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「東条冬貞」の版間の差分

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| 父母 = 父:[[吉良義冬]]、母:茂姫([[酒井忠吉]]の娘)<br/>養父:''[[東条義孝]]''
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]][[吉良義冬]](4200石)の四男として誕生。母は旗本[[酒井忠吉]](7000石)の娘。生年は不詳が、兄の[[吉良義央]]が[[寛永]]18年([[1641年]])の生まれなので、冬貞が生まれたのはそれ以降となる。
[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]][[吉良義冬]](4200石)の四男として誕生した。母は旗本[[酒井忠吉]](7000石)の娘。生年は不詳であるが、兄の[[吉良義央]]が[[寛永]]18年([[1641年]])の生まれなので、冬貞が生まれたのはそれ以降となる。


吉良家の家督は長兄義央が継ぎ、次兄の[[東条義叔|義叔]]は分家の旗本として東条家を興した。しかし東条義叔は男子に恵まれず、弟の冬貞を養子に迎え入れることとなった。冬貞は、[[元禄]]5年([[1692年]])11月1日にはじめて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁。元禄6年([[1693年]])からは[[小姓]]組番士となったが、元禄17年([[1704年]])1月24日に養父義叔に先立って家督前に死去した。
吉良家の家督は長兄義央が継ぎ、次兄の[[東条義叔|義叔]]は分家の旗本として東条家を興した。しかし義叔は男子に恵まれず、弟の冬貞を養子に迎え入れることとなった。冬貞は、[[元禄]]5年([[1692年]])11月1日にはじめて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁する。元禄6年([[1693年]])からは[[小姓]]組番士となったが、元禄17年([[1704年]])1月24日に義叔に先立って家督前に死去した。


その後、東条家の家督は旗本[[柘植兄正]]の子である[[東条義武]]が継いだ。義武の母が吉良氏一族の[[荒川定昭]]の娘という縁である。法名は宗夢。
その後、東条家の家督は旗本[[柘植兄正]]の子である[[東条義武]]が継いだ。義武の母が吉良氏一族の[[荒川定昭]]の娘という縁である。法名は宗夢。
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* 『[[寛政重修諸家譜]]』巻第九十二
* 『[[寛政重修諸家譜]]』巻第九十二


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2019年7月20日 (土) 05:37時点における最新版

 
東条冬貞
時代 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 元禄17年1月24日1704年2月28日
別名 隼人(通称
戒名 宗夢
墓所 万昌院
氏族 清和源氏足利氏吉良氏庶流東条家
父母 父:吉良義冬、母:茂姫(酒井忠吉の娘)
養父:東条義孝
兄弟 吉良義央東条義叔義孝冬貞冬重、孝証(僧)
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東条 冬貞(とうじょう ふゆさだ)は、江戸時代前期の人物。

生涯

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高家旗本吉良義冬(4200石)の四男として誕生した。母は旗本酒井忠吉(7000石)の娘。生年は不詳であるが、兄の吉良義央寛永18年(1641年)の生まれなので、冬貞が生まれたのはそれ以降となる。

吉良家の家督は長兄の義央が継ぎ、次兄の義叔は分家の旗本として東条家を興した。しかし義叔は男子に恵まれず、弟の冬貞を養子に迎え入れることとなった。冬貞は、元禄5年(1692年)11月1日にはじめて将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄6年(1693年)からは小姓組番士となったが、元禄17年(1704年)1月24日に義叔に先立って家督前に死去した。

その後、東条家の家督は旗本柘植兄正の子である東条義武が継いだ。義武の母が吉良氏一族の荒川定昭の娘という縁である。法名は宗夢。

参考文献

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