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「第一次木津川口の戦い」の版間の差分

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'''第一次木津川口の戦い'''(だいいちじきづがわぐちのたたかい)は、[[天正]]4年([[1576年]])に[[毛利氏]]と[[織田氏]]との間に起こった戦い。
'''第一次木津川口の戦い'''(だいいちじきづがわぐちのたたかい)は、[[天正]]4年([[1576年]])に[[毛利氏]]と[[織田氏]]との間に起こった戦いである。戦闘は主に[[大阪湾]][[木津川 (大阪府)|木津川]][[河口]]で行われた


==概要==
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そのため、本願寺への兵糧搬入を目的とした[[毛利水軍]]・[[小早川水軍]]・[[村上水軍]]を中心とする毛利側の[[水軍]]戦力と、それを阻止せんとする[[織田信長|織田]]方の水軍戦力の間で戦闘が発生した。
そのため、本願寺への兵糧搬入を目的とした[[毛利水軍]]・[[小早川水軍]]・[[村上水軍]]を中心とする毛利側の[[水軍]]戦力と、それを阻止せんとする[[織田信長|織田]]方の水軍戦力の間で戦闘が発生した。

主戦場は[[大阪湾]][[木津川 (大阪府)|木津川]]河口(現在の[[大阪市]][[大正区]]に位置する[[木津川運河]]界隈)。


織田水軍は、横に幅広く隊形を組んで毛利水軍を待ち構えていたのに対し、毛利水軍、は縦に長い陣形を取って織田水軍に突撃していった。
織田水軍は、横に幅広く隊形を組んで毛利水軍を待ち構えていたのに対し、毛利水軍、は縦に長い陣形を取って織田水軍に突撃していった。

2020年12月3日 (木) 09:28時点における版

第一次木津川口の戦い

「難波船軍図」(村上水軍博物館寄託)
戦争戦国時代 (日本)
年月日天正4年7月13日1576年8月7日
場所木津川口
結果:瀬戸内水軍衆の勝利、石山本願寺への補給路確保
交戦勢力
毛利水軍
小早川水軍
村上水軍
織田水軍
指導者・指揮官
乃美宗勝
村上元吉
真鍋貞友
戦力
約700~800隻 約300隻
損害
不明 壊滅的打撃
織田信長の戦い

第一次木津川口の戦い(だいいちじきづがわぐちのたたかい)は、天正4年(1576年)に毛利氏織田氏との間に起こった戦いである。戦闘は主に大阪湾木津川河口で行われた。

概要

織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺は、西国の大名・毛利輝元に兵糧や武器などの援助を求めた。

そのため、本願寺への兵糧搬入を目的とした毛利水軍小早川水軍村上水軍を中心とする毛利側の水軍戦力と、それを阻止せんとする織田方の水軍戦力の間で戦闘が発生した。

織田水軍は、横に幅広く隊形を組んで毛利水軍を待ち構えていたのに対し、毛利水軍、は縦に長い陣形を取って織田水軍に突撃していった。

毛利水軍は織田水軍の死角に焙烙火矢を投げ込んだため、次々と主力の安宅船が炎上していった。慌てた織田水軍の兵士たちは次々と川に飛び込み、船に残った織田軍兵士も次々に討ち死にしていった。

さらに毛利軍兵士は、水中に潜って安宅船の船底に穴をあけるなど、あの手この手で織田水軍の軍船を沈めてった。

結果的に毛利水軍の大勝利となり、悠々と本願寺に兵糧を運び入れた。

主な参戦武将

毛利方

毛利方の参戦部将として戦闘経過をまとめた当時の注進状に名を残している以下の部将が挙げられる。能島村上氏の当主村上武吉や、まだ幼かった来島村上氏の当主来島通総は参戦しなかったようであるとされている。

参加戦力7~8百隻

織田方

信長公記』による参加武将

参加戦力3百余隻

関連作品

関連項目

脚注