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こののち住友銀からの様々な支援のほか、全国の相銀59行から総額6億7千万円の資金援助も受け、膨大な不良債権の処理にあたった<ref name="sanninn740">『山陰合同銀行五十年史』p.740</ref>。また同時に組織風土の改革に取り組み、業容の伸長を希求した<ref name="nihonn295">『日本地方金融史』p.295</ref>。 |
こののち住友銀からの様々な支援のほか、全国の相銀59行から総額6億7千万円の資金援助も受け、膨大な不良債権の処理にあたった<ref name="sanninn740">『山陰合同銀行五十年史』p.740</ref>。また同時に組織風土の改革に取り組み、業容の伸長を希求した<ref name="nihonn295">『日本地方金融史』p.295</ref>。 |
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同行は[[住友銀行]]出身の柴田太郎社長時代に積極経営で一定の収益をあげてきたが、積極経営が裏目となり、融資先の日本フエラス工業の倒産などで不良債権が増加した。また、預貸金の大半が本店所在地の鳥取県外に占められたため資金調達コストが他行より高かった。そのため、営業の基盤を鳥取県に移そうとしたが、[[山陰合同銀行]]と[[鳥取銀行]]の狭間で苦戦していた。[[1989年]]4月、普通銀行転換、ふそう銀行に商号変更。柏瀬宏社長の |
同行は[[住友銀行]]出身の柴田太郎社長時代に積極経営で一定の収益をあげてきたが、積極経営が裏目となり、融資先の日本フエラス工業の倒産などで不良債権が増加した。また、預貸金の大半が本店所在地の鳥取県外に占められたため資金調達コストが他行より高かった。そのため、営業の基盤を鳥取県内に移そうとしたが、[[山陰合同銀行]]と[[鳥取銀行]]の狭間で苦戦していた。[[1989年]]4月、普通銀行転換、ふそう銀行に商号変更。柏瀬宏社長の下で負の遺産の整理を進めた。[[1990年]]9月、[[住友銀行]]が[[山陰合同銀行]]に合併を申し入れ<ref name="nihonn295" />、[[1991年]]4月、同行に吸収合併された。この合併は、金融自由化が進む中で将来性が乏しいふそう銀行が将来負担になることを見越した[[住友銀行]]の経営判断による。また、合併相手が[[山陰合同銀行]]となったのは、本店所在地が同じ[[鳥取銀行]]が[[三和銀行]]の系列行であったからである。柏瀬社長は「広域的な店舗展開を図ってきたが、収益を上げるのは難しかった。将来を展望するとふそうに力のあるうちに合併することがプラスと判断した」と述べている。 |
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== 合併後 == |
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合併発表の時点でふそう銀行は57店舗を有し、本店所在地の鳥取県は27店舗のみで、岡山県に12店舗、島根県に9店舗、兵庫県に7店舗と広域的な店舗展開であった。<ref>『週刊金融財政事情』1990年11月26日号</ref>。合併による店名変更は29店舗。 |
合併発表の時点でふそう銀行は57店舗を有し、本店所在地の鳥取県は27店舗のみで、岡山県に12店舗、島根県に9店舗、兵庫県に7店舗と広域的な店舗展開であった。<ref>『週刊金融財政事情』1990年11月26日号</ref>。合併による店名変更は29店舗。 |
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[[山陰合同銀行]]がふそう銀行を吸収合併することによって、鳥取県内の預金残高、貸出金残高が大幅に上昇することから、公正取引委員会からの指導により、合併後、他行に旧ふそう銀行店舗の営業譲渡を行った。[[鳥取銀行]]へは[[1991年]]9月に田園町、御来屋支店、11月に三朝東支店の |
[[山陰合同銀行]]がふそう銀行を吸収合併することによって、同行の鳥取県内の預金残高、貸出金残高のシェアが大幅に上昇することから、公正取引委員会からの指導により、合併後、他行に旧ふそう銀行店舗の営業譲渡を行った。[[鳥取銀行]]へは[[1991年]]9月に田園町、御来屋支店、11月に三朝東支店の3店舗の営業を譲渡し、同行は田園町、名和、三朝支店として譲り受けた<ref>「山陰合同銀行が鳥取銀行に3支店を譲渡 寡占化解消へ」『読売新聞』大阪本社朝刊 1991年7月23日</ref>。[[住友銀行]]へは[[1991年]]2月に鳥取駅前、パープルタウン、日野橋東、安来中央支店、4月に郡家駅前、智頭東、境中央、安来中央支店、10月に青谷駅前、江府本町、平田中央支店の11店舗の営業を譲渡し、同行は岡山支店の出張所として譲り受け、半年程度営業した後、首都圏への店舗設置のための配置転換の代替として廃止した<ref>「山陰合銀 3支店を10月に住銀に譲渡 合併後の案件処理委一段落」『日本経済新聞』1992年8月5日</ref>。 |
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旧本店営業部は、ふそう営業部([[1994年]]4月鳥取中央営業部に店名変更)として存続したが、[[1997年]]11月鳥取支店(統合後鳥取営業部に店名変更)に統合、鳥取営業部は[[1999年]]11月旧本店営業部跡地に新築移転された。また、1990年代後半から2000年代中盤まで存在したアミィ御弓町、行徳、湖山北、倉吉シティ、米子シティは、ふそう銀店舗跡に設置されたATMコーナーのことである。 |
旧本店営業部は、ふそう営業部([[1994年]]4月鳥取中央営業部に店名変更)として存続したが、[[1997年]]11月鳥取支店(統合後鳥取営業部に店名変更)に統合、鳥取営業部は[[1999年]]11月旧本店営業部跡地に新築移転された。また、1990年代後半から2000年代中盤まで存在したアミィ御弓町、行徳、湖山北、倉吉シティ、米子シティは、旧ふそう銀店舗跡地に設置されたATMコーナーのことである。 |
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== 情報処理システム == |
== 情報処理システム == |
2020年5月6日 (水) 14:29時点における版
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
![]() 鳥取県鳥取市栄町403番地 |
設立 | 1942年 |
業種 | 銀行業 |
金融機関コード | 0563 |
事業内容 | 普通銀行業務 |
資本金 | 24億円 |
決算期 | 3月31日 |
ふそう銀行のデータ | |
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店舗数 | 57店 |
貸出金残高 | 3,776億52百万円 |
預金残高 | 4,147億28百万円 |
特記事項: 1990年3月31日時点での指標。 |
ふそう銀行(ふそうぎんこう)は、鳥取県鳥取市に本店を置いていた第二地方銀行である。 1991年4月に山陰合同銀行に吸収合併された。
旧住友銀行の親密第二地銀であった。
概要
1942年、共済無尽と相愛無尽の合併によって鳥取無尽として発足。県当局や社内では鳥取市に本店を設ける声が大勢を占めたが、当初本店は倉吉町(現:倉吉市)に置き、1944年に鳥取市に移転した。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い扶桑相互銀行に商号を変更した。
1958年頃、機械メーカーに対する融資が不良債権化したことや本店の新築移転に伴う過剰投資から経営危機に陥った。そこで関西相互銀行協会において扶桑相銀の再建策が検討されるが、同協会内での議論がまとまらず、住友銀へ処理が持ち込まれ、同年11月、元同行本店支配人が扶桑相銀社長に就任した[1]。
以後、経営陣は、住友銀行から送り込まれ、筆頭株主は住友銀行が主取引銀行の三洋電機、第2位も同様の松下興産という具合に、住友銀行色が濃く最後の社長の柏瀬宏社長も住友銀行出身。
こののち住友銀からの様々な支援のほか、全国の相銀59行から総額6億7千万円の資金援助も受け、膨大な不良債権の処理にあたった[1]。また同時に組織風土の改革に取り組み、業容の伸長を希求した[2]。
同行は住友銀行出身の柴田太郎社長時代に積極経営で一定の収益をあげてきたが、積極経営が裏目となり、融資先の日本フエラス工業の倒産などで不良債権が増加した。また、預貸金の大半が本店所在地の鳥取県外に占められたため資金調達コストが他行より高かった。そのため、営業の基盤を鳥取県内に移そうとしたが、山陰合同銀行と鳥取銀行の狭間で苦戦していた。1989年4月、普通銀行転換、ふそう銀行に商号変更。柏瀬宏社長の下で負の遺産の整理を進めた。1990年9月、住友銀行が山陰合同銀行に合併を申し入れ[2]、1991年4月、同行に吸収合併された。この合併は、金融自由化が進む中で将来性が乏しいふそう銀行が将来負担になることを見越した住友銀行の経営判断による。また、合併相手が山陰合同銀行となったのは、本店所在地が同じ鳥取銀行が三和銀行の系列行であったからである。柏瀬社長は「広域的な店舗展開を図ってきたが、収益を上げるのは難しかった。将来を展望するとふそうに力のあるうちに合併することがプラスと判断した」と述べている。
合併後
合併比率は、山陰合同銀行1株に対して、ふそう銀行株3株と完全な吸収合併で、柏瀬宏社長は山陰合同銀行の専務に就任した。
合併発表の時点でふそう銀行は57店舗を有し、本店所在地の鳥取県は27店舗のみで、岡山県に12店舗、島根県に9店舗、兵庫県に7店舗と広域的な店舗展開であった。[3]。合併による店名変更は29店舗。
山陰合同銀行がふそう銀行を吸収合併することによって、同行の鳥取県内の預金残高、貸出金残高のシェアが大幅に上昇することから、公正取引委員会からの指導により、合併後、他行に旧ふそう銀行店舗の営業譲渡を行った。鳥取銀行へは1991年9月に田園町、御来屋支店、11月に三朝東支店の3店舗の営業を譲渡し、同行は田園町、名和、三朝支店として譲り受けた[4]。住友銀行へは1991年2月に鳥取駅前、パープルタウン、日野橋東、安来中央支店、4月に郡家駅前、智頭東、境中央、安来中央支店、10月に青谷駅前、江府本町、平田中央支店の11店舗の営業を譲渡し、同行は岡山支店の出張所として譲り受け、半年程度営業した後、首都圏への店舗設置のための配置転換の代替として廃止した[5]。
旧本店営業部は、ふそう営業部(1994年4月鳥取中央営業部に店名変更)として存続したが、1997年11月鳥取支店(統合後鳥取営業部に店名変更)に統合、鳥取営業部は1999年11月旧本店営業部跡地に新築移転された。また、1990年代後半から2000年代中盤まで存在したアミィ御弓町、行徳、湖山北、倉吉シティ、米子シティは、旧ふそう銀店舗跡地に設置されたATMコーナーのことである。
情報処理システム
1988年10月、関西相互銀行(現:関西みらい銀行)と共に日本情報サービス(現:日本総合研究所)へ運営を委託の上で新大阪に共同センターを設置し、総合オンラインシステムを稼働した。このシステムは住友銀が開発したものに改良を加えたもので、開発工期の短縮やコストの低減が可能となったため、中小金融機関における新しいシステム開発方法として注目を集めた[6]。
山陰合銀とのシステム統合
吸収合併後の1992年1月6日、日本総研に委託処理していた旧ふそう銀の電算データを山陰合銀のホストコンピュータに移し替え、情報処理システムの統合は実現した。これによって勘定系や情報系も一本化され、山陰合銀における業務の合理化も進んだ[7]。
沿革
- 1913年- 共済無尽の前身となる共済金融が設立。
- 1914年- 相愛無尽の前身となる雲拍無尽として島根県に設立。
- 1921年 - 雲拍無尽が鳥取県内に移転し山陰共栄無尽と改称。
- 1926年 - 山陰共栄無尽が相愛無尽に改称。
- 1942年 - 共済無尽と相愛無尽が合併し、鳥取無尽を設立。本店は倉吉町(現:倉吉市)に置く。
- 1951年10月 - 相互銀行転換に伴い扶桑相互銀行に改称。
- 1954年6月 - 本店を鳥取駅前から鳥取市東品治町122番地1(のちの栄町403番地)に新築移転。
- 1970年8月 - 鳥取県収納代理店の認可を受ける。
- 1989年4月 - 普通銀行転換に伴いふそう銀行に改称。
- 1991年4月 - 山陰合同銀行に吸収合併。
脚注
参考文献
- 山陰合同銀行五十年史編纂室編 『山陰合同銀行五十年史』山陰合同銀行、1992年。
- 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514