠選では、ソウル市城北乙選挙区で民主党の[[趙舜衡]](チョ・スンヒョン)候補が当選するなど4選挙区で全敗し、党勢の縮小には歯止めがかからなかった。
[[2006年]]の統一地方選では[[ソウル特別市|ソウル]]や[[釜山広域市|釜山]]をはじめ当初優位に立っていた[[大田広域市|大田]]など七つの主要市長選で全敗し、九つの道知事選でも1勝8敗と大敗を喫し、選挙の陣頭指揮を取った[[鄭東泳]]議長が引責辞任することとなり、その後[[金槿泰]](キム・グンテ)前保健福祉部長官を中心とした運営体制が発足することになった。後任の議長には[[文喜相]](ムン・ヒサン)が当選。しかし、同年[[7月26日]]の国会議員補欠選では、ソウル市城北乙選挙区で民主党の[[趙舜衡]](チョ・スンヒョン)候補が当選するなど4選挙区で全敗し、党勢の縮小には歯止めがかからなかった。
また、党勢回復のためとして一度は袂を分かった[[民主党_(韓国)|民主党]]との再統合や[[高建]]元首相との連携などが絶えず噂されている。
また、党勢回復のためとして一度は袂を分かった[[民主党_(韓国)|民主党]]との再統合や[[高建]]元首相との連携などが絶えず噂されている。



2006年8月20日 (日) 01:51時点における版

開かれたわが党
各種表記
ハングル 열린 우리당
漢字 열린 우리黨
発音 ヨルリンウリダン
英語 The Uri Party
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ウリ党は、韓国政党のひとつ。正式名称はヨルリン・ウリ党(開かれたわが党)でウリ党は略称。

2003年11月11日新千年民主党(民主党)から離脱した盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領支持派を中心に47人で結成され、四大綱領を発表した。「ウリ」とは「我々の」という意味で、名称決定時にウリ党(自分の所属政党)とウリ党(ヨルリン・ウリ党)で混乱が起こるのではないかと物議をかもした。

2004年1月11日に開かれた臨時党大会で鄭東泳(ジョン・トンヨン)議員が新議長に選ばれた。

同年3月9日、盧武鉉に対する大統領弾劾訴追案が発議されるとこれを阻止すべく議長席占拠という実力行使を行うが、3月12日、あえなく排除されてしまう。続いて行われた投票で弾劾訴追案が可決されると、これに抗議の意を示すために全議員が辞職届を出した。

同年4月15日、総選挙で過半数となる152議席を獲得するも、その後の補欠選挙では10戦全敗した。 2006年の統一地方選ではソウル釜山をはじめ当初優位に立っていた大田など七つの主要市長選で全敗し、九つの道知事選でも1勝8敗と大敗を喫し、選挙の陣頭指揮を取った鄭東泳議長が引責辞任することとなり、その後金槿泰(キム・グンテ)前保健福祉部長官を中心とした運営体制が発足することになった。後任の議長には文喜相(ムン・ヒサン)が当選。しかし、同年7月26日の国会議員補欠選では、ソウル市城北乙選挙区で民主党の趙舜衡(チョ・スンヒョン)候補が当選するなど4選挙区で全敗し、党勢の縮小には歯止めがかからなかった。 また、党勢回復のためとして一度は袂を分かった民主党との再統合や高建元首相との連携などが絶えず噂されている。

現在、韓国の与党であるが、イラク戦争やイラク派兵には政府が米国への支持を表明したのに対し造反議員も相当数いた。

党としての対北朝鮮政策は太陽政策に代表されるように穏和である。盧武鉉政権における政策の中軸のひとつであるが、その是非については評価が分かれている。

四大綱領

  • 新しい政治
  • 富裕な国
  • 暖かい社会
  • 韓半島の平和

関連項目

外部リンク