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「ジャン=バティスト・ベシェール」の版間の差分

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==生涯==
==生涯==
ベシェールは1768年8月10日、フランス南部[[カオール]]近郊の町プレサックに生まれた。23歳の時に軍に入隊し、短期間[[ルイ16世]]の王宮守備隊として働いた。その後、[[スペイン]]方面軍、東[[ピレネー]]方面軍、[[モゼール]]軍と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。
ベシェールは1768年8月10日、フランス南部[[カオール]]近郊の町プレサックに生まれた。23歳の時に軍に入隊し、短期間[[ルイ16世]]の王宮守備隊として働いた。その後、[[スペイン]]方面軍、東[[ピレネー]]方面軍、[[モゼール]]軍と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。


[[1796年]]から始まった[[イタリア戦役]]ではナポレオンに随行し、[[ロヴェレート]]の戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらに[[リヴォリの戦い]]でも活躍し、ナポレオンからの信頼を勝ち取った。そして、[[シュタイアーマルク公国|シュタイアーマルク]]侵攻では先導役を務めるに至った。
[[1796年]]から始まった[[イタリア戦役]]ではナポレオンに随行し、[[ロヴェレート]]の戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらに[[リヴォリの戦い]]でも活躍し、ナポレオンからの信頼を勝ち取った。そして、[[シュタイアーマルク公国|シュタイアーマルク]]侵攻では先導役を務めるに至った。
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同年[[11月9日]]、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、[[ソモシエラ]]、マドリード、[[グアダラハラ]]で戦った。
同年[[11月9日]]、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、[[ソモシエラ]]、マドリード、[[グアダラハラ]]で戦った。


[[1809年]]に勃発した[[オーストリア戦役]]ではグラン・タルメ予備騎兵隊司令官となた。
[[1809年]]に勃発した[[オーストリア戦役]]ではグラン・タルメ予備騎兵隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。


[[アスペルン・エッセルリンクの戦い|エッセルリンクの戦い]]では数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であったランヌ元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、マッセナ元帥の必死の制止によって事無きを得た。
[[アスペルン・エリンクの戦い|エリンクの戦い]]では数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であったランヌ元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、マッセナ元帥の必死の制止によって事無きを得た。


[[ヴァグラムの戦い]]では愛馬の死によって、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。
[[ヴァグラムの戦い]]では愛馬の死によって、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。


同年[[3月28日]]、[[カール14世|ベルナドット]]に変わって北部方面軍の司令官となり、[[ブリュンゲン]]の戦いでの勝利に貢献した。
同年[[3月28日]]、[[イストリア]][[公爵]]となり、[[カール14世|ベルナドット]]に変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、[[ブリュンゲンの戦い]]での勝利に貢献した。


[[1810年]]、[[パリ]]の皇帝親衛隊の司令官に任命された。[[3月18日]]には[[ストラスブール]]の総督となった。
[[1810年]]、[[パリ]]の皇帝親衛隊の司令官に任命された。[[3月18日]]には[[ストラスブール]]の総督となった。
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[[1813年]]、[[4月10日]]、皇帝親衛隊司令官に任命された。
[[1813年]]、[[4月10日]]、皇帝親衛隊司令官に任命された。


同年[[5月1日]]<ref>[[リッツェンの戦い]]の前日</ref>、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。
同年[[5月1日]]<ref>[[リッツェンの戦い]]の前日</ref>、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。


==人物像==
==人物像==

2020年2月28日 (金) 09:36時点における版

ジャン=バティスト・ベシエール (Jean-Baptiste Bessières, 1768年8月6日 - 1813年5月1日)は、フランス革命戦争ナポレオン戦争期の軍人。帝国元帥。

ジャン=バティスト・ベシエール
Jean-Baptiste Bessières
ベシエール元帥 (作者不明、19世紀)
生誕 1768年8月6日
フランス王国、プレサック
死没 1813年5月1日
ザクセン=アンハルト州、ヴァイセンフェルス
所属組織 フランス軍
軍歴 1791年〜1813年
最終階級 帝国元帥
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生涯

ベシェールは1768年8月10日、フランス南部カオール近郊の町プレサックに生まれた。23歳の時に軍に入隊し、短期間ルイ16世の王宮守備隊として働いた。その後、スペイン方面軍、東部ピレネー方面軍、モゼール軍と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。

1796年から始まったイタリア戦役ではナポレオンに随行し、ロヴェレートの戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらにリヴォリの戦いでも活躍し、ナポレオンからの信頼を勝ち取った。そして、シュタイアーマルク侵攻では先導役を務めるに至った。

エジプト遠征に際してはアッコ攻囲戦アブキールの戦いでの勝利に貢献した。

1800年に勃発したマレンゴの戦いでは執政近衛隊を率いた。しかし、味方部隊が 奮闘している中、大した動きを見せず、終盤になってようやく騎兵突撃を行った。その騎兵突撃でさえも敵軍に決定的な損害を与えることは無く、結局ケレルマンの見事な騎兵突撃によって勝敗が決まった。[1]

1802年師団長に昇進した。

1804年帝国元帥となり、皇帝親衛隊の軍団長に任命された。[2]

1805年2月2日にはレジオン・ドヌール・グラン・テグル爵位、鉄冠コマンドゥール爵位を授与した。

1806年にはイエナの戦い、ビエジェンの戦いで戦った。

1807年にはアイラウの戦いフリートラントの戦いで戦った。これらの活躍により3つの爵位[3]を受け、ヴュルテンベルク駐在大使となった。

1808年、西部ピレネー偵察軍団司令官に任命されたが、間もなくスペイン方面に派遣された。7月14日に勃発したメディナ・デル・リオ・セコの戦いでは14,000人程の兵力で22,000程のスペイン軍を打ち破った。その後、ブルゴスの戦いで勝利を収め、ジョゼフ・ボナパルトと共にマドリードに入城した。

同年11月9日、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、ソモシエラ、マドリード、グアダラハラで戦った。

1809年に勃発したオーストリア戦役ではグラン・タルメ予備騎兵隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。

エスリンクの戦いでは数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であったランヌ元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、マッセナ元帥の必死の制止によって事無きを得た。

ヴァグラムの戦いでは愛馬の死によって、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。

同年3月28日イストリア公爵となり、ベルナドットに変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、ブリュンゲンの戦いでの勝利に貢献した。

1810年パリの皇帝親衛隊の司令官に任命された。3月18日にはストラスブールの総督となった。

1811年、再びスペイン方面軍に転属となり、反乱軍の鎮圧に努めたが9月20日にはパリに戻った。[4]

1812年から始まったロシア遠征では皇帝親衛隊の騎兵隊指揮官に任命された。ボロジノの戦いでは同騎兵隊の投入に反対し、決定的な勝機を逃した。

1813年4月10日、皇帝親衛隊司令官に任命された。

同年5月1日[5]、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。

人物像

脚注 

  1. ^ 戦闘中の彼の態度に対し、ランヌ将軍は激怒した。戦後、2人は激しく口論し、以降は犬猿の仲となった。
  2. ^ ここまで登り詰められたのは彼自身の指揮能力というよりもむしろ、ナポレオンに対する忠誠心や友情に依る所が大きかった。
  3. ^ 聖ハインリヒ大十字爵位、キリスト大十字爵位、金鷲爵位
  4. ^ スペイン方面軍の指揮官は任務に失敗すると更迭されやすく、ベシェールもそれを恐れた為と言われている。
  5. ^ リュッツェンの戦いの前日

東京富士美術館ロベール・ルフェーブルによるベシェール夫人の肖像画が所蔵されている[1]

外部リンク 

  1. ^ ベシエール元帥夫人”. 東京富士美術館. 2018年11月2日閲覧。