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2019年8月7日 (水) 12:30時点における版

藤田平太郎
大正全国富豪番付で西日本2位だった藤田平太郎

藤田 平太郎(ふじた へいたろう、明治2年10月7日1869年11月10日[1] - 昭和15年(1940年2月23日)は、日本の実業家政治家貴族院議員男爵公正会所属、従三位藤田財閥2代目総帥。

来歴

藤田財閥創始者藤田伝三郎の長男として大阪府に生まれる。明治21年(1888年)、慶應義塾を卒業後、イギリスに留学し鉱山学を修得。帰国後、明治32年(1899年)藤田銀行を創設し頭取に、富士生命保険社長にも就任。鉱山などの実業の再編を行ってグループの基盤をつくる。他、大阪商船監査役、大阪実業協会顧問、藤田組社長、大阪工業会会長のほか、第5回内国勧業博覧会評議員、帝国経済会議議員等を歴任。教育施設や医療施設に寄付を行い、篤志家として知られている。労働環境の改善に努めた。

明治45年(1912年)、父の死去に伴い男爵を襲爵する。大正7年(1918年)12月に、貴族院男爵議員に選出され、昭和4年(1929年)9月まで在任した。

財界数寄物

美術品に造詣が深く、財界有数の収集家である。号を江雪と称す(父は香雪で徳次郎は耕雪)。箱根や目白台(文京区関口、山縣有朋から買い取る)の邸宅には政界、財界関係者が多数訪れた。コレクションは大阪の藤田美術館に収蔵されている。

栄典・授章・授賞

位階
勲章等

家族

父は藤田財閥創始者の藤田伝三郎男爵。弟は藤田徳次郎藤田彦三郎。妻の富子は政治家芳川顕正の三女[7]

男爵は甥の藤田光一が襲爵した。

脚注

  1. ^ 華族名簿. 大正6年3月31日調』(華族会館、1917年)p.161
  2. ^ 『官報』第1630号「叙任及辞令」1918年1月11日。
  3. ^ 『官報』第1827号「叙任及辞令」1933年2月3日。
  4. ^ 『官報』第1259号「叙任及辞令」1916年10月10日。
  5. ^ 『官報』第3440号「叙任及辞令」1924年2月14日。
  6. ^ 『官報』第1434号「彙報 - 褒章」1931年10月8日。
  7. ^ 藤田平太郎男『代表的人物及事業』時事通信社, 1913, p276

参考文献

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代
藤田伝三郎
男爵
藤田家第2代
1912年 - 1940年
次代
藤田光一