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[[File:New Mingshen Theater 20120506a.jpg|thumb|民生劇院]] |
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'''台湾映画'''(たいわんえいが)は、主に[[台湾]]の資本と人材によって製作された[[映画]]のこと。 |
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なお、2000年代にヒットした『海角七号 君想う、国境の南』『セデック・バレ』『KANO 1931海の向こうの甲子園』『大稻埕』はいずれも日本統治時代を舞台としているが、同時代を描いたかつての映画(1975年『梅花』、1987年『稻草人』、1989年『[[悲情城市]]』、1994年『[[多桑/父さん]]』など)に比べ、台湾アイデンティティ([[中華民国]]としてより[[台湾]]としての共同体への帰属意識<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=YVnYVoEncIAC&pg=PA542 新台湾人]『現代アジア事典』長谷川啓之、図書出版 文眞堂, 2009</ref>)を強く持つ層に支持されている。同じ理由で、台湾語や方言を使った映画も増えている。 |
なお、2000年代にヒットした『海角七号 君想う、国境の南』『セデック・バレ』『KANO 1931海の向こうの甲子園』『大稻埕』はいずれも日本統治時代を舞台としているが、同時代を描いたかつての映画(1975年『梅花』、1987年『稻草人』、1989年『[[悲情城市]]』、1994年『[[多桑/父さん]]』など)に比べ、台湾アイデンティティ([[中華民国]]としてより[[台湾]]としての共同体への帰属意識<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=YVnYVoEncIAC&pg=PA542 新台湾人]『現代アジア事典』長谷川啓之、図書出版 文眞堂, 2009</ref>)を強く持つ層に支持されている。同じ理由で、台湾語や方言を使った映画も増えている。 |
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== 日本映画の輸入 == |
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台湾への[[日本映画]]輸出は、[[1969年]]に日本映画の輸入が台湾映画の製作に圧迫を与えるという理由で<ref name="日経産業19840827">{{cite news |title=日本映画、台湾が輸入許可―来月から4作品を公開。 |newspaper=[[日経産業新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1984-8-27 |page=12}}</ref>、事実上輸入禁止措置がとられ<ref name="日経産業19840827"/><ref name="映画時報198401">{{Cite journal|和書|author=|title=台湾へ15年ぶり日本映画輸出決る『砂の器』『二百三高地』など4本|journal=映画時報|issue=1984年1月号|publisher=映画時報社|pages=32}}</ref><ref name="日経産業19950704">{{cite news |title=ステップアップ台湾企業 脱NIESへの道(4) 博新多媒体(メディア事業) |newspaper=[[日経産業新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1995-7-4 |page=2}}</ref>、[[日中国交正常化|日本が中国と国交を回復した]][[1972年]]以来、商売の道も閉ざされ<ref name="朝日19950627">{{cite news |author=馬場秀司・深津純子 |title=揺れる規制(アジア銀幕新事情 映画100年:1) |newspaper=[[朝日新聞]][[夕刊]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1995-6-27 |page=11}}</ref><ref name="キネ旬19861101">{{Cite journal|和書|author=脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]]|year=1986|title=映画・トピック・ジャーナル 台湾映画の超ヒット作が来年東映の一般番線に登場。日本映画の輸出枠をアップされ、両国の興隆はますます盛んに。|journal=[[キネマ旬報]]|issue=1986年11月上旬号|publisher=[[キネマ旬報社]]|pages=166-167}}</ref><ref name="キネ旬19860701">{{Cite journal|和書 |author = 脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・黒井和男 |title = 映画・トピック・ジャーナル 永年の努力と昨年の実績が認められ台湾に年間6本輸出 |journal = キネマ旬報 |issue = 1986年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 169 }}</ref>、[[1973年]]から全面的に禁止された<ref name="映画時報198401"/><ref name="kyoto-u">[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/44553 「日本製映像ソフトの浸透と台湾の国家政策」]羅慧雯,2003年,京都大学学術情報リポジトリ,pp.53–57</ref><ref name="読売19880302">{{cite news |author=木村晃三 |title=〔ジャパネスク新世紀〕第二部(15)愛憎の交錯文化(連載)|newspaper=[[読売新聞]][[夕刊]] |publisher=[[読売新聞社]] |date=1988-3-2 |page=5}}</ref>。[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[日本映画製作者連盟|映連]]会長以下、各映画会社首脳陣の長年の努力が実り<ref name="日経産業19840827"/><ref name="映画時報198401"/><ref name="キネ旬19860701" /><ref name="avj199601">{{Cite journal |和書 |title = アルバムは語る 『小さな代表団』 文・[[日本映画製作者連盟]]・顧問 鈴木進 |journal = AVジャーナル |issue = 1996年1月号 |publisher = 文化通信社 |page = 113 }}</ref>、[[行政院新聞局|台湾行政院新聞局]]から映連に、[[1980年]]の[[金馬奨]]に日本映画の出品要請があり<ref name="映画時報198401"/>、1980年、当時の映連加盟四社から各一本づつ、[[松竹]]『[[砂の器#映画|砂の器]]』、[[東宝]]『[[サンダカン八番娼館 望郷]]』、[[東映]]『[[二百三高地#映画|二百三高地]]』、[[日活]]『[[先生のつうしんぼ]]』の4本が[[金馬奨]]の招待作品として上映された<ref name="朝日19950627"/><ref name="キネ旬19821101">{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画界の動き 映連、9月定例理事会開催 |journal = キネマ旬報 |issue = 1982年11月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 186 }}</ref>。以降は日中関係も懸念され<ref name="キネ旬19861101"/>、濃すぎる日本色を抑えるためか<ref name="読売19880302"/>、台湾の製作者や一部[[ジャーナリスト]]の間で解禁に反対の声もあったが<ref name="映画時報198401"/>、[[1982年]]に岡田映連会長が訪台した際に、宋行政院新聞局局長に「(1980年の)金馬奨に出品した4作品だけでも特別に輸入を解禁してほしい」と要請<ref name="映画時報198401"/>。台湾側の[[外貨]]事情、[[親日|対日感情の好転]]などの背景もあり<ref name="日経産業19840827"/>、これが認められ[[1983年]]12月6日に[[東京会館]]での記者会見で岡田が「台湾が15年ぶりに日本映画輸入の門戸を開いた」と発表し<ref name="映画時報198401"/>、1984年8月、台湾行政院新聞局から正式に日本映画輸入を解禁するとの報道された<ref name="日経産業19840827">{{cite news |title=日本映画、台湾が輸入許可―来月から4作品を公開。 |newspaper=[[日経産業新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1984-8-27 |page=12}}</ref>。これを祝して[[1985年]]2月に[[新宿三丁目イーストビル#新宿東映会館|新宿東映ホール1]]で日本で初めての台湾映画祭が開催された<ref>{{cite journal |和書 |author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1986(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1985年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages = 11頁}}</ref>。復活初年度の1985年は、東映だけ『二百三高地』を『[[魔界転生#映画|魔界転生]]』に入れ替え<ref name="キネ旬19860701" />、他の三社は1980年の金馬奨に出品した同じ作品が[[台北市|台北]]、[[高雄市|高雄]]の映画館で一般公開され<ref name="日経産業19840827"/><ref name="キネ旬19860701" /><ref name="年鑑1985">{{cite journal |和書 |author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1984年版([[映画産業団体連合会]]協賛) |issue = 1984年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages = 10頁 }}</ref><ref>{{Cite news |author = 今村三四夫 |title = 週間点描 年初各種会合盛況 その繁栄全業界に |date = 1984年1月21日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1}}</ref>、日本映画の輸出が復活した<ref name="日経産業19950704"/><ref name="朝日19950627"/><ref name="キネ旬19860701" /><ref name="kyoto-u" /><ref name="年鑑1986">{{cite journal |和書 |author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1984年版(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1985年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages = 4、7頁 }}</ref>。台湾の解禁で主要国で日本映画を上映禁止するのは[[韓国]]だけとなった<ref name="日経産業19840827"/>。これらは大人気となり、現地の業者が群がり大変な騒ぎになった<ref name="日経産業19840827"/><ref name="キネ旬19860701" /><ref name="年鑑1985">{{cite journal |和書 |author = |title = 映画界重要日誌 |journal = 映画年鑑 1984年版([[映画産業団体連合会]]協賛) |issue = 1984年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 | pages = 10頁 }}</ref><ref>{{Cite news |author = 今村三四夫|title = 週間点描年初各種会合盛況その繁栄全業界に|date = 1984年1月21日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1}}</ref>。翌1986年は前年の4本から6本に枠が増え<ref name="キネ旬19861101"/>、増加分は映連加盟四社で抽選があり、抽選に勝った東映と松竹が2本づつになり<ref name="キネ旬19860701"/>、[[角川映画]]は当時映連に加盟していなかったが<ref name="キネ旬19860701"/>、『[[里見八犬伝 (1983年の映画)|里見八犬伝]]』はこの東映の増加枠に入れられ<ref name="キネ旬19860701"/>、1986年9月25日に台湾で公開され大ヒットした<ref name="キネ旬19861101"/>。[[Record China]]は、大ヒットした日本映画の1本として『里見八犬伝』を挙げている<ref name="RecordChina">{{cite news|url=https://www.recordchina.co.jp/b132405-s0-c70-d0044.html|accessdate=2016-04-02|title=許されなかった日本映画が解禁へ、「里見八犬伝」薬師丸ひろ子の訪台に大フィーバー|newspaper=[[Record China]]|date=2016-04-02}}</ref><ref group="注">〔引用者註〕出典の先頭の「2016年4月1日、」は誤植と思われる。1980年の映画祭で出品されたのは二本ではなく四本。</ref>。封切に合わせ、[[薬師丸ひろ子]]や[[松坂慶子]]、[[三船敏郎]]、岡田茂東映社長・映連会長らが訪台し<ref name="キネ旬19861101"/><ref name="読売19880302"/>、台湾でも大人気の薬師丸が熱烈歓迎を受け、大きな騒動になった<ref name="キネ旬19861101"/>。当時台湾では最新の日本とアメリカのビデオが見られる同伴喫茶が大流行しており、台湾のヤングは国際芸能によく通じていたという<ref name="読売19880302"/>。岡田は台湾の映画関係者と輸入に関する取り決め事項の調整を行った<ref name="キネ旬19861101"/>。『[[海角七号 君想う、国境の南]]』の監督・[[魏徳聖]]([[ウェイ・ダーション]])は「『里見八犬伝』は初めて自分で2回チケットを買って観た作品なんですよ。今でもストーリーや登場人物を鮮明に覚えています」などと話している<ref>[http://www.asian-hana.com/2009/09/post-54.html 台湾映画『海角七号/君想う、国境の南』記者会見 - アジアンエンタメ情報]</ref>。 |
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1986年から[[1994年]]10月にかけては、[[行政院新聞局]]が6回の輸入割当本数の告示を行い、合計201本の輸入割当を許可したが、日本映画の[[著作権]]料が跳ね上がり、実際に輸入された日本映画はこの間52本であった<ref name="kyoto-u" />。1994年10月以降は全面的に日本映画の輸入が解禁されている<ref name="朝日19950627"/><ref name="kyoto-u" /><ref name="avj199601"/>。日本映画輸入自由化は、岡田茂映連会長の永年の努力が大きいといわれる<ref name="avj199601"/>。1986年の岡田と台湾の映画関係者との折衝の際に<ref name="キネ旬19861101"/>、台湾側から「日本映画は輸出するのに、台湾の映画は日本ではやってくれないではないか」と不満が出て<ref name="キネ旬19861101"/>、急遽、東映で1987年2月14日から『[[スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説#劇場版|スケバン刑事]]』との併映で公開予定だった[[香港映画]]『蜀山』(『[[蜀山奇傅 天空の剣]]』)を後ろにずらし<ref name="キネ旬19861101"/>、台湾側から要望があった『[[カンフーキッド/好小子]]』をこの枠に入れ、東映洋画系で公開した<ref name="キネ旬19861101"/>。同作は日本の[[日本映画製作者連盟|メジャー映画会社]]の番線に乗った初めての台湾映画である<ref name="キネ旬19861101"/>。また1995年4月に台湾初の[[CATV]]、[[台湾国民党|党営]]の「[[:zh:博新多媒體|博新多媒體]]」(PHTV)が開局の際、これらの交渉で岡田と懇意になった同社社長・廖祥雄からの要請で<ref name="日経産業19950704"/>、東映台([[東映チャンネル]])がディズニー台([[ディズニー・チャンネル]])などと共に四チャンネルの一つに選ばれた<ref name="日経産業19950704"/><ref name="日経19971202">{{cite news |author=遠藤繁|title=映画ビジネス広がるスクリーン(上)『 もののけ姫』100億円ー邦画、世界を舞台。|newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=1997-12-2 |page=13}}</ref><ref name="日経産業19970711">{{cite news |author=|title=香港・台湾で邦画公開、東映、日本に先行も―アジア戦略強化|newspaper=日経産業新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=1997-7-11|page=3}}</ref>。台湾は[[レンタルビデオ]]や[[CATV]]などのメディアの普及が日本より早かった<ref name="日経産業19950704"/>。台湾は1960年代から1970年代に日本映画の興行を禁止していたため<ref name="日経産業19950704"/>、[[台湾人]]には[[ヤクザ映画#東映|東映のヤクザ映画]]が新鮮で人気が高かったという<ref name="日経産業19950704"/>。東映台は三年の供給契約で東映の過去の映画850本とテレビドラマなど供給本数は1600本に上った<ref name="日経19971202"/>。台湾のCATVで最初に放映された日本映画・ドラマは東映作品であった。東映はこれを機にアジア戦略を強化し<ref name="日経19971202"/><ref name="日経産業19970711"/>、日本での二次利用、三次利用が一段落ついた旧作品ビジネスをアジアで広げようと1996年夏に日本で公開されたが[[興行収入#配給収入|配収]]が4億円と振るわなかった<ref name="日経産業19970711"/>『[[That's カンニング! 史上最大の作戦?]]』の主演・[[安室奈美恵]]が1997年にアジアでコンサートを開いて人気を高めたことから香港で同作を上映したり<ref name="日経産業19970711"/>、当時アジアの[[衛星放送]]で日本の[[トレンディドラマ]]が相次いで放送され<ref name="日経産業19970711"/>、『[[Lie lie Lie]]』の出演者である[[豊川悦司]]や[[鈴木保奈美]]らが[[知名度]]を高めていたことから台湾と香港で日本公開に先駆け同作を先行上映するなどしている<ref name="日経産業19970711"/>。 |
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2020年10月2日 (金) 08:54時点における版
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台湾映画(たいわんえいが)は、主に台湾の資本と人材によって製作された映画のこと。
中国語の映画は、それぞれ独自に発展した中国映画、香港映画、台湾映画に分類することができる。台湾映画は、香港映画の流れや中華人民共和国政府による検閲とは一線を画し、独特で急速に変化する台湾の歴史の中で発展した。台湾映画の傾向として、アート映画やミニシアターが多くある。
歴史
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台湾 |
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1900年、高松豊次郎により映画が台湾に紹介されて以来、日本統治時代には数多くの映画が台湾で制作された。1937年に日中戦争が勃発すると、映画産業は活動を妨げられ、1945年まで実質的に作品を供給することができなかった。
国共内戦の終結に伴い中国国民党を支持する中国大陸の映画製作者が台湾へと渡ってきたことで、1949年以降台湾映画は再び発展し始める。この時期に製作された映画は政府によって公認された「国語」(北京官話)によるものだった。政府は、国語を推進することで国家の統一を図ろうとし、方言は制限されたため、台湾語などによる映画は徐々に減少していった。
1960年代は、台湾は近代化の入り口にいた。政府は、経済・産業・教育の発展に重点を置き、1963年には中央電影公司(CMPC, Central Motion Picture Corporation)がメロドラマ“健康写実主義(Health Realism)”を売り出した。この映画ジャンルは、社会経済構造が急速に変化する中で重要だと考えられていた、伝統的な道徳観を養うものとしてとらえられていた。この時期には、伝統的なカンフー映画も恋愛メロドラマと同程度の人気を博していた。瓊瑤はこの時期の映画の基となった恋愛小説の著者として特に有名である。
1975、76年には日本の東映と手を組んで日台合作映画シリーズ『閃電騎士』が公開された。内容はそれぞれ、日本の『仮面ライダー対ショッカー』、『仮面ライダー対じごく大使』、『仮面ライダーV3対デストロン怪人』、『五人ライダー対キングダーク』の台湾リメイク映画である。
この時代の台湾映画は中華民国による検閲、プロパガンダと密接に関係している。
1982年以降
1980年代初期、台湾におけるホームビデオの普及は、映画(フィルム)鑑賞という行動を一般化させた。しかし、台湾の映画産業界は高い娯楽性を有することで知られていた香港映画などの流入という深刻な問題に直面していた。香港映画に対抗するため、CMPCは若い監督の育成に乗り出す。楊徳昌(エドワード・ヤン)、陶徳辰、柯一正、張毅の4人の若く優秀な監督による1982年の映画『光陰的故事』は、台湾映画の若返り、ニューウェーブの始まりとして知られている。
それまでの十数年来のメロドラマやカンフー映画とは対照的に、ニューウェーブ映画は台湾人を写実的で現実的、共感的な描写を特徴とする。これらの映画は、台湾の都市部あるいは地方に住む人の真実の物語を描き出そうとし、しばしばイタリアの新写実主義運動の映画と比較される。ニューウェーブ映画におけるリアリズムの追求は、革新的なストーリー構成によってさらに強化された。例として、従来のクライマックスまでストーリーを構築する手法の放棄が挙げられる。物語はむしろ実生活に基づいたペースで展開されるようになるのである。
実生活を率直に描写するため、ニューウェーブ映画ではこの時代に台湾社会が直面していた重要な課題を克明に調査している。例えば、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は『悲情城市』で、日本統治時代後、中国大陸から移住してきた外省人と本省人の緊張を描いている。また、楊徳昌(エドワード・ヤン)は『台北ストーリー』(青梅竹馬、1985年)、『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994年)で1980年代と1990年代の都市部の若者たちが感じている伝統的な価値観と現代的な実利主義との葛藤を表している。このことによって、この時代の映画は、近現代の台湾の社会経済・政治構造を表した年代記として捉えることができる。
この時代の台湾映画については、台湾ニューシネマも参照のこと。
1990年代以降
1990年代に入ると、ニューウェーブ映画は引き続き台湾を描写しながらも、俗に第2次ニューウェーブと呼ばれるものへと変化していく。
例えば、1994年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の『愛情萬歳』では、台北の高級アパートに住んでいるヤングアダルトたちの孤独と絶望、恋愛模様が描かれている。
また、頼聲川(スタン・ライ)の『楽園のかなたに』(暗戀桃花源、The Peach Blossom Land, 1992年)は、異なる脚本で同じ舞台に立つ2組の俳優のリハーサル中の悲喜劇を描写している。この作品も東京やベルリンの映画祭で高い評価を得た。
李安(アン・リー)は、おそらく第2次ニューウェーブでももっともよく知られた映画監督であろう。彼の初期の作品である『推手』(Pushing Hands, 1991年)、『ウェディング・バンケット』(喜宴、1993年)、『恋人たちの食卓』(飲食男女、1994年)では、現代の家族の世代的、文化的衝突にフォーカスしている。その後の作品である『グリーン・デスティニー』(臥虎藏龍、2000年)では武侠ジャンルを復活させることに成功している。
2000年以降
長い間低迷を続けていた台湾映画界も2010年ごろから好調に転じた。そのきっかけとなったのが2008年の魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督作品『海角七号 君想う、国境の南』で、監督も俳優も無名だったにもかかわらず、台湾映画業界史上、ハリウッド映画の『タイタニック』に次ぐ、歴代2位の興行成績を収めた。その後、同監督の『セデック・バレ』、葉天倫監督の『鶏排英雄』、九把刀(ギデンズ・コー)監督の『あの頃、君を追いかけた』とヒット作が続き、国内だけでなく、中国をはじめ、海外でも好成績を上げている[1]。
近年では、馮凱監督の『陣頭』(2012年)、陳玉勲(チェン・ユーシュン)監督の『祝宴!シェフ』(2013年)、邱瓈寬監督の『大尾鱸鰻』(2013年)、馬志翔(マー・ジーシアン)監督の『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2014年)、葉天倫監督の『大稻埕』(2014年)が3億円以上の興行収入をあげるヒット作となった。
なお、2000年代にヒットした『海角七号 君想う、国境の南』『セデック・バレ』『KANO 1931海の向こうの甲子園』『大稻埕』はいずれも日本統治時代を舞台としているが、同時代を描いたかつての映画(1975年『梅花』、1987年『稻草人』、1989年『悲情城市』、1994年『多桑/父さん』など)に比べ、台湾アイデンティティ(中華民国としてより台湾としての共同体への帰属意識[2])を強く持つ層に支持されている。同じ理由で、台湾語や方言を使った映画も増えている。
脚注
出典
- ^ 奇跡の成長期を迎えた台湾映画暉峻創三、台湾情報誌『交流』2012.2 No.851
- ^ 新台湾人『現代アジア事典』長谷川啓之、図書出版 文眞堂, 2009