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== 来歴 ==
== 来歴 ==
高校時代、陸上競技と[[アメリカンフットボール]]の選手として注目され、北東ミズーリ州立大学(現[[トルーマン州立大学]])へスポーツ奨学生として入学する。その後、[[アメリカ海兵隊]]に入隊し、[[サンディエゴ]]の基地でボクシングと出会う。除隊後、[[ジョー・フレージャー]]のスパーリングパートナーを務めながら、[[1967年]]11月14日、プロデビュー。
高校時代、陸上競技と[[アメリカンフットボール]]の選手として注目され、北東ミズーリ州立大学(現[[トルーマン州立大学]])へスポーツ奨学生として入学する。その後、[[アメリカ海兵隊]]に入隊し、[[サンディエゴ]]の基地でボクシングと出会う。除隊後、[[ジョー・フレージャー]]のスパーリングパートナーを務めながら、[[1967年]]11月14日、プロデビュー。
1968年2月6日HAROLD DUTRAに3回TKO勝ち。おそらく現存する最初のノートンのプロ試合。ノートンもダウンをし顔面からダイブして体を起こしたところ平衡中枢に来てたようで体を起こしていられず背中からキャンバスに落ちている。

[[1973年]]3月31日、サンディエゴで元世界ヘビー級王者[[モハメド・アリ]]と対戦。戦前は無謀なマッチメイクと評されていたが、12ラウンド判定勝ちの番狂わせで北米ヘビー級タイトルを獲得。アリは第2Rにノートンのパンチを受けて顎を骨折し、ノートンは「アリの顎を砕いた男」として名を馳せる。
[[1973年]]3月31日、サンディエゴで元世界ヘビー級王者[[モハメド・アリ]]と対戦。戦前は無謀なマッチメイクと評されていたが、12ラウンド判定勝ちの番狂わせで北米ヘビー級タイトルを獲得。アリは第2Rにノートンのパンチを受けて顎を骨折し、ノートンは「アリの顎を砕いた男」として名を馳せる。



2020年4月20日 (月) 10:17時点における版

ケン・ノートン
2010年6月13日撮影
基本情報
本名 ケネス・ハワード・ノートン
階級 ヘビー級
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 (1943-08-09) 1943年8月9日
出身地 イリノイ州モーガン郡ジャクソンビル
死没日 (2013-09-18) 2013年9月18日(70歳没)
死没地 ネバダ州ラスベガス
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 50
勝ち 42
KO勝ち 33
敗け 7
引き分け 1
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ケン・ノートンこと、ケネス・ハワード・ノートンKenneth Howard Norton1943年8月9日 - 2013年9月18日)は、アメリカ合衆国男性プロボクサーイリノイ州ジャクソンビル出身。

プロボクシング史上初にして唯一“世界タイトルマッチで一度も勝利したことが無い世界王者”。その強打でモハメド・アリの顎を割った経験を持つ。ヘビー級には珍しくボディ攻撃のできる実力派だったが、ビッグマッチにおける僅差の判定負けなど不運な印象を残した。筋骨隆々とした肉体とハンサムな風貌から、俳優としてTVドラマや映画に出演している(「マンディンゴ」「ドラム」)。また、「ロッキー」でアポロ・クリード役を演じる予定だったが、都合によりカール・ウェザースに変更となった。

息子のケン・ノートン・ジュニアスーパーボウルを3年連続制覇した元NFL選手。

来歴

高校時代、陸上競技とアメリカンフットボールの選手として注目され、北東ミズーリ州立大学(現トルーマン州立大学)へスポーツ奨学生として入学する。その後、アメリカ海兵隊に入隊し、サンディエゴの基地でボクシングと出会う。除隊後、ジョー・フレージャーのスパーリングパートナーを務めながら、1967年11月14日、プロデビュー。 1968年2月6日HAROLD DUTRAに3回TKO勝ち。おそらく現存する最初のノートンのプロ試合。ノートンもダウンをし顔面からダイブして体を起こしたところ平衡中枢に来てたようで体を起こしていられず背中からキャンバスに落ちている。 1973年3月31日、サンディエゴで元世界ヘビー級王者モハメド・アリと対戦。戦前は無謀なマッチメイクと評されていたが、12ラウンド判定勝ちの番狂わせで北米ヘビー級タイトルを獲得。アリは第2Rにノートンのパンチを受けて顎を骨折し、ノートンは「アリの顎を砕いた男」として名を馳せる。

1973年9月10日、モハメド・アリとの再戦に臨むも、僅差の12ラウンド判定負け。

1974年3月26日、ベネズエラカラカスジョージ・フォアマンの持つWBA・WBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、フォアマンの強打に為すすべなくダウンし、2ラウンドKO負け。

1976年9月28日、ニューヨークヤンキー・スタジアムにおいてモハメド・アリの持つWBA・WBC世界ヘビー級王座に挑戦。序盤から優位に試合を進め、最終15R終了後には勝利を確信していたが、ラウンドシステムの判定で0-3の判定負けを喫する。第2戦に続き、この判定結果も物議を醸した(アリとの計3戦は、ノートンの1勝2敗となった)。

1977年11月15日、ジミー・ヤングと世界ヘビー級王座挑戦者決定戦で対戦し、僅差の15ラウンド判定勝ち。

1978年3月、この年の2月15日にアリとの世界ヘビー級タイトル戦で判定勝ちして世界ヘビー級王座を獲得したレオン・スピンクスが初防衛戦でWBCが指定したノートンとの対戦を拒否してアリとの再戦を選んだため、スピンクスから王座を剥奪したWBCによって世界ヘビー級チャンピオンに認定される

1978年6月10日、ネバダ州ラスベガスシーザーズ・パレスで初防衛戦にラリー・ホームズと対戦。1ポイント差の15ラウンド判定負け(143-142、142-143、142-143)を喫し、王座から陥落した。

1979年3月23日、アーニー・シェーバースとWBC世界ヘビー級王座挑戦者決定戦で対戦、1ラウンドKO負け。

1981年5月11日、ニューヨークでジェリー・クーニーと対戦し、1ラウンドKO負け、引退。

1986年、自動車運転中に自損事故を起こし、頭がい骨骨折の重傷を負う。事故前後の数年間の記憶を失い、歩行や発声にハンディキャップを抱える。

2013年9月18日、ネバダ州ラスベガス近郊にて死去[1]。70歳没。

戦績

  • プロボクシング: 50戦 42勝 (33KO) 7敗 1分

脚注

関連項目

外部リンク

空位
前タイトル保持者
レオン・スピンクス
WBC世界ヘビー級王者

1978年3月29日(認定) - 1978年6月9日

次王者
ラリー・ホームズ