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国家顧問 (2000)
国家顧問 (2000)


フランス成長促進委員会委員長
フランス成長解放委員会委員長
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'''ジャック・アタリ'''({{lang-fr-short}}Jacques Attali、[[1943年]][[11月1日]] - )は、[[フランス]]の[[経済学者]]、[[思想家]]、[[作家]]、政治顧問。[[アルジェリア]]の首都[[アルジェ]]出身の[[ユダヤ系]][[フランス人]]。ミッテラン政権以後、長きに渡り、仏政権の中枢で重要な役割を担った人物として知られ、つづくサルコジ、オランド、マクロン政権にも影響を与えている。
'''ジャック・アタリ'''({{lang-fr-short}}Jacques Attali、[[1943年]][[11月1日]] - )は、[[フランス]]の[[経済学者]]、[[思想家]]、[[作家]]、政治顧問。[[アルジェリア]]の首都[[アルジェ]]出身の[[ユダヤ系]][[フランス人]]。ミッテラン政権以後、長きに渡り、仏政権の中枢で重要な役割を担った人物として知られ、つづく[[ニコラ・サルコジ|サルコジ]][[フランソワ・オランド|オランド]][[エマニュエル・マクロン|マクロン]]政権にも影響を与えている。


1981年から1991年にかけて[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]大統領の顧問を務め、1991年~93年にかけて[[欧州復興開発銀行]]の最初の総裁となった。1997年、[[クロード・アレグル]]教育相の要請に応じ、高等教育学位制の改革を提案した。 2008年~10年、[[ニコラ・サルコジ|サルコジ]]政権下でフランス経済成長促進に関する政府委員会を率いた。
1981年から1991年にかけて[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]大統領の顧問を務め、1991年~93年にかけて[[欧州復興開発銀行]]の最初の総裁となった。1997年、[[クロード・アレグル]]教育相の要請に応じ、高等教育学位制の改革を提案した。 2008年~10年、[[ニコラ・サルコジ|サルコジ]]政権下で「アタリ委員会」として知られるフランス経済成長解放に関する超党派の政府委員会を率いた。オランド政権下ではポジティブ経済に関する委員会を組織し、44もの改革を提案した。マクロン大統領は「アタリ委員会」の報道官を務め、2010年3月、そのメンバーとなった<ref>{{Citation|title=Décret n° 2010-223 du 4 mars 2010 relatif à la commission pour la libération de la croissance française|url=https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do?cidTexte=JORFTEXT000021906441|date=4 mars 2010|accessdate=2019-05-15}}</ref>


新技術開発に取り組むヨーロッパのプログラムEUREKAを共同設立した。さらに非営利団体であるPlaNet Financeを設立、戦略、コーポレートファイナンス、ベンチャーキャピタルに関する国際コンサルタント会社Attali&Associates(A&A)の責任者でもある。芸術への高い関心から[[オルセー美術館]]の役員にも任命されている。また、仏国内において 『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』、『アンチ・エコノミクス』など50冊以上の本を出版している。
新技術開発に取り組むヨーロッパのプログラムEUREKAを共同設立した。さらに非営利団体であるPlaNet Financeを設立、戦略、コーポレートファイナンス、ベンチャーキャピタルに関する国際コンサルタント会社Attali&Associates(A&A)の責任者でもある。芸術への高い関心から[[オルセー美術館]]の役員にも任命されている。また、仏国内において 『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』、『アンチ・エコノミクス』など50冊以上の本を出版している。
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1943年11月1日、アルジェリアで双子の兄弟バーナード・アタリと共にユダヤ人家族のもとに生まれる。父サイモン・アタリiは都市[[アルジェ]]での香水店経営( Bib et Babショップ)で成功を収めた独学者だった。[[アルジェリア戦争|アルジェリア独立戦争]]が始まって2年後にあたる1956年、父は家族と共にパリへの居住を決めた。
1943年11月1日、アルジェリアで双子の兄弟バーナード・アタリと共にユダヤ人家族のもとに生まれる。父サイモン・アタリiは都市[[アルジェ]]での香水店経営( Bib et Babショップ)で成功を収めた独学者だった。[[アルジェリア戦争|アルジェリア独立戦争]]が始まって2年後にあたる1956年、父は家族と共にパリへの居住を決めた。


双子のジャックとバーナードは16区にあるリセ・ジャンソン=ドゥ=サイイで学び、そこでのちに政治家となるジーン・ルイス・ビアンコや[[ローラン・ファビウス]]元仏首相と出会う。1966年、ジャックはエコールポリテクニックを卒業、また、パリ国立高等鉱業学校、パリ政治学院も卒業した。
双子のジャックとバーナードは16区にあるリセ・ジャンソン=ドゥ=サイイで学び、そこでのちに政治家となるジーン・ルイス・ビアンコや[[ローラン・ファビウス]]元仏首相と出会う。1966年、ジャックはエコールポリテクニックを卒業、また、パリ国立高等鉱業学校、パリ政治学院、エリート養成で名を馳せた[[フランス国立行政学院|国立行政学院]]も卒業した。


1968年、[[ニエーヴル県|ニエーヴル]]県でのインターンシップ中、3年前に面識のあった[[フランソワ・ミッテラン]]と2度目の出会いを果たす。
1968年、[[ニエーヴル県|ニエーヴル]]県でのインターンシップ中、3年前に面識のあった[[フランソワ・ミッテラン]]と2度目の出会いを果たす。
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== 政治歴 ==
== 政治歴 ==
1973年12月、ミッテランとの密接なコラボレーションがはじまる。1974年、大統領選挙での運動を指揮し、 1981年、ミッテランが大統領に選ばれると、特別顧問に指名された。このときよりアタリは大統領のため、経済学、文化、政治、彼が最後に読んだ本などのメモを書き、内閣会議、国防会議、二国間での首脳会談に出席した。ミッテランはG7サミットのための「シェルパ」(国家元首代理人)の役割を委ねた。
1973年12月、ミッテランとの密接なコラボレーションがはじまる。1974年、大統領選挙での運動を指揮し、 1981年、ミッテランが大統領に選ばれると、特別顧問に指名された。このときよりアタリは大統領のため、経済学、文化、政治、彼が最後に読んだ本などのメモを書き、内閣会議、国防会議、二国間での首脳会談に出席した。ミッテランはG7サミットのための「シェルパ」(国家元首代理人)の役割を委ねた。


[[レイモン・バール|レイモンド・バール]]元首相、[[ジャック・ドロール|ジャン・ドロール]][[欧州委員会委員長|欧州委員会元委員長]]、[[フィリップ・セガン]]元会計検査院院長、[[ラガルデール]]([[コングロマリット|複合企業]])創立者ジャン=リュック・ラガルデール、多国籍企業[[ダノン]]創立者アントワヌ・リブー、哲学者[[ミシェル・セール]]、俳優[[コリューシュ]]などと交流し、大統領に[[ジーン・ルイス・ビアンコ]]と[[アラン・ブーブリル]]を推薦した。また、[[フランソワ・オランド]]元大統領や仏初の女性大統領候補[[セゴレーヌ・ロワイヤル]]など[[フランス国立行政学院]]の卒業生たちを彼のチームに加えた。
[[レイモン・バール|レイモンド・バール]]元首相、[[ジャック・ドロール|ジャン・ドロール]][[欧州委員会委員長|欧州委員会元委員長]]、[[フィリップ・セガン]]元会計検査院院長、[[ラガルデール]]([[コングロマリット|複合企業]])創立者ジャン=リュック・ラガルデール、多国籍企業[[ダノン]]創立者アントワヌ・リブー、哲学者[[ミシェル・セール]]、俳優[[コリューシュ]]などと交流し、大統領に[[ジーン・ルイス・ビアンコ]]と[[アラン・ブーブリル]]を推薦した。また、[[フランソワ・オランド]]元大統領や仏初の女性大統領候補[[セゴレーヌ・ロワイヤル]]など[[フランス国立行政学院]]の卒業生たちを彼のチームに加えた。
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== 国際的な業績と論争 ==
== 国際的な業績と論争 ==
1979年、国際的なNGO飢餓撲滅行動(Action Contre La Faim)を共同設立した。
1979年、国際的なNGO団体、飢餓撲滅行動(Action Contre La Faim)を共同設立した。


1984年、新技術開発を旨としたプログラムEUREKAを創立に関わった。
1984年、新技術開発を旨としたプログラムEUREKAを創立に関わった。
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1989年8月、ミッテラン大統領2度目の任務中、政治を断念、[[エリゼ宮殿|エリセ宮殿]]を去る。ロンドンで[[欧州復興開発銀行]](EBRD)を設立、初代総裁に就任した。[[ベルリンの壁]]崩壊以前の1989年6月、東ヨーロッパ諸国の復興支援を旨とし、この機関の構想をはじめていた。アタリはパリ交渉会議の議長を務めており、それが復興銀行設立へとつながった。彼の指導の下、EBRDは原子力発電所の保護、環境保護、インフラの整備、民間部門の競争力強化、さらに民主主義への移行支援を目的とする投資を促進した。
1989年8月、ミッテラン大統領2度目の任務中、政治を断念、[[エリゼ宮殿|エリセ宮殿]]を去る。ロンドンで[[欧州復興開発銀行]](EBRD)を設立、初代総裁に就任した。[[ベルリンの壁]]崩壊以前の1989年6月、東ヨーロッパ諸国の復興支援を旨とし、この機関の構想をはじめていた。アタリはパリ交渉会議の議長を務めており、それが復興銀行設立へとつながった。彼の指導の下、EBRDは原子力発電所の保護、環境保護、インフラの整備、民間部門の競争力強化、さらに民主主義への移行支援を目的とする投資を促進した。


1991年、[[ジョン・メージャー|ジョン・メジャー]]英首相の意向に反し、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]をロンドンのEBRD本部に招待した。ロンドンサミットに出席していたG7の国家元首に、旧ソビエトの国家元首をブッキングさせた。ジョン・メジャーとのあいだで繰り広げられた激しい電話でのやり取りの後、英国報道機関は批判を開始、アタリの施設運営への疑念をひろげた。EBRDの非効率的な運営実態は衝撃を与えた。実態は仏ジャーナリストたちによって追求された。 アタリは自身の著書「[[:fr:C'était_François_Mitterrand|CétaitFrançoisMitterrand]]」のなかの一章で、自らの立場を説明した。アタリは機関を去り、理事会は彼に機関管理の最終的な解任を与えた。
1991年、[[ジョン・メージャー|ジョン・メジャー]]英首相の意向に反し、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]をロンドンのEBRD本部に招待した。[[ロンドンサミット]]に出席していたG7の国家元首に、旧ソビエトの国家元首をブッキングさせた。ジョン・メジャーとのあいだで繰り広げられた激しい電話でのやり取りの後、英国報道機関は批判を開始、アタリの機関運営への疑念をひろげた。EBRDの非効率的な運営実態は衝撃を与えた。実態は仏ジャーナリストたちによって追求された。 アタリは自身の著書「[[:fr:C'était_François_Mitterrand|CétaitFrançoisMitterrand]]」のなかの一章で、自らの立場を説明した。アタリは機関を去り、理事会は彼に最終的な解任を与えた。


1993年、ミッテラン大統領の許可なく、秘密の書庫と大統領の別の本のための文章を複製したとされる名誉毀損の訴訟を勝ち取った。アタリがその本を校正し、訂正する権限を与えられていたことが認められた。
1993年、ミッテラン大統領の許可なく、秘密の書庫と大統領の別の本のための文章を複製したとされる名誉毀損の訴訟を勝ち取った。アタリがその本を校正し、訂正する権限を与えられていたことが認められた。
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1998年、500名ものスタッフを雇用し、80カ国以上で活動する非営利団体Positive Planetを設立、1万人の小規模金融参加者と[[ステークホルダー]]に資金提供、技術支援、アドバイスサービスを提供している。Positive Planetは仏郊外の貧困問題でも活動している。
1998年、500名ものスタッフを雇用し、80カ国以上で活動する非営利団体Positive Planetを設立、1万人の小規模金融参加者と[[ステークホルダー]]に資金提供、技術支援、アドバイスサービスを提供している。Positive Planetは仏郊外の貧困問題でも活動している。


2001年、アタリは「濫用され、取引に影響を与えた資産隠蔽」の容疑で捜査を受けた。2009年10月27日、パリの治安裁判所から「利益の疑い」を理由に解雇された<br />
2001年、アタリは「濫用され、取引に影響を与えた資産隠蔽」の容疑で捜査を受けた。2009年10月27日、パリの治安裁判所から赦免された<ref>{{Cite web|title=Banques: le triomphe des coupables par Jacques Attali|url=http://www.slate.fr/story/8747/banques-le-triomphe-des-coupables-par-jacques-attali|website=Slate.fr|date=2009-08-03|accessdate=2019-05-15|language=fr}}</ref>

== 民間企業経歴 ==
1994年、長期的成長を支援する戦略コンサルティング、コーポレートファイナンス、ベンチャーキャピタルを専門とする国際顧問会社Attali&Associates(A&A)を設立した。

2012年、ジュネーブに拠点を置くスイスの仲介業者Kepler Capital Marketsの監督委員会のメンバーとなった。

また文化やテクノロジーなどを取り扱う総合サイトSlate.fr([http://www.slate.fr/ 外部リンク])の監督委員会議長も務めている。

== 音楽と芸術 ==
2010年9月9日、[[オルセー美術館]]総局の一員に任命された。

アタリは音楽への情熱をもつ。ピアノ(かつて「[[:es:Restos_du_Coeur|心のレストラン協会]]」のために弾いたこともある)を弾き、そして[[シャンソン]]歌手[[バルバラ (歌手)|バルバラ]]のため歌詞を書いた。クラシックから[[ジミ・ヘンドリックス]]までを取り扱った『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』 の著者であり、作中、現代社会の進化における音楽の経済とその重要性を論じた。

1978年、映画監督[[:fr:Francis_Fehr|Francis Fehr]]の作品(''[[:fr:Pauline_et_l'ordinateur|Pauline et l'ordinateur]]'')で演奏をした。

2003年以来、指揮者[[:fr:Patrick_Souillot|パトリック・ソウイロット]]の下、アマチュアに開かれたグルノーブル大学オーケストラを監督している。アタリは幅広い曲目を演奏した。ベンダが作曲した交響曲からバッハのヴァイオリン協奏曲、モーツァルト、[[サミュエル・バーバー]]の[[弦楽のためのアダージョ|弦楽アダージョ]]と[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の二重協奏曲に至るまでレパートリーに富んでいた。 2012年、パリの工科大学のフェスティバルで、ボーマルシェの戯曲「セビリアの理髪師」のオープニングを上演し、遺伝学者ダニエルコーエンと共にオーケストラを指揮した。エルサレムとパリで[[ローザンヌ・シンフォニエッタ]]と[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|協奏曲ト短調]]を監督した。また、[[上海市|上海]]、[[ボンディ]]、[[マルセイユ]]、[[ロンドン]]、カザフスタンの[[アスタナ]]のオーケストラも指揮した。

2012年、[[:fr:Patrick_Souillot|パトリック・ソウイロット]]と共に、全国的な組織を設立した。そこでは職業高校からの学生参加による協同オペラの製作を目的としている。

== アタリ委員会とポジティブ経済委員会 ==

=== 「アタリ委員会」として知られているフランス成長解放委員会 ===
2007年7月24日、サルコジ大統領は「成長を制限する[[ボトルネック]]」研究を担当する超党派委員会の委員長にアタリを任命した。委員会はアタリ自身が自由に選びだした42人のメンバーから構成され、大部分は自由主義者と社会民主党員だった。その全会一致の報告書は、2008年1月23日に大統領に手渡された。それは経済成長のボトルネック解除するため、フランス経済と社会を根本的に変革する様々な勧告を含んでいた。

=== ポジティブ経済委員会 ===
2012年、オランド大統領はアタリに「ポジティブな経済」状況についての報告書をまとめることを命じた。このレポートの目的は、短期的なものに終止符を打つこと、短期的で個人主義的な経済から公共の利益と将来の世代の利益に基づく経済へと移行し、古いモデルからの移行を促すことだった。それは経済主体が「利益最大化以外」の義務を負うことになるモデル経済に基づいている。広範囲の委員によって書かれたこの報告書は44もの改革を提案した。

== 著作 ==
== 著作 ==
* ''L'ordre cannibale, vie et mort de la médecine''
* ''L'ordre cannibale, vie et mort de la médecine''

2019年5月15日 (水) 19:03時点における版

ジャック・アタリ
生誕 (1943-11-01) 1943年11月1日(80歳)
フランスの旗アルジェリアアルジェ
居住 フランスの旗 フランス、パリ
国籍 フランスの旗 フランス
研究分野 経済学
出身校

パリ=ドフィーヌ大学

パリ国立高等鉱業学校

リセ・ジャンソン=ドゥ=サイイ

エコール・ポリテクニーク(1963-1965)

パリ政治学院 (1965-1967)

フランス国立行政学院 (1968-1970)
主な業績

欧州復興開発銀行総裁 (1991-1993)

Attali & Associés (1994-)

PlaNet Finance(1998-)

国家顧問 (2000)

フランス成長解放委員会委員長
プロジェクト:人物伝
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ジャック・アタリ: Jacques Attali、1943年11月1日 - )は、フランス経済学者思想家作家、政治顧問。アルジェリアの首都アルジェ出身のユダヤ系フランス人。ミッテラン政権以後、長きに渡り、仏政権の中枢で重要な役割を担った人物として知られ、つづくサルコジオランドマクロン政権にも影響を与えている。

1981年から1991年にかけてミッテラン大統領の顧問を務め、1991年~93年にかけて欧州復興開発銀行の最初の総裁となった。1997年、クロード・アレグル教育相の要請に応じ、高等教育学位制の改革を提案した。 2008年~10年、サルコジ政権下で「アタリ委員会」として知られるフランス経済成長解放に関する超党派の政府委員会を率いた。オランド政権下ではポジティブ経済に関する委員会を組織し、44もの改革を提案した。マクロン大統領は「アタリ委員会」の報道官を務め、2010年3月、そのメンバーとなった[1]

新技術開発に取り組むヨーロッパのプログラムEUREKAを共同設立した。さらに非営利団体であるPlaNet Financeを設立、戦略、コーポレートファイナンス、ベンチャーキャピタルに関する国際コンサルタント会社Attali&Associates(A&A)の責任者でもある。芸術への高い関心からオルセー美術館の役員にも任命されている。また、仏国内において 『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』、『アンチ・エコノミクス』など50冊以上の本を出版している。

2009年、雑誌Foreign Policyは世界のグローバル思想家トップ100としてアタリを選出した[2]

生い立ち

1943年11月1日、アルジェリアで双子の兄弟バーナード・アタリと共にユダヤ人家族のもとに生まれる。父サイモン・アタリiは都市アルジェでの香水店経営( Bib et Babショップ)で成功を収めた独学者だった。アルジェリア独立戦争が始まって2年後にあたる1956年、父は家族と共にパリへの居住を決めた。

双子のジャックとバーナードは16区にあるリセ・ジャンソン=ドゥ=サイイで学び、そこでのちに政治家となるジーン・ルイス・ビアンコやローラン・ファビウス元仏首相と出会う。1966年、ジャックはエコールポリテクニックを卒業、また、パリ国立高等鉱業学校、パリ政治学院、エリート養成で名を馳せた国立行政学院も卒業した。

1968年、ニエーヴル県でのインターンシップ中、3年前に面識のあったフランソワ・ミッテランと2度目の出会いを果たす。

1972年、パリ=ドフィーヌ大学で経済学の博士号を取得した。哲学者ミシェル・セールは博士号の審査員のうちのひとりだった。

1970年、27歳で仏国務院のメンバーとなる。

1972年、29歳で科学アカデミーから賞を授与され、最初の2冊の本を出版した。

教授歴

1968年から1985年までパリ=ドフィーヌ大学、エコール・ポリテクニーク国立土木学校で経済学を教えた。

ドフィーヌにある彼の研究室IRISはのちに学者となる若手研究者がつどった。

政治歴

1973年12月、ミッテランとの密接なコラボレーションがはじまる。1974年、大統領選挙での運動を指揮し、 1981年、ミッテランが大統領に選ばれると、特別顧問に指名された。このときよりアタリは大統領のため、経済学、文化、政治、彼が最後に読んだ本などのメモを書き、内閣会議、国防会議、二国間での首脳会談に出席した。ミッテランはG7サミットのための「シェルパ」(国家元首代理人)の役割を委ねた。

レイモンド・バール元首相、ジャン・ドロール欧州委員会元委員長フィリップ・セガン元会計検査院院長、ラガルデール複合企業)創立者ジャン=リュック・ラガルデール、多国籍企業ダノン創立者アントワヌ・リブー、哲学者ミシェル・セール、俳優コリューシュなどと交流し、大統領にジーン・ルイス・ビアンコアラン・ブーブリルを推薦した。また、フランソワ・オランド元大統領や仏初の女性大統領候補セゴレーヌ・ロワイヤルなどフランス国立行政学院の卒業生たちを彼のチームに加えた。

1982年、「シェルパ」としてベルサイユG7サミット(第八回先進国首脳会議)、1989年、アーチG7サミット(第十五回先進国首脳会議)を組織した。

1989年7月4日、フランス革命200周年記念式典の組織に参加した。

1997年、政治家クロード・アレグルの依頼により、LMDモデルを導入した高等教育学位制度の改革を提案した。

2008年、2010年、サルコジ大統領から経済成長促進のための改革を目的とする超党派委員会の議長を務めるよう求められた。

2013年、オランド大統領に提出された報告書の中で「ポジティブ経済」の概念を主張した。この考えは当時の経済大臣エマニュエル・マクロンが提案した法律の規定のいくつかに影響を与えた。

2011年4月7日、米国のスミソニアン協会のウッドローウィルソン国際学術研究者センターは、ワシントンDCでPlaNet Financeの創設者としてアタリに、ウッドサービスウィルソン賞を授与した。

国際的な業績と論争

1979年、国際的なNGO団体、飢餓撲滅行動(Action Contre La Faim)を共同設立した。

1984年、新技術開発を旨としたプログラムEUREKAを創立に関わった。

1989年1月、バングラデシュでの洪水被害に対する国際行動計画を開始した。

1989年8月、ミッテラン大統領2度目の任務中、政治を断念、エリセ宮殿を去る。ロンドンで欧州復興開発銀行(EBRD)を設立、初代総裁に就任した。ベルリンの壁崩壊以前の1989年6月、東ヨーロッパ諸国の復興支援を旨とし、この機関の構想をはじめていた。アタリはパリ交渉会議の議長を務めており、それが復興銀行設立へとつながった。彼の指導の下、EBRDは原子力発電所の保護、環境保護、インフラの整備、民間部門の競争力強化、さらに民主主義への移行支援を目的とする投資を促進した。

1991年、ジョン・メジャー英首相の意向に反し、ミハイル・ゴルバチョフをロンドンのEBRD本部に招待した。ロンドンサミットに出席していたG7の国家元首に、旧ソビエトの国家元首をブッキングさせた。ジョン・メジャーとのあいだで繰り広げられた激しい電話でのやり取りの後、英国報道機関は批判を開始、アタリの機関運営への疑念をひろげた。EBRDの非効率的な運営実態は衝撃を与えた。実態は仏ジャーナリストたちによって追求された。 アタリは自身の著書「CétaitFrançoisMitterrand」のなかの一章で、自らの立場を説明した。アタリは機関を去り、理事会は彼に最終的な解任を与えた。

1993年、ミッテラン大統領の許可なく、秘密の書庫と大統領の別の本のための文章を複製したとされる名誉毀損の訴訟を勝ち取った。アタリがその本を校正し、訂正する権限を与えられていたことが認められた。

1998年、500名ものスタッフを雇用し、80カ国以上で活動する非営利団体Positive Planetを設立、1万人の小規模金融参加者とステークホルダーに資金提供、技術支援、アドバイスサービスを提供している。Positive Planetは仏郊外の貧困問題でも活動している。

2001年、アタリは「濫用され、取引に影響を与えた資産隠蔽」の容疑で捜査を受けた。2009年10月27日、パリの治安裁判所から赦免された[3]

民間企業経歴

1994年、長期的成長を支援する戦略コンサルティング、コーポレートファイナンス、ベンチャーキャピタルを専門とする国際顧問会社Attali&Associates(A&A)を設立した。

2012年、ジュネーブに拠点を置くスイスの仲介業者Kepler Capital Marketsの監督委員会のメンバーとなった。

また文化やテクノロジーなどを取り扱う総合サイトSlate.fr(外部リンク)の監督委員会議長も務めている。

音楽と芸術

2010年9月9日、オルセー美術館総局の一員に任命された。

アタリは音楽への情熱をもつ。ピアノ(かつて「心のレストラン協会」のために弾いたこともある)を弾き、そしてシャンソン歌手バルバラのため歌詞を書いた。クラシックからジミ・ヘンドリックスまでを取り扱った『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』 の著者であり、作中、現代社会の進化における音楽の経済とその重要性を論じた。

1978年、映画監督Francis Fehrの作品(Pauline et l'ordinateur)で演奏をした。

2003年以来、指揮者パトリック・ソウイロットの下、アマチュアに開かれたグルノーブル大学オーケストラを監督している。アタリは幅広い曲目を演奏した。ベンダが作曲した交響曲からバッハのヴァイオリン協奏曲、モーツァルト、サミュエル・バーバー弦楽アダージョメンデルスゾーンの二重協奏曲に至るまでレパートリーに富んでいた。 2012年、パリの工科大学のフェスティバルで、ボーマルシェの戯曲「セビリアの理髪師」のオープニングを上演し、遺伝学者ダニエルコーエンと共にオーケストラを指揮した。エルサレムとパリでローザンヌ・シンフォニエッタラヴェル協奏曲ト短調を監督した。また、上海ボンディマルセイユロンドン、カザフスタンのアスタナのオーケストラも指揮した。

2012年、パトリック・ソウイロットと共に、全国的な組織を設立した。そこでは職業高校からの学生参加による協同オペラの製作を目的としている。

アタリ委員会とポジティブ経済委員会

「アタリ委員会」として知られているフランス成長解放委員会

2007年7月24日、サルコジ大統領は「成長を制限するボトルネック」研究を担当する超党派委員会の委員長にアタリを任命した。委員会はアタリ自身が自由に選びだした42人のメンバーから構成され、大部分は自由主義者と社会民主党員だった。その全会一致の報告書は、2008年1月23日に大統領に手渡された。それは経済成長のボトルネック解除するため、フランス経済と社会を根本的に変革する様々な勧告を含んでいた。

ポジティブ経済委員会

2012年、オランド大統領はアタリに「ポジティブな経済」状況についての報告書をまとめることを命じた。このレポートの目的は、短期的なものに終止符を打つこと、短期的で個人主義的な経済から公共の利益と将来の世代の利益に基づく経済へと移行し、古いモデルからの移行を促すことだった。それは経済主体が「利益最大化以外」の義務を負うことになるモデル経済に基づいている。広範囲の委員によって書かれたこの報告書は44もの改革を提案した。

著作

脚注

  1. ^ Décret n° 2010-223 du 4 mars 2010 relatif à la commission pour la libération de la croissance française, (4 mars 2010), https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do?cidTexte=JORFTEXT000021906441 2019年5月15日閲覧。 
  2. ^ Frankel, Rebecca. “The FP Top 100 Global Thinkers” (英語). Foreign Policy. 2019年5月14日閲覧。
  3. ^ Banques: le triomphe des coupables par Jacques Attali” (フランス語). Slate.fr (2009年8月3日). 2019年5月15日閲覧。
  4. ^ 日本語に翻訳されたタイトルに「博愛」とあるが、博愛は、フランス語に翻訳すると「PHILANTHROPIE」(フィラントロピ)である。フランス語「FRATERNITÉS」(フラテルニテ)の日本語訳は「友愛」である。

 

公職
先代
-
欧州復興開発銀行総裁
初代:1991年 - 1993年
次代
ジャック・ド・ラロジエール