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== 逸話 ==
== 逸話 ==
* 慶長20年、[[大坂夏の陣]]で[[豊臣氏|豊臣宗家]]が滅亡すると、[[真田信繁]]の五女(母は秀次の娘[[隆清院]])で曾孫にあたる[[顕性院|御田姫]](後に[[岩城宣隆]]室)を自分のもとに避難させている。
* 慶長20年、[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]で[[豊臣氏|豊臣宗家]]が滅亡すると、[[真田信繁]]の五女(母は秀次の娘[[隆清院]])で曾孫にあたる[[顕性院|御田姫]](後に[[岩城宣隆]]室)を自分のもとに避難させている。
* 孫(秀勝の娘)である[[豊臣完子|完子]]との関わりもあったらしく、完子や[[松殿道基|千世鶴]]と共に[[藤堂高虎]]と面会したり、完子の末娘が日秀の生前からの願いにより瑞龍寺を継いだりしている。
* 孫(秀勝の娘)である[[豊臣完子|完子]]との関わりもあったらしく、完子や[[松殿道基|千世鶴]]と共に[[藤堂高虎]]と面会したり、完子の末娘が日秀の生前からの願いにより瑞龍寺を継いだりしている。



2019年7月8日 (月) 03:14時点における版

ずいりゅういん みょうえ にっしゅう に

瑞龍院妙慧日秀尼
生誕 天文3年(1534年
死没 寛永2年4月24日[1]または4月4日[2]1625年5月30日または5月10日
墓地 瑞龍寺滋賀県近江八幡市宮内町)
本圀寺京都府京都市山科区
善正寺(京都府京都市左京区
別名 智(とも)、智子、村雲尼、村雲日秀
宗教 仏教日蓮宗
配偶者 三好吉房
子供 秀次秀勝秀保
父:木下弥右衛門、母:天瑞院(大政所
親戚 豊臣秀吉(羽柴秀吉)の同父弟、秀長朝日姫の異父姉[異説あり]
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日秀尼(にっしゅうに、天文3年(1534年) - 寛永2年4月24日[1]または4月4日[2]1625年5月30日または5月10日))は、安土桃山時代から江戸時代日蓮宗尼僧瑞龍寺中興三大比丘尼の1人。

父は木下弥右衛門、母は天瑞院(大政所)。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の同父姉、秀長朝日姫の異父姉(異説あり)。夫は三好吉房で、秀次秀勝秀保らの母。

(とも)。位記上の本名は智子(ともこ)とされる。日秀は出家後の法名(法諱)。字は妙慧(みょうえ)[3]。道号は村雲で、通称に村雲尼(そんうんに)。院号は瑞龍院(ずいりゅういん)。記事名は便宜上、日秀尼としているが、僧侶名は正しくは「瑞龍院妙慧日秀」公。

略歴

村雲御所瑞龍寺門跡の石標

尾張国の農民である弥助(後の三好吉房)に嫁ぎ、永禄11年(1568年)に秀次(治兵衛)、永禄12年(1569年)に秀勝(小吉)、天正7年(1579年)に秀保(辰千代)を産んだ。

弥助・智夫婦は主に長男の秀次と暮らし、秀次が三好姓を名乗ると同じく三好姓を名乗り、天正18年、尾張転封後は犬山城に居を構え[4]、後には聚楽第に住んだ。

天正19年(1591年)、秀吉が嫡子鶴松を亡くすと、秀次・秀勝を養子に入れた[5]。また、天正16年正月に秀保は秀長の養子に入れた[6][7]

文禄元年(1592年)、秀勝は文禄の役に出征中、巨済島の陣中で病死した。文禄4年(1595年)、秀保も不可解な急な病死をし、秀次は秀吉の跡を継いで関白となっていたが、この年に高野山切腹した。夫の吉房も連座して讃岐国に流され、智子は難を逃れたものの、秀吉に孫(秀次の遺児)のほとんどを打ち首にされ、嵯峨野の地に善正寺を建立して秀次一族の菩提を弔った。

文禄5年(1596年)正月、智子は戒師に本圀寺の空竟院日禎を招き、仏門に入って出家した[8]。『太閤素生記』によれば、初めは法名を日敬としたが、同名の僧がいたため日秀に改めたと云う。同年、日秀は京都の村雲の地に瑞龍寺を建立したが、気の毒に思った後陽成天皇が1000石の寺領を寄進したので、後に皇女や公家の娘が門跡となる比丘尼御所(俗に言う「尼門跡」)として、「村雲御所」と呼ばれる格式高い寺院となった。この寺院は後に大火で焼けて、現在の瑞龍寺へ移転した。

慶長17年(1612年)に夫に先立たれ、慶長20年(1615年)夏には大坂の陣豊臣秀頼ら親族の大半を失い、豊臣方についた山口兵内の妻となった孫娘のお菊も徳川方に処刑されるという悲劇を味わった。寛永2年4月24日[1](または4月4日[2])に死去した。享年92。

墓所は瑞龍寺、本圀寺、秀次の墓所がある善正寺に存在する。善正寺には肖像画と木像が残る。

逸話

子孫

秀吉の兄弟姉妹では唯一、現代に至るまで子孫を残しており、その中には明仁上皇をはじめとする現在の皇族(男性皇族および内親王女王全員)も含まれている(崇源院#系譜参照)。

関連作品

脚注

  1. ^ a b c 渡辺 1919, p.284
  2. ^ a b c 黒川道祐 著、上村觀光 編『国立国会図書館デジタルコレクション 黒川道祐近畿游覧誌稿』淳風房、1910年、99頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993803/57 国立国会図書館デジタルコレクション 
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus -日秀尼』 - コトバンク
  4. ^ 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(講談社、1980年、246頁)
  5. ^ 養子とした時期には諸説ある。定説では、羽柴秀勝の死去後の天正13年前後に秀勝を先に養子としたとされる。
  6. ^ 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(講談社、1980年、242頁)
  7. ^ 北堀光信 「羽柴秀保と豊臣政権―朝鮮出兵と大和支配の事例を中心に―」(天野忠幸・片山正彦・古野貢・渡邊大門編『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年)
  8. ^ 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(講談社、1980年、248頁)

参考文献