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「伊達村敏」の版間の差分

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'''伊達 村敏'''(だて むらとし)は、[[江戸時代]]中期の[[仙台藩]]一門第九席・[[中津山藩|川崎伊達家]]2代当主。
'''伊達 村敏'''(だて むらとし)は、[[江戸時代]]中期の[[仙台藩]]一門第九席・[[中津山藩#川崎伊達家|川崎伊達家]]2代当主。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])10月16日、[[岩出山伊達家]]当主・[[伊達村泰]]の二男として生。幼名は'''大次郎'''。


はじめ'''親倫'''(ちかのり)と名乗っていたが、のちに[[仙台藩]]主の[[伊達吉村]]より「中村」の姓と[[偏諱]](「村」の字)を与えられ'''中村村高'''(なかむら むらたか)と名乗る。[[享保]]16年([[1731年]])、跡取りの居なかった義兄川崎伊達家当主・[[伊達村詮|村詮]]の隠居にともない、養子に迎えられて家督を相続し、'''村敏'''(むらとし)と名乗る。
め'''親倫'''(ちかのり)と名乗っていたが、のちに[[仙台藩]]主の[[伊達吉村]]より「中村」の姓と[[偏諱]](「村」の字)を与えられ'''中村村高'''(なかむら むらたか)と名乗る。[[享保]]16年([[1731年]])、跡取りの居なかった義兄川崎伊達家当主・[[伊達村詮|村詮]]の隠居にい、養子に迎えられて家督を相続し、'''村敏'''(むらとし)と名乗る。


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[[寛延]]4年([[1751年]])に、[[天文学者]]・[[佐竹義根]]の門弟として[[戸板保佑]]らと共に、[[和暦|暦]]にない[[日食]]の推算を行っている。


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村敏は[[亘理氏#涌谷伊達家|涌谷伊達家]]3代当主・[[伊達宗元|宗元]]の孫にあたることから、男子がいなかった[[伊達村胤]]から、姪の順に準一家・高泉家から婿養子を迎えて家督を相続させる案について相談を受けたが、村敏は家格の釣り合いがとれないとしてこの案に強く反対し、伊達宗家から養子を迎えるべきと主張した。結局、高泉家からの入嗣案は沙汰止みとなり、藩主[[伊達宗村]]の四男の[[伊達村倫 (涌谷伊達家)|村倫]]が涌谷家に入った。


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[[宝暦]]3年([[1753年]])12月14日死去。享年41。嫡男[[伊達村煕|村煕]]が家督を相続した。


== 系譜 ==
== 系譜 ==
*父:[[伊達村泰]]
*父:[[伊達村泰]](1682-1731)
*母:伊与[[冷泉為綱]]の娘
*母:伊与 - [[冷泉為綱]]の娘
*養父:[[伊達村詮]]
*養父:[[伊達村詮]](1697-1744)
*正室:律道 - 伊達村詮の養女、[[伊達村和]]の娘

*正室律道([[伊達村]]の娘。村詮養女)
**男子:[[伊達村]](1740-1799)
*生母不明の子女
**[[伊達村煕]]
**女子:豊 - [[後藤寿康]]室
**女子:清 - [[三沢村保]]室
**女子:広 - [[福原資生]]室
**女子:久米 - [[大内義門]]室
**男子:[[伊達村烈]](1748-1796) - [[伊達村嘉]]の養子


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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**通史編(1975年)
**通史編(1975年)


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2019年11月30日 (土) 09:48時点における版

 
伊達村敏
時代 江戸時代中期
生誕 正徳3年10月16日1713年12月3日
死没 宝暦3年12月14日1754年1月7日
改名 大次郎(幼名)、伊達親倫、中村村高、伊達村敏
別名 大之助、将監、春敬
戒名 直指院殿得岳徹髄大居士
墓所 宮城県柴田郡川崎町の龍雲寺
主君 伊達綱村吉村
陸奥仙台藩
氏族 伊達氏
父母 伊達村泰冷泉為綱娘・伊与
伊達村詮
兄弟 村緝村敏
伊達村詮養女・律道
村煕、豊、清、広、久米、村烈
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伊達 村敏(だて むらとし)は、江戸時代中期の仙台藩一門第九席・川崎伊達家2代当主。

生涯

正徳3年(1713年)10月16日、岩出山伊達家当主・伊達村泰の二男として誕生。幼名は大次郎

始め親倫(ちかのり)と名乗っていたが、のちに仙台藩主の伊達吉村より「中村」の姓と偏諱(「村」の字)を与えられ中村村高(なかむら むらたか)と名乗る。享保16年(1731年)、跡取りの居なかった義兄で川崎伊達家当主・村詮の隠居に伴い、養子に迎えられて家督を相続し、村敏(むらとし)と名乗る。

寛延4年(1751年)に、天文学者佐竹義根の門弟として戸板保佑らと共に、にない日食の推算を行っている。

村敏は涌谷伊達家3代当主・宗元の孫にあたることから、男子がいなかった伊達村胤から、姪の順に準一家・高泉家から婿養子を迎えて家督を相続させる案について相談を受けたが、村敏は家格の釣り合いがとれないとしてこの案に強く反対し、伊達宗家から養子を迎えるべきと主張した。結局、高泉家からの入嗣案は沙汰止みとなり、藩主伊達宗村の四男の村倫が涌谷家に入った。

宝暦3年(1753年)12月14日死去。享年41。嫡男・村煕が家督を相続した。

系譜

参考文献

  • 『川崎町史』(宮城県柴田郡川崎町)
    • 史料編(1972年)
    • 通史編(1975年)
先代
伊達村詮
川崎伊達家
2代:1731年 - 1753年
次代
伊達村煕