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「オショー・ラジニーシ」の版間の差分

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'''バグワン・シュリ・ラジニーシ'''('''Bhagwan Shree Rajneesh'''、和尚ラジニーシ、和尚/オショウ;Osho、本名:モーハン・チャンドラ・ジャイン)、[[1931年]][[12月11日]] - [[1990年]][[1月19日]])は、インドの宗教家、{{仮リンク|ゴッドマン (インド)|en|Godman (India)|label=ゴッドマン}}{{refn|group=†|インドでゴッドマンとは、世俗に関わるやや胡散臭い聖者を意味する{{sfn|杉本|2000|p=252}}。}}{{sfn|Desai|1993|p=133}}{{sfn|Thorpe & Thorpe|2015}}、[[グル]]、神秘思想家。精神指導者という人もいる。1960年代後半にインドで始まり先進資本主義国を中心に広まった[[新宗教]]のラジニーシ・ムーブメント(英:[[:en:Rajneesh movement|Rajneesh movement]]、和尚ラジニーシ・ムーブメント、ラジニーシズムとも)の創始者{{sfn|伊藤|1999|p=13}}{{sfn|石村|1995|p=343}}。死の1年程前に自らの尊称を和尚/オショー(Osho)に変えており、現在はOsho(オショウ)として知られている。
'''バグワン・シュリ・ラジニーシ'''('''Bhagwan Shree Rajneesh'''、和尚ラジニーシ、和尚/オショウ;Osho、本名:モーハン・チャンドラ・ジャイン)、[[1931年]][[12月11日]] - [[1990年]][[1月19日]])は、インドの宗教家、{{仮リンク|ゴッドマン (インド)|en|Godman (India)|label=ゴッドマン}}{{refn|group=†|インドでゴッドマンとは、世俗に関わるやや胡散臭い聖者を意味する{{sfn|杉本|2000|p=252}}。}}{{sfn|Desai|1993|p=133}}{{sfn|Thorpe & Thorpe|2015}}、[[グル]]、神秘思想家。精神指導者という人もいる。1960年代後半にインドで始まり先進資本主義国を中心に広まった[[新宗教]]のラジニーシ・ムーブメント(英:[[:en:Rajneesh movement|Rajneesh movement]]、和尚ラジニーシ・ムーブメント、ラジニーシズムとも)の創始者{{sfn|伊藤|1999|p=13}}{{sfn|石村|1995|p=343}}。死の1年程前に自らの尊称を和尚/オショー(Osho)に変えており、現在はOsho(オショウ)として知られている。


東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等を題材に独自の解釈を加え、魅力的で矛盾のある講話を行った{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、[[タントラ]]的な「悟り」とそこに至る方法を教えた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。外務省専門調査員の足沢一成は、彼の思想はインドの[[ヒンドゥー教]]で伝統的な[[不二一元論]](アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)と同様の構造を持つと評している{{sfn|足沢|2000|p=92}}。ラジニーシ自身は「ブラフマンとアートマンの合一」あるいは「全体と個の合一」という考え方が自分の思想の中心であると断言してはいないし、注がれるべき「エネルギー」が何であり、どこから来るのかということも断言していない{{sfn|足沢|2000|p=87}}。西洋の前衛的な[[セラピー]]と東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや[[瞑想]]法を創始し、精神世界のカリスマ、グル的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた{{sfn|MCCORMACK(a)|2018}}{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。「セックスの第一人者」、「セックス・グル」、「タントラ・マスター」などと称され、教団は「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれた{{sfn|足沢|2000|p=76}}{{sfn|足沢|2000|p=82}}{{sfn|Shepherd|2014}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。また、高級車の[[ロールス・ロイス]]を90台以上所有し「ロールス・ロイスの第一人者」として知られた{{sfn|足沢|2000|p=82}}{{sfn|Shepherd|2014}}。
東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等を題材に独自の解釈を加え、魅力的で矛盾のある講話を行った{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、[[タントラ]]的な「悟り」とそこに至る方法を教えた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。ラジニーシ自身は自身の思想の構造について明言していないが、外務省専門調査員の足沢一成は、インドの[[ヒンドゥー教]]で伝統的な[[不二一元論]](アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)と同様と評している{{sfn|足沢|2000|p=87}}{{sfn|足沢|2000|p=92}}。西洋の前衛的な[[セラピー]]と東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや[[瞑想]]法を創始し、精神世界のカリスマ、グル的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた{{sfn|MCCORMACK(a)|2018}}{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。「セックスの第一人者」、「セックス・グル」、「タントラ・マスター」などと称され、教団は「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれた{{sfn|足沢|2000|p=76}}{{sfn|足沢|2000|p=82}}{{sfn|Shepherd|2014}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。また、高級車の[[ロールス・ロイス]]を90台以上所有し「ロールス・ロイスの第一人者」として知られた{{sfn|足沢|2000|p=82}}{{sfn|Shepherd|2014}}。


インドのアーシュラムはセラピーや瞑想の講座で西洋人に人気だったが、伝統宗教批判、性的な行為を含む活動、信者たちの常識はずれな言動や売春・麻薬取引といった犯罪等により、地元住民の反感を買いトラブルが絶えず、またセラピー等の指導内容には危険なものもあり、自由なセックスの推奨による性病、特に[[淋病]]と[[ヘルペス]]の流行が報告されている{{sfn|Shepherd|2014}}{{sfn|THEPRINT TEAM|2018}}{{sfn|MCCORMACK(c)|2018}}。
インドのアーシュラムはセラピーや瞑想の講座で西洋人に人気だったが、伝統宗教批判、性的な行為を含む活動、信者たちの常識はずれな言動や売春・麻薬取引といった犯罪等により、地元住民の反感を買いトラブルが絶えず、またセラピー等の指導内容には危険なものもあり、自由なセックスの推奨による性病、特に[[淋病]]と[[ヘルペス]]の流行が報告されている{{sfn|Shepherd|2014}}{{sfn|THEPRINT TEAM|2018}}{{sfn|MCCORMACK(c)|2018}}。
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ラジニーシは21歳の時に悟りに至ったという{{sfn|Puttick|2009|p=269}}。彼は独立後の20世紀インドにおいて、最も論争の的になったゴッドマンである{{sfn|Desai|1993|p=133}}。[[霊性]]の本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の[[神秘主義]]的伝統を紹介し、称賛された{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。自らの思想を弟子に講話として語ったが、本は書かなかった。本は信奉者たちが彼の講話やインタビューを編集したもので、ほとんどが1974年から81年の第1期プネー時代のことばである{{sfn|Shepherd|2014}}。現在入手可能な講話集だけで200冊以上、3500時間以上の録画ビデオがある。魅力的な語り手で、特注の白いロールス・ロイスで登場し特別感を出すなど場の演出にも優れ、多くの人を魅了した{{sfn|足沢|2000|pp=85-86}}。
ラジニーシは21歳の時に悟りに至ったという{{sfn|Puttick|2009|p=269}}。彼は独立後の20世紀インドにおいて、最も論争の的になったゴッドマンである{{sfn|Desai|1993|p=133}}。[[霊性]]の本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の[[神秘主義]]的伝統を紹介し、称賛された{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。自らの思想を弟子に講話として語ったが、本は書かなかった。本は信奉者たちが彼の講話やインタビューを編集したもので、ほとんどが1974年から81年の第1期プネー時代のことばである{{sfn|Shepherd|2014}}。現在入手可能な講話集だけで200冊以上、3500時間以上の録画ビデオがある。魅力的な語り手で、特注の白いロールス・ロイスで登場し特別感を出すなど場の演出にも優れ、多くの人を魅了した{{sfn|足沢|2000|pp=85-86}}。


瞑想に入るための準備としての多様なセラピー、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導し、時にセラピーは全裸に近い姿で行われ性行為も含んでいたことが広く知られ、「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれた{{sfn|足沢|2000|p=76}}。その思想は、多くの近現代のインドの聖者と同様に、[[ヒンドゥー教]]で伝統的な[[不二一元論]]と同じ構造を持つ{{sfn|足沢|2000|p=92}}{{sfn|山下|2005|p=384}}。
瞑想に入るための準備としての多様なセラピー、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導し、時にセラピーは全裸に近い姿で行われ性行為も含んでいたことが広く知られ、「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれた{{sfn|足沢|2000|p=76}}。その思想は、多くの近現代のインドの聖者と同様に、[[ヒンドゥー教]]で伝統的な[[不二一元論]]と同じ構造を持つと評される{{sfn|足沢|2000|p=92}}{{sfn|山下|2005|p=384}}。ラジニーシ自身は「ブラフマンとアートマンの合一」あるいは「全体と個の合一」という考え方が自分の思想の中心であると断言しておらず、注がれるべき「エネルギー」が何であり、どこから来るのかということも断言していないが、足沢一成は、彼の断定を避ける態度は「自然であること」の重視と関連があると述べている{{sfn|足沢|2000|pp=87-88}}。


「心の自発性にまかせて自然に生きる」「個人の革命によって世界が変わる。そのためには自分自身が目覚めなければならない」と解き、悟りへの道のためなら「何をやってもよい」と標榜し、善悪は人工的に作られた幻想であると主張した{{sfn|Shepherd|2014}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。「自分を愛する」「瞬間を生きる」といった教えは[[ニューエイジ]]に似ており、[[人間性心理学]]を特徴とする[[ヒューマンポテンシャル運動]]の商業セラピー文化との関連が強い{{sfn|Shepherd|2014}}。ヒューマンポテンシャル運動の中心地[[エサレン研究所]]と交流があり、{{仮リンク|フィドホーン財団|en|Findhorn Foundation}}の書籍はラジニーシの活動や講話集を好意的にレビューし、普及に寄与した{{sfn|Shepherd|2014}}。西洋の心理学と東洋の神秘主義の融合は、ヒューマンポテンシャル運動の中心テーマだったが、これはラジニーシが最も強みとするところだった{{sfn|MCCORMACK(c)|2018}}。弟子には高い教育を受けた外国人が多く、インドからの脱出、アメリカからの脱出の際に、2度も弟子たちに何も告げずに逃げ、彼らを放棄しているが、それでも2000人を超える弟子が常時彼のもとに集まっていた{{sfn|足沢|2000|pp=91-92}}。
「心の自発性にまかせて自然に生きる」「個人の革命によって世界が変わる。そのためには自分自身が目覚めなければならない」と解き、悟りへの道のためなら「何をやってもよい」と標榜し、善悪は人工的に作られた幻想であると主張した{{sfn|Shepherd|2014}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。「自分を愛する」「瞬間を生きる」といった教えは[[ニューエイジ]]に似ており、[[人間性心理学]]を特徴とする[[ヒューマンポテンシャル運動]]の商業セラピー文化との関連が強い{{sfn|Shepherd|2014}}。ヒューマンポテンシャル運動の中心地[[エサレン研究所]]と交流があり、{{仮リンク|フィドホーン財団|en|Findhorn Foundation}}の書籍はラジニーシの活動や講話集を好意的にレビューし、普及に寄与した{{sfn|Shepherd|2014}}。西洋の心理学と東洋の神秘主義の融合は、ヒューマンポテンシャル運動の中心テーマだったが、これはラジニーシが最も強みとするところだった{{sfn|MCCORMACK(c)|2018}}。弟子には高い教育を受けた外国人が多く、インドからの脱出、アメリカからの脱出の際に、2度も弟子たちに何も告げずに逃げ、彼らを放棄しているが、それでも2000人を超える弟子が常時彼のもとに集まっていた{{sfn|足沢|2000|pp=91-92}}。


講話の題材は、東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等で、それに独自の解釈を加え、(時に尾籠で猥褻な)ジョークやコメントを添えてつなぎ合わせている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。その教義は極めて[[シンクレティズム|折衷的]]で、その宗教的技術は非常に雑多であるとも言える{{sfn|脇坂|2000}}。取り上げる多様な宗教や思想はそれぞれの体系があるため、それを時々でつなぎ合わせたラジニーシの講話には、全体としてみると矛盾があり、講話で説かれるの教えは時々で異なっている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。彼自身は矛盾を自覚しており、悟りは語ることができず、宗教は隠喩のみによって表現できるため、矛盾はすべからく生じるとしている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。取り上げる多様な題材の知識は必ずしも正確でないことが指摘されており、単純化が過ぎるものもある{{sfn|Shepherd|2014}}。[[禅]]を最も進んだ瞑想の伝統と評価することがあったが、その伝統や厳しい修行といった側面には興味を持たなかった{{sfn|Shepherd|2014}}
講話の題材は、東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等で、それに独自の解釈を加え、(時に尾籠で猥褻な)ジョークやコメントを添えてつなぎ合わせている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。その教義は極めて[[シンクレティズム|折衷的]]で、その宗教的技術は非常に雑多であるとも言える{{sfn|脇坂|2000}}。取り上げる多様な宗教や思想はそれぞれの体系があるため、それを時々でつなぎ合わせたラジニーシの講話には、全体としてみると矛盾があり、講話で説かれるの教えは時々で異なっている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。彼自身は矛盾を自覚しており、悟りは語ることができず、宗教は隠喩のみによって表現できるため、矛盾はすべからく生じるとしている{{sfn|足沢|2000|pp=85-87}}。取り上げる多様な題材の知識は必ずしも正確でないことが指摘されており、単純化が過ぎると評されるものもある{{sfn|Shepherd|2014}}。[[禅]]を最も進んだ瞑想の伝統と評価することがあったが、その伝統や厳しい修行といった側面には興味を持たなかった{{sfn|Shepherd|2014}}


講話の一つ一つのエピソードはわかりやすいが、全体としてみるとはっきり理解できないという点が、むしろインテリの弟子たちにはチャレンジしがいのある魅力的なものに映ったと思われる{{sfn|足沢|2000|p=92}}。西洋文明は物質主義で心が満たされず、東洋文明は心だけで科学に欠け迷信に満ちているが、人類で初めてその両者の橋渡しをするのだと説き{{sfn|ロバートソン|2018}}、[[ゲシュタルト療法]]や[[エンカウンターグループ]]といった西洋の前衛的なセラピーと、東洋の[[瞑想]]や[[クンダリーニ]][[ヨーガ]]、[[座禅]]といった[[ヒューマンポテンシャル運動]]にみられるあらゆる要素を並列的に扱ったその思想・実践は、多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた{{sfn|MCCORMACK(a)|2018}}。
講話の一つ一つのエピソードはわかりやすいが、全体としてみるとはっきり理解できないという点が、むしろインテリの弟子たちにはチャレンジしがいのある魅力的なものに映ったと思われる{{sfn|足沢|2000|p=92}}。西洋文明は物質主義で心が満たされず、東洋文明は心だけで科学に欠け迷信に満ちているが、人類で初めてその両者の橋渡しをするのだと説き{{sfn|ロバートソン|2018}}、[[ゲシュタルト療法]]や[[エンカウンターグループ]]といった西洋の前衛的なセラピーと、東洋の[[瞑想]]や[[クンダリーニ]][[ヨーガ]]、[[座禅]]といった[[ヒューマンポテンシャル運動]]にみられるあらゆる要素を並列的に扱ったその思想・実践は、多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた{{sfn|MCCORMACK(a)|2018}}。

2020年10月18日 (日) 14:45時点における版

ラジニーシ、1984年

バグワン・シュリ・ラジニーシBhagwan Shree Rajneesh、和尚ラジニーシ、和尚/オショウ;Osho、本名:モーハン・チャンドラ・ジャイン)、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドの宗教家、ゴッドマン[† 1][2][3]グル、神秘思想家。精神指導者という人もいる。1960年代後半にインドで始まり先進資本主義国を中心に広まった新宗教のラジニーシ・ムーブメント(英:Rajneesh movement、和尚ラジニーシ・ムーブメント、ラジニーシズムとも)の創始者[4][5]。死の1年程前に自らの尊称を和尚/オショー(Osho)に変えており、現在はOsho(オショウ)として知られている。

東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等を題材に独自の解釈を加え、魅力的で矛盾のある講話を行った[6]。インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた[7][8]。ラジニーシ自身は自身の思想の構造について明言していないが、外務省専門調査員の足沢一成は、インドのヒンドゥー教で伝統的な不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)と同様と評している[9][10]。西洋の前衛的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ、グル的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた[11][7][12]。「セックスの第一人者」、「セックス・グル」、「タントラ・マスター」などと称され、教団は「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれた[13][14][15][12]。また、高級車のロールス・ロイスを90台以上所有し「ロールス・ロイスの第一人者」として知られた[14][15]

インドのアーシュラムはセラピーや瞑想の講座で西洋人に人気だったが、伝統宗教批判、性的な行為を含む活動、信者たちの常識はずれな言動や売春・麻薬取引といった犯罪等により、地元住民の反感を買いトラブルが絶えず、またセラピー等の指導内容には危険なものもあり、自由なセックスの推奨による性病、特に淋病ヘルペスの流行が報告されている[15][16][17]

アメリカに移ってからはオレゴン州ワスコ郡に強引に巨大なコミューン(宗教生活共同体)ラジニーシ・プラムを建設した[15][18]。メンバーの間での性病の流行の情報は地元の住民を不安にさせたが、ラジニーシ・プラムはHIVなどの性病対策として性病のスクリーニングを行ったといわれ、セックスの際の感染対策もルール化された[16][14][19]。教団は所有する土地にラジニーシ・プラムを市として設立させ、隣接する町に信者を移住させて政治の主導権を握りラジニーシ市に改名し、ひいてはワスコ郡の支配すら目指し、地元の住民、オレゴン州政府と対立した[15][18]。ラジニーシ教団はかなり世俗的な宗教団体で、参政権の行使に積極的であったが、宗教団体が自治体の形をとって信者を住民として統治することが政教分離に反すると問題視され、オレゴン州と裁判で争った[18]。教団幹部は、教団への捜査を邪魔し、ワスコ郡の政治的支配を得るための計画の一環として、サルモネラ菌を使ったバイオテロ事件を起こし[20]、教団の敵対者の暗殺計画など様々な問題・犯罪を起こし、教団運営トップのマ・アナンダ・シーラ英語版(シーラ・シルバーマン)をはじめとする幹部が多く逮捕され、ラジニーシ自身も弟子たちに在留目的で偽装結婚を教唆した罪、移民法違反で逮捕され(他の容疑は司法取引で不問)、アメリカから国外追放されており、教団の評判は低下した[7][21][22][23]自衛隊CBRNテロリズムを研究する足達好正によると、ラジニーシはサルモネラ菌散布を承知していた[24]。一方、教団は現在も、ラジニーシはアメリカでの一連の出来事に非がないと考え、アメリカ政府の陰謀であり、現地住民の外国人差別による迫害だと激しく反論している[25]

死後、ラジニーシの教えは弟子たちによって、外部との軋轢が少なくなるよう再定義され、教えの中心的な要素が再構成されており、新宗教の市場で広く受け入れられるようになった[26]。ラジニーシの身体を重視するホリスティックな教えと、東洋の瞑想と西洋の心理療法の統合は、現代の代替宗教に大きな影響を与えており、近年ではラジニーシの評価はそれなりに向上している[7]

本項では一般名詞の「和尚」との混同を避けるために「ラジニーシ」と表記する。

思想と活動

コミューン居住の信者を前にロールスロイスを運転するラジニーシ

ラジニーシは21歳の時に悟りに至ったという[27]。彼は独立後の20世紀インドにおいて、最も論争の的になったゴッドマンである[2]霊性の本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の神秘主義的伝統を紹介し、称賛された[28]。自らの思想を弟子に講話として語ったが、本は書かなかった。本は信奉者たちが彼の講話やインタビューを編集したもので、ほとんどが1974年から81年の第1期プネー時代のことばである[15]。現在入手可能な講話集だけで200冊以上、3500時間以上の録画ビデオがある。魅力的な語り手で、特注の白いロールス・ロイスで登場し特別感を出すなど場の演出にも優れ、多くの人を魅了した[29]

瞑想に入るための準備としての多様なセラピー、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導し、時にセラピーは全裸に近い姿で行われ性行為も含んでいたことが広く知られ、「フリーセックスと瞑想の宗教」と呼ばれた[13]。その思想は、多くの近現代のインドの聖者と同様に、ヒンドゥー教で伝統的な不二一元論と同じ構造を持つと評される[10][30]。ラジニーシ自身は「ブラフマンとアートマンの合一」あるいは「全体と個の合一」という考え方が自分の思想の中心であると断言しておらず、注がれるべき「エネルギー」が何であり、どこから来るのかということも断言していないが、足沢一成は、彼の断定を避ける態度は「自然であること」の重視と関連があると述べている[31]

「心の自発性にまかせて自然に生きる」「個人の革命によって世界が変わる。そのためには自分自身が目覚めなければならない」と解き、悟りへの道のためなら「何をやってもよい」と標榜し、善悪は人工的に作られた幻想であると主張した[15][12]。「自分を愛する」「瞬間を生きる」といった教えはニューエイジに似ており、人間性心理学を特徴とするヒューマンポテンシャル運動の商業セラピー文化との関連が強い[15]。ヒューマンポテンシャル運動の中心地エサレン研究所と交流があり、フィドホーン財団英語版の書籍はラジニーシの活動や講話集を好意的にレビューし、普及に寄与した[15]。西洋の心理学と東洋の神秘主義の融合は、ヒューマンポテンシャル運動の中心テーマだったが、これはラジニーシが最も強みとするところだった[17]。弟子には高い教育を受けた外国人が多く、インドからの脱出、アメリカからの脱出の際に、2度も弟子たちに何も告げずに逃げ、彼らを放棄しているが、それでも2000人を超える弟子が常時彼のもとに集まっていた[32]

講話の題材は、東洋・西洋の思想・宗教、現代西洋科学、心理学等で、それに独自の解釈を加え、(時に尾籠で猥褻な)ジョークやコメントを添えてつなぎ合わせている[6]。その教義は極めて折衷的で、その宗教的技術は非常に雑多であるとも言える[33]。取り上げる多様な宗教や思想はそれぞれの体系があるため、それを時々でつなぎ合わせたラジニーシの講話には、全体としてみると矛盾があり、講話で説かれるの教えは時々で異なっている[6]。彼自身は矛盾を自覚しており、悟りは語ることができず、宗教は隠喩のみによって表現できるため、矛盾はすべからく生じるとしている[6]。取り上げる多様な題材の知識は必ずしも正確でないことが指摘されており、単純化が過ぎると評されるものもある[15]を最も進んだ瞑想の伝統と評価することがあったが、その伝統や厳しい修行といった側面には興味を持たなかった[15]

講話の一つ一つのエピソードはわかりやすいが、全体としてみるとはっきり理解できないという点が、むしろインテリの弟子たちにはチャレンジしがいのある魅力的なものに映ったと思われる[10]。西洋文明は物質主義で心が満たされず、東洋文明は心だけで科学に欠け迷信に満ちているが、人類で初めてその両者の橋渡しをするのだと説き[34]ゲシュタルト療法エンカウンターグループといった西洋の前衛的なセラピーと、東洋の瞑想クンダリーニヨーガ座禅といったヒューマンポテンシャル運動にみられるあらゆる要素を並列的に扱ったその思想・実践は、多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた[11]

1983年にはラジニーシは新しいブッダであるとされ、翌年、ラジニーシの教えは最初で唯一、そして最後の宗教であると宣言された[15]

その一方、覚醒のためなら「何をやってもよい」というスタンスは、性道徳や社会秩序を破壊すると危険視された[12]。ラジニーシは、支持者の集団・教団を率いて社会との軋轢を引き起こし続け、外部との対立の中、黙示録の未来像を語るようになり、世界の破滅を避けるためにユートピア建設を急いだ[33]。教団はアメリカ政府の陰謀を恐れ、外部の敵から教団を守ろうと、暴力が吹き荒れることとなった[33]。教団幹部主導のバイオテロ事件を起こしており、ラジニーシ教団は「破壊的カルト」とも呼ばれる[35]

教団(現オショー国際財団)は、アメリカでの一連の出来事を、「ホワイトハウスから下された米国政府の謀略であって、意識的な生き方に基づく共同体という Osho のヴィジョンの妨害を目指すもの」「最初の日から現地の敵意によって完結した・・・外国人嫌悪を反映したもの」「醜い基本的人権の侵害」であり、理想都市を建設しようとする試みは「基本的にでっち上げにすぎないもの」によって阻害されたと反論している[25]

悟りと瞑想・セラピー

講話全体を見ると、ほとんどの西洋人は社会や教育によって抑圧されているため、その拘束力を取り除き、抑圧により過去に形成された「エゴ」である「わたし」を捨て去り、「自然であること」によって真の自己に至らなければならない、ということが説かれている[31][15]。ほとんどの個人的な問題は性的エネルギーの抑圧のせいだと主張した[15]

足沢一成によると、ラジニーシの「悟り」とは、「何らかの真理を知ることではなく、セックスにより個と個に一体感が生じるように『全体』である『エネルギー』に個が流れ込む状態そのものを経験すること」を意味しているようである[36]

決まった一つの体系を多様な個々人に与えることは「自然であること」に反するので、それぞれが自分に合ったセラピーを行い、エゴを取り除いて、自分に合った瞑想法で「悟り」に向かうことが目指される[31]。瞑想を実践としてだけでなく、信念と期待に縛られた条件付けによる機械的な反応という「眠り」から完全に「覚醒」した意識として示した[26]上座部仏教ヴィパッサナー瞑想や、禅宗座禅チベット仏教の観想法などをアレンジし、100以上の瞑想のテクニックを開発した[37][26]。1時間ほどの瞑想を10~15分のユニットに分けて、動き、発声、感情の吐露を加えるといったアレンジの傾向は、セラピーの影響がうかがえる[37]。ラジニーシが作った瞑想法で一番有名なのは、深くて速くて乱雑な呼吸を行い、泣いたり叫んだりして感情を吐き出し、「フー、フー」というイスラム神秘主義の真言を唱えながらジャンプし、突然の静止、そしてダンスという1時間の「ダイナミック瞑想」である[38]

ラジニーシは性的欲求の抑圧こそが精神的不調の大きな要因であると考えたため、セラピーは全裸に近い姿で行われ、周辺社会から奇異な目で見られることになった[39]。アーシュラムで行われたセラピーは、時間や強度の限度を超えた指導で怪我人も出ており、肉体的・精神的・性的な暴力があったことが知られ、手に負えなくなった人には鎮静剤などの薬が頻繁に投与されていた[11]

セックスとタントラ

セックスに関するタントラ的な教えが、最も意見が分かれ、インドでも西洋でも批判されてきた[28]。ラジニーシはセックスのオーガズムは「悟り」のエネルギーに似ており、悟りのエネルギーの疑似体験になるので、むしろセックスは悟りにプラスであるとした[36]。彼は性の4段階のモデルを作り、男女のエネルギーがエクスタシーによって合一する最終段階に至ることで(または、これと他の方法との組み合わせで)、覚醒することができると教えた[40]。悟り自体を知った人は、セックスで得られるような些細な快楽には興味を持たなくなるとしている[36]

教団内部では、フリーセックスを指導していたようである[41]。弟子たちの自己啓発の探求には、多くの異なる相手とたくさんのセックスをすることが含まれていた[42]。インドのアーシュラムでは、信者の間で性病が蔓延した[15]。ラジニーシはアメリカのメディアに、数百人の女性と性的関係を持ったと語っている[15]。コミューンでは、信者が特定のパートナーと愛情ある長期的な関係を持つことは望まれておらず、親しい関係になると配置転換で引き離された[17]。ラジニーシは、一夫一婦制は不自然であると繰り返し語り、14歳からの制限のない乱交を勧めた(アメリカのコミューンでは、実際もっと年少の子供もセックスをしていた)[15][17]。セックスの自由は外国人弟子にとって魅力であり、アメリカ時代以降もエイズの世界的な蔓延の中で、教団がコンドームと医療用ゴム手袋をしてでもセックスを捨てなかったことからも、フリーセックスが中心的なテーマだったことが分かる[43]

セックスの勧めの一方、ラジニーシは1982年のインタビューで「殺人が社会において熟考の対象であるように、子供の誕生はコミューンで熟考されるべきだ」と述べており、子供を持つことを推奨していない[17]。アメリカのコミューンが存続している間に、子供を作った信者はいなかった[17]

ラジニーシの「十戒」

アーチャーリヤ・ラジニーシと呼ばれていた初期の頃、彼はあらゆる戒律に反対していたが、次の「十戒」を示したことがある[44]。 1962年から1971年の間に、弟子と友人たちに向けて書いた手紙が書簡集として出版されている。その一通に以下の「十戒」が綴られている。

Love(愛する者へ)
あなたはわたしの「十戒」を教えてくれと言った。これはたいへん難しい。わたしはいかなる種類の戒律にも反対だからだ。それでも、ほんの余興のつもりで次のようにまとめてみた。

  1. 内部から来るもの以外どんな命令にも従うべからず
  2. 唯一の神は生そのものである
  3. 真理は内にある、それを他のどこかに探すべからず
  4. 愛は祈りである
  5. 空(くう)は真理への扉である それは手段であり、目的であり、達成である
  6. 生はいまここにある
  7. 完全に目覚めて生きよ
  8. 泳がず、浮かび漂うべし
  9. 一瞬ごとに死に、一瞬ごとに新生すべし
  10. 探求をやめよ、在るところのものは在る 立ち止まり、そして見よ[45]

彼は7番、10番の2段目にアンダーラインを引いた。個々に合わせた指導が可能な融通があり、厳密なものではないが、これらは30年にわたる彼の運動のライトモチーフと言える[44]

指導・師弟関係

サンニヤーシン(出家者)は本来俗世の事柄をすべて捨てるものだが、「自然であるなら何を抱えていてもよい」という考えで悟りを目指すとし、弟子を「ネオ・サンニヤーシン」(ニヤシンズ、Neo-Sannyas)と呼んだ。ネオ・サンニヤーシンは世俗の事柄を捨てず、性的な禁欲もない[46]。弟子たちはラジニーシズ(Rajneeshes)とも呼ばれた[5]

初期にはヒンドゥー教の伝統的な儀礼である「ダルシャン(Darśana)」を取り入れ、弟子たち一人ひとりに接見していた[37]。弟子との関係で最も重要なのは、グルから弟子へ直接エネルギーを与えるシャクティーパット(エネルギー・ダルシャン)だった[28]。ラジニーシは、「グル」は「全体」と結びつき、「聖なるエネルギー」に満たされているとし、そのエネルギーを弟子に与えることができ、弟子にエゴがなければエネルギーが注ぎ込まれるとした[47]。ダルシャンではライブ演奏や歌、踊りを行い、女性の「伝達者」を用いて弟子にエクスタシー的状況を経験させるような強烈な儀式を行い指導していたが、接見する人数が増えた第1期プネー時代にはグループ単位になって重要性が薄まり、アメリカ時代には中断している[37]。ラジニーシの死後は、ダルシャンのビデオを使う「白バラの兄弟」という儀礼が毎日続けられた[28]

ラジニーシは、弟子がグルからエネルギーを与えられるために必要なグルへの絶対服従を、「明け渡し」と表現している[47]。アメリカのコミューンでは、永住する弟子は個人財産を全て教団に寄付するよう求められ、長期滞在者はお金を支払い、無償労働を行って奉仕した[48]

女性

「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた[49]。多くの女性を教団の重要な位置につけたが、これは宗教団体では非常に珍しい[49]

ラジニーシは講話で、「母親になるという事は、この上もなく価値あるものを作り出している。あなたは生命を彫刻し、生命に形を与えている。子育ては深刻にならず陽気に受け止める事。あなたが深刻になってしまったら子供はあなたの深刻さを感じ、押しつぶされてダメになってしまう、子供に重荷を負わせてはならない。子供があなたを母親として選んでくれたことに感謝し、子供を通して自分の女性を開花させなさい。母親になることは祝福だ」と語っている[50][要ページ番号]

その一方、ラジニーシは女性幹部全員に不妊処置を求め、ほかの女性信者にも不妊処置を奨励した[17]。インドのアシュラム及びアメリカのコミューンで妊娠した女性信者は、中絶に同意するか、速やかに去るかという厳しい選択を迫られた[17]。元信者によると、ラジニーシは、悟りには非常に多くのエネルギーが必要で、出産は女性から生命力を奪うため、出産した女性は悟ることができないだろうと語っている[17]

ユダヤ人

1975年に出版された講話集「The Mustard Seed」で、ユダヤ人のイエスの死の責任を理由に、ナチスホロコーストにおける何百万人ものユダヤ人の虐殺を正当化していると理解されうる講話をし、ホロコーストのガス室の毒ガスを「聖なる煙」と呼んだ[51][26]

ユダヤ人は、常に彼らを殺すことができ、安心させてくれる人物、彼らのアドルフ・ヒトラーを探し求めている。誰からも嫌な目に合わせられなければ、彼らは安らぐことができない。罪の意識に付きまとわれるのだ。あなたが真理に石を投げる時に、こうしたことが起こると決まっている。そして、20世紀の苦難の後でさえ、ユダヤ人は自らの過ちを自白していない。[51]

ラジニーシ教団のスポークスパーソンは、ラジニーシの反ユダヤ主義の告発を激しく否定している[51]。信者は、ラジニーシやシーラの「ユダヤ人ジョーク」は、ユダヤ人がホロコーストへの病的な執着を克服することを助けるために設計された、一種の治療であると主張している[51]。また信者は、ラジニーシがユダヤ人、特にユダヤ人のユーモアを賞賛する他の多くの講話があり、反ユダヤ主義とは矛盾するとしている[51]。ラジニーシ教団は、アメリカユダヤ人委員会のいくつかの組織との関係に問題があるようである[51]

来歴

初期

1931年12月11日、中央インドのマディヤ・プラデーシュ州の、人口700名ほどの小さな田舎町クチワダに、ジャイナ教の布商を営む商人の家に生まれたといわれる[52]。のちにラジニーシというあだ名をつけ、本名より使われるようになった[15]。若いラジニーシは自由思想家になり、宗教とタブーに反抗した。有名な無神論者になり、社会主義を調べ、催眠も学んだ[15]

ジャバプール大学で哲学を専攻した[8]。大学生だった1953年3月21日に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという[8]

ラジニーシはジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演をし、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張し[8]、「セックスの第一人者」として知られるようになった[15]。彼の主張にほとんどすべてのインド人は大きなショックを受けたが、一部彼の思想に魅力を感じる人もいた。また、マハトマ・ガンディー生誕100周年の時に、彼の性的禁欲は変態の一種だと述べて怒りを買った[15]。66年には大学を辞職して講演に専念し、69年に超越瞑想運動の指導者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの招待で、初めて西洋の大衆に向けて英語で語る機会を得た[26][8]

ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画

1970年代より思想家からグルへと移行し、弟子を受け入れるようになった[8]。Laxmi Thakarsi Kuruwa という裕福なジャイナ教徒の女性が弟子になってマ・ヨーガ・ラクシュミーというサニヤス・ネーム(法名)を与えられ、彼女の金銭支援で1970年12月にボンベイに拠点を移した[26]。そこのアパートで訪問者を迎えて講義を行うようになり、めったに旅行せず、公開の集会で話すことはなくなった[26]

呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出した。71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている[8]

インド 第1期プネー

ムンバイでの一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後にプネーにアーシュラムを設立し、拠点に定めた[7]。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、ラジニーシの周辺にはコミューン的な状況が生まれた[7]。ラジニーシはヒンディ語に加えて英語でも講話をするようになり、古今東西の宗教的または精神的な師や神秘家、あるいは注目すべき創始的な人物について語った。こうした流れは関心を集め、多くの人々を惹きつけると同時にセンセーショナルな報道や反発も少なくなかった。

プネーにて、1977年

当時広がりを見せていた、人間の可能性・潜在能力開発を探求するヒューマンポテンシャル運動を背景に、西洋からの訪問者のなかには、東洋の瞑想的な技法を追求するセラピストもおり、アーシュラムは教団運営のための日常業務とともに、心身統合的な各種のセラピーと瞑想的技法、各種の芸術活動を追求する場となった。ヒューマンポテンシャル運動の起業家には、西洋では医療当局が危険とみなすようなセラピーを制限なく試したいという希望があり、アーシュラムは多くの西洋の代替療法のセラピストと協力し、実験の場となり、セラピービジネスの流れは加速し「東のエサレン」と呼ばれた[15]。エサレンと超越瞑想はラジニーシにとってライバルだったが、彼はエサレンのパトロンでもあった[15]クンダリニーの伝承が加わり、ラジニーシの力はチャクラを活性化させることができると信じられた[15]。ラジニーシは、セラピーで解放される主な感情はセクシュアリティと攻撃性だと語り、感情を表現し吐き出すことを勧め、参加者はそれに夢中になった[15]。先進資本主義諸国からやってきた信者たちは、次のようなスケジュールで過ごし、解放感、生の実感を味わっていたようである。

5時に起きてダイナミック(瞑想)、ぶらぶらしたり、友達と話して、グループ(セラピー)受けて、マリファナもはじめて吸った。エンライトメン卜・インテンシブ(「私は誰か」という問いをさまざまな方法で問いかけていくグループ・セラピー)を受けて、はじめてハイになるという感覚をもった。・・・はじめて自分が自由になれた感じがした・・・何か探求して生きているという感じ。・・・ギターを町でひいて踊りだしたりとか、バンブーハットから5分位歩いて泉まで真っ裸で歩いていったり、・・・すべてが生きているという実感だった。[53]

その当時のグループセラピーは、初日から全裸になることが一般的で、シャワーとトイレも男女の区別はなく、「人とのつきあいも、ものすごく近い感じ」だったという[53]。セラピーや瞑想では「お腹のところに白い光るエネルギーを感じる。背骨からエネルギーがワーッとなって、それが3日続く。すべてが美しくみえて、何をやっても深い感じがする」というような変性意識体験があったといい、こうした内的体験が入信と信仰の継続に重要な役割を果たしていたようである[53]

元信者のヒュー・ミルンによると、ラジニーシのロールモデルはゲオルギィ・グルジェフで、彼の権威に反抗するやり方が好きだったという[15]。ネオ・サンニヤーシンたちは、1930年代のグルジェフのコミュニティを意識して設計された環境で、自己観察と超越の機会が得られるよう考えられたハードな奉仕活動で修業し、修業は何年も続くこともあった[26]

ラジニーシや指導者たちは、ヒューマンポテンシャル運動の様々な瞑想とカタルシスのテクニックを取り入れたが、数時間も激しいヨガの呼吸法を行うといったように、通常行われる時間や強度を超えて指導し、怪我人も出て、アーシュラムは肉体的・精神的・性的な暴力のエピソードで悪名を高めた[11]。手に負えなくなった人には鎮静剤などの薬が頻繁に投与されており、このことは周辺の病院で知られていた[15]。エサレン設立者の一人リチャード・プライスはラジニーシに惹かれアーシュラムに滞在したが、ここのエンカウンターグループで、年配の女性が若い男に顔を殴られたことを知り、ラジニーシの「治療」が暴力的で非常に危険だと思うようになった[15]。プライスは、参加者が「荒れ狂うことでプレイする」(アメリカのエンカウンターグループの規範)ではなく「荒れ狂う」こと自体を奨励されていることを知り、「経験の浅いグループリーダーが起こす最悪の過ち」と批判したところ、8時間監禁され、腕を折られた状態でアーシュラムを去ったという[26]

この時期のフェミニストたちは、イベントの説明などで使われた「オーガズムの促進(merchandising of orgasm)」というフレーズにひかれ入門し、ラジニーシのセラピーの影響を受けた[15]。グループセックスが行われ、居住者の80%以上が1980年代までに性感染症に罹り、特に淋病ヘルペスが流行していたと報告されている[15][17]。性的なグループセラピーに参加するよう女性信者に心理的圧力がかけられていたという報告、エンカウンターグループでの複数の男性信者による女性信者のレイプの報告がある[17]。やめさせようとした信者は制止され、あとでグループリーダーに「彼女はレイプされる必要があったんだ」と説明されたという[17]

性的に自由であることの強調は子供にも影響があり、アーシュラムに住む子供同士のセックスの報告、また子供への性的虐待の報告がある[15]

ラジニーシは幼いころから喘息を患っていたが、さらにアレルギーを発症し、糖尿病、湿疹、椎間板の問題による背中の痛みに苦しんでいた[15]

ラジニーシの秘書マ・ヨーガ・ラクシュミーは、彼が作品のブランドとして使用した「ラジニーシ」を商標登録し、のちに、1974年から1981年まで使われたラジニーシデザインの教団のロゴ、1981年から1989年まで使用された2羽の飛ぶ鳥のロゴ、1989年以降に使われた白鳥のロゴも商標登録された[54]

イギリスのSheldon Press社は、ラジニーシの教えを時代を超える神の知恵と考えて、西洋で初めてラジニーシの本を扱ったが、プネーのアーシュラムの実態を知ると、スポンサーから撤退してしまった[15]。1975年に日本で布教が開始され[5]、この頃から日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間で、4万9千部売れた[53]。なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、ラジニーシの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており[55]、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるラジニーシの引用の少なさを説明している、と考えている[56]。イタリアと韓国では、講話の本はベストセラーになった[26]

初期にはインド人の弟子も少なくなかったが、伝統宗教批判、性的な行為を含むアーシュラムの活動、ヒンドゥー教の聖者が着るサフラン色のローブを着て、下着をつけない外国人が海岸や市街で叫んだりジャンプしたり、抱き合うといった行為、「パグワーン・シュリー」というヒンドゥー教徒から見れば尊大ともいえる尊称などは、多くのインド人にとってヒンドゥー教への侮辱と感じられ、非常な反感を買い、また弟子たちには西洋の物価に合わせた高額なセラピー料金・外国人が集まることで高騰した家賃・滞在費を稼ぐために売春や麻薬取引、金・通貨の密輸に手を出す者もおり(売春や麻薬取引による資金集めにラジニーシは直接かかわっていないが、弟子たちとダルシャンでその計画について話し合い、ラジニーシは承認していたとのちに幾人かの弟子が語っている)、弟子たちが薬物を使っていることが知られており、この時期にインド人の弟子は多くが離れ、プネーでの住民との対立は深刻になった[57][26][58]。プネーの住民にとってラジニーシのアーシュラムは「インド社会の公序良俗に反するヒッピー」であり、その対立は激化し、行方不明になって死体で発見される弟子もいた(事件の詳細は不明)[59]。このころの弟子には、地元の精神病院に収容されるものも多かった[59]

プネー警察は不法滞在外国人の取り締まりを厳しくしたが、インド滞在にビザがいらないイギリス人と偽装結婚する信者もいた[59]。こうした中、教団の宗教団体としての非課税措置は取り消された[59]。多宗教国家であるインドでは、宗教対立を引き起こす言動は犯罪であり、インド中央政府はラジニーシの伝統宗教批判を犯罪と判定して起訴の準備を進めていた[59]。このころ、ラジニーシはアレルギーや糖尿病の悪化、背中を痛めたという理由で講話をやめ、さらに言葉を話さなくなった[59]

アメリカ オレゴン州ラジニーシ・プラム

1981年、ラジニーシは逮捕を避けるため、背中の手術を理由にアメリカ短期滞在ビザを取り、40人の側近だけを連れ、出国・税関手続き、セキュリティーチェックなどをすべて無視して強引に出国し、アメリカに立った[59]。この出国は、プネーに残された弟子には全く秘密にされていた[59]。彼は飛行機の中で「私はアメリカが待ち望んだメシアである」と語った[15]。出国の理由は背中の治療だったが、アメリカで治療も手術もしなかった[59][15]

当初は東部ニュージャージー州モンクレアにコミューンを建設したが、地域住民とのトラブル・争いが絶えなかった[60]

コミューンの建設、ラジニーシ・プラム市の誕生

まもなく信者たちはオレゴン州ワスコ郡アンテロープ町(Antelope)のはずれの農業指定地域に、農業以外の目的に土地を使用できず居住者も10名と定められている農場(放牧地)6万4,229エーカー(約2万5,900ヘクタール)を嘘の使用目的を伝えて購入し(農場を見つけたのはマ・アナンダ・シーラ(Ma Anand Sheela)だが、購入目的はシーラ夫婦の引退後の生活のためだと説明されていた)、巨大なコミューン、「ラジニーシ・プラム(ラジニーシの街)」の建設を始めた[61]。しかし、農業指定地域位置する宗教組織ラジニーシ・プラムの存在も、行政が指定する人口以上の弟子を居住させることも法律違反であった[61]。そして、教団は土地購入代金を不動産業者に払っていなかった[62]。地元の人々は、彼らがインドのアーシュラムからの来訪者で、5,000人のメンバーの間で淋病ヘルペスが発生しているという情報に悪い印象を持ち、不安を高めていった[19]

アメリカでは、沈黙を守るラジニーシに代わり、インド人女性でアメリカの就労権を持つシーラが中心的人物となった[63]。ラジニーシは大部分の弟子とほとんど接触しなくなり、プネー時代の側近もそれを不満に思い去っていった[63]

ラジニーシ・プラムの入り口
教団員がラジニーシに奉げた石碑

アメリカで地方団体は、各州の憲法、制定法に基づいて設置される[64]。オレゴン州では、既存の市のない郡直轄地域で居住者が150人以上いる場合、市の設置手続きを行うことが可能であったため、教団はアメリカ国籍を持つ弟子を住民登録し、全米から1500人の信徒でない路上生活者をバスで移送して一時的に招き入れ選挙登録させ、ワスコ郡内に息のかかった居住者を2,200人用意して、実質的にラジニーシ教団が請求代表者となり、教団所有の土地にラジニーシ・プラム市を誕生させた[65][66][67]

ラジニーシ・プラム市は教団にとっての「メッカ」とされ、世界中にいる信徒30万人(教団公表データ)のうち10万人を移住させることを計画していた[68]。市中のほぼすべての建物が教団関連の不動産であり、市庁舎などの原則来訪自由であるはずの公的な建物も信徒以外が行き来することは困難だった[68]。また、市の道路は赤い火山灰で舗装され、住民は全員赤とオレンジのユニフォームを着て太陽崇拝があらわされ、コミューンは礼拝所であり労働は礼拝であるとされ、警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、礼拝所を管理するコーディネーターによって実質的に管理・運営されていた[68]。コミューンの定款では「生活が、いかなる面においても、共有性のもとで共同生活を送る〔教祖〕バグワン・シュリ・ラジニーシ及び彼の従者の宗教的教えに導かれる宗教共同体」であるとされていた[68]。ラジニーシ・プラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべて信徒であり、保安隊長はシーラの夫であった[68]

ラジニーシ・プラム市には他の宗教の住民が住むことはできず、政治に信者が積極的に参加し宗教団体が行政を掌握しているが、こうした点がモルモン教ソルトレイク市天理教天理市といった、宗教団体が公の政治参加を自制し、行政や住民との関係がそれなりに安定している宗教門前町と異なっている[69]

ラジニーシ・プラム市と教団、関連団体の関係はかなり複雑で、ラジニーシのもとに構成された「ラジニーシ・エンパイア」は、非営利宗教財団であるラジニーシ国際財団(RFI。目的:ラジニーシの教えの布教、本部:ラジニーシ市、ラジニーシが全額出資、理事長:シーラ)、ラジニーシ投資株式会社(RIC。本社:ラジニーシ・プラム市、RFIが土地を現物出資し全株式を所有、代表取締役:シーラ)、ラジニーシ・ネオサンニヤーシンズ・インターナショナル・コミューン(教祖の教えの実践を目指した共有財産制に基づく宗教生活共同体。RFIがRICよりリースバックを受けた資産を借り受けて運用)、ラジニーシ・プラム市議会(コミューンがRFIからリースした資産のサブリースで構成)が中核となって構成され、財政関係・人的関係も非常に密接で重なり合っており、市の統治機構といち宗教団体に過ぎないラジニーシ教団の最高意思決定機関が完全に一体になっていた[70]

教団は、西洋人富裕層の弟子から集めた潤沢な資金1億2500万ドルを使って、広大な土地に病院、学校、レストラン、ショッピングモール、空港などを建設していった[34]。弟子たちはダムの建設などの労働に従事した。ある弟子は、自給自足の生活を実現するための素晴らしい体験で、ジョン・レノンの「イマジン」のヴィジョンのような状況を実際に体験していると感じたという[42]。ラジニーシ・プラムは数千人の信者を集め、信者たちはセックスとドラッグに満ちた空気の中、平和と覚醒の探求の盛り上がりを楽しんでいた[71]

ラジニーシが運転するロールスロイス
ラジニーシ・プラムに作られた空港(現ビッグマディランチ空港)。ラジニーシの自家用ジェット「エア・ラジニーシ」と書かれたコンベア240ダグラス DC-3が停められている。
「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々
ラジニーシ・プラム(1982年)
ラジニーシ・プラムでの祭りの様子(1983年)
教団員がラジニーシ・プラムに建設したゲストハウス

ラジニーシ・プラム最盛期、ラジニーシは明らかに経済的に成功していた[71]ロールス・ロイスに乗ってラジニーシ・プラムを回り信者に顔見世をするようになり、この視察のためという名目で90台以上のロールス・ロイスを購入し、「ロールス・ロイスの第一人者」として有名になった[14][15]。5台のプライベートジェットと、ヘリコプターも所有していた[71]。また、ダイヤモンドをちりばめた高級腕時計ロレックスの収集にも熱心だった[15]。あくなきラジニーシの物欲は、教団を経済的に追い詰めていった[15]

ラジニーシは、「90台のロールスロイスが必要な理由など全くない。アメリカ全体にあらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私の所に来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った[72][要ページ番号]。信者たちは、ロールスロイスの収集のために浪費するラジニーシの行動を、グルについていきたいという願いから、彼の行動の裏には何か理由があるに違いない、「バグワンは私たちを試しているのだ」「アメリカの資本主義を茶化しているのだ」「霊性と唯物論に対する私たちの思い込みへの挑戦なのだ」等と考えて、その行動を正当化し自分を納得させた[33][15]

組織は創始者・運営スタッフ・一般信者に分かれ、宗教組織として確立して制度化も進んだ[67]。信者たちは、永住者・長期滞在者・訪問者に、またセーフセックスのために部外者・エイズ検査済み・未検査者に分けられ、リストバンドをつけて管理された[48][63]。教団は共有財産制とされ、永住者は個人財産をすべて処分して寄付することを求められ、長期滞在者はコミューンにお金を支払い、クリーニングや工事、調理などの仕事を「崇拝(worship)」として行い奉仕した[48]。体のいい強制労働収容所ではないかという批判があったが、ラジニーシ自身は、人類が滅亡するか、ブッダ(覚醒者)となり新たな存在として飛躍するかの分岐点にあたる偉大な実験であると考え、この共同体を覚醒のための共同体「ブッダフィールド」と呼んでいた[7]

信者にはラジニーシを教祖として崇拝し、教えを盲信する傾向がみられるようになり、教団は閉鎖的・統制的になっていった[63][67]。アメリカでラジニーシは、親しい弟子たちの小さな内部集団に囲まれ、また囲ませ、信者と距離を取ることで、親しみを抑制し、権威が高められた[33]。ペンシルバニア大学の伊藤雅之は、ラジニーシ自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている[67]。反体制派には、シーラによって精神安定剤などの薬物が投与されており、死亡者もいたようである[15]

ラジニーシは出産を推奨していなかったため、コミューンの子供たちはみな設立前に生まれていたが、ラジニーシは「子供たちは親ではなくコミューンに属する」というルールを発表し、5歳以上の子供は両親とは別居していた[17]。児童保護ソーシャルワーカーのロザリーンは、子供たちが十分な保護・養育を与えられていない様子を目撃している[17]。また、12~14歳の少女のほとんどがセックスの経験があり、それはコミューンではありふれたことだったと述べている[17]。1983年のオーストラリアのthe Concerned Christian Growth Ministriesの報告書によると、信者たちは親子が別れ子供が集団で暮らす「モダンな」やり方に誇りを持っており、子供たちは校舎を裸で走り回ったり、男の子と女の子が一緒に寝ることも少なくなく、子供が性的なことを試すことは奨励されていた[17]。また、当時11~13歳までラジニーシ・プラムに住んでいた女性は、同世代の少女たちは年上の男性と頻繁にセックスし、10歳でセックスしている子もいたと語っている[17]

ラジニーシ・プラム建設は土地の使用目的・居住者制限に違反しており違法であり、教団は計画を進めるにあたり地元の住民の感情と規制の迷惑を顧みず、勝手に行動したため、トラブルになり、それは大きくなる一方だった[33][66][67]

「ラジニーシ市」の看板(1985年)
ラジニーシ信者の地域社会局(Community Relations Service)年報の写真、対立の様子。1982年
アンテロープ町の旗竿のベース部分に取り付けられたラジニーシ教団への抵抗運動の記念額。「1981 - 1985年のラジニーシ教団の侵略と占領に抵抗し、記憶に刻まれたこのコミュニティの人々に捧げる」と書かれている。

ラジニーシ市の成立と対立の激化

1982年3月に一部の信者が隣接するアンテロープ町に移り、教団による乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに信者の数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった[73]。町名は「ラジニーシ市」に変えられ、ラジニーシ・プラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に信者に変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた[73]

地域の役所を教団内に移転したが、住民の出入りは制限し、こうした非教団員への差別行為を住民に何度も起訴され、裁判で負け続けた[66]。アメリカ以外の国籍の弟子たちは長期滞在のために、アメリカ国籍の弟子と偽装結婚するようになり、ラジニーシは自身の短期滞在ビザを宗教家のビザに切り替えるようアメリカ政府へ要求したが、叶わなかった[66]

教団は路上生活者を利用して票を確保し弟子を裁判官にしようとするなど、司法分野にも手を伸ばした[74]。路上生活者の投票権を地方政府が認めないとわかると、教団は彼らのビールに鎮痛剤を混ぜて飲ませ、様々な場所に遺棄した[75]

地元の人々は、教団メンバーを社会に対する潜在的な反逆者であり、脅迫に従属していると考えた[33]。一方教団幹部は、信者に離脱者と接触しないように命令し、いくらかの離脱者が出たことで、コミューン崩壊への恐怖心が大きくなった[33]。これにより、忠誠を強めるために教団内部の暴力と脅迫がますますエスカレートすることになった[33]。ラジニーシは核によるホロコーストやいくつかの他の大惨事(エイズウィルスの出現など)が世界を死滅させると黙示録の未来像を語るようになり、黙示録にある破滅を避けるためにユートピアの完成が急がれた[33]。同時に、アメリカ政府による教団に対する狡猾な陰謀の恐怖も強まり、敵と外部の抑圧者から教団を守らなければという機運が高まっていった[33]。アメリカ当局は、間近(1978年)に起こったカルト教団の教祖と信者918人が集団自殺した人民寺院事件の再演を恐れていた[42]

教団の行動、特に新宗教団体による「門前町作り」は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増し、ラジニーシ市にある教団所有のビルが爆破され、1983年7月にはポートランドのラジニーシのホテルが爆破された[15][76]。教団は、常駐警察もいなかった平和だった田舎にメンバーによる独自の警察を作って合法化し、機関銃などで武装し、熱心に武器を集めるようになった[66][67][15]

ラジニーシ教団について全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、次第に州政府が対応せざるを得ない状況になっていった[76]。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である[77]。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシ・プラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、ラジニーシの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシ・プラム市の設立は無効であるとして訴えた[75][78][79][76]

1984年、裕福なハリウッドの信者ハシャがラジニーシの要求に応えて高額な腕時計を用意しようとし、それに反対するシーラともめた[15]。1984年の春ラジニーシは、悟ったと思われるネオ・サンニヤーシンのリストを公開したが、この名誉にシーラは含まれていなかった[15]

ラジニーシ教団員がサルモネラ菌をばらまいたレストランのサラダバー

サルモネラ菌を使用したバイオテロ

教団はサルモネラ菌を秘密裏に培養し[22]、1984年に郡庁のあるザ・ダルズのレストランで10カ所のサラダバーにサルモネラ菌を噴霧し、751人が体調不良になり、45人が入院したが、事件当時は集団食中毒だと考えられていた。のちの警察の調査で教団の選挙妨害計画の実験、サルモネラ菌を使ったバイオテロという結論が出ており[74][22][80]、近年の研究で、ラジニーシがサルモネラ菌散布を承知していたことが明らかになっている[24]。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物攻撃だと言われる[80]。サルモネラ菌はラジニーシ・プラムを視察に来た郡の委員二人にも使用されたという[74]

1985年に教団は元信者のバイロンから貸し付けた資金を返すよう訴えられ、シーラはこれは教団への寄付だと反論したが、教団は裁判で負け170万ドルのローンを抱えることになり(Byron v. Rajneesh Foundation International)、シーラはアメリカで公平な裁判を受けることはできないと感じ、コミューンの敵を止めなければならないという考えを強くした[81]。コミューンの法務関係者たちはそろってラジニーシの家を訪ね、敗訴を報告し、ラジニーシに継続を命じられた[15]。連邦の調停者は、刑事告訴の可能性があり、対象はラジニーシ自身を含む可能性があることを教団に開示し、また、シーラが起訴される可能性が高いことを明らかにした[81]

シーラたち教団幹部は、教団に対する捜査を阻止するために、教団と敵対していたオレゴン州担当の連邦検事・弁護士のチャールズ・ターナー(Charles H. Turner)ら9名の暗殺を計画した(1985 Rajneeshee assassination plot[21][22][15]。有名な弟子のひとりマ・アヴァ(アヴァ・アヴァロス)の後の裁判での証言によると、シーラは暗殺計画への参加に揺れ動く弟子たちの決心を固めるために、「人々を殺害する必要」についてラジニーシが語った会議の録音テープを流した[26]。聞き取ることが難しかったので、シーラはプラム・ブッディの助けでテープを書き起こした[26]。ラジニーシの返答の要点は「オレゴンに留まるには人々を殺す必要がある。そして実際のところ、人々を殺すことはそれほど悪いことではない[26]ヒトラーは、誰もその偉大さを理解していないから公に言うことはできないが、実際すばらしい男だった。ヒトラーはすばらしいヴィジョンを持っていたのだ」というものだった[82][26]。弟子のひとりは、ラジニーシが一人の悟ったマスターを救うために一万人が死ななければならないと言うのを聞いた、と述べている[81]。暗殺計画は失敗したが、教団内の権力闘争のためだといわれる[20]

またシーラは、ラジニーシが主治医デヴァラジに、もしもの時に安らかに死ぬための薬を要求し了承された会話を盗聴し、その録音テープを使って、デヴァラジとラジニーシの世話人で恋人のマ・ヨーガ・ヴィヴェーク(クリスティーン・ウォルフ)が危険であると周囲に納得させ、デヴァラジの毒殺を企て、実行したが、デヴァラジは死なず暗殺は失敗に終わった[81][15]

FBIの捜査から逃亡、逮捕、国外追放へ

ラジニーシは再び講話を行うようになり、弟子たちに話すようになった[83]。その内容にはシーラ批判が含まれていたようである[83]。1985年にシーラはアメリカ政府による逮捕が確実という情報を受けて西ドイツに去り、ラジニーシは彼女が去った翌日記者会見を開き、シーラが数百万ドルを盗み、彼と数人のネオ・サンニヤーシン、地元の政治家を殺害しようと企てたと非難し、彼らは自分の信奉者ではなく旅の同行者に過ぎないと主張して、ラジニーシ運動のグルとしての役割を否定した[84]。ラジニーシは、ジェファーソン郡地区の弁護士マイケル・サリバンの病気も、信者たちが毒を盛ったためだと語った(この事件は時間がたっていたため調査はできなかった)[85]。一方シーラはテレビ番組に出演し、ラジニーシの信仰は悪徳商法で、すべての犯罪行為はラジニーシの指示だったと語った[15]

ラジニーシはシーラたち幹部の犯罪の捜査をFBIに依頼し、FBIは建物全体に仕掛けられた盗聴システムを発見するとともに、エイズウィルスサルモネラ菌を製造する秘密の実験室の存在も明るみに出て、バイオテロ事件への教団の関与が明らかになった[86][84]。FBIの捜査の際には、ラジニーシのベッド脇に、気分がハイになり依存性のある笑気ガス(亜酸化窒素)を吸う装置が発見された[86]。シーラによると、彼は1日に2度笑気ガスを吸っていた[15]。また、抗不安薬のヴァリウム(ジアゼパム)にも依存するようになり、信者はしばしばラジニーシの言動の異常を目撃した[15]。彼はその後の人生の大部分、笑気ガス中毒だった[86]

ラジニーシは教団の活動の責任はすべてシーラにあるとインタビューなどで語っていた[83]。しかし、そう主張したからと言って、アメリカ政府の追及を逃れられるわけでもなく、ラジニーシも逮捕を予想して85年にアメリカ国外の南へ立とうとした[83]。インド脱出同様、同行する側近以外の信者は何も知らされなかった[83]。燃料補給に寄ったノース・カロライナ州の空港でラジニーシは逮捕された[83]。彼らは逮捕時に、6万ドルほどの現金と100万ドル相当の宝石、高級腕時計、拳銃を持っていた[83][15]。シーラは西ドイツで、シーラと対立していたラジニーシの主治医デヴァラジ(大量の薬物をラジニーシに処方していた人物)の殺人未遂・55億ドルの横領・近隣レストランでのサルモネラ菌の使用・ラジニーシとその世話人の部屋の盗聴・公共施設の放火・移民法違反の容疑で逮捕された[83][67][15]。サルモネラ菌を使ったバイオテロ事件では、シーラとサルモネラ菌製造の中心だったマ・アーナンダ・プジャ(ダイアン・イヴォンヌ・オナン)が主犯として逮捕され、懲役20年の実刑判決を受け服役した[87]。シーラはバイオテロ事件で有罪を認めている[20]。ラジニーシも移民法違反と教団内の偽装結婚の教唆の罪で罰金40万ドルの判決と国外退去の命令を受け、暗殺計画、殺人未遂、銃器の違法な州を超えた輸送などの罪で、最終的に教団上層部20名以上が逮捕された[83][67][20]。アメリカ政府はラジニーシを確実に国外退去させアメリカでの教団の活動を終わらせたかった。司法取引を行い、司法取引で偽装結婚教唆の罪を認め、ラジニーシはシーラが問われた殺人未遂等の容疑との関係は問われなかった[83]

ラジニーシ・プラム市の成立無効をめぐる裁判では、教団弁護士がオレゴン州はアメリカ合衆国憲法修正第1条の自由活動条項(Free Exercise Clause)に明らかに違反していると反論したが、関連する法廷闘争の後、1985年12月に裁判所はラジニーシ・プラム市の設立は無効であると宣言し、解散命令を出した[75][78][79]

ラジニーシ・プラムの人々が起こした問題と犯罪はかなりの数だったため、法的手続きと事件の解明が長年続き[15]、ディック・ソーンバーグ司法長官によると、犯罪を犯した信者は5年に及ぶ調査の後に逮捕された[20]。アメリカに置き去りにされた弟子たちは、1000人が2か月以内にラジニーシ・プラムを退去し、200人が残務処理に残った[15]。アメリカに残された弟子の多くはラジニーシに幻滅し棄教したが、数千人は「セラピー・グル」の支持者として留まり、一部は代替療法のセラピストとして働いた[15][28]。裕福なテキサスの自動車ディーラーが、ラジニーシの大量のロールス・ロイスを購入していった。(シーラは逮捕・服役後、模範囚として29か月で仮釈放されたが、教団には戻らず、スイスの小さな村でラジニーシのアーシュラムに似た高齢者向け介護施設を運営している[87][88]。)

世界を放浪

1985年にアメリカから国外追放されたあと、ラジニーシは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした[89][12]。この「ワールド・ツアー」で長期滞在が許されたのはウルグアイだけだが、それも厳しい制限付きでだった[89]

インド 第2期プネー

活動のためにはプネーに戻るしかなかく、1987年1月に帰国したが、インド政府の監視下に置かれた[89][15][12]。ラジニーシは「アメリカは『怪物』だ」と非難し、彼の支持者たちは、シーラがラジニーシ・プラムを崩壊させ、ラジニーシはアメリカ政府の餌食になったと語った[15]。教団は基本的に第1期プネー時代と同じ活動をし、改宗者からの高額の寄付は続いたが、建設活動はなく、ラジニーシの講話は徐々に減っていった[89][84][15]

晩年はキリスト教への嫌悪が強く、キリスト教を批判したニーチェバラモン教を批判した仏陀は「隷属の宗教を批判した」という点で共通すると語った[15]。彼の主治医デヴァラジは、ラジニーシがアメリカの刑務所でクリスチャンに毒を盛られたと考えてラジニーシに語り、1987年11月にラジニーシは信者たちに、アメリカ政府のクリスチャンが刑務所にいる間にラジニーシを放射線に暴露しタリウム中毒にしたと話した[15]。この主張の証拠はない[15]。晩年には著しく指導力が低下し、内部の権力闘争が表面化し、側近や弟子で離れるものも多く、中傷合戦が繰り広げられ、教団の存続が危ういこともあった[12]

1987年、ラジニーシはエイズを危険な病気とみなし、アーシュラム来訪者の全てにエイズの陰性証明書が求められるようになった[90]

死の2年前の1988年、ラジニーシは病気で死にかけて、ゴータマ・ブッダ(仏陀)またはブッダ・マイトレーヤ(弥勒菩薩)の霊の「乗り物」になったとされる[91]。この現象は、ゴータマ・ブッダの霊がゲストであり、ラジニーシがホストという関係で、ラジニーシはさまよえるゴータマ・ブッダの霊を受け入れ、ゴータマ・ブッダと議論し、ラジニーシの中毒の病状(毒による中毒症状だと考えていた)が完全に治ったのだという[91]。ラジニーシは談話を再開し、仏教・神道に関係のある日本の霊能者石田かつえ(Osho Newsでは、彼女は日本中で有名なチャネラー霊媒)であるとされている)が彼がゴータマ・ブッダまたはマイトレーヤ・ブッダの「乗り物」になるヴィジョン見たと話し、「バグワン」という尊称を醜い言葉だと完全に否定して、自らを「ゴータマ・ザ・ブッダ」または「最愛の友人」と呼ぶように要求し、さらに「マイトレーヤ・ザ・ブッダ」であると宣言して呼称を変えた[91]。ラジニーシは、ゴータマ・ブッダは20世紀に適応できず去ったと発表すると、今度は「マイトレーヤ・ゾルバ・ザ・ブッダ」と名乗った[91]。「ゾルバ」は、ギリシャの作家ニコス・カザンザキスの小説『その男ゾルバ』の登場人物から取ったもので[91][92][93]、「ゾルバ・ザ・ブッダ」とは、仏陀の静けさとギリシャのゾルバの世俗的な快楽を併せ持つ「新しい人間」なのだという[94]

1888年にはに興味を集中するようになった。1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をオショー・ラジニーシと呼ぶようになった[95]。さらにラジニーシは尊称をオショー(Osho)に変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをオショーに変えるよう求め、ラジニーシ国際財団改めオショー国際財団(OSHO International Foundation)が、オショーやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った[54]。健康状態の悪化により1989年4月に談話を中止し、信者たちに詳細なデザインを渡して新しい大理石の寝室を作るように命じ、そこで短い期間過ごした[84][15]。最後は寝たきりで笑気ガス中毒だった[86]。ラジニーシは1990年1月19日に死去した。公式に発表された死因は心不全だったが[15]、教団は彼の死はアメリカ政府が拘留中に食べ物に遅効性の毒をもったためであるとし、信者たちはアメリカ政府によって毒殺されたという話を広めた[96][15]。遺体は死去した日に火葬されており、毒殺に関する真偽は不明である[96]

死後

オショー国際財団が運営する瞑想リゾート

ネオ・サンニヤーシンたちは、ラジニーシが残したものを再定義し、教えの中心的な要素を再構成して外部とのトラブルが少なくなるようにし、和尚ラジニーシ運動は新宗教運動の市場に定着した[26]

教団は、古参の12名のネオ・サンニヤーシンによって運営されるようになった[67]。「インディアン・エクスプレス」誌が発行する雑誌「シチズン」によると、内部では多少の対立もあり、2000年時点で運営メンバーの半数がすでに入れ替わっている[97]。現在の教団は、聖なるサフラン色のローブといった地元民の反感を買う行動を避けるようになり、プネーのマスコミサイドも、集まる外国人の広告やイベントの経験に興味を持って歩み寄っているらしく、プネーの公序良俗を守るために教団を告発するような記事はなくなってきている[97]

コミューンは現在ではそのありかたをかなり変え、清潔な水とプール、美しい庭園を売りにする「瞑想をアトラクションとしたディズニーランド」といった施設になり、「地中海クラブ(クラブ・メディタレーニアン)」をもじって「クラブ・メディテーション」と名乗っている[98]。特に1990年代以降、瞑想キャンプを実施し、各地に瞑想ができる高級リゾートを作り、雑誌に広告を掲載するなど盛んにPRをおこない、インド人中間層の取り込みを図っているようである[39]。3日~3か月の瞑想法、セラピー、ダンス、禅を標榜する極東武道、手かざし等のヒーリングなど200種類以上のコースが提供され、常時2000人以上のネオ・サンニヤーシンが集まり、コースに参加している[98]。教えられている手かざしのレイキは日本発祥だが、ドイツ人レイキマスターでラジニーシの弟子の Himani H. Gerber が発展させ、ラジニーシが「オショー・ネオ・レイキ」という名前与えたものだという[99]

北アメリカと西ヨーロッパでは、ヨガや瞑想などの精神的トピックへの需要が高まっており、オショー国際財団は、IBMやBMWなどの企業向けにストレス管理セミナーを開催し、2000年にはアメリカで年間1,500万ドルから4,500万ドルの売上を上げた[26]

呼称の変遷

モーハン・チャンドラ・ジャインとしてインドに生まれた。(教団が出版した本では、本名はモーハン・チャンドラ・ラジニーシとなっている。)ジャインはジャイナ教の「ジャイナ」の現代インド語読みでジャイナ教徒の性、「月」を意味する「チャンドラ」は、インドの慣習から父の名であると思われる[100]。「夜の夫」、すなわち「月」を意味する「ラジニーシ」というあだ名は、現代インドではあまり見られない名前である[100]

1966年に大学を退職して「思想演説家」として、「先生」という意味のタイトルを冠して「アーチャーリヤ・ラジニーシ」と名乗って活動を始めた[100]。70年に入ると活動は宗教色を帯び、71年には自分の尊称を「アーチャーリヤ」から「バグワン・シュリー」に変えた[100]。バグワーンは「栄光ある」という意味で神や釈迦の尊称、特に創造神ヴィシュヌを指し、「シュリー」は「聖なる」という意味であり、この尊称はインドの人々からかなり反感を買うことになった[100]

死の2年前の1988年にラジニーシは、ゴータマ・ブッダ(仏陀)またはブッダ・マイトレーヤ(弥勒菩薩)の霊が体に入ったと考え「ゴータマ・ザ・ブッダ」を名乗り、「マイトレーヤ・ザ・ブッダ」「シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダ」と次々に名を変えた[91][93]

ラジニーシが晩年興味を持ったテーマはであり、その禅の講話のことばから、死の前年の1989年には弟子たちが「オショー・ラジニーシ / 和尚ラジニーシ(Osho Rajneesh)」と呼ぶようになり、ラジニーシは禅宗の「和尚」から取り「オショー(Osho)」という尊称を名乗るようになった[89][95]。この名称は生前ごく短期間しか使われていないが、死の前に商標等の権利関係は全てラジニーシからオショーに取り直されており、現在は著作も概ねオショー・ラジニーシかオショー名義で出版されている。

「オショー」の由来

概ね禅宗の「和尚」から取ったと理解されているが、2020年時点のオショー国際財団のホームページでは、ウィリアム・ジェームズの「オーシャニック(oceanic、大洋的)」に由来するとされている[101]。オショーは「オーシャニック」体験者を指す言葉と説明され、ラジニーシ個人の名前ではなく波の音であり「癒しの音」であり、ラジニーシは自分の教えから謙虚に名前を取り下げており、ひとりの「オーシャニック」体験者なのだとされる[101]

ラジニーシの講話では、「オーガズム体験」 = 「oceanic experience(大洋的体験)」と説明されており[102]、「オショー」は「オーシャニック」体験者でありオーガズム体験者になる。1989年初頭のラジニーシの言葉から、彼がその時点で日本で和尚という言葉が使われていること、その歴史的経緯を認識していたことははっきり分かっており、「オーシャニック」と「オショー」の関係を公に述べたこともないので、「オーシャニック」とウィリアム・ジェイムズを持ち出した由来の説明はおかしいという指摘もある[103]

(自分・自分たちは何か大きなものとつながっているという感情・一体感は、大洋の上で感じやすいことから「oceanic」と形容される。なお、ウィリアム・ジェームズは「大洋的体験」と呼ばれるような一種の神秘的体験を「mystical experience(神秘的体験)」と呼んでおり、大洋的という言葉はジェームズが作ったのではなく、ロマン・ロランフロイトへの書簡で使ったものである[104][105]

ラジニーシ運動の参加者

アメリカでは60~70年代に若者を中心に政治運動が盛り上がったが、彼らが期待したような成果はなく、「資本主義陣営と社会主義陣営の争いでは何も変わらない、無駄な戦争が起きるだけだ」と失望が広がっていた[34]。そうした政治運動で理想に燃えていた人々の一部(国際ジャーナリストのモーリー・ロバートソンは彼らを「西洋の物質社会に生きるナイーブな人たち」と評している)が、新たに期待を寄せたのが、ラジニーシやカルロス・カスタネダらの精神世界だった[34]。ラジニーシの信者は、他の新宗教運動のグループと同じように、比較的裕福な家庭でよい教育を受けた、アメリカをはじめとする西洋諸国の30歳前後の若者たち、富裕層の信者が多く、教団は彼らからの上納金で莫大な資金を得ていた[34]。オレゴン大学の心理学部がラジニーシの農場で行った調査によると、700人の回答者の64%が大学で学位を取得しており、81%が専門職やホワイトカラー出身だった[17]。教団の公式発表によると、信者の約3分の1がユダヤ人である[51]

弟子たちは、ラジニーシは覚醒者であり、自分たちを悟りに導くグルだと信じている[27]。1985年まで、弟子になるには、改名し、サフラン色のローブや赤系統の服を常に身に付け、首からはマラとよばれるラジニーシの写真のはいったロケットをつるした数珠をさげ、1日に1度は瞑想をすることが条件だった[27][53]。現在でもネオ・サンニヤーシンたちは、(生前はラジニーシから)サンスクリット語の名前サニヤス・ネーム(法名)を授かり、仲間同士その名前で呼びあっている[53]。講話録の翻訳者名にも、サニヤス・ネームが多くみられる。ラジニーシの教えや歴史についてよく知る信者は少なく、新しい参加者のほとんどは、1冊の講話集の内容しか知らなかった[15]

多くの女性信者は、女性を霊的に評価するラジニーシの教えは、「母性のもう一つの道の提示であり、女性に解放をもたらすもの」だと感じた[49]

ラジニーシと弟子達は、アメリカで外部と対立するうちに、世界を救うために選ばれた正しい教団内部と、危険で滅びつつある非難されるべき外部という、「白と黒の対立」として世を見るようになっていき、ユートピアを目指した共同体を強制収容所に近いものに変えていった[33]

ヒューマンポテンシャル運動で流行したグループセラピーでは、参加者の自我を「溶解」させ、防衛機制を除去するためにしばしば精神的・肉体的暴力が使われエスカレートしていったが、暴力により実際に起こっていたのは人格の「変容」ではなく「崩壊」のプロセスであり、参加者はその後にしばしばPTSD解離の症状に見舞われたり、強烈な「変容体験」が中毒化しセラピーに依存するものもいた[35]。教団の離脱者には、セラピーでの暴力や乱交のトラウマに苦しむ者もおり、元信者のひとりは、ラジニーシ・プラムの住人はアルコール依存や薬物乱用の割合が高く、自殺者も多く、「私の友達のほとんどは、死んでいるか、狂っているか、いなくなっている」と語っている[17][75]

カルトが関与・関係する宗教問題を扱うバークレーの組織 Options for Personal Transition 共同ディレクターを勤めるクリニカルソーシャルワーカーのヒリー・ザイトリンは、ラジニーシ教団の構造自体が、催眠に対する被暗示性を高めるよう機能していると述べた[17]。ザイトリンによると、エゴを超える・超越するという名目で、人々が自分自身を評価し努力するという普通の状態を壊すよう強い試みがされており、元信者たちとの面談で、彼らの他人と関わり感情を表現する能力が著しく減退しており、心理的に非常に後退していることに気が付いたという[17]

日本では、1997年当時で約3千人の信者がいると考えられ、東京をはじめ全国20数カ所の瞑想センターを拠点に活動を行い、インドでグループ・セラピーや、瞑想、コミューン活動に参加していた[53]。日本の信者へのインタビューによると、彼らはラジニーシ運動に参加する前、大部分が家族や友人との関係が希薄だった[53]。多くの人が講話録を通じてラジニーシに出会い、強烈な衝撃を受け、その後人生の転機(それ程深刻なものでないことが多い)に直面した際に教えを行動に生かすことで、ラジニーシやネオ・サンニヤーシンたちへの信頼を深めている[53]。スピリチュアルな世界への能動的なコミットメント、積極的な行動力でインドまで赴き、集中的な瞑想やグループ・セラピーで、社会的なしがらみからの開放感、変性意識状態を経験することで、ラジニーシへの傾倒を深める、というイニシエーションへの過程がうかがえる[53]。ラジニーシの開発した瞑想の集中的な実践や、泊りがけの数日間のグループ・セラピーを2~3か月間体験した後に、ネオ・サンニヤーシンのイニシエーションを申請することが多かった[53]

教団はアメリカで数々の事件を起こし、アメリカに残された弟子の多くはラジニーシに幻滅し棄教した。多くの信者が富裕層出身だったので、おそらく負い目を感じただろうが、家族の元へ戻り以前のように生活することができた[75]。インドやネパールを旅して自己探求を続けたり、続けてラジニーシのコミューンに参加している人もいる[75]。ラジニーシ・プラム終焉以降まで残ったメンバーの多くは、「この(アメリカでの)経験は霊的に有意義であり、むしろ喜ばしいものですらあった」と語った[28]。ラジニージ運動に参加しユートピアを建設することは、人生で最も深い、ポジティブな経験だったと振り返る信者もいる[42]。アメリカでの事件についても「側近が悪かっただけだ」「オショーの教えそのものは正しい」等と語る人もみられ[34]、ラジニーシの死は彼が肉体を離れただけのことで、精神はまだあり、私たちは瞑想することで今もオショーと共にあると語る信者もいる[85]。一方、ラジニーシと教団を批判し、当時の実態を告発をする離脱者の声も様々にある[15]。ラジニーシは詐欺師だと認めながらも、その教えから多くをスキルを学んだと考える人もいる[75]

メンバーには世代間ギャップがあり、日本でいう全共闘世代当たる政治闘争の世代のメンバーに対して、一回り下のメンバーは政治活動に興味はなく、「あの人たち、昔政治運動なんて馬鹿なことやったんだよね」という意識で見ている[106]。さらに一回り下になると、上の世代に見られた「世の中の変革のためには、まず自分が変わらなければならない」といった問題意識はなく、かなり功利主義的にスピリチュアルな世界をとらえている[106]

日本での運動の参加者には、ラジニーシには興味があるが、他のメンバーは興味がないという人もおり、ネオ・サンニヤーシンたちの熱狂的で宗教的な雰囲気には違和感や嫌悪感を覚えるという人もいる[53]。ラジニーシだけに興味があるという人は、教団を作り率いたラジニーシの行動や責任に関心はないようである。運動の参加者は、ラジニーシの存在や世界観に対する強い興味関心がまずあり、それに付随する形で他のメンバーとの関係を育てているようである[53]

ラジニーシの死去後も講話の本は売れ続け、多くの信者・ファンがいる。書店では現在も、オショー・ラジニーシまたはオショー名義の講話の本や、彼の教えをコンセプトにしたタロットカードのデッキ「osho禅タロット」を買うことができる[75]

性を扱うタントラ的スピリチュアリティはニューエイジと自己啓発運動で広がっているが、現代のタントラの指導者の多くはラジニーシの弟子、孫弟子である[49]

批評

彼はジャイナ教、ヒンドゥー教、ユダヤ教のハシディズムタントリズム道教キリスト教仏教などの主要な宗教の伝統、東洋と西洋のさまざまな神秘主義者たち、ヒンドゥー教のウパニシャッドシク教グル・グラント・サーヒブといった聖典を題材に語った。社会学者ルイス・F・カーターは、彼の思想をヒンドュー教の不二一元論に基づくと考えている[26]

西洋のアイデアも取り入れており、対立するものの統一という考え方はヘラクレイトスを思わせ、無意識と神経のパターンの表出に行動を支配された機械として人間をとらえる考え方は、フロイトグルジェフと多くの共通点を持っている。ラジニーシの「新しい人間」というヴィジョンは、ニーチェの「善悪の彼岸」を連想させる。性的欲求の抑圧に精神不調の原因を見出す考え方はヴィルヘルム・ライヒのライヒ派セラピーの影響があると思われ、性的解放に関する見解はD・H・ローレンスと比される[13][26]。ダイナミック瞑想はライヒに負うと思われる[26]。著作家の長澤靖浩は、インド思想を再発見しグノーシス主義を内包する神智学協会神智学の影響を受けた思想的潮流があり、ラジニーシはそれらの思想的達成を継承する形で、グルとしての道を歩み始めたのにはちがいないと述べている[107]。同時代のインド人精神教師のジッドゥ・クリシュナムルティはラジニーシを認めなかったが、2人の思想には明らかな類似点がある[26]

1970年代後半に弟子になったドイツ人哲学者のペーター・スローターダイクは、ラジニーシを20世紀で最も重要な人物の一人と考えて「宗教のヴィトゲンシュタイン」と呼び、世界の伝統において、言語ゲームによる急進的な脱構築を演じているのだ、と分析した[26]。ヒンドゥスタン・タイムズの元編集者クシュワット・シンは、インドによって育まれた最も独創的な思想家で、博識で、明晰で、革新的な人物であり、神、預言者、聖典、宗教的慣習といった宗教の伝統をあざけり、機知にとんだ逸話を伴うわかりやすい講話で宗教に新しい次元を与えた「自由思考の不可知論者」と見なし、称賛した[26]

支持者からは、自由と覚醒の中に生き続けることを教える<目覚めた者>、<光明を得た者>と呼ばれた[108][要ページ番号]。イギリスの「サンデータイムズ」の「二十世紀を作った千人」[いつ?]の一人と評された[109][要ページ番号]。西洋のニューエイジに影響を与えており、死後評価は上がってきている[26]。インドでも存命時は受け入れられなかったが、生前より評価が高くなっている[26]

エリザベス・パティックは、ラジニーシの性の教えはただの自由恋愛の免罪符ではなく、タントラを心理学と統合することで、現代の西洋人が受け入れ学べるものとして提示したと評価した[110]

グルジェフとラジニーシの類似性は、多くの第三者や支持者によって指摘されている。アメリカの作家トム・ロビンス英語版は、ラジニーシの公式サイト Osho.com に引用され続けている文章で、「ウィットと遊び心は非常に重要な悪の超越であり、私が思うに、オショーはこの一点に関して、同時代の誰よりも深い理解を持っていた。グルジェフの教えにはその要素があったが、過去50年でオショーほど遊び心と機知の価値を知っていた人はいない」と評し、彼の言葉は扇動的なだけでなく、支配欲の強い人々を脅かす真実性を持つがゆえに「イエス・キリスト以来、最も危険な男である」と称賛している[111][112]

1980年代初頭の大衆誌のコメンテイター、識者のほとんどはラジニーシを否定していた[26]。シーラ逮捕については、ラジニーシが彼女をスケープゴートにしたと考えるコメンテーターが多かった[26]。ラジニーシはナンセンスであり、その講話は繰り返しと間違いが多くうんざりさせられると酷評する意見もあった[26]

インド思想史研究者の山下博司は、彼の教えは、インドの近現代の聖者の多くと同じく一元論的な性格が強く、内容自体はある意味で平凡であるが、多くの支持者を引き付け得たのは、語りの巧みさが関係しているのだろうと評している[30]

伊藤雅之は、ラジニーシの書籍の内容と実際にやっていることには、ギャップがあると述べている[106]。足沢一成は、ラジニーシの体制批判、「自然であること」の重視は、アメリカでの統制的な体制といささか矛盾するようだと述べている[31]。また、聖なるエネルギーに満ちたグルが弟子に「悟り」を与えることができ、それにはグルへの絶対服従が必要であると解釈できる考え方は、教団の閉鎖性や反社会性を増長させたと指摘している[47]

ヒューマンポテンシャル運動同様に、人間の暗い面、悪を軽視しているという批判がある[11]

人間性心理学者のナサニエル・ブランデンは、1978年に友人への手紙で、ラジニーシは「The Mustard Seed」という本で「何百万人のユダヤ人が殺されたことを、ユダヤ人がイエスを殺したためだと説明し、正当化している」と批判し、「私は最初彼の話を聞き、本を読み始めたとき、魅了された。と同時に、ほとんど最初から、この男が深く、深く、深く悪であると、人間の想像力の限界を超えた規模の悪であると感じ、その思いは大きくなっていった」と書いた[17]

女性を「直観力、受容力、献身などの美徳」ゆえに霊的に優れていると考え、女性性の発達による霊性の向上を語ったが、女性に「古典的な女性性」を求めること自体が時代錯誤だという批判がある[49]

社会学者の中には、インドの不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)がラジニーシの社会転覆に、少なくとも部分的に責任がある可能性を示唆した者もいる[15]。著作家のケビン・R・D・シェパードは、ラジニーシの思想は、インドのヒンドゥー教における規律ある独身主義を伴うアドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統とは別物で、ヒッピーの考え方とヒューマンポテンシャル運動に影響され、観衆を満足させるために作られたタントラ風ネオ・ライヒアンであるとし、アドヴァイタ・ヴェーダーンタに責任の一端を求める考えを否定している[15]

編集者・ジャーナリストのウィン・マコーマック(Win McCormack)は、ラジニーシが信者に子供を持たないよう指導するのは、信者が特定のパートナーと愛情ある長期的な関係を持つことを望まなかったことと同じく、信者がラジニーシとの1対1の関係を強く感じ続けるための設計であり、それを子供やパートナーに邪魔されないためだと解説している[17]

ラジニーシの性の教えは支持者に性病を広めており、先進的な性の教えという評価は間違いで、野放図な性の教えだという意見がある[15]。ポートランドのルイス&クラーク大学の宗教学准教授キャスリーン・マクラフリンは、ラジニーシがサンニヤーシンという言葉を自分の信者に対して用いたのは、ヒンドゥー教の伝統や価値観に対する意図的なあざけりであり、侮辱であると述べている[17]。彼がタントラの精神性として、抑制されない性への耽溺と乱交(プネー時代には乱暴で攻撃的、特に侮辱的な乱交)を促進したが、それはヒンドゥー教のタントラと表面的に似ているにすぎず、タントラの性行為はオーガズムではないと説明した[17]。ヒンドゥー教のタントラは非常に規律のある霊性の道であり、タントラの修行で指導者にパートナーを選ばれても、少しでも性的な関わりを持つまでには何年もかかるかもしれない厳しいもので、ラジニーシが教えていないものがあるとすれば、それは規律であり、彼のタントラの教えは安っぽく、不正確で、扇動的だと批判した[17]

ヒリー・ザイトリンは、ラジニーシはカルトで使われる催眠誘導の技術を研究しており、彼の言葉の使い方、声のトーン、アイデアを並べるやり方、すべて本質的に催眠だとし、催眠とは深遠に見せかけていることを曖昧化する技術であり、アメリカでの「沈黙の誓い」も、しゃべらないことで信者は信じたいものをなんでも彼に投影できたと説明している[17]

ロサンゼルスのユダヤ連邦評議会のカルトと宣教活動に関するタスクフォース議長ラビ・スティーブン・ロビンスは、ラジニーシの信者にはユダヤ人が多いため、ラジニーシの反ユダヤ主義的な語りやジョークは、ユダヤ人信者のアイデンティティを壊すためのものだという見解を示した[51]。アイデンティティを壊された人は支配やコントロールを受け入れやすくなり、また介入して新しいアイデンティティを与えやすくなる、それはカルトのやり方だと述べている[51]。カルトの専門家は、反ユダヤ主義とユダヤ人の賞賛という相反する語りは、カルトが構成員の精神的バランスを崩して混乱させるために使用する手法の1つであると述べている[51]

ラジニーシ・プラムの犯罪と崩壊

ラジニーシ・プラムが数々の事件を引き起こし崩壊したことに、ラジニーシの責任がどれほどあるかについては、意見が分かれている[28]。信者たちはラジニーシを事件での有罪から解放するために動き、事件はラジニーシの知らないところで起きたもので、(有罪になり獄中にいた)シーラに全責任があり、彼ら側近の集団によって引き起こされたものだとみなされた[33]。長崎大学の脇坂有希は、ラジニーシもその側近も、どちらも単独で行動することはできなかったのであり、ラジニーシ・プラムでの出来事は「彼とその部下の相互の行動の産物なのである」と述べている[33]。ラジニーシ・プラムの主要なスポークスパーソンであり、法律の知識でラジニーシ・プラム市誕生を提案し市長になったデイビッド・ナップのFBIへの証言によると、一連の事件に関して、ラジニーシは少なくとも無実ではない[15]。ゴードン(1987年)は、オレゴン州担当の連邦検事チャールズ・ターナー、オレゴン州司法長官デイビット・B・フローンマイヤー、非公開の口述書の調査に携わり何百時間もの録音テープを聞いた法執行機関の当局者たちが、ラジニーシが起訴されたより多くの犯罪で有罪であることを暗に語ったと報告している[26]。元アメリカ地方検事補のロバート・ウィーバーは、「欲深さを動機に引き起こされたのではなく、悪によるものだ」とはっきり述べている[17]

ラジニーシ教団によるバイオテロ事件は、バイオテロ分析では非常に有名であり、動機などは部分的に解明されよく知られていたが、20世紀のバイオテロ・犯罪を研究するアメリカ国防大学のセス・カルス(Seth Carus)が、新たにラジニーシの事件への関与、サルモネラ菌以外の生物テロ計画があったこと等を明らかにした[24]。カルスの研究によると、シーラが計画を立て、ラジニーシに報告した際に、彼は「人々を傷つけないのが一番だが、何人か死んでも気にすることはない」と答えており、ラジニーシがサルモネラ菌散布を承知していたことが分かる[24]。またカルスは、サルモネラ菌が特定が困難で人を殺すことなく病気にする毒物だと理解されていたこと、サルモネラ菌製造の中心人物マ・アーナンダ・プジャが、ビーバーの死骸を水道に混入させて齧歯動物を媒介とする伝染病を蔓延させるアイデアを持っていたこと、肝炎やエイズウィルスの培養にも興味をもっていたことを指摘している[24]。プジャは、ナチスで人体実験を行った医師ヨーゼフ・メンゲレから取ったドクター・メンゲレというあだ名で呼ばれていた[15]

ウィン・マコーマックは、オウム真理教に関する書籍で紹介された「予言を積極的に実現しようと努める」カルトのリーダー「行動する予言者」の概念を示しつつ、マコーマックや 「Germs: Biological Weapons and America’s Secret War(細菌:生物兵器とアメリカの秘密戦争)」(2001年)の著者ジュディス・ミラーは、プジャがエイズウィルスの製造に成功していた場合、ラジニーシが語るエイズ蔓延による人類の危機という予測を現実のものにしようとする可能性があったと考えている、と述べた[17]

脇坂有希は、「部下達がその指導者達の態度と教義を受け入れ、合理化した過程だけでなく、起こった出来事の進展においてもオウム事件と多くの類似がある。毒ガスの秘密の開発を含めて、内部での暴力のパターン、黙示録の未来像、共同体で作られた緊急性、教団に対する陰謀とそれへの対応、これらはオウム内部ではもっと破壊的なやり方ではあったが、進行していったものと高い類似性を示している。地方共同体と対立しながら、ラジニーシ教団が展開し、しだい内閉化したシステムを作り出したやり方と、上九一色村の事件でオウム教団が信者たちに財政的な献身を要求したやり方の間には、類似した関係がある。」と、地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教との類似性を指摘している[33]

ドキュメンタリー

ラジニーシ教団の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた[113]。ラジニーシの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている[113]。映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い[113]。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した[113]

一部の人々は、ラジニーシ教団における女性や子供への性的暴行や、エイズの蔓延を意図していた可能性のある重要な情報を取り上げなかったと批判した[17]。ウィン・マコーマックは、映画製作者たちは解釈の問題で失敗しており、カルトの最も悪質ないくつかの実践や、オレゴン州の住民だけでなく世界中に与えた脅威の程度といった、映画で取り上げたよりもっと重要な問題に正面から取り組まず、あるいは完全に放置していると述べている。この映画の主要な情報源の一人であるジェーン・ストークは、自伝の中で自分の子供がラジニーシ・プラムで性的虐待を受けたと報告しているが[114][115]、このことは映画で取り上げられていない。

オショー国際財団は、「残念なことに、ドキュ(メンタリー)シリーズは中心的な局面を究明していないために、ストーリーの背後にある真実のストーリーを明確に報告していません。本質的には、これはホワイトハウスから下された米国政府の謀略であって、意識的な生き方に基づく共同体という Osho のヴィジョンの妨害を目指すものでした。」と反論している[25]

日本語書籍

講話録

バグワン・シュリ・ラジニーシ(ラジネーシ / ラジメーシ)名義
  • 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』スワミ・プレム・プラブッダ(星川淳)訳 (めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X)
  • 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の十牛図を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8)
  • 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年)
  • 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジニーシ、老子を語る(1,2,3,4)』 スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1979-1982年)
  • 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジネーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジネーシ・パブリケイション・ジャパン、1980年)
  • 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年)
    • 『あなたが死ぬまでは』(和尚エンタープライズジャパン、1997年、ISBN 4-900612-23-5)
  • 般若心経―バグワン・シュリ・ラジ二ーシ、色即是空を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1980年)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジネーシ・パブリケイション・ジャパン、1980年)
  • 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5)
  • 『愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくま-る、1981年)
  • 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年)
  • 『虚空の舟―荘子 (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年)
  • バウルの愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳(めるくまーる 1983年・1984年)
  • 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年)
  • 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ金剛般若経を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年)
  • 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ基本的人権を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年)
  • 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン(めるくまーる、1996年)
  • 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年)
  • 一休道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2)
  • 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1988年、ISBN 4-8397-0037-0)
  • マイトレーヤ―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年)
  • 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7
  • 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 : シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年)
  • 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年)
  • 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年)
オショー・ラジニーシ / 和尚ラジニーシ / 和尚 / OSHO 名義
  • 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ、スワミ・アナンド・ソパン訳 (めるくまーる、1989年)
  • 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3)
  • 『モジュッド : 説明できない生を生きた人―和尚スーフィーを語る』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年)
  • ニーチェ―和尚ラジニーシ、ニーチェを語る』スワミ・アナンド・ニサルガム、小森健太朗訳 (全国エルピー・プル狂連、1990年)
  • 坐禅和讃―和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年)
  • 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 (めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5)
  • 臨済録』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1991年、ISBN 4-8397-0061-3)
  • 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (和尚エンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1)
  • 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 『空っぽの鏡・馬祖』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9)
  • 道元―その探求と悟りの足跡』スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年)
  • 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (和尚コーシャ瞑想センター、1992年)
  • 『新瞑想法入門―和尚ラジニーシの瞑想法集大成』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2
  • 『これこれ千回もこれ―のまさに真髄』スワミ・アナンド・ソパン訳 (和尚エンタープライズジャパン、1993年)
  • 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 (市民出版社、1993年)
  • 秘教の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年)
  • 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4)
  • 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6)
  • 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • 第三の眼―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • ダンマパダ』 沢西康史訳(瞑想社、1994年)
  • ボーディダルマ』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6)
  • 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『TAO―老子の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8)
  • 『TAO―老子の道〈下〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0082-6)
  • 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1996年)
  • 『覚醒の炎 <奇跡の探求 : 和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 和尚サクシン瞑想センター訳(市民出版社 1996年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1998年)
  • イーシャ・ウパニシャッド―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 (市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0)
  • 『七身体の神秘 <奇跡の探求 : 和尚初期瞑想キャンプの講話2>』 和尚サクシン瞑想センター訳 (市民出版社、1998年)
    • 『七つのチャクラの神秘 <奇跡の探求 : 和尚初期瞑想キャンプの講話2>』和尚サクシン瞑想センター訳 (市民出版社、2016年)
  • 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 (市民出版社、1999年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7)
  • 黄金の華の秘密』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年)
  • 『タントラの変容―サラハの王の歌』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-177-4)
  • 『隠された神秘』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-174-X)
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
  • 『エンライトメント―神秘家・アシュタヴァクラ : ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 (市民出版社、2003年)
  • 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2005年)
  • 『そして花々が降りそそぐ―和尚講話録』 マプレムプラバヒ、和尚サクシン瞑想センター訳(市民出版社、2005年)
  • 『古代の奥義書ウパニシャッドを語る <究極の錬金術 1・2>』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2006年)
  • 『魂の科学-パタンジャリヨーガ・スートラ』 沢西康史訳 (LAF瞑想社、2007年)
  • 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2007年)
  • 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 (市民出版社、2009年)
  • 『愛の道-神秘家・カビールを語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2013年)
  • 『Joy 喜び』 山川紘矢訳 (角川書店、2013年)
  • 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校(市民出版社、2014年)
  • 『Courage 勇気』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2014年)
  • 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳(市民出版社、2016年)
  • 『Intuition 直観』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2016年)
  • 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2019年)
  • 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年)
  • 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 (大和書房、2019年)
  • 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 (市民出版社、2019年)

寄稿

  • 月刊オカルト情報誌「ムー」 1983年9月号 No.34、太田雅男 編集、学習研究社
  • 月刊オカルト情報誌「ムー」 1983年10月号 No.35、太田雅男 編集、学習研究社

解説

  • 玉川信明著 『和尚の超宗教的世界 トランスパーソナル心理学との相対関係』(社会評論社、2001年)
  • 玉川信明著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年)
  • 玉川信明編著 『和尚、性愛を語る』 (社会評論社、2003年)
  • 玉川信明編著 『和尚、聖典を語る』 (社会評論社、2003年)

雑誌

  • 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989)
  • 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → 和尚イア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了

脚注

補注

  1. ^ インドでゴッドマンとは、世俗に関わるやや胡散臭い聖者を意味する[1]

出典

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参考文献

書籍・論文
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  • 伊藤雅之「2.和尚ラジニーシ・ムーブメントの3様相 : 世界観、組織、担い手のダイナミクス(II「精神世界」の「社会性」を透視する,ワークショップ(1)精神世界の構図2-精神世界の「社会性」を透視する-)」『宗教と社会』第4巻、「宗教と社会」学会、1999年、13-18頁、doi:10.20594/religionandsociety.4.Suppl_13ISSN 1342-4726NAID 110007653802 
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ウェブ

関連文献

書籍
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  • Jane Stork (2009). Breaking The Spell : My Life As A Rajneeshee, And The Long Journey Back To Freedom(呪縛からの解放:ラージニーシ教団員としての私の人生、そして自由への長い旅) 
  • Oliver Klatt (2007). Reiki Systems of the World: One Heart - many Beats(世界のレイキシステム:たくさんの鼓動を打つひとつのハート). Lotus Pr 
  • マックス・ブレッカー『Osho アメリカへの道-砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、めるくまーる、2005年
  • マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々』 マ・プレム・ソナ訳、和尚エンタープライズ・ジャパン、1994年
  • ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、第三書館、1991年(再版)
    • ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録。ブレッカー『Osho アメリカへの道』によると本書は名誉毀損で訴えられている[誰?]。足沢一成によると、ラジニーシの実像およびアーシュラムの内情については信憑性が高いと評価され、多くのラジニーシ運動の研究で参考にされている。(足沢,2000年)
  • ヴァサント・ジョシ 『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年
  • 和尚『ア・カップ・オブ・ティー オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ, スワミ・アナンド・ソパン 訳、めるくまーる、1995年。 
ウェブ

関連項目

外部リンク