コンテンツにスキップ

「玉虫左太夫」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
脚注等、追記
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{基礎情報 武士
[[Image:Tamamushi Sadayu.jpg|200px|thumb|玉虫左太夫]]
| 氏名 = 玉虫左太夫
'''玉蟲 左太夫'''(たまむし さだゆう、[[文政]]6年([[1823年]] - [[明治]]2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1869年]][[5月20日]]))は、[[江戸時代]]後期([[幕末]])から[[明治時代]][[幕末]]の[[仙台藩]]の藩士。幼名は勇八、諱は'''誼茂'''、[[]]は子発。
| 画像 = Tamamushi Sadayu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 玉虫左太夫
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治|明治時代]]
| 生誕 = [[文政]]6年([[1823年]])
| 死没 = [[明治]]2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]([[1869年]][[5月20日]])
| 改名 = 勇八(幼名)、誼茂
| 別名 = 左太夫、字:子発
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[伊達慶邦]]
| 藩 = [[陸奥国|陸奥]][[仙台藩]]
| 氏族 = [[玉虫氏]]
| 父母 = [[玉蟲伸茂]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}


'''玉蟲 左太夫'''(たまむし さだゆう)は、[[江戸時代]]後期の[[仙台藩]]士。諱は'''誼茂'''字は子発。
[[仙台藩]]主の[[伊達慶邦]]の命を受け、[[薩長]]を中心とする新政府軍に対抗する「[[奥羽越列藩同盟]]」を成立させるために東北諸藩を回り、[[戊辰戦争]]中の[[1868年]]([[慶応]]4年/[[明治]]元年)[[5月6日]]に同盟を成立させた立役者の一人として知られる<ref name=reppann>TBS「水トク!林修の歴史ミステリー」2017年11月15日放送。</ref>。

[[仙台藩]]主の[[伊達慶邦]]の命を受け、[[薩長]]を中心とする新政府軍に対抗する「[[奥羽越列藩同盟]]」を成立させるために東北諸藩を回り、[[戊辰戦争]]中の[[慶応]]4年/[[明治]]元年([[1868年]])[[5月6日]]に同盟を成立させた立役者の一人として知られる<ref name=reppann>TBS「水トク!林修の歴史ミステリー」2017年11月15日放送。</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[1823年]](文政6年)に仙台藩士の玉蟲伸茂の末子として生まれる。[[1846年]]([[弘化]]3年)に江戸の[[湯島聖堂]]で学び、その塾長となる。
文政6年([[1823年]])に仙台藩士の玉蟲伸茂の末子として。幼名は勇八。[[弘化]]3年([[1846年]])に江戸の[[湯島聖堂]]で学び、その塾長となる。


[[1857年]]([[安政]]4年)には箱館奉行[[堀利煕]]と共に[[蝦夷地]]を調査し「入北記」を著す。[[1860年]](万延元年)[[日米修好通商条約]]の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。
[[安政]]4年([[1857年]])には箱館奉行[[堀利煕]]と共に[[蝦夷地]]を調査し「入北記」を著す。[[万延]]元年([[1860年]])[[日米修好通商条約]]の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。


[[1868年]](慶応4年)[[戊辰戦争]]が勃発すると[[奥羽越列藩同盟]]の成立に尽力し軍務局副頭取となり、[[1869年]](明治2年)敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。
慶応4年(1868年)[[戊辰戦争]]が勃発すると[[奥羽越列藩同盟]]の成立に尽力し軍務局副頭取となり、明治2年([[1869年]])敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。


一族に[[玉虫文一]]がいる<ref>[[星亮一]]『山川健次郎伝』あとがき</ref>。
子孫に[[玉虫文一]]がいる<ref>[[星亮一]]『山川健次郎伝』あとがき</ref>。

== 外部リンク ==
*[http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/beer/04.html 玉虫左太夫 - キリンホールディングス]


== 主著 ==
== 主著 ==
20行目: 43行目:
* 「航米日録」 - 子孫が現代語訳した『仙台藩士幕末世界一周』が[[荒蝦夷]]から出版されている。
* 「航米日録」 - 子孫が現代語訳した『仙台藩士幕末世界一周』が[[荒蝦夷]]から出版されている。


==脚注==
== 脚注 ==
<references />
<references/>

== 外部リンク ==
*[http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/person/beer/04.html 玉虫左太夫 - キリンホールディングス]


{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
31行目: 57行目:
[[Category:戊辰戦争の人物]]
[[Category:戊辰戦争の人物]]
[[Category:幕末仙台藩の人物]]
[[Category:幕末仙台藩の人物]]
[[Category:刑死した人物]]
[[Category:1823年生]]
[[Category:1823年生]]
[[Category:1869年没]]
[[Category:1869年没]]
[[Category:刑死した人物]]

2019年11月10日 (日) 12:29時点における版

 
玉虫左太夫
玉虫左太夫
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政6年(1823年
死没 明治2年4月9日1869年5月20日
改名 勇八(幼名)、誼茂
別名 左太夫、字:子発
主君 伊達慶邦
陸奥仙台藩
氏族 玉虫氏
父母 玉蟲伸茂
テンプレートを表示

玉蟲 左太夫(たまむし さだゆう)は、江戸時代後期の仙台藩士。諱は誼茂。字は子発。

仙台藩主の伊達慶邦の命を受け、薩長を中心とする新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」を成立させるために東北諸藩を回り、戊辰戦争中の慶応4年/明治元年(1868年5月6日に同盟を成立させた立役者の一人として知られる[1]

経歴

文政6年(1823年)に仙台藩士の玉蟲伸茂の末子として誕生。幼名は勇八。弘化3年(1846年)に江戸の湯島聖堂で学び、その塾長となる。

安政4年(1857年)には箱館奉行・堀利煕と共に蝦夷地を調査し「入北記」を著す。万延元年(1860年日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。

慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発すると奥羽越列藩同盟の成立に尽力し軍務局副頭取となり、明治2年(1869年)敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。

子孫に玉虫文一がいる[2]

主著

  • 「蝦夷紀行」
  • 「航米日録」 - 子孫が現代語訳した『仙台藩士幕末世界一周』が荒蝦夷から出版されている。

脚注

  1. ^ TBS「水トク!林修の歴史ミステリー」2017年11月15日放送。
  2. ^ 星亮一『山川健次郎伝』あとがき

外部リンク