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幼名は'''五郎麿'''。[[元服]]して父斉昭より[[偏諱]]を受け'''昭徳'''(あきのり)と名乗る。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。
幼名は'''五郎麿'''。[[元服]]して父斉昭より[[偏諱]]を受け'''昭徳'''(あきのり)と名乗る。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。


[[嘉永]]3年([[1850年]])10月29日、鳥取藩主[[池田慶栄]]が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍[[徳川家慶]]より偏諱を受けて'''慶徳'''に改名、'''松平相模守'''を称した。藩主に就任すると藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。
[[嘉永]]3年([[1850年]])10月29日、鳥取藩主[[池田慶栄]]が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍[[徳川家慶]]より偏諱を受けて'''慶徳'''に改名、'''松平相模守'''を称した。藩主に就任すると藩政改革に着手し、藩校[[尚徳館]]を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に[[水戸学]]が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、[[江戸]][[桶町千葉道場]]を開いた[[千葉定吉]]を剣術師範として召し抱えた。


=== 文久政局に乗り出す ===
=== 文久政局に乗り出す ===
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=== 幕府への不満と攘夷親征への危惧 ===
=== 幕府への不満と攘夷親征への危惧 ===
慶徳は、2月に朝廷から摂海守備総督を命じられるなど京坂で活動する間も、幕府に攘夷期限の決定を促していたが、[[大阪湾|大坂湾]](摂海)や[[隠岐]]の沿岸警衛策を講じるため3月16日に帰国の途に就いた。その後も過激尊攘派から期限決定を迫られ続けた幕府は、4月23日に至り「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日の5月9日に[[生麦事件]]の償金を[[横浜]]の[[イギリス|英国]]公使に支払い、慶徳を憤慨させた。上洛中の将軍の名代として江戸にある水戸藩主[[徳川慶篤]](慶徳の実兄)も償金支払いの経緯に関わっていたと伝えられ、「水戸」に連なることで声望の高かった慶徳の立場を苦しいものにした。挽回のため攘夷路線の強化を求める周旋方と慎重論を唱える保守派の確執も激しくなっていく。こうした中、[[大阪|大坂]]の[[天保山]]を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。
慶徳は、2月に朝廷から摂海守備総督を命じられるなど京坂で活動する間も、幕府に攘夷期限の決定を促していたが、[[大阪湾|大坂湾]](摂海)や藩地の沿岸警衛策を講じるため3月16日に帰国の途に就いた。鳥取藩ではこの年から翌年にかけて、沿岸9カ所の要地に西洋式の[[鳥取藩台場跡|台場]]が築造された。
その後も過激尊攘派から期限決定を迫られ続けた幕府は、4月23日に至り「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日の5月9日に[[生麦事件]]の償金を[[横浜]]の[[イギリス|英国]]公使に支払い、慶徳を憤慨させた。上洛中の将軍の名代として江戸にある実兄[[徳川慶篤]](水戸藩主)も償金支払いの経緯に関わっていたと伝えられ、「水戸」に連なることで声望の高かった慶徳の立場を苦しいものにした。挽回のため攘夷路線の強化を求める周旋方と慎重論を唱える保守派の確執も激しくなっていく。こうした中、[[大阪|大坂]]の[[天保山]]を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。


慶徳は、幕府と朝廷から上京を求められ、6月27日に[[本圀寺]]に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。将軍と幕兵が6月半ばに東帰したことも好都合だった。攘夷親征の件について諮問を受けた慶徳は、外国が畿内に襲来したら、まずは幕府が防戦に尽力し、次に公家や諸藩がさまざまに戦術を尽くすべきことを建白した。そして、7月に入京した[[蜂須賀茂韶]]([[徳島藩|阿波藩]]世子)および実弟[[池田茂政]]([[岡山藩]]主)、4月来在京中の[[上杉斉憲]]([[米沢藩]]主)と連携し、攘夷親征派に対抗する在京諸侯グループを形成した。慶徳の論は従兄である[[右大臣]][[二条斉敬]]ら朝廷首脳の支持を得、諸侯グループは朝議への参与を許されるまでになる。
慶徳は、幕府と朝廷から上京を求められ、6月27日に[[本圀寺]]に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。将軍と幕兵が6月半ばに東帰したことも好都合だった。攘夷親征の件について諮問を受けた慶徳は、外国が畿内に襲来したら、まずは幕府が防戦に尽力し、次に公家や諸藩がさまざまに戦術を尽くすべきことを建白した。そして、7月に入京した[[蜂須賀茂韶]]([[徳島藩|阿波藩]]世子)および実弟[[池田茂政]]([[岡山藩]]主)、4月来在京中の[[上杉斉憲]]([[米沢藩]]主)と連携し、攘夷親征派に対抗する在京諸侯グループを形成した。慶徳の論は従兄である[[右大臣]][[二条斉敬]]ら朝廷首脳の支持を得、諸侯グループは朝議への参与を許されるまでになる。
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このとき、在京兵力の少ない薩摩藩は会津藩を引き込み、攘夷親征派への対抗クーデターを画策する。8月18日、阿波・岡山・鳥取・米沢も会津に次ぐ兵力を動員し、[[三条実美]]ら親征派の公家や長州の勢力を朝廷から一掃した([[八月十八日の政変]])。
このとき、在京兵力の少ない薩摩藩は会津藩を引き込み、攘夷親征派への対抗クーデターを画策する。8月18日、阿波・岡山・鳥取・米沢も会津に次ぐ兵力を動員し、[[三条実美]]ら親征派の公家や長州の勢力を朝廷から一掃した([[八月十八日の政変]])。


この政変の前日、[[河田景与|河田左久馬]]ら22名の鳥取藩士が「主君の勤王の志を妨げ、天下の汚名を蒙らせた」として慶徳側近の[[黒部権之助]]、[[高沢省己]]、[[早川卓之丞]]の3名を本圀寺において惨殺し、斬奸状で名指しされたもう一人の[[加藤十次郎]]も翌日自殺するという事件が起こった(本圀寺事件)。河田らは尊攘派へ傾倒し、長州を支援する意見などを持っており、親征阻止に動く自藩の姿勢に憤った結果だった<ref group="注釈">直接的には、8月16日に「松平慶徳は、二条家や幕府に通じて今度の攘夷親征を妨げ、奸計を巡らす大罪人である。速やかに天誅を加えるべきところ、烈公(斉昭)に免じて暫く猶予する」と京中に貼り紙され、藩主がテロの標的とされたことが引き金となった。黒部権之助は単なる脅しと取り合わなかったが、驚愕した22名が直ちに行動に出たのである。慶徳彼らの誠心を酌み、藩地に幽閉する穏便な処置に留めた。</ref>。
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政変に参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対しては寛大な処置を求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論を明確にした薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在京諸侯は相次いで帰国していった。
政変に参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対しては寛大な処置を求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論を明確にした薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在京諸侯は相次いで帰国していった。

2019年11月3日 (日) 09:38時点における版

 
池田 慶徳
池田 慶徳
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 天保8年7月13日1837年8月13日
死没 明治10年(1877年8月2日
改名 五郎麿(幼名)、昭徳(初名)→慶徳
別名 子明()、省山(
神号 池田慶德命
墓所 鳥取県鳥取市 大雲院
官位 従四位上相模守因幡守左近衛中将
従一位
幕府 江戸幕府
因幡鳥取藩
氏族 水戸徳川家池田氏
父母 父:徳川斉昭、母:松波春子
兄弟 徳川慶篤慶徳徳川慶喜松平直侯池田茂政松平武聰喜連川縄氏松平昭訓松平忠和土屋挙直徳川昭武松平喜徳松平頼之、他
正室寛子池田定保五女・池田清直養女)
輝知
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池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末大名因州鳥取藩12代(最後)の藩主、のち鳥取知藩事。鳥取池田家14代。

幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた水戸思想の主導者・水戸藩徳川斉昭の五男で、母は側室の松波春子。15代将軍となる徳川慶喜は同年生まれの異母弟、備前岡山藩池田茂政は同母弟にあたる。

生涯

水戸徳川家から鳥取池田家へ

幼名は五郎麿元服して父斉昭より偏諱を受け昭徳(あきのり)と名乗る。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。

嘉永3年(1850年)10月29日、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍徳川家慶より偏諱を受けて慶徳に改名、松平相模守を称した。藩主に就任すると藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、江戸桶町千葉道場を開いた千葉定吉を剣術師範として召し抱えた。

文久政局に乗り出す

文久2年(1862年)4月に薩摩藩主の実父島津久光が藩兵を率いて上洛し、朝幕間の周旋に乗り出す。これを機に鳥取藩でも藩主慶徳の国事周旋を推進しようとする声が尚徳館教授方を中心に上がったが、慶徳にその気はなく、藩主側近の保守派は周旋方(推進派)に取り合わなかった。しかし、同年7月に長州藩毛利敬親(慶親)、土佐藩山内豊範が相次いで入京し、京都で尊王攘夷の機運が高まるとの報に接すると、国事周旋に乗り出す決意を固める[注釈 1]

9月に朝廷が攘夷を幕府に促すための勅使派遣を決すると、幕府の優柔を恐れる慶徳は10月15日に入京して国事周旋の勅諚を受け、20日には毛利・山内に続いて参内を果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日に江戸に着くと政事総裁職松平春嶽山内容堂松平容保らと会談を重ねた。さらに、奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて将軍後見職辞任を表明し登城を拒否していた実弟一橋慶喜の説得にあたった。

勅使を迎えた将軍徳川家茂が攘夷の勅諚を奉じ、その方策は翌春上洛して協議すると決したのを見届けると、慶徳は12月に再び入京し、攘夷は幕府に一任して外藩は退京させるよう朝廷に働きかけた。明けて文久3年(1863年)正月には、攘夷期限を決定し、それまでに早急な武備充実に努め幕府主導で挙国一致体制を整えるよう幕府に建白する。

幕府への不満と攘夷親征への危惧

慶徳は、2月に朝廷から摂海守備総督を命じられるなど京坂で活動する間も、幕府に攘夷期限の決定を促していたが、大坂湾(摂海)や藩地の沿岸警衛策を講じるため3月16日に帰国の途に就いた。鳥取藩ではこの年から翌年にかけて、沿岸9カ所の要地に西洋式の台場が築造された。

その後も過激尊攘派から期限決定を迫られ続けた幕府は、4月23日に至り「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日の5月9日に生麦事件の償金を横浜英国公使に支払い、慶徳を憤慨させた。上洛中の将軍の名代として江戸にある実兄徳川慶篤(水戸藩主)も償金支払いの経緯に関わっていたと伝えられ、「水戸」に連なることで声望の高かった慶徳の立場を苦しいものにした。挽回のため攘夷路線の強化を求める周旋方と慎重論を唱える保守派の確執も激しくなっていく。こうした中、大坂天保山を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。

慶徳は、幕府と朝廷から上京を求められ、6月27日に本圀寺に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。将軍と幕兵が6月半ばに東帰したことも好都合だった。攘夷親征の件について諮問を受けた慶徳は、外国が畿内に襲来したら、まずは幕府が防戦に尽力し、次に公家や諸藩がさまざまに戦術を尽くすべきことを建白した。そして、7月に入京した蜂須賀茂韶阿波藩世子)および実弟池田茂政岡山藩主)、4月来在京中の上杉斉憲米沢藩主)と連携し、攘夷親征派に対抗する在京諸侯グループを形成した。慶徳の論は従兄である右大臣二条斉敬ら朝廷首脳の支持を得、諸侯グループは朝議への参与を許されるまでになる。

それでも長州が藩兵を入京させたこともあり、朝廷内ではなお親征派の勢いが強く、要求は緩まなかった。一方、孝明天皇や朝廷首脳が期待を寄せる薩摩越前の藩兵上洛はなかなか実現しない。そこで慶徳は、京都守護職会津藩や在京諸藩による天覧馬揃えを朝議に提案する。天皇は大いに喜び、会津藩兵による馬揃えが7月30日、会津・鳥取・岡山・米沢・阿波5藩による馬揃が8月5日に催された。これは、親征派・反親征派双方に対するデモンストレーションであるとともに、やがて生じる事態に備えた演習の役割も果たすことになった。

八月十八日の政変と本圀寺事件

攘夷親征派がこれで諦めることはなく、8月13日、大和行幸のが渙発された。大和国神武天皇陵・春日大社に行幸、しばらく逗留して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するということだった。慶徳ら4侯は、彼らが反論するよう天皇が望んでいると二条右大臣から事前に伝えられており、参内して天皇に親征中止を強く訴えたが、親征派の圧力に屈した天皇は攘夷親政を決定した。

このとき、在京兵力の少ない薩摩藩は会津藩を引き込み、攘夷親征派への対抗クーデターを画策する。8月18日、阿波・岡山・鳥取・米沢も会津に次ぐ兵力を動員し、三条実美ら親征派の公家や長州の勢力を朝廷から一掃した(八月十八日の政変)。

この政変の前日、河田左久馬ら22名の鳥取藩士が「主君の勤王の志を妨げ、天下の汚名を蒙らせた」として慶徳側近の黒部権之助高沢省己早川卓之丞の3名を本圀寺において惨殺し、斬奸状で名指しされたもう一人の加藤十次郎も翌日自殺するという事件が起こった(本圀寺事件)。河田らは尊攘派へ傾倒し、長州を支援する意見などを持っており、親征阻止に動く自藩の姿勢に憤った結果だった[注釈 2]

政変に参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対しては寛大な処置を求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論を明確にした薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在京諸侯は相次いで帰国していった。

その後の慶徳は、自ら京都政局に乗り出すことはなかった。

明治期の慶徳

慶応4年(1868年)2月3日、慶徳は新政府の議定に就任する。翌明治2年(1869年)5月15日、議定から麝香間祗候に移る。また、戊辰戦争では東北地方に出兵している。6月2日、戊辰戦争の戦功賞典として3万石を賜った。6月19日、版籍奉還により鳥取藩知事に就任した。

明治7年(1874年)7月14日、廃藩置県により免職となった。藩の財政難などのこともあり、藩主の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案した。明治8年(1875年)5月27日、隠居し、次男の輝知家督を譲った。

明治10年(1877年)、肺炎のため神戸で死去した。墓所は弘福寺、大正14年(1925年)に多磨霊園平成15年(2003年鳥取市内の大雲院に移転改葬された。

明治40年(1907年5月10日、特旨をもって位階追昇される。贈従一位[1]

偏諱を受けた人物

以下は「昭徳」だった時から生涯に使用した「」の字を偏諱として受けた者たちである。うち池田仲諟(清直の兄)の息子2人(徳定と徳澄)に関しては、慶徳の養女を妻としている。

脚注

  1. ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。

注釈

  1. ^ 自分は水戸烈公斉昭の子であり、また鳥取藩池田家は準徳川一門の扱いを受ける家であることから、「外藩」が国事に参画する状況は容認できず、幕府や有力親藩が主体的に攘夷を唱え、この政局に関わっていくべきというのが、慶徳の考え方だった。
  2. ^ 直接的には、8月16日に「松平慶徳は、二条家や幕府に通じて今度の攘夷親征を妨げ、奸計を巡らす大罪人である。速やかに天誅を加えるべきところ、烈公(斉昭)に免じて暫く猶予する」と京中に貼り紙され、藩主が天誅の標的とされたことが引き金となった。黒部は単なる脅しと取り合わなかったが、驚愕した河田ら22名が直ちに行動に出たのである。家老の荒尾但馬が22名の宥免を求めて運動し、慶徳も彼らの誠心を酌み、穏便な処置に留めた。

参考文献

  • 財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会/作成『史跡 鳥取藩主池田家墓所』(2006年3月31日刊行)

外部リンク