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'''菊池 慎之助'''(きくち しんのすけ、[[1866年]][[3月31日]]([[慶応]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[1927年]][[8月22日]])は、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[軍人]]。最終階級は[[陸軍大将]]。 |
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[[水戸藩]]士、戸田道守の子として生れ、菊池敬之進の養子となる。[[1883年]]10月、[[陸軍教導団]][[歩兵]][[大隊]]に入り一等[[軍曹]]を経て、[[1889年]]7月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](旧11期)を卒業し、陸軍[[少尉]]任官。[[1897年]]12月、[[陸軍大学校]](11期)を卒業した。[[日清戦争]]出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校している。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員、[[都督部|東部都督部]][[参謀]]、[[教育総監部]]参謀、[[ドイツ]]・[[ロシア]]駐在、[[第4軍 (日本軍)|第4軍]]管理部長などを歴任。 |
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* 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 |
* 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 |
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* 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 |
* 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 |
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2020年10月11日 (日) 17:07時点における版
菊池 慎之助 | |
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生誕 |
1866年3月31日 常陸国 |
死没 | 1927年8月22日(61歳没) |
所属組織 |
![]() |
軍歴 | 1883 - 1927 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
教育総監 東京警備司令官 軍事参議官 朝鮮軍司令官 第3師団長 歩兵第5旅団長 |
戦闘 |
日清戦争 日露戦争 |
菊池 慎之助(きくち しんのすけ、1866年3月31日(慶応2年2月15日) - 1927年8月22日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
経歴
水戸藩士、戸田道守の子として生れ、菊池敬之進の養子となる。1883年10月、陸軍教導団歩兵大隊に入り一等軍曹を経て、1889年7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業し、陸軍少尉任官。1897年12月、陸軍大学校(11期)を卒業した。日清戦争出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校している。参謀本部員、東部都督部参謀、教育総監部参謀、ドイツ・ロシア駐在、第4軍管理部長などを歴任。
日露戦争では、第4軍副官として出征し、同軍参謀となった。陸軍省副官、第16師団参謀長、陸士生徒隊長などを経て、1913年6月、陸軍少将に進級し、歩兵第5旅団長、人事局長、参謀本部総務部長を歴任。1917年8月、陸軍中将となり、教育総監部本部長、第3師団長、参謀本部次長、朝鮮軍司令官を歴任。1923年8月、陸軍大将となり、軍事参議官、東京警備司令官を経て、教育総監在職中に死去。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 1892年(明治25年)2月3日 - 正八位[1]
- 1917年(大正6年)8月30日 - 従四位[2]
- 1922年(大正11年)12月20日 - 従三位[3]
- 1925年(大正14年)12月28日 - 正三位[4]
- 勲章等
- 1915年(大正4年)11月7日 - 勲二等瑞宝章・大正三四年従軍記章[5]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[6]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[7]
脚注
参考文献
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