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「西周 (啓蒙家)」の版間の差分

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2020年10月24日 (土) 07:09時点における版

西周

西 周にし あまね文政12年2月3日1829年3月7日) - 明治30年(1897年1月31日) は、江戸時代後期から明治時代初期の日本哲学者教育家啓蒙思想家幕臣官僚である。獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)初代校長、貴族院議員男爵錦鶏間祗候でもあった。西 周助ともいう[1]

生涯

石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。幼名、経太郎。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだというが保存されている。

漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校養老館蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、シモン・フィッセリングドイツ語版法学を、またカント哲学経済学国際法などを学ぶ。オランダ留学中の1864年ライデンフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会したとの史料が発見されているが[2]その経緯については研究途上である。

慶応元年12月28日(1865年2月13日)に帰国した後、目付に就任[3]徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年9月28日(1870年10月22日)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省文部省宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立に努めた。

明治6年(1873年)には森有礼福澤諭吉加藤弘之中村正直西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。『明六雑誌』1874年3月に「洋字を以て国語を書するの論」を発表。1874年7月、形式論理学に関する最初の解説書『致知啓蒙』を刊行。1875年4月から1876年9月までヘヴン著西訳『心理学』刊行。『明六雑誌』1875年6月から10月に「人生三宝説」を発表。

東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長[4]獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。

明治17年(1884年)頃から右半身が麻痺しはじめ、明治20年(1887年)、健康上の理由により文部省陸軍省学士会院会員の公職を辞職した。明治23年(1890年)9月29日には貴族院勅選議員に任じられ[5]、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[6]。明治24年(1891年)2月17日[7]、体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職した。明治25年(1892年)、大磯の別邸に移った。歩行は不自由で外出は不可能であったが、学問の研究は続けられ、西洋の心理学と、東洋の儒教・仏教の思想を統一した新しい心理学の体系を書き続けた。その著『生性発蘊』は、遂に未完に終わった。明治30年(1897年)、明治天皇は西の功績に対し勲一等瑞宝章男爵の位を授けた。同年1月31日に死去。墓所は東京都港区青山霊園

獨逸学協会学校

明治14年(1881年)、現在の獨協中学校・高等学校にあたる獨逸学協会学校の創立に参画した。2年後の開校にあたり初代校長に就任した。西は獨逸学協会学校開校式の演説において「そもそも、学をなす道はまず志を立つるにあり」「志を立てて学問に従事すれば、これに次ぐものは勉強にあり」と述べている。

人物

親族

西周旧居(島根県津和野町)

著作・主な論考

『西周全集』宗高書房(全4巻)、1960~1971年に刊行。大久保利謙ほか編集

  • 第1巻【哲学篇】
    • 百一新論 (1874)
    • 復某氏書 (1870年頃執筆)
    • 致知啓蒙 (1874:日本初の形式論理学解説書)
    • 知説 (1874:知識論)
    • 美妙学説 (執筆年不明:美学の解説)
    • 教門論 (1874:宗教論)
    • 人世三宝説 (1875:道徳論)
    • 心理説ノ一斑 (1886:心理学についての講演)
  • 『西周 現代語訳セレクション』慶應義塾大学出版会、2019年

栄典

位階
爵位
勲章等


伝記

  • 清水多吉『西周――兵馬の権はいずこにありや』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2010年5月。ISBN 978-4-623-05774-0 
  • 島根県立大学西周研究会編 編『西周と日本の近代』ぺりかん社、2005年5月。ISBN 4-8315-1105-6 

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 西周 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  2. ^ 宮永孝「オランダにある幕末維新史料」(社会労働研究1988.03)[1][2]PDF-P.32,34
  3. ^ 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』 第4巻、東洋書林、1998年5月、2063頁頁。ISBN 4-88721-306-9 
  4. ^ 初代会長は福澤諭吉である。
  5. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  6. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  7. ^ 『官報』第2289号、明治24年2月19日。
  8. ^ 「百一新論」[3](PDF-P6)[4]。「百一新論」は東京の山本覚馬(ヤマモトカクマ)により明治7年3月に出版されたもの(近代デジタルライブラリーで閲覧可能[5])。
  9. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  10. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  11. ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
  12. ^ 『官報』第4074号「叙任及辞令」1897年2月1日。
  13. ^ 『官報』第1219号「彙報」1887年7月22日。
  14. ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
  15. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  16. ^ 『官報』第4072号「叙任及辞令」1897年1月28日。

関連項目

外部リンク

公職
先代
(新設)
沼津兵学校頭取
1868年 - 1870年
次代
塚本明毅
その他の役職
先代
(新設)
獨逸学協会学校長
1883年 - 1887年
次代
桂太郎
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
西(周)家初代
1897年
次代
西紳六郎