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「曹欽」の版間の差分

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'''曹 欽'''(そう きん、生年不詳 - [[1461年]]7月)は、[[明]]中期の廷臣。有力宦官だった[[曹吉祥]]の甥で[[養子]]。

'''曹欽'''(そうきん、生年不詳 - [[1461年]]7月)は、[[明]]中期の廷臣。有力宦官だった[[曹吉祥]]の甥で[[養子]]。


叔父の養子になり、権勢を振るっていた。当時の皇帝である[[英宗 (明)|英宗]](天順帝)は曹吉祥と[[石亨]]の専横を憎み、その排除を図っていた。[[1459年]]に石亨が失脚させられると、次を恐れた曹欽は腹心の[[馮益]]と組んでクーデターによる簒奪を画策する。そして1461年7月、クーデターを起こすも[[李賢 (明)|李賢]]らによって鎮圧され、曹欽は井戸に向かって投身自殺し、養父の曹吉祥や腹心の馮益らも連座で死刑となった。
叔父の養子になり、権勢を振るっていた。当時の皇帝である[[英宗 (明)|英宗]](天順帝)は曹吉祥と[[石亨]]の専横を憎み、その排除を図っていた。[[1459年]]に石亨が失脚させられると、次を恐れた曹欽は腹心の[[馮益]]と組んでクーデターによる簒奪を画策する。そして1461年7月、クーデターを起こすも[[李賢 (明)|李賢]]らによって鎮圧され、曹欽は井戸に向かって投身自殺し、養父の曹吉祥や腹心の馮益らも連座で死刑となった。


なお、曹欽はクーデターを起こして簒奪する前、「宦官の息子(養子)では皇帝に即位することは無理か」と馮益に尋ねた。馮益は「[[曹操]]は宦官の息子(養子)でしたが皇帝になりました」と述べた。この故事で曹欽はクーデター決行を決意したといわれている。
なお、曹欽はクーデターを起こして簒奪する前、「宦官の息子(養子)では皇帝に即位することは無理か?」と馮益に尋ねた。馮益は「[[曹操]]は宦官の息子(養子)でしたが皇帝になりました」と述べた。この故事で曹欽はクーデター決行を決意したといわれている。


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2020年6月9日 (火) 12:41時点における版

曹 欽(そう きん、生年不詳 - 1461年7月)は、中期の廷臣。有力宦官だった曹吉祥の甥で養子

叔父の養子になり、権勢を振るっていた。当時の皇帝である英宗(天順帝)は曹吉祥と石亨の専横を憎み、その排除を図っていた。1459年に石亨が失脚させられると、次を恐れた曹欽は腹心の馮益と組んでクーデターによる簒奪を画策する。そして1461年7月、クーデターを起こすも李賢らによって鎮圧され、曹欽は井戸に向かって投身自殺し、養父の曹吉祥や腹心の馮益らも連座で死刑となった。

なお、曹欽はクーデターを起こして簒奪する前、「宦官の息子(養子)では皇帝に即位することは無理か?」と馮益に尋ねた。馮益は「曹操は宦官の息子(養子)でしたが皇帝になりました」と述べた。この故事で曹欽はクーデター決行を決意したといわれている。