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「ペンシルロケット」の版間の差分

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[[File:Pencil Rocket.jpg|thumb|300px|right|ペンシルロケット([[国立科学博物館]]の展示)]]
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'''ペンシルロケット'''は、将来のロケット[[旅客機]]開発の実現を睨んだ[[ロケット]]推進の研究を目的として、[[東京大学生産技術研究所]]AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)班が開発した、一連の小型[[ロケット]]シリーズである。開発名は「'''タイニー・ランス'''」。
'''ペンシルロケット'''は、将来のロケット[[旅客機]]開発の実現を睨んだ[[ロケット]]推進の研究を目的として、[[東京大学生産技術研究所]]AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:[[アビオニクス]]及び超音速空気力学)班が開発した、一連の小型[[ロケット]]シリーズである。開発名は「'''タイニー・ランス'''」。


== 概要 ==
== 概要 ==
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== 国分寺実験 ==
== 国分寺実験 ==
[[1955年]]3月に工学博士の糸川英夫が、[[東京都]][[国分寺市]]でペンシルロケットの水平発射実験を行った。この実験は全長230mmのペンシル標準型を使用して行われ、長さ1.5mの水平発射台から発射されたロケットがスクリーンを貫きながら飛翔するというものだった。最初の実験は[[3月11日]]に行われ、[[3月23日]]までに29機のペンシルロケットが発射された。尾翼の取り付け角度や弾頭の重量などにバリエーションがあり、様々なロケット側の条件で基礎的なデータが収集された。
1955年3月に、[[東京都]][[国分寺市]]でペンシルロケットの水平発射実験を行った。この実験は全長230mmのペンシル標準型を使用して行われ、長さ1.5mの水平発射台から発射されたロケットがスクリーンを貫きながら飛翔するというものだった。最初の実験は3月11日に行われ、3月23日までに29機のペンシルロケットが発射された。尾翼の取り付け角度や弾頭の重量などにバリエーションがあり、様々なロケット側の条件で基礎的なデータが収集された。


== 千葉実験 ==
== 千葉実験 ==

2020年12月5日 (土) 11:36時点における版

ペンシルロケット(国立科学博物館の展示)

ペンシルロケットは、将来のロケット旅客機開発の実現を睨んだロケット推進の研究を目的として、東京大学生産技術研究所AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:アビオニクス及び超音速空気力学)班が開発した、一連の小型ロケットシリーズである。開発名は「タイニー・ランス」。

概要

太平洋戦争後の日本における初の実験用ロケットである。1954年に年間予算560万円で開発が開始された。予算の制約から超小型の火薬式ロケットを実験装置として使用し、鉛筆(ペンシル)のようであるところからこの愛称が生まれた。

合計150機あまりが発射された。ロケットとしては非常に小さく、また、能力もペイロードを載せたりできるような代物ではなかったものの、単体でロケットシステムとして成立しており、ノーズコーンや尾翼の材質、形状、重心の変化等による空力特性の変化による分散の影響などが調べられた。後のカッパロケットラムダロケットの開発時におけるフラッター現象の解析においては、これらのデータが有効に活用されたという。

当初はロケットを応用すべき航空宇宙的な研究対象として、成層圏上層(大気界面)の超高速飛行などを検討していた。「宇宙研物語」によれば、そのような上層であれば希薄大気であるから温度上昇の問題も抑えられ、(対流圏の現象である)気象などの影響も少なく、東京~サンフランシスコ間なら4時間ぐらいで安全に飛行できる、といったものが「糸川の高速飛翔体構想」だった、と述べられている[1]。これが、糸川が新聞の取材に応じて語ったことで世に出た記事は、「ロケット旅客機」「20分で太平洋横断」といった見出しが踊るもので、実際に製作した秋葉鐐二郎によれば「ボール紙で作ったロケット」[2]が「試作した国産ロケット一号」というキャプション付きで紹介されるといったものだった。このため(後のNASPのような)スペースプレーンを目指していた、という印象が広まっている。しかしそのように広まったことで、文部省関係者などの目にとまって後の国際地球観測年に向けた宇宙科学との連携のきっかけになり[3]、日本の固体ロケット開発をおおきく進めることにつながった。

国分寺実験

1955年3月に、東京都国分寺市でペンシルロケットの水平発射実験を行った。この実験は全長230mmのペンシル標準型を使用して行われ、長さ1.5mの水平発射台から発射されたロケットがスクリーンを貫きながら飛翔するというものだった。最初の実験は3月11日に行われ、3月23日までに29機のペンシルロケットが発射された。尾翼の取り付け角度や弾頭の重量などにバリエーションがあり、様々なロケット側の条件で基礎的なデータが収集された。

千葉実験

1955年6月には当時千葉県千葉市にあった東京大学生産技術研究所に場所を移し、50mの船舶用実験水槽を改造したピットにおいて、引き続きロケットを水平発射する実験が行われた。この実験では全長300mmに大型化したペンシル300型や、二段式ペンシル、無尾翼ペンシルなどが使われた。実験中、発射台に装着される途中だった二段式ペンシルが配線ミスの為に誤って発射されるという事故が起きたが、大事には至らなかった。しかし、以後2段式ペンシルの第2段着火に同型の時限装置が用いられる事はなかった。

道川実験

1955年8月からは秋田県道川海岸でロケットを斜め上方に打ち上げる実験を行った。8月6日午後2時18分に行われた最初の打ち上げは、発射台の欠陥によってロケットが発射直後に砂浜に落下し失敗に終わった。発射台はただちに改良され、午後3時32分の二度目の実験で打ち上げに成功した。使用されたのはペンシル300型で、燃料に含まれていた四塩化チタンにより煙をひきながら16.8秒間ほど飛行した後、700m離れた海面に落下した。到達高度は600mだった。ペンシルロケットの斜め打ち上げ実験は8日で終了し、計画はより大型のベビーロケットに受け継がれた。総飛翔数は6機であった。

構成・諸元

日本油脂の固体推進剤製造設備の関係から、即座に供給可能な推進薬の例として朝鮮戦争バズーカ用に生産された全長123mm、直径9.5mm、内径2mm、1本5,000円のダブルベース火薬が提示され、このサイズに合わせて機体の設計が行われた。推進薬としては前述のダブルベース火薬をベースに、過塩素酸カリウムを減量しグラファイトを増量するなど、組成を変更し安全性を高めたものを村田勉が新たに開発した。推進剤の点火薬としては黒色火薬が用いられた。機体の材料には太平洋戦争中航空機用として製造され富士精密工業の材料倉庫に眠っていたジュラルミン チ-201 を使用し、熱環境が厳しい先端部には真鍮ステンレスを用いている。機体の設計は垣見恒男、ノーズコーンや尾翼の設計は玉木章夫が行った。

ペンシル

  • 全長:230mm
  • 重量:0.202kg
  • 外径:18mm

ペンシル300

  • 全長:300mm
  • 重量:0.251kg
  • 外径:18mm

二段式ペンシル

  • 全長:460mm
  • 重量:0.367kg
  • 外径:18mm

再現実験と顕彰・記念活動

宇宙科学研究所では2005年、原点であるペンシルロケットの実験から50周年となるのを記念して再現実験を実施した。実験は能代多目的実験場で行われた後、幕張メッセで行われたイベントで披露された。

2005年、スペースシャトルミッションSTS-114において、野口聡一宇宙飛行士によってペンシルロケットの実物が国際宇宙ステーションへと持ち込まれた。

国分寺市は、実験の一つが行われた4月12日を「国分寺ペンシルロケット記念日」として、“日本の宇宙開発発祥の地”であることをアピールする展示会などを開いている[4]

実機展示

2013年時点での実機の所在確認と鑑定の結果は以下を参照

脚注・出典

関連項目

参考文献

外部リンク