コンテンツにスキップ

「彦根藩」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
1行目: 1行目:
[[ファイル:Kioi-Ii-Hyoushiki.JPG|thumb|200px|近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑]]
[[ファイル:Kioi-Ii-Hyoushiki.JPG|thumb|200px|近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑]]
[[ファイル:彦根藩3855.JPG|thumb|200px|彦根藩邸址、京都市中京区木屋町]]
[[ファイル:彦根藩3855.JPG|thumb|200px|彦根藩邸址、京都市中京区木屋町]]
'''彦根藩'''(ひこねはん)は、[[近江国]][[犬上郡]]など近江国の北部を領有した[[藩]]。藩庁は[[彦根城]]([[滋賀県]][[彦根市]])に置かれた(入封当初は[[佐和山城]])。藩主は[[譜代大名]]筆頭の[[井伊氏]]。支藩として一時、[[#支藩|彦根新田藩]]があった。
'''彦根藩'''(ひこねはん)は、[[近江国]][[犬上郡]]など近江国の北部を領有した[[藩]]。藩庁は[[彦根城]]([[滋賀県]][[彦根市]])に置かれた(入封当初は[[佐和山城]])。藩主は[[譜代大名]]筆頭の[[井伊氏|井伊家]]。[[支藩]]として一時、[[#支藩|彦根新田藩]]があった。


== 略史 ==
== 略史 ==
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[上野国|上野]][[高崎城]]主で12万石を領していた[[徳川四天王]]の1人・[[井伊直政]]が[[関ヶ原の戦い]]の戦功により18万石に加増され、[[石田三成]]の居城であった[[佐和山城]]に入封して[[佐和山藩]]を立藩した。直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、琵琶湖の湖岸の磯山に新城建設を計画したが、建設に着手する前に戦傷が元で慶長7年([[1602年]])に死去した。嫡男[[井伊直勝|直継]](直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11年([[1606年]])完成し彦根城に入城した。
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[上野国|上野]][[高崎城]]主で12万石を領していた[[徳川四天王]]の1人・[[井伊直政]]が[[関ヶ原の戦い]]の戦功により18万石に加増され、[[石田三成]]の居城であった[[佐和山城]]に入封して[[佐和山藩]]を立藩した。直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、[[琵琶湖]]の湖岸の磯山に新城建設を計画したが、建設に着手する前に戦傷が元で慶長7年([[1602年]])に死去した。嫡男[[井伊直勝|直継]](直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11年([[1606年]])完成し彦根城に入城した。


[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、直継は病弱で[[大坂の陣]]に参陣出来なかったことを理由に、直勝と名を改め上野[[安中藩]]に3万石を分知され移封となった。代わって参陣し活躍した弟の[[井伊直孝|直孝]]が藩主となった。この時点で直継の2代藩主としての履歴は抹消され、直孝を2代とした([[#諸説ある歴代の数え方|後述]])。
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、直継は病弱で[[大坂の陣]]に参陣出来なかったことを理由に、直勝と名を改め上野[[安中藩]]に3万石を分知され移封となった。代わって参陣し活躍した弟の[[井伊直孝|直孝]]が藩主となった。この時点で直継の2代藩主としての履歴は抹消され、直孝を2代とした([[#諸説ある歴代の数え方|後述]])。


井伊氏は元々遠江の没落した国人の家で、直政は[[徳川家康]]の信任を受けて新参ながら[[徳川氏]]の重臣の一人に列した。その過程で滅亡した[[武田氏]]の旧臣を付けられたり「(御)付人」と称される家康の命で徳川の旗本から直政の[[与力|寄騎]]を経て井伊の家臣に編入された家臣を付けられたりと、家康の意向を反映する形で家臣団の充実が図られた。反面、初期の藩の人事は家康の許可を必要とし、付人の中には同じ徳川氏の家臣のの直政の臣扱いをされることに不満を抱いて出奔する者もいた(例えば、家康から最初に直政に付けられた[[井伊谷三人衆]]の子孫はいずれも彦根藩には残らなかった)。直政が死去すると、を継いだ直継(直勝)と付人の対立や付人同士の対立などで藩政は混乱し、家康は家臣を統制しきれない直継を当主としての器量がないと判断して病弱を名目に藩主の差替を図ったと考えられている。直孝の下で藩政の混乱は収拾され、井伊に残った付人は彦根藩の重臣層を形成することになる<ref>小宮山敏和「井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位」および「近世初期における譜代大名〈家中〉の成立」(所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5)</ref>。
井伊氏は元々[[遠江国|遠江]]の没落した[[国人]]の家で、直政は[[徳川家康]]の信任を受けて新参ながら[[徳川氏|徳川家]]の重臣の一人に列した。その過程で滅亡した[[武田氏]]の旧臣を付けられたり「(御)付人」と称される家康の命で徳川の旗本から直政の[[与力|寄騎]]を経て井伊の家臣に編入された家臣を付けられたりと、家康の意向を反映する形で家臣団の充実が図られた。反面、初期の藩の人事は家康の許可を必要とし、付人の中には同じ徳川家臣のはずの直政の[[陪]]扱いをされることに不満を抱いて出奔する者もいた(例えば、家康から最初に直政に付けられた[[井伊谷三人衆]]の子孫はいずれも彦根藩には残らなかった)。直政が死去すると、を継いだ直継(直勝)と付人の対立や付人同士の対立などで藩政は混乱し、家康は家臣を統制しきれない直継を当主としての器量がないと判断して病弱を名目に藩主の差替を図ったと考えられている。直孝の下で藩政の混乱は収拾され、井伊[[家中]]に残った付人は彦根藩の重臣層を形成することになる<ref>小宮山敏和「井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位」および「近世初期における譜代大名〈家中〉の成立」(所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5)</ref>。


直孝は幕閣の中枢としての活躍を認められ、元和元年・元和3年([[1617年]])・[[寛永]]10年([[1633年]])の3度にわたりそれぞれ5万石の加増がなされた。よって30万石の大封を得る[[大名|大大名]]となった。に天領の城付米預かりとして5万俵(知行高換算5万石)を付与され35万石の格式を得るに至った。
直孝は幕閣の中枢としての活躍を認められ、元和元年・元和3年([[1617年]])・[[寛永]]10年([[1633年]])の3度にわたりそれぞれ5万石の加増がなされた。よって30万石の大封を得る[[大名|大大名]]となった。さら[[天領|幕府領]]の城付米預かりとして5万俵(知行高換算5万石)を付与され35万石の格式を得るに至った。


彦根藩井伊は幕閣の中枢を成し、[[酒井氏|雅楽頭酒井氏]]・[[本多氏]]など譜代有力大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高であった。江戸城内の[[伺候席]]は[[会津松平家]]・[[高松松平家]]と共に将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった「溜間」である<ref>[[深井雅海]]『江戸城-本丸御殿と江戸幕府』([[中公新書]] 2008年)P24</ref>また、[[井伊直興|直興]]・[[井伊直幸|直幸]]・[[井伊直亮|直亮]]・[[井伊直弼|直弼]]と4代5度(直興が2度就任。直孝・直澄が大老になったかどうかは諸説ある。詳細は[[大政参与]]の項を参照)の[[大老]]職に就いた。文字通り譜代筆頭と言えよう。
彦根藩井伊は幕閣の中枢を成し、[[酒井氏|酒井雅楽頭]]・[[本多氏|本多家]]など[[譜代大名|譜代]]有力大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高であった。江戸城内の[[伺候席]]は[[会津松平家]]・[[高松松平家]]と共に将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった「溜間」である<ref>[[深井雅海]]『江戸城-本丸御殿と江戸幕府』([[中公新書]] 2008年)P24</ref>また、[[井伊直興|直興]]・[[井伊直幸|直幸]]・[[井伊直亮|直亮]]・[[井伊直弼|直弼]]と4代5度(直興が2度就任。直孝・直澄が大老になったかどうかは諸説ある。詳細は[[大政参与]]の項を参照)の[[大老]]職に就いた。文字通り譜代筆頭と言えよう。


歴代藩主の中で最も有名なのが、[[幕末]]に藩主となった直弼である。[[嘉永]]3年([[1850年]])、兄直亮の死去により藩主となった。13代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家定]]の[[将軍継嗣問題]]で[[南紀派]]に属し、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]ら[[一橋派]]と対立し[[徳川家茂]]の14代将軍就任に貢献する。[[安政]]5年([[1858年]])に大老に就き、勅許を得ず[[日米修好通商条約]]に調印、これを口実として詰問に出た旧一橋派要人を隠居させ、併せて言論人への死罪等を含む[[安政の大獄]]といわれる強権の発動を行った。結果、反発を招き、[[万延]]元年([[1860年]])に[[桜田門外の変]]で[[水戸藩]][[浪士]]らに[[暗殺]]された。同年、藩主に就いた次男の[[井伊直憲|直憲]]は、[[文久]]2年([[1862年]])に直弼の罪を問われ10万石を減封された。
歴代藩主の中で最も有名なのが、[[幕末]]に藩主となった直弼である。[[嘉永]]3年([[1850年]])、兄直亮の死去により藩主となった。13代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家定]]の[[将軍継嗣問題]]で[[南紀派]]に属し、[[徳川慶喜|一橋慶喜]]ら[[一橋派]]と対立し[[徳川家茂]]の14代将軍就任に貢献する。[[安政]]5年([[1858年]])に大老に就き、勅許を得ず[[日米修好通商条約]]に調印、これを口実として詰問に出た旧一橋派要人を隠居させ、併せて言論人への死罪等を含む[[安政の大獄]]といわれる強権の発動を行った。結果、反発を招き、[[万延]]元年([[1860年]])に[[桜田門外の変]]で[[水戸藩]][[浪士]]らに暗殺された。同年、藩主に就いた次男の[[井伊直憲|直憲]]は、[[文久]]2年([[1862年]])に直弼の罪を問われ10万石を減封された。


[[元治]]元年([[1864年]])、[[禁門の変]]での功により旧領のうち3万石を回復する。また[[天誅組の変]]・[[天狗党の乱]]・[[長州征討]]にも参戦し、幕府の軍事活動に協力した。しかし長州との戦いでは旧式の軍制・装備などが災いし大敗した。この時点では幕府内では旧一橋派が主導権を持っており、桜田門外の変以降の彦根藩への報われない扱いを彼らの報復と意識したことが、[[大政奉還]]以降の薩長新政府支持へ繋がったともいわれている。
[[元治]]元年([[1864年]])、[[禁門の変]]での功により旧領のうち3万石を回復する。また[[天誅組の変]]・[[天狗党の乱]]・[[長州征討]]にも参戦し、幕府の軍事活動に協力した。しかし長州との戦いでは旧式の軍制・装備などが災いし大敗した。この時点では幕府内では旧一橋派が主導権を持っており、桜田門外の変以降の彦根藩への報われない扱いを彼らの報復と意識したことが、[[大政奉還]]以降の薩長新政府支持へ繋がったともいわれている。


[[慶応]]3年([[1867年]])、大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年([[1868年]])の[[鳥羽・伏見の戦い]]では、家老[[岡本半介]]は旧幕府軍と共に[[大坂城]]に詰めたが、藩兵の主力は[[東寺]]近くにある四塚や[[大津市|大津]]で薩長の後方支援にあたり、[[大垣市|大垣]]への出兵に際しては先鋒となった。[[戊辰戦争]]では明治政府に加わって[[小山市|小山]]や[[本宮市|本宮]]など各地を転戦、[[近藤勇]]の捕縛にもあたった。戦功により[[賞典禄]]2万石を朝廷から拝領している。
[[慶応]]3年([[1867年]])、[[大政奉還]]後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年([[1868年]])の[[鳥羽・伏見の戦い]]では、家老[[岡本半介]]は旧幕府軍と共に[[大坂城]]に詰めたが、藩兵の主力は[[東寺]]近くにある四塚や[[大津市|大津]]で薩長の後方支援にあたり、[[大垣市|大垣]]への出兵に際しては先鋒となった。[[戊辰戦争]]では明治政府に加わって[[小山市|小山]]や[[本宮市|本宮]]など各地を転戦、[[近藤勇]]の捕縛にもあたった。戦功により[[賞典禄]]2万石を朝廷から拝領している。


[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により彦根県となった。後、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入された。
[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により彦根県となった。後、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入された。
30行目: 30行目:


== 歴代藩主 ==
== 歴代藩主 ==
;井伊(いい)
;井伊家
:譜代 18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石(1600年 - 1871年)
:譜代 18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石(1600年 - 1871年)
:#[[井伊直政|直政]] 18万石
:#[[井伊直政|直政]] 18万石
51行目: 51行目:


=== 諸説ある歴代の数え方 ===
=== 諸説ある歴代の数え方 ===
『新修彦根市史2巻 通史編近世』(2008年)66頁では、井伊直継を2代藩主としている。しかし、直継は安中藩初代であることから、れまで慣習的に彦根藩主には数えてこなかった。そのため、彦根城博物館では、「当主」という表を使い、直継を数えない代数を使っている(例;井伊直弼 13代当主)<ref>{{Cite web|url= http://hikone-castle-museum.jp/history/pdf/family-line.pdf |title= 井伊家系図 |publisher= 彦根城博物館 |accessdate= 2016-11-10 }}</ref>。
『新修彦根市史2巻 通史編近世』(2008年)66頁では、井伊直継を2代藩主としている。しかし、直継は安中藩初代であることから、れまで慣習的に彦根藩主には数えてこなかった。そのため、[[彦根城博物館]]では、「当主」という表を使い、直継を数えない代数を使っている(例;井伊直弼 13代当主)<ref>{{Cite web|url= http://hikone-castle-museum.jp/history/pdf/family-line.pdf |title= 井伊家系図 |publisher= 彦根城博物館 |accessdate= 2016-11-10 }}</ref>。


== 彦根新田藩 ==
== 彦根新田藩 ==
'''彦根新田藩'''(ひこねしんでんはん)は、[[江戸時代]]中期の[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])より[[享保]]19年([[1734年]])まで存した彦根藩の[[支藩]]である。直興の十四男・[[井伊直定|直定]]が1万石を分与され立藩した。享保17年([[1732年]])、直定は[[奏者番]]に就任している。享保19年、兄で8代藩主の[[井伊直惟|直惟]]の養嗣子となったため廃藩となった。直定はその後、彦根藩の9代・11代(再封)藩主となっている。
'''彦根新田藩'''(ひこねしんでんはん)は、[[江戸時代]]中期の[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])より[[享保]]19年([[1734年]])まで存した彦根藩の[[支藩]]である。直興の十四男・[[井伊直定|直定]]が1万石を分与され立藩した。享保17年([[1732年]])、直定は[[奏者番]]に就任している。直定が兄で8代藩主の[[井伊直惟|直惟]]の養嗣子となったため廃藩となった。直定はその後、彦根藩の9代・11代(再封)藩主となっている。


== 家臣 ==
== 家臣 ==
74行目: 74行目:
{{familytree/end}}
{{familytree/end}}
----
----
;[[上野長野氏|長野十郎左衛門家]](3席<ref group="†">次席とも、序列は庵原に次ぐ。</ref>・4,000石)
;[[上野長野氏|長野十郎左衛門家]](3席<ref group="†">次席とも、序列は庵原に次ぐ。</ref>・4,000石)
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|01|-|02|-|03|-|04|-|05|-|06|-|07|-|08|-|09|-|010|-|011| 01='''[[長野業実]]'''<ref group="†">[[長野業正]]の庶子もしくは養子業親の子。</ref>|02='''業輝'''|03='''業利'''|04='''業則'''|05='''増業'''|06='''業庸'''|07='''業房'''|08='''好業'''|09='''業義'''|010='''業壽'''|011='''業賢'''}}
{{familytree |border=0|01|-|02|-|03|-|04|-|05|-|06|-|07|-|08|-|09|-|010|-|011| 01='''[[長野業実]]'''<ref group="†">[[長野業正]]の庶子もしくは養子業親の子。</ref>|02='''業輝'''|03='''業利'''|04='''業則'''|05='''増業'''|06='''業庸'''|07='''業房'''|08='''好業'''|09='''業義'''|010='''業壽'''|011='''業賢'''}}
84行目: 84行目:
{{familytree/end}}
{{familytree/end}}
----
----
;[[中野氏|中野助太夫家]](3,500石、藩主一門)※井伊直氏の弟・中野直房を祖とする家
;中野助太夫家(3,500石、藩主一門)※井伊直氏の弟・中野直房を祖とする家
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|01|v|02|-|03|-|04|-|05|-|06|-|07|-|08|-|09|-|010|j|011|-|012| 01='''[[中野直之]]'''<ref group="†">直房の曾孫。</ref>|02='''三孝'''|03='''三宣'''|04='''清三'''|05='''寧三'''|06='''矩三'''|07='''幸傳'''|08='''幸能'''|09='''幸路'''|010='''中経'''|011='''賁三'''|012='''邦三'''}}
{{familytree |border=0|01|v|02|-|03|-|04|-|05|-|06|-|07|-|08|-|09|-|010|j|011|-|012| 01='''[[中野直之]]'''<ref group="†">直房の曾孫。</ref>|02='''三孝'''|03='''三宣'''|04='''清三'''|05='''寧三'''|06='''矩三'''|07='''幸傳'''|08='''幸能'''|09='''幸路'''|010='''中経'''|011='''賁三'''|012='''邦三'''}}
102行目: 102行目:
;[[松下氏|松下源太郎家]](200石、藩主一門)※[[松下之綱]]室の兄で井伊直政の継父・[[松下清景]]を祖とする家。
;[[松下氏|松下源太郎家]](200石、藩主一門)※[[松下之綱]]室の兄で井伊直政の継父・[[松下清景]]を祖とする家。
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|01|-|02|| 01='''[[松下一定]]'''<ref group="†">彦根藩家老/中野助太夫家・中野直之の2男、直政の筆頭家老・松下清景の養嗣子。</ref>|02='''高冬'''}}
{{familytree |border=0|01|-|02|| 01='''[[松下一定]]'''<ref group="†">彦根藩家老/中野助太夫家・中野直之の男、直政の筆頭家老・松下清景の養嗣子。</ref>|02='''高冬'''}}
{{familytree/end}}
{{familytree/end}}
----
----
113行目: 113行目:
;岡本半介家(1,950石)
;岡本半介家(1,950石)
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|01|-|05|-|03|-|05|-|02|~|04| 01='''[[岡本宣就]]'''|02='''業常'''|03='''継業'''|04='''[[岡本半介|黄石]]<ref group="†">彦根藩家老/宇津木治部右衛門家・宇津木久純の4男。</ref>'''|05=(略)}}
{{familytree |border=0|01|-|05|-|03|-|05|-|02|~|04| 01='''[[岡本宣就]]'''|02='''業常'''|03='''継業'''|04='''[[岡本半介|黄石]]<ref group="†">彦根藩家老/宇津木治部右衛門家・宇津木久純の男。</ref>'''|05=(略)}}
{{familytree/end}}
{{familytree/end}}
----
----
126行目: 126行目:
{{familytree/end}}
{{familytree/end}}
----
----
;新野左馬助家(2,000石、藩主一門)※;井伊直政の恩人[[新野親矩]]の名跡を再興する。
;新野左馬助家(2,000石、藩主一門)※井伊直政の恩人である[[新野親矩]]の名跡を再興する。
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|01|-|02| 01='''[[新野親良]]<ref group="†">藩主・直中の10男。</ref>'''|02=河手良貞}}
{{familytree |border=0|01|-|02| 01='''[[新野親良]]<ref group="†">藩主・直中の10男。</ref>'''|02=河手良貞}}
133行目: 133行目:
;河手主水家(4,000石、藩主縁戚)※初代・良則の正室に藩主・直政の姉[[高瀬姫|春光院]]を迎えた。
;河手主水家(4,000石、藩主縁戚)※初代・良則の正室に藩主・直政の姉[[高瀬姫|春光院]]を迎えた。
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|01|-|02|-|03|~|04|~|05| 01='''[[川手良則|河手良則]]'''|02='''良行'''|03='''良富'''|04=(名跡再興)|05='''良貞'''<ref group="†">彦根藩家老/新野左馬助家・新野親良の3男。</ref>}}
{{familytree |border=0|01|-|02|-|03|~|04|~|05| 01='''[[川手良則|河手良則]]'''|02='''良行'''|03='''良富'''|04=(名跡再興)|05='''良貞'''<ref group="†">彦根藩家老/新野左馬助家・新野親良の男。</ref>}}
{{familytree/end}}
{{familytree/end}}
----
----
159行目: 159行目:
;木俣多宮家(650石)※木俣清佐衛門家分家
;木俣多宮家(650石)※木俣清佐衛門家分家
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree/start|style="font-size:120%"}}
{{familytree |border=0|01|~|02|-|03| 01='''木俣守吉'''|02='''守喜'''<ref group="†">木俣清佐衛門家・守閑の2男。</ref>|03=[[井伊直員]]}}
{{familytree |border=0|01|~|02|-|03| 01='''木俣守吉'''|02='''守喜'''<ref group="†">木俣清佐衛門家・守閑の男。</ref>|03=[[井伊直員]]}}
{{familytree/end}}
{{familytree/end}}
----
----

2020年3月2日 (月) 10:42時点における版

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑
彦根藩邸址、京都市中京区木屋町

彦根藩(ひこねはん)は、近江国犬上郡など近江国の北部を領有した。藩庁は彦根城滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊家支藩として一時、彦根新田藩があった。

略史

慶長5年(1600年)、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩した。直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、琵琶湖の湖岸の磯山に新城建設を計画したが、建設に着手する前に戦傷が元で慶長7年(1602年)に死去した。嫡男直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11年(1606年)完成し彦根城に入城した。

元和元年(1615年)、直継は病弱で大坂の陣に参陣出来なかったことを理由に、直勝と名を改め上野安中藩に3万石を分知され移封となった。代わって参陣し活躍した弟の直孝が藩主となった。この時点で直継の2代藩主としての履歴は抹消され、直孝を2代とした(後述)。

井伊氏は元々遠江の没落した国人の家で、直政は徳川家康の信任を受けて新参ながら徳川家の重臣の一人に列した。その過程で滅亡した武田氏の旧臣を付けられたり「(御)付人」と称される家康の命で徳川家の旗本から直政の寄騎を経て井伊家の家臣に編入された家臣を付けられたりと、家康の意向を反映する形で家臣団の充実が図られた。反面、初期の藩の人事は家康の許可を必要とし、付人の中には同じ徳川家臣のはずの直政の陪臣扱いをされることに不満を抱いて出奔する者もいた(例えば、家康から最初に直政に付けられた井伊谷三人衆の子孫はいずれも彦根藩には残らなかった)。直政が死去すると、跡を継いだ直継(直勝)と付人の対立や付人同士の対立などで藩政は混乱し、家康は家臣を統制しきれない直継を当主としての器量がないと判断して、病弱を名目に藩主の差替を図ったと考えられている。直孝の下で藩政の混乱は収拾され、井伊家中に残った付人は彦根藩の重臣層を形成することになる[1]

直孝は幕閣の中枢としての活躍を認められ、元和元年・元和3年(1617年)・寛永10年(1633年)の3度にわたりそれぞれ5万石の加増がなされた。よって30万石の大封を得る大大名となった。さらに幕府領の城付米預かりとして5万俵(知行高換算5万石)を付与され、35万石の格式を得るに至った。

彦根藩井伊家は幕閣の中枢を成し、酒井雅楽頭家本多家など譜代有力大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高であった。江戸城内の伺候席会津松平家高松松平家と共に将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった「溜間」である[2]。また、直興直幸直亮直弼と4代5度(直興が2度就任。直孝・直澄が大老になったかどうかは諸説ある。詳細は大政参与の項を参照)の大老職に就いた。文字通り譜代筆頭と言えよう。

歴代藩主の中で最も有名なのが、幕末に藩主となった直弼である。嘉永3年(1850年)、兄直亮の死去により藩主となった。13代将軍徳川家定将軍継嗣問題南紀派に属し、一橋慶喜一橋派と対立し徳川家茂の14代将軍就任に貢献する。安政5年(1858年)に大老に就き、勅許を得ず日米修好通商条約に調印、これを口実として詰問に出た旧一橋派要人を隠居させ、併せて言論人への死罪等を含む安政の大獄といわれる強権の発動を行った。結果、反発を招き、万延元年(1860年)に桜田門外の変水戸藩浪士らに暗殺された。同年、藩主に就いた次男の直憲は、文久2年(1862年)に直弼の罪を問われ10万石を減封された。

元治元年(1864年)、禁門の変での功により旧領のうち3万石を回復する。また天誅組の変天狗党の乱長州征討にも参戦し、幕府の軍事活動に協力した。しかし長州との戦いでは旧式の軍制・装備などが災いし大敗した。この時点では幕府内では旧一橋派が主導権を持っており、桜田門外の変以降の彦根藩への報われない扱いを彼らの報復と意識したことが、大政奉還以降の薩長新政府支持へ繋がったともいわれている。

慶応3年(1867年)、大政奉還後は譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させた。翌慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、家老岡本半介は旧幕府軍と共に大坂城に詰めたが、藩兵の主力は東寺近くにある四塚や大津で薩長の後方支援にあたり、大垣への出兵に際しては先鋒となった。戊辰戦争では明治政府に加わって小山本宮など各地を転戦、近藤勇の捕縛にもあたった。戦功により賞典禄2万石を朝廷から拝領している。

明治4年(1871年)、廃藩置県により彦根県となった。後、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入された。

明治17年(1884年)、井伊家は伯爵となり華族に列した。

藩邸および江戸での菩提寺

慶応年間の江戸藩邸の所在は桜田門外に上屋敷、赤坂喰違に中屋敷、八丁堀千駄ヶ谷の2か所に下屋敷があった。また京都河原町三条下がるに京都藩邸大坂過書町に大坂藩邸蔵屋敷があった。

なお、江戸で藩主や藩士が死去した際に使用する菩提寺世田谷豪徳寺である。

歴代藩主

井伊家
譜代 18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石(1600年 - 1871年)
  1. 直政 18万石
  2. 直継 →安中藩へ (歴代に数えない場合も多い)。
  3. 直孝 15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)
  4. 直澄
  5. 直興
  6. 直通
  7. 直恒
  8. 直治のち直該 4代・直興が再封
  9. 直惟
  10. 直定
  11. 直禔
  12. 直定
  13. 直幸
  14. 直中
  15. 直亮
  16. 直弼
  17. 直憲 30万石→20万石→23万石

諸説ある歴代の数え方

『新修彦根市史2巻 通史編近世』(2008年)66頁では、井伊直継を2代藩主としている。しかし、直継は安中藩初代であることから、それまで慣習的に彦根藩主には数えてこなかった。そのため、彦根城博物館では、「当主」という表現を使い、直継を数えない代数を使っている(例;井伊直弼 13代当主)[3]

彦根新田藩

彦根新田藩(ひこねしんでんはん)は、江戸時代中期の正徳4年(1714年)より享保19年(1734年)まで存した彦根藩の支藩である。直興の十四男・直定が1万石を分与され立藩した。享保17年(1732年)、直定は奏者番に就任している。直定が兄で8代藩主の直惟の養嗣子となったため廃藩となった。直定はその後、彦根藩の9代・11代(再封)藩主となっている。

家臣

  • 実線は実子、点線は養子、太字は当主。

幕末の領地

上記のほか、明治維新後に千島国択捉郡および日高国沙流郡の一部を管轄した。また、蒲生郡7村、神崎郡1村(以上は大津県に編入)、愛知郡21村(うち11村を大津県に編入)、坂田郡5村、浅井郡24村(うち19村を朝日山藩に編入)、伊香郡13村(大津県に編入)の幕府領を預かり、他の藩・県に編入された村以外は本藩に編入された。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 小宮山敏和「井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位」および「近世初期における譜代大名〈家中〉の成立」(所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5
  2. ^ 深井雅海『江戸城-本丸御殿と江戸幕府』(中公新書 2008年)P24
  3. ^ 井伊家系図”. 彦根城博物館. 2016年11月10日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
近江国
行政区の変遷
1600年 - 1871年 (彦根藩→彦根県)
次代
長浜県