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「美濃部亮吉」の版間の差分

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なお、長所については、高度成長期における利益の配分に余裕のあった時代において可能とされた政策である面が強く、また短所についても高度成長が終わり、低成長時代となり税収が低迷したために財政難になった面もある。いずれにせよ、美濃部都政には東京都という豊かな自治体がゆえに実施できた政策が多いという側面が強く、いわゆる60年代~70年代の革新自治体に見られる都市部における余裕の表れでもあり、農村部には革新自治体が広がらず、不況の時代になった際に革新自治体が消滅していった原因を美濃部都政から伺い知ることができる。
なお、長所については、高度成長期における利益の配分に余裕のあった時代において可能とされた政策である面が強く、また短所についても高度成長が終わり、低成長時代となり税収が低迷したために財政難になった面もある。いずれにせよ、美濃部都政には東京都という豊かな自治体がゆえに実施できた政策が多いという側面が強く、いわゆる60年代~70年代の革新自治体に見られる都市部における余裕の表れでもあり、農村部には革新自治体が広がらず、不況の時代になった際に革新自治体が消滅していった原因を美濃部都政から伺い知ることができる。


対南北朝鮮、在日韓国・朝鮮人の関連では全国の都道府県の中で先駆けて朝鮮総連など、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の関連施設の固定資産税を免税にしているほか、[[朝鮮大学校]]を各種学校として認可している。これらについては、在日朝鮮人の生活権のためという主張もある。ただ、美濃部は都市外交の一環を名目に[[1971年]]に、現職知事としては唯一の<!--- 知事としての訪問かそれとも1971年に現職知事として訪問か。文章が曖昧--->北朝鮮訪問をし、その際に[[金日成]]と面会を果たしている。ここからすると、北朝鮮との間にパイプがあったことは事実である。その会談において、美濃部は、
対南北朝鮮、在日韓国・朝鮮人の関連では全国の都道府県の中で先駆けて朝鮮総連など、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の関連施設の固定資産税を免税にしているほか、[[朝鮮大学校 (日本)|朝鮮大学校]]を各種学校として認可している。これらについては、在日朝鮮人の生活権のためという主張もある。ただ、美濃部は都市外交の一環を名目に[[1971年]]に、現職知事としては唯一の<!--- 知事としての訪問かそれとも1971年に現職知事として訪問か。文章が曖昧--->北朝鮮訪問をし、その際に[[金日成]]と面会を果たしている。ここからすると、北朝鮮との間にパイプがあったことは事実である。その会談において、美濃部は、


'''「私は1925年に大学を卒業して以来約40余年間マルクス経済学を勉強してまいりました。それ故に私は社会主義者であり、社会主義の実現を理想とする人間です。金日成元帥がなされたような活動は出来ませんでしたが、日本国内で私のなし得ることはやりました。・・このような立場にたっている私としては、貴国で進められている社会主義建設の早いテンポには非常に尊敬の念を抱いてきました」'''
'''「私は1925年に大学を卒業して以来約40余年間マルクス経済学を勉強してまいりました。それ故に私は社会主義者であり、社会主義の実現を理想とする人間です。金日成元帥がなされたような活動は出来ませんでしたが、日本国内で私のなし得ることはやりました。・・このような立場にたっている私としては、貴国で進められている社会主義建設の早いテンポには非常に尊敬の念を抱いてきました」'''

2006年9月29日 (金) 16:18時点における版

美濃部 亮吉みのべ りょうきち1904年2月5日 - 1984年12月24日)は、日本の経済学者、政治家である。元東京都知事。、元参議院議員全国区選出)。

概要

東京高等師範付属二高を経て東京帝国大学卒業。美濃部達吉・多美子夫妻の長男として東京に生まれた。父・達吉は天皇機関説で知られる憲法学者で、母・多美子は数学者教育者・政治家として活躍した菊池大麓の長女。したがって亮吉は箕作阮甫の玄孫にあたる。

第二高等学校から東京帝国大学経済学部に進み、マルクス経済学者の大内兵衛に師事し、後期資本主義の危機的状況の諸現象なかんずくインフレーションを研究した。助手となるが、マルクス主義と処世の両立を安易に信じているような態度で挨拶に行ったことが反マルクス派の河合栄治郎の怒りを買い、母校の経済学部に講師として残ることが不可能になる。そのため法政大学経済学部に転出し、以後マルクス経済学者として教鞭を振るう。

日本社会党を支持基盤とする革新都知事として知られ、1967年-1979年の12年間(3期)知事をつとめた。美濃部亮吉の政治的手腕は母方の祖父・菊池大麓から、リベラルな思想は父・美濃部達吉から受け継がれたといえる。

政治家としての長所としては、老人医療費無料化、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策で先進的と言える施策を次々打ち出し、東都政の時代において取り残されていた課題へ対応した点が挙げられる。

短所としては、東京都を当時前代未聞の財政難に転落させた事で、後年「戦後都政の暗黒時代」と批判される事にもなった。その要因の一つとしては、社共を支持基盤としていたため、労働組合との関係から、都職員の人件費が聖域化し、全く手をつけることができず、年を追う毎に人件費が膨らんでいったことが指摘されている。

公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出し、事実、美濃部の都知事就任後に東京都は競輪・競馬・オートレースの全ての事業から撤退している。これについては本人がギャンブル嫌いであったこと、主婦層をターゲットとした票稼ぎなどが理由として挙げられている。この政策に反対するものとしては、後楽園競輪場は「競輪のメッカ」と呼ばれたほどの集客と売上、知名度を誇った競輪場であったため、この競輪場を美濃部が休止したことが、後々に至って日本の競輪、さらには近代オリンピックの競技であるトラック系自転車競技の発展・強化に少なからぬ阻害を与えたというものである。これに対し、教育地区を区の上層部自ら標榜する文京区などでは、同区内にあった「後楽園競輪場を潰した知事」という印象が強く現在でもギャンブル廃止論を支持するものは少なくない。都財政再建と三宅島復興資金確保を理由に石原慎太郎都知事が提唱している都営後楽園競輪(別称「東京ドーム競輪」)再開の反対運動を展開している人々を中心に、現在でも当時を懐かしむ発言をする者がいる。また、都が払い下げた公営ギャンブル施設について、運営状況が赤字のものが多く、結果として都財政にはマイナスにはなっていないとの指摘がある。

外環道、中央環状線での道路開通について、道路工事反対の住民運動の側に立った政策を実施したことが結果として、東京の道路整備が大きく遅れ(外環や中央環状線の工事凍結等)、慢性渋滞とそれに伴う排気ガス公害を招き、かつ地域エゴを増長させたとする意見がある。これに対し、地域住民の公害被害や当時の公害に対する防止設備が整っていないことを考えると、地域住民の立場に立ったことで公害被害を守ったとして評価する意見もある。いずれにせよ、一人の人間が反対すれば橋をかけない信条の「橋の哲学」と呼ばれる住民の一人ひとりからの説得を重視する美濃部の政治スタンスであると言える。

なお、長所については、高度成長期における利益の配分に余裕のあった時代において可能とされた政策である面が強く、また短所についても高度成長が終わり、低成長時代となり税収が低迷したために財政難になった面もある。いずれにせよ、美濃部都政には東京都という豊かな自治体がゆえに実施できた政策が多いという側面が強く、いわゆる60年代~70年代の革新自治体に見られる都市部における余裕の表れでもあり、農村部には革新自治体が広がらず、不況の時代になった際に革新自治体が消滅していった原因を美濃部都政から伺い知ることができる。

対南北朝鮮、在日韓国・朝鮮人の関連では全国の都道府県の中で先駆けて朝鮮総連など、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の関連施設の固定資産税を免税にしているほか、朝鮮大学校を各種学校として認可している。これらについては、在日朝鮮人の生活権のためという主張もある。ただ、美濃部は都市外交の一環を名目に1971年に、現職知事としては唯一の北朝鮮訪問をし、その際に金日成と面会を果たしている。ここからすると、北朝鮮との間にパイプがあったことは事実である。その会談において、美濃部は、

「私は1925年に大学を卒業して以来約40余年間マルクス経済学を勉強してまいりました。それ故に私は社会主義者であり、社会主義の実現を理想とする人間です。金日成元帥がなされたような活動は出来ませんでしたが、日本国内で私のなし得ることはやりました。・・このような立場にたっている私としては、貴国で進められている社会主義建設の早いテンポには非常に尊敬の念を抱いてきました」

と発言した。この発言からすると、スタンスとしては北朝鮮を支持するものであると言える(ただし、北朝鮮を訪問した日本の政治家はリップサービスとしてこの種の発言を求められることが少なくないため、その点を考慮する必要はある。飛鳥田一雄の項目を参照)。また、これに関連して、最大の支持基盤が北朝鮮との繋がりが深い日本社会党であったため、都内でのパチンコ遊技場や飲食店の設置について、美濃部在職中においては北朝鮮資本が関係するものは比較的スムーズに営業開始に至ったものが多かったのに対し、一方で特に韓国系資本の関わるものについては各種許認可の遅延など様々な妨害が行われたとの声が民団系の立場から主張されている。

革新知事の象徴としての側面が強いが、同じ革新系でも共産党との関係は必ずしも上手くは行っていなかった。1975年の3選の際には部落解放同盟を巡って、支持基盤の日本社会党日本共産党の間で対立が起こるなどしていた。社共対立を理由に一時美濃部は不出馬を表明していたが、石原慎太郎の出馬によるファシズムの否定を阻止するという理由付けで3戦出馬に踏み切ったことに対する反発が大きかった。(一説には、美濃部自身は最初から3選を考えていたが、社共対立に頭を痛めていたため、社共の自身への支持を確実なものにするために石原をネタにしたとの指摘がある。)社会党系列の知事であったために共産党は与党でありながら知事の出した議案に反対することが多く、有働正治などは「革新知事と呼ぶに値しない」と批判をした。そのため議会対策も兼ねて任期途中で公明党との間で政策協定を結ぶなどし共産党を牽制するなどした。

知事退任後は社会党東京都連などの推薦を受けて参議院議員に転進。中山千夏の率いる「一の会」に所属したが、病もあり目立った活動がないまま、任期途中の1984年12月、自宅で死去した。

略歴

知事時代の施策

著書

  • 『独裁制下のドイツ経済』
  • 『苦悶するデモクラシー』
  • 『都知事12年』

関連項目

外部リンク

先代
東龍太郎
東京都知事
第6-8代: 1967年-1979年
次代
鈴木俊一