「ジャン=バティスト・ベシェール」の版間の差分
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23歳の時に軍に入隊し、短期間[[ルイ16世]]の王宮守備隊として働いた。その後、[[スペイン]]方面軍、東部[[ピレネー]]方面軍、[[モゼル県|モゼル]]軍と次々と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。 |
23歳の時に軍に入隊し、短期間[[ルイ16世]]の王宮守備隊として働いた。その後、[[スペイン]]方面軍、東部[[ピレネー]]方面軍、[[モゼル県|モゼル]]軍と次々と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。 |
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[[1796年]]から始まった[[イタリア戦役]]ではナポレオンに随行し、[[ロヴェレート]]の戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらに[[リヴォリの戦い]]でも活躍し、ナポレオンからの信頼を |
[[1796年]]から始まった[[イタリア戦役]]ではナポレオンに随行し、[[ロヴェレート]]の戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらに[[リヴォリの戦い]]でも活躍し、ナポレオンからの個人的信頼を得た。そして、[[シュタイアーマルク公国|シュタイアーマルク]]侵攻では先導役を務めた。 |
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エジプト遠征に際しては[[アッコ攻囲戦]]、[[アブキールの戦い]]での勝利に貢献した。 |
エジプト遠征に際しては[[アッコ攻囲戦]]、[[アブキールの戦い]]での勝利に貢献した。 |
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[[1800年]]に勃発した[[マレンゴの戦い]]では執政近衛隊を率いた。しかし、味方部隊が 奮闘している中、大した動きを見せず、終盤になってようやく騎兵突撃を行った。 |
[[1800年]]に勃発した[[マレンゴの戦い]]では執政近衛隊を率いた。しかし、味方部隊が 奮闘している中、大した動きを見せず、終盤になってようやく騎兵突撃を行った。この騎兵突撃は一定の成功を収めたものの、敵軍に決定的な損害を与えることは無く、結局[[フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン|ケレルマン]]の見事な騎兵突撃によって勝敗が決まった。<ref>ナポレオンはマレンゴの戦いにおけるベシェールの行動に対する不満を給料という形で表している。</ref><ref>戦闘中の彼の態度に対し、[[ランヌ]]将軍は激怒した。戦後、2人は激しく口論し、以降は犬猿の仲となった。</ref> |
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[[1802年]]に[[師団長]]に昇進した。 |
[[1802年]]に[[師団長]]に昇進した。 |
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[[1804年]]に[[フランス元帥|帝国元帥]]となり、皇帝親衛隊の軍団長に任命された。<ref>ここまで登り詰められたのは彼自身の指揮能力というよりも |
[[1804年]]に[[フランス元帥|帝国元帥]]となり、皇帝親衛隊の軍団長に任命された。<ref>ここまで登り詰められたのは、彼自身の指揮能力というよりも、ナポレオンに対する忠誠心や友情に依る所が大きかった。</ref> |
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[[1805年]][[2月2日]]には[[レジオン・ドヌール|レジオン・ドヌール・グラン・テグル]]爵位、鉄冠コマンドゥール爵位を授与された。 |
[[1805年]][[2月2日]]には[[レジオン・ドヌール|レジオン・ドヌール・グラン・テグル]]爵位、鉄冠コマンドゥール爵位を授与された。 |
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[[1806年]]には[[イエナ・アウエルシュテットの戦い|イエナの戦い]]、ビエジェンの戦いで戦った。 |
[[1806年]]には[[イエナ・アウエルシュテットの戦い|イエナの戦い]]、ビエジェンの戦いで戦った。 |
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[[1807年]]には[[アイラウの戦い]]、[[フリートラントの戦い]]で戦った。これらの活躍により3つの爵位<ref>聖ハインリヒ大十字爵位、キリスト大十字爵位、金鷲爵位</ref>を授与され、[[ヴュルテンベルク]]駐在大使となった。 |
[[1807年]]には[[アイラウの戦い]]、[[フリートラントの戦い]]で戦った。これらの戦いにおける活躍により3つの爵位<ref>聖ハインリヒ大十字爵位、キリスト大十字爵位、金鷲爵位</ref>を授与され、[[ヴュルテンベルク]]駐在大使となった。 |
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[[1808年]]、西部ピレネー偵察軍団司令官に任命されたが、間もなくスペイン方面に派遣された。[[7月14日]]に勃発した[[メディナ・デル・リオ・セコの戦い]]では14,000人程の兵力で22,000人程のスペイン軍を打ち破った。その後、[[ブルゴス]]の戦いでイギリス軍相手に勝利を収め、[[ジョゼフ・ボナパルト]]と共に[[マドリード]]に入城した。 |
[[1808年]]、西部ピレネー偵察軍団司令官に任命されたが、間もなく[[半島戦争]]の為、スペイン方面に派遣された。同年[[7月14日]]に勃発した[[メディナ・デル・リオ・セコの戦い]]では14,000人程の兵力で22,000人程のスペイン軍を打ち破った。その後、[[ブルゴス]]の戦いでイギリス軍相手に勝利を収め、[[ジョゼフ・ボナパルト]]と共に[[マドリード]]に入城した。 |
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同年[[11月9日]]、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、[[ソモシエラ]]、マドリード、[[グアダラハラ]]で戦った。 |
同年[[11月9日]]、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、[[ソモシエラ]]、マドリード、[[グアダラハラ]]で戦った。 |
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[[1809年]]に勃発した[[オーストリア戦役]]ではグラン・タルメ予備騎兵隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。 |
[[1809年]]に勃発した[[1809年オーストリア戦役|オーストリア戦役]]ではグラン・タルメ予備騎兵隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。 |
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[[アスペルン・エスリンクの戦い|エスリンクの戦い]]では数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であった[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、[[マッセナ]]元帥の必死の制止によって事無きを得た。 |
[[アスペルン・エスリンクの戦い|エスリンクの戦い]]では数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であった[[ジャン・ランヌ|ランヌ]]元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、[[マッセナ]]元帥の必死の制止によって事無きを得た。 |
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[[ヴァグラムの戦い]]で |
[[ヴァグラムの戦い]]でも善戦したが、愛馬の死によって、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。 |
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同年[[3月28日]]、[[イストリア]][[公爵]]となり、[[カール14世|ベルナドット]]に変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、[[ブリュンゲンの戦い]]での勝利に貢献した。 |
同年[[3月28日]]、[[イストリア]][[公爵]]となり、[[カール14世|ベルナドット]]に変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、[[ブリュンゲンの戦い]]での勝利に貢献した。 |
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[[1810年]]、[[パリ]] |
[[1810年]]、皇帝親衛隊の[[パリ]]司令官に任命された。同年[[3月18日]]には[[ストラスブール]]の総督となった。 |
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[[1811年]]、再びスペイン方面軍に転属となり、反乱軍の鎮圧に努めたが[[9月20日]]にはパリに戻った。<ref>スペイン方面軍の指揮官は任務に失敗すると更迭されやすく、ベシェールもそれを恐れた為と言われている。</ref> |
[[1811年]]、再びスペイン方面軍に転属となり、反乱軍の鎮圧に努めたが[[9月20日]]にはパリに戻った。<ref>スペイン方面軍の指揮官は任務に失敗すると更迭されやすく、ベシェールもそれを恐れた為と言われている。</ref> |
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[[1812年]]から始まった[[ロシア遠征]]では皇帝親衛隊の騎兵隊指揮官に任命された。[[ボロジノの戦い]]では同騎兵隊の投入に反対し、決定的な勝機を逃した。 |
[[1812年]]から始まった[[ロシア遠征]]では皇帝親衛隊の騎兵隊指揮官に任命された。同年[[9月7日]]に勃発した[[ボロジノの戦い]]では同騎兵隊の投入に反対し、決定的な勝機を逃した。 |
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[[1813年]][[4月10日]]、皇帝親衛隊司令官に任命された。 |
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同年[[5月1日]]<ref>[[リュッツェンの戦い]]の前日</ref>、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。 |
同年[[5月1日]]<ref>[[リュッツェンの戦い]]の前日</ref>、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。 |
2020年3月1日 (日) 09:01時点における版
ジャン=バティスト・ベシエール (Jean-Baptiste Bessières, 1768年8月6日 - 1813年5月1日)は、フランス革命戦争・ナポレオン戦争期の軍人。帝国元帥。
ジャン=バティスト・ベシエール Jean-Baptiste Bessières | |
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ベシエール元帥 (作者不明、19世紀) | |
生誕 |
1768年8月6日 フランス王国、プレサック |
死没 |
1813年5月1日 ザクセン=アンハルト州、ヴァイセンフェルス |
所属組織 | フランス軍 |
軍歴 | 1791年〜1813年 |
最終階級 | 帝国元帥 |
生涯
ベシェールは1768年8月10日、フランス南部カオール近郊の町プレサックに生まれた。青年時代は医師を目指しており、この頃に後に元帥となるジョアシャン・ミュラと親交を結んだ。
23歳の時に軍に入隊し、短期間ルイ16世の王宮守備隊として働いた。その後、スペイン方面軍、東部ピレネー方面軍、モゼル軍と次々と転属した。彼はたちまちその剛勇さで知られるようになった。
1796年から始まったイタリア戦役ではナポレオンに随行し、ロヴェレートの戦いで顕著な働きを見せた。この活躍により、ナポレオンから目を付けられた。さらにリヴォリの戦いでも活躍し、ナポレオンからの個人的信頼を得た。そして、シュタイアーマルク侵攻では先導役を務めた。
エジプト遠征に際してはアッコ攻囲戦、アブキールの戦いでの勝利に貢献した。
1800年に勃発したマレンゴの戦いでは執政近衛隊を率いた。しかし、味方部隊が 奮闘している中、大した動きを見せず、終盤になってようやく騎兵突撃を行った。この騎兵突撃は一定の成功を収めたものの、敵軍に決定的な損害を与えることは無く、結局ケレルマンの見事な騎兵突撃によって勝敗が決まった。[1][2]
1804年に帝国元帥となり、皇帝親衛隊の軍団長に任命された。[3]
1805年2月2日にはレジオン・ドヌール・グラン・テグル爵位、鉄冠コマンドゥール爵位を授与された。
1807年にはアイラウの戦い、フリートラントの戦いで戦った。これらの戦いにおける活躍により3つの爵位[4]を授与され、ヴュルテンベルク駐在大使となった。
1808年、西部ピレネー偵察軍団司令官に任命されたが、間もなく半島戦争の為、スペイン方面に派遣された。同年7月14日に勃発したメディナ・デル・リオ・セコの戦いでは14,000人程の兵力で22,000人程のスペイン軍を打ち破った。その後、ブルゴスの戦いでイギリス軍相手に勝利を収め、ジョゼフ・ボナパルトと共にマドリードに入城した。
同年11月9日、スペイン方面軍予備騎兵隊の指揮権を与えられ、ソモシエラ、マドリード、グアダラハラで戦った。
1809年に勃発したオーストリア戦役ではグラン・タルメ予備騎兵隊司令官となり、ラントシュタットの戦い、ノイマクルトの戦い、エベルスベルクの戦い、エスリンクの戦い、ヴァグラムの戦いに参戦した。
エスリンクの戦いでは数に勝る敵軍相手に善戦した。しかし、以前より犬猿の仲であったランヌ元帥は彼の慎重な戦いぶりを良しとせずベシェールを罵った。ベシェールもこれに応じ2人は決闘になりかけたが、マッセナ元帥の必死の制止によって事無きを得た。
ヴァグラムの戦いでも善戦したが、愛馬の死によって、みすみす敵軍の捕虜を逃すという失態を犯した。
同年3月28日、イストリア公爵となり、ベルナドットに変わって北部方面軍の司令官に任命された。そして、ブリュンゲンの戦いでの勝利に貢献した。
1810年、皇帝親衛隊のパリ司令官に任命された。同年3月18日にはストラスブールの総督となった。
1811年、再びスペイン方面軍に転属となり、反乱軍の鎮圧に努めたが9月20日にはパリに戻った。[5]
1812年から始まったロシア遠征では皇帝親衛隊の騎兵隊指揮官に任命された。同年9月7日に勃発したボロジノの戦いでは同騎兵隊の投入に反対し、決定的な勝機を逃した。
同年5月1日[6]、味方部隊の指揮中に敵軍の砲弾が腰部に直撃し、即死した。44歳であった。
人物像
ベシェールは生まれの身分が決して高くないにも関わらず、きちんとしたマナーを心得ており、姿形もどこか風雅めいていた。又、性格も優しく、気前がいいのでナポレオンの元帥の中では最も紳士的であったといわれている。
慎重で剛毅な性格の為、部隊指揮官としては凡庸だったが、司令官としては優秀であった。
ジョアシャン・ミュラの唯一無二の親友であり、ミュラとジャン・ランヌがナポレオンの妹カロリーヌとの結婚を巡って競争になった際にはミュラの肩を持ったという。
前述の通り、ランヌとは犬猿の仲であった。
脚注
東京富士美術館にロベール・ルフェーブルによるベシェール夫人の肖像画が所蔵されている[1]。