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== 略歴 ==
== 略歴 ==
阿蘇氏の庶家である[[恵良氏]]の[[恵良惟資]]の子として誕生。阿蘇氏8代当主・[[阿蘇惟時]]の婿養子となって家督を継いだ<ref>シリーズ熊本大学附属図書館蔵特殊資料紹介5 重要文化財 阿蘇家文書 (34巻36冊)</ref>。初期には恵良惟澄と名乗った。『恵良惟澄軍忠状』は塙保己一が編纂した[[群書類従]]に採録されている<ref>『阿蘇家文書』第7巻-14刊本122号</ref>。
阿蘇氏の庶家である[[恵良氏]]の[[恵良惟資]]の子として誕生。恵良家は、元来、阿蘇家嫡男の家柄であったが、阿蘇惟景の治世に、勘当処分を受けており、庶流となり、阿蘇から遠い[[甲佐神社]]周辺を所領とされていた。阿蘇氏8代当主・[[阿蘇惟時]]の婿養子となって家督を継いだ<ref>シリーズ熊本大学附属図書館蔵特殊資料紹介5 重要文化財 阿蘇家文書 (34巻36冊)</ref>。初期には恵良惟澄と名乗った。『恵良惟澄軍忠状』は塙保己一が編纂した[[群書類従]]に採録されている<ref>『阿蘇家文書』第7巻-14刊本122号</ref>。


[[元弘]]3年([[1333年]])、幕命を受けて[[楠木正成]]が立て籠もる[[千早城]]攻めに参戦しようとしたが、その途上で[[護良親王]]の令旨を受けて官軍側に寝返った。[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])、阿蘇氏当主・[[阿蘇惟直|惟直]]に付き従い、九州に落ちてきた[[足利尊氏]]と[[多々良浜の戦い]]にて戦ったが、敗れた。この戦いで当主惟直とその弟<ref>長男とも。</ref>・[[阿蘇惟成|惟成]]が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は阿蘇惟時の庶子である坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。翌[[延元]]2年/建武4年([[1337年]])、惟澄は[[菊池氏]]と南朝勢力回復のため九州に下向してきた[[懐良親王]]を擁立し、[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[九州探題]]・[[一色範氏]]の軍勢と交戦し勝利している
[[元弘]]3年([[1333年]])、幕命を受けて[[楠木正成]]が立て籠もる[[千早城]]攻めに参戦しようとしたが、その途上で[[護良親王]]の令旨を受けて官軍側に寝返った。


[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])、阿蘇氏当主・[[阿蘇惟直|惟直]]に付き従い、九州に落ちてきた[[足利尊氏]]と[[多々良浜の戦い]]にて戦ったが、敗れた。この戦いで使用された刀が「[[蛍丸]]」である。この戦いで当主惟直とその弟<ref>長男とも。</ref>・[[阿蘇惟成|惟成]]が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は阿蘇惟時の庶子である坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。
[[興国]]元年/[[暦応]]3年([[1340年]])、惟澄は遂に[[肥後国]][[南郷城 (肥後国)|南郷城]]にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である惟時が[[少弐氏]]らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。 興国7年/[[正平 (日本)|正平]]元年/[[貞和]]3年([[1347年]])には北朝方の少弐氏・[[大友氏]]の攻撃を受けたが撃退に成功している。正平10年/[[文和]]4年([[1355年]])に惟時が死去し、その養子であった惟澄の長男[[阿蘇惟村|惟村]]が惟時の立場を引き継いだが、一族の信望は惟澄に集まった。惟澄はその後も北朝方との戦いを優位に進め、正平16年/[[延文]]6年([[1361年]])には[[菊池武光]]と協力して[[大宰府]]の制圧に成功し、九州における[[南朝 (日本)|南朝]]方の勢力は最盛期を迎えた。


翌[[延元]]2年/建武4年([[1337年]])、惟澄は[[菊池氏]]と南朝勢力回復のため九州に下向してきた[[懐良親王]]を擁立し、[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[九州探題]]・[[一色範氏]]の軍勢と交戦し勝利している。[[興国]]元年/[[暦応]]3年([[1340年]])、惟澄は遂に[[肥後国]][[南郷城 (肥後国)|南郷城]]にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である[[阿蘇惟時]]が[[少弐氏]]らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。
正平19年/[[貞治]]3年([[1364年]])、死に臨んだ惟澄は、これまで北朝方として対立してきた長男・惟村に大宮司を譲、その2ヵ月後に死去した。享年55。


興国7年/[[正平 (日本)|正平]]元年/[[貞和]]3年([[1347年]])には北朝方の少弐氏・[[大友氏]]の攻撃を受けたが撃退に成功している。
惟澄没後、惟澄と行動共にてきた次男[[阿蘇惟武|惟武]]惟村に反発し、また征西府も惟村の相続を認めなかったため、一族内での対立が再燃した。また、惟澄らが築き上げた征西府の勢力も、九州探題[[今川貞世]](了俊)の出現や菊池武光等の死去によって1370年代初頭を境に衰退していく事となる。

正平2年(1348年)、南朝勢力から「筑後権守」に任官される<ref>{{Cite book|title=後村上天皇口宣案写、写案五|date=1348年3月18日|year=1348年|publisher=15.征西府}}</ref>。

翌年10月、権官から「筑後守」へ昇格。[[日向国]]吏務職を兼任。このときに惟時に宛てて「大とのの御のためにわたくしに身としても、不忠腹黒の儀あるましく候」という書状を送り、阿蘇惟時への忠誠を誓う。この書状は、阿蘇大明神に誓うのではなく、惟澄は伊勢天照大神に向けて誓っていたことから<ref name=":0">{{Cite book|title=中世の阿蘇社と阿蘇氏|date=2019年3月1日|year=2019年|publisher=戒光社}}</ref>、惟時は信用せず。

正平10年/[[文和]]4年([[1355年]])に惟時が死去。まだ惟澄は大宮司職を得られていない。だが、軍事力に優れた惟澄に菊池氏らの人望が集まる。このころ、阿蘇家は菊池氏と敵対していたことから、菊池氏が惟澄を利用して、阿蘇家を分断し、北朝方との戦いを優位に進めてゆく。

正平16年/[[延文]]6年([[1361年]])には[[菊池武光]]と協力して[[大宰府]]の制圧に成功し、九州における[[南朝 (日本)|南朝]]方の勢力は最盛期を迎えた。このときにはじめて征西府は、明白に惟澄を大宮司と認める<ref name=":0" />。これに対して、北朝方の[[足利義詮]]、[[大友氏時]]らが反発し、長男の恵良惟村を大宮司に指名し、北朝方の[[阿蘇惟村]]大宮司を成立させる。なお、惟村は養子の出身である。

正平19年/[[貞治]]3年([[1364年]])、死に臨んだ惟澄は、これまで北朝方として対立してきた長男・惟村に大宮司を譲ることで内紛の終結を試み、その2ヵ月後に死去した。享年55。

惟澄没後、阿蘇家分断画策した[[菊池武光]]が、惟澄の次男坊に「武」の字を与えて、[[阿蘇惟武]]と呼び、惟村大宮司と敵対関係仕向ける。また征西府も惟村の相続を認めなかった。そのため、一族内での対立が再燃した。また、惟澄らが築き上げた征西府の勢力も、九州探題[[今川貞世]](了俊)の出現や菊池武光等の死去によって1370年代初頭を境に衰退していく事となる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2019年11月2日 (土) 08:42時点における版

 
阿蘇惟澄
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 延慶2年(1309年)?
死没 正平19年/貞治3年9月20日1364年10月15日
改名 恵良惟澄→阿蘇惟澄
別名 通称:小次郎[1]
氏族 恵良氏阿蘇氏
父母 父:恵良惟資、養父:阿蘇惟時
兄弟 養兄弟:惟直坂梨孫熊丸惟成惟定
阿蘇惟時娘
惟村惟武
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阿蘇 惟澄(あそ これずみ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将阿蘇氏10代当主。

略歴

阿蘇氏の庶家である恵良氏恵良惟資の子として誕生。恵良家は、元来、阿蘇家嫡男の家柄であったが、阿蘇惟景の治世に、勘当処分を受けており、庶流となり、阿蘇から遠い甲佐神社周辺を所領とされていた。阿蘇氏8代当主・阿蘇惟時の婿養子となって家督を継いだ[2]。初期には恵良惟澄と名乗った。『恵良惟澄軍忠状』は塙保己一が編纂した群書類従に採録されている[3]

元弘3年(1333年)、幕命を受けて楠木正成が立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、その途上で護良親王の令旨を受けて官軍側に寝返った。

建武3年(1336年)、阿蘇氏当主・惟直に付き従い、九州に落ちてきた足利尊氏多々良浜の戦いにて戦ったが、敗れた。この戦いで使用された刀が「蛍丸」である。この戦いで当主惟直とその弟[4]惟成が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は阿蘇惟時の庶子である坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。

延元2年/建武4年(1337年)、惟澄は菊池氏と南朝勢力回復のため九州に下向してきた懐良親王を擁立し、北朝方の九州探題一色範氏の軍勢と交戦し勝利している。興国元年/暦応3年(1340年)、惟澄は遂に肥後国南郷城にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である阿蘇惟時少弐氏らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。

興国7年/正平元年/貞和3年(1347年)には北朝方の少弐氏・大友氏の攻撃を受けたが撃退に成功している。

正平2年(1348年)、南朝勢力から「筑後権守」に任官される[5]

翌年10月、権官から「筑後守」へ昇格。日向国吏務職を兼任。このときに惟時に宛てて「大とのの御のためにわたくしに身としても、不忠腹黒の儀あるましく候」という書状を送り、阿蘇惟時への忠誠を誓う。この書状は、阿蘇大明神に誓うのではなく、惟澄は伊勢天照大神に向けて誓っていたことから[6]、惟時は信用せず。

正平10年/文和4年(1355年)に惟時が死去。まだ惟澄は大宮司職を得られていない。だが、軍事力に優れた惟澄に菊池氏らの人望が集まる。このころ、阿蘇家は菊池氏と敵対していたことから、菊池氏が惟澄を利用して、阿蘇家を分断し、北朝方との戦いを優位に進めてゆく。

正平16年/延文6年(1361年)には菊池武光と協力して大宰府の制圧に成功し、九州における南朝方の勢力は最盛期を迎えた。このときにはじめて征西府は、明白に惟澄を大宮司と認める[6]。これに対して、北朝方の足利義詮大友氏時らが反発し、長男の恵良惟村を大宮司に指名し、北朝方の阿蘇惟村大宮司を成立させる。なお、惟村は養子の出身である。

正平19年/貞治3年(1364年)、死に臨んだ惟澄は、これまで北朝方として対立してきた長男・惟村に大宮司を譲ることで内紛の終結を試み、その2ヵ月後に死去した。享年55。

惟澄没後、阿蘇家分断を画策した菊池武光が、惟澄の次男坊に「武」の字を与えて、阿蘇惟武と呼び、惟村大宮司と敵対関係に仕向ける。また征西府も惟村の相続を認めなかった。そのため、一族内での対立が再燃した。また、惟澄らが築き上げた征西府の勢力も、九州探題今川貞世(了俊)の出現や菊池武光等の死去によって1370年代初頭を境に衰退していく事となる。

脚注

  1. ^ 『熊本県大百科事典』18頁上段
  2. ^ シリーズ熊本大学附属図書館蔵特殊資料紹介5 重要文化財 阿蘇家文書 (34巻36冊)
  3. ^ 『阿蘇家文書』第7巻-14刊本122号
  4. ^ 長男とも。
  5. ^ 後村上天皇口宣案写、写案五. 15.征西府. (1348年3月18日 1348) 
  6. ^ a b 中世の阿蘇社と阿蘇氏. 戒光社. (2019年3月1日 2019) 

出典

  • 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年
  • 『阿蘇家文書』
  • 熊本の風土とこころ編集委員会『熊本の人物』熊本日日新聞社、1980年、38-39頁
  • 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年