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[[1921年]](大正10年)、善次郎は釧路地方開発の功績で釧路区(現釧路市)から表彰された。また、[[東京市]]に慈善事業費として300万円を寄附したほか[[東京帝国大学]]に講堂建築費として100万円を寄附した。[[1902年]](明治35年)、[[1909年]](明治42年)には[[早稲田大学]]にも寄附し学苑最初の[[校賓]]に推された。
[[1921年]](大正10年)、善次郎は釧路地方開発の功績で釧路区(現釧路市)から表彰された。また、[[東京市]]に慈善事業費として300万円を寄附したほか[[東京帝国大学]]に講堂建築費として100万円を寄附した。[[1902年]](明治35年)、[[1909年]](明治42年)には[[早稲田大学]]にも寄附し学苑最初の[[校賓]]に推された。


1921年(大正10年)[[9月27日]]、[[神奈川県]]の[[大磯町]]字北浜496にある別邸・寿楽庵に[[弁護士]]・[[風間力衛]]の名前を名乗る男が善次郎の前に現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、善次郎はこの面会を断られた。風間力衛は、実在の人物であるが[[神州義団]]団長を名乗る[[朝日平吾]]<ref>暗殺者の朝日は[[1890年]](明治23年)生まれ、伝記が[[2009年]](平成21年)に出されている。/ [[中島岳志]] 『朝日平吾の鬱屈』([[筑摩書房]]〈双書Zero〉)。</ref>が勝手に詐称しただけであり、風間本人は事件と何の関係もない。翌日、門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。ところが午前9時20分ごろ、善次郎は別邸の十二畳の応接間で朝日に短刀で切り付けられ、逃げようとしたものの廊下から庭先に転落したところを咽頭部に止めを刺されて絶命した。享年82歳。その後、朝日は応接間に戻り、所持していた短刀と西洋刀で咽喉を突いて自殺した<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)326頁</ref>
1921年(大正10年)[[9月27日]]、[[神奈川県]]の[[大磯町]]字北浜496にある別邸・寿楽庵に[[弁護士|「弁護士]]・[[風間力衛]]」と名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、善次郎はこの面会を断た。風間力衛は、実在の人物であるが[[神州義団|、神州義団]]団長を名乗る[[朝日平吾]]<ref>暗殺者の朝日は[[1890年]](明治23年)生まれ、伝記が[[2009年]](平成21年)に出されている。/ [[中島岳志]] 『朝日平吾の鬱屈』([[筑摩書房]]〈双書Zero〉)。</ref>が詐称したものであり、風間本人は事件と何の関係もない。


翌日、再度訪れた朝日は門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。午前9時20分ごろ、善次郎は別邸の十二畳の応接間で朝日に短刀で切り付けられ、逃げようとしたものの廊下から庭先に転落したところを咽頭部に止めを刺されて絶命した。享年82歳。その後、朝日は応接間に戻り、所持していた短刀と西洋刀で咽喉を突いて自殺した<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)326頁</ref>。
斬奸状に曰く、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」とされ


朝日による斬奸状に、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」とされていた
[[戒名]]は正徳院釈善貞楪山大居士。の約1か月後に起きた[[原敬暗殺事件]]は、この善次郎の事件に刺激を受けたものといわれる。


[[戒名]]は正徳院釈善貞楪山大居士。この事件の約1か月後に起きた[[原敬暗殺事件]]は、この朝日による事件に刺激を受けたものといわれる。
[[東京大学]]の[[安田講堂]]や、[[日比谷公会堂]]、[[千代田区立麹町中学校]]校地は善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行は世間に知られていなかった。例えば、安田講堂は死後に善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。

[[東京大学]]の[[安田講堂]]や、[[日比谷公会堂]]、[[千代田区立麹町中学校]]校地は善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付われたことは世間に知られていなかった。安田講堂は死後に善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。


「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は善次郎の言葉とされている。
「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は善次郎の言葉とされている。


=== 死後 ===
=== 死後 ===
富山市愛宕町にある安田公園(安田記念公園)は、安田家の家屋があったところを整備された公園であり、東隣には[[住居表示]]実施に伴う町名変更で誕生した安田町がある。[[旧安田庭園]]は、善次郎が所有していたためその名を残している。明治12(1879)年に購入した[[田安徳川家]]邸宅肥前[[平戸藩]]主松浦の隠居所、上総[[一宮藩]]主加納邸の敷地に造った接客用の別邸(深秀園)は[[同愛記念病院]]と[[安田学園]]になっている<ref>[http://www.yasuda-re.co.jp/yasuda/meguri/page07.html 引き継がれた善次郎翁の「社会への貢献」 墨田区横網]安田不動産株式会社</ref>。
富山市愛宕町にある安田公園(安田記念公園)は、安田家の家屋があったところを整備された公園であり、東隣には[[住居表示]]実施に伴う町名変更で誕生した安田町がある。[[旧安田庭園]]は、善次郎が所有していたためその名を残している。明治12(1879)年に購入した[[田安徳川家]]邸宅肥前[[平戸藩]]主松浦の隠居所、上総[[一宮藩]]主加納邸の敷地に造った接客用の別邸(深秀園)は[[同愛記念病院]]と[[安田学園]]になっている<ref>[http://www.yasuda-re.co.jp/yasuda/meguri/page07.html 引き継がれた善次郎翁の「社会への貢献」 墨田区横網]安田不動産株式会社</ref>。


== 栄典 ==
== 栄典 ==

2019年4月11日 (木) 01:14時点における版

安田善次郎
生誕 天保9年10月9日1838年11月25日
日本の旗 日本越中国富山藩
死没 (1921-09-28) 1921年9月28日(82歳没)
日本の旗 日本神奈川県中郡大磯町
職業 実業家
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安田 善次郎(やすだ ぜんじろう、天保9年10月9日1838年11月25日〉 - 大正10年〈1921年9月28日)は、富山県富山市出身の実業家。幼名は岩次郎。安田財閥の祖。

生涯

富山藩下級武士(足軽)の安田善悦の子として生まれた。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。

1858年(安政5年)、奉公人として江戸に出る。最初は玩具屋に、ついで鰹節屋兼両替商に勤めた。 25歳で独立し、乾物と両替を商う安田商店を開業した。 やがて安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立し、その後には損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物等を次々と設立した。

1870年代には北海道で最初の私鉄である釧路鉄道(本社 安田銀行本店)を敷設し、硫黄鉱山開発や硫黄の輸送および加工のための蒸気機関の燃料調達を目的として、釧路炭田(後の太平洋興発の前身)を開発した。北米への硫黄輸出のために、それまで小さな漁港に過ぎなかった釧路港を特別輸出港に指定させた。現在のみずほ銀行釧路支店の礎となる根室銀行を設立し、魚場集落だった釧路は道東最大の都市へと急激に発展した。このように、金融財閥家の基礎は善次郎の手により釧路の硫黄鉱山経営と輸出で築かれたといわれている。

善次郎は自分の天職を金融業と定め、私的に事業を営むことを自ら戒めたが、同郷だった浅野総一郎浅野財閥の祖)の事業を支援するなど事業の育成を惜しむことはなかった(現在の鶴見線である鶴見臨港鉄道の安善駅は善次郎の名前に因み、浅野が命名した。)。また善次郎は、日本電気鉄道帝国ホテルの設立発起人、東京電燈会社南満州鉄道への参画、日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わった。

1921年(大正10年)、善次郎は釧路地方開発の功績で釧路区(現釧路市)から表彰された。また、東京市に慈善事業費として300万円を寄附したほか東京帝国大学に講堂建築費として100万円を寄附した。1902年(明治35年)、1909年(明治42年)には早稲田大学にも寄附し学苑最初の校賓に推された。

1921年(大正10年)9月27日神奈川県大磯町字北浜496にある別邸・寿楽庵に「弁護士風間力衛」と名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、善次郎はこの面会を断った。風間力衛は、実在の人物ではあるが、神州義団団長を名乗る朝日平吾[1]が詐称したものであり、風間本人は事件と何の関係もない。

翌日、再度訪れた朝日は門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。午前9時20分ごろ、善次郎は別邸の十二畳の応接間で朝日に短刀で切り付けられ、逃げようとしたものの廊下から庭先に転落したところを咽頭部に止めを刺されて絶命した。享年82歳。その後、朝日は応接間に戻り、所持していた短刀と西洋刀で咽喉を突いて自殺した[2]

朝日による斬奸状には、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」と記されていた。

戒名は正徳院釈善貞楪山大居士。この事件の約1か月後に起きた原敬暗殺事件は、この朝日による事件に刺激を受けたものといわれる。

東京大学安田講堂や、日比谷公会堂千代田区立麹町中学校校地は善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付が行われたことは世間に知られてはいなかった。安田講堂は死後に善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。

「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は善次郎の言葉とされている。

死後

富山市愛宕町にある安田公園(安田記念公園)は、安田家の家屋があったところを整備された公園であり、東隣には住居表示実施に伴う町名変更で誕生した安田町がある。旧安田庭園は、善次郎が所有していたためその名を残している。明治12(1879)年に購入した田安徳川家邸宅は肥前平戸藩主松浦侯の隠居所、上総一宮藩主加納侯邸の敷地に造った接客用の別邸(深秀園)は同愛記念病院安田学園になっている[3]

栄典

子孫

2代目安田善次郎
四男の安田善雄。 竹廼舎2代目慎之介の養子となり、長じて安田系企業の重役に名を連ねた後、36歳で関東大震災で亡くなる。

善次郎が暗殺された後、長男の安田善之助が大正10年(1921)に二代目善次郎を襲名し安田家の家督を継承。善之助は書誌学に造詣深く、善本・稀覯本の蔵書家としても知られた[9]。二代目善次郎の長男・(善次郎の孫)の時に財閥解体を迎える。一の長男で現安田学園理事長で安田不動産顧問のは、善次郎の曾孫。

また、次女とその婿・安田善三郎の娘・磯子は小野英二郎の息子・英輔と結婚し、その娘(善次郎の曾孫)には洋子(オノ・ヨーコ、前衛芸術家)・節子(世界銀行シニアアドバイザー・彫刻家)がいる。オノ・ヨーコはミュージシャンのジョン・レノンと結婚したが、二人の間に産まれたショーン・レノン(ミュージシャン)は善次郎の玄孫にあたる。

人物

  • 自ら「勤倹堂実行道人」と称し他人からも守銭奴と評されたが[10]、見込みのある事業には徹底的に投資し、自らの哲学にかなう社会事業には寄付を惜しまなかった。
  • 芝居・相撲見物、囲碁、馬術、書画骨董、菊作り、茶道と多くの趣味を持ち、同好の富豪や名士達とサロンを形成した。芸事も好み、能役者宝生九郎パトロンとなって家族全員に謡曲を習わせている[10]

伝記・小説

  • 菊池暁汀『富の活動』(初版:大学館 明治44年刊) - 生前に善次郎が口述筆記させた自叙伝
    「創業者を読む」(大和出版、1992年)で再刊、一部抜粋が「新・教養の大陸シリーズ『大富豪になる方法─無限の富を生み出す』」(幸福の科学出版、2013年)として刊行
  • 矢野龍渓 『安田善次郎伝』(初版:安田保善社 大正14年刊) - 公的伝記
    中公文庫(1979年)、復刻「人物で読む日本経済史 第10巻」(ゆまに書房、1998年)で再刊
  • 由井常彦 『安田善次郎 果報は練って待て』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2010年9月 - 著者は三井文庫常務理事・文庫長
  • 北康利 『陰徳を積む 銀行王・安田善次郎』 新潮社、2010年8月
  • 渡辺房男 『儲けすぎた男 小説・安田善次郎』 文藝春秋、2010年7月
  • 砂川幸雄 『金儲けが日本一上手かった男 安田善次郎の生き方』 ブックマン社、2008年
  • 江上剛 『成り上がり』 PHP研究所、2010年11月
  • 原達郎『オノ・ヨーコの華麗な一族』柳川ふるさと塾(私家版)、2010年

脚注

  1. ^ 暗殺者の朝日は1890年(明治23年)生まれ、伝記が2009年(平成21年)に出されている。/ 中島岳志 『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房〈双書Zero〉)。
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)326頁
  3. ^ 引き継がれた善次郎翁の「社会への貢献」 墨田区横網安田不動産株式会社
  4. ^ 『官報』第1278号「叙任及辞令」1887年9月30日。
  5. ^ 『官報』第1278号「彙報 - 褒章」1887年9月30日。
  6. ^ 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。
  7. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  8. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  9. ^ 安田善次郎二代目国立国会図書館
  10. ^ a b 大和滋 岩淵潤子(編)「明治・大正・昭和期の芸能と旦那」『「旦那」と遊びと日本文化』PHP研究所 1996 ISBN 4569551521 pp.101-110.

関連項目

外部リンク