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「石田紀子」の版間の差分

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'''石田 紀子'''(いしだ のりこ、[[1960年]][[12月14日]] - [[1987年]][[8月2日]])は、[[日本]]の[[俳優|女優]]、[[タレント]]である。本名、'''上野 典子'''<ref name="Kotobank">[[#Reference-Kotobank-石田 紀子|新撰 芸能人物事典 明治~平成]]</ref>。'''中原 歩'''名義の活動時期もある。
'''石田 紀子'''(いしだ のりこ、[[1960年]][[12月14日]] - [[1987年]][[8月2日]])は、[[日本]]の[[俳優|女優]]、[[タレント]]である。本名、'''上野 典子'''<ref name="Kotobank">[[#Reference-Kotobank-石田 紀子|新撰 芸能人物事典 明治~平成]]</ref>。'''中原 歩'''名義の活動時期もある<ref name="tvbangumi"/>


== 生涯・人物 ==
== 生涯・人物 ==
[[福岡市]]で出生し、弟がいる<ref name="tvbangumi">週刊テレビ番組(東京ポスト)1980年2月15日号 p.48</ref>。[[ドライブ]]と[[映画]]鑑賞が趣味で、幼少時は[[客室乗務員|CA]]を志望していた。[[視力]]は2.0で[[平衡感覚]]の良さが自慢と語っている<ref name="typ11">月刊[[ラジオパラダイス]] 1986年7月号 紹介記事。</ref>。
[[福岡市]]で出生し、弟がいる<ref name="tvbangumi">週刊テレビ番組(東京ポスト)1980年2月15日号 p.48「中原歩プロフィール」</ref>。[[ドライブ]]と[[映画]]鑑賞が趣味で、幼少時は[[客室乗務員|CA]]を志望していた。[[視力]]は2.0で[[平衡感覚]]の良さが自慢と語っている<ref name="typ11">月刊[[ラジオパラダイス]] 1986年7月号 p.6 紹介記事。</ref>。


幼少時に父親の仕事の関係で[[千葉県]]に移住する。中学生時代は[[バレーボール]]部で活動<ref name="tvbangumi"/>する。[[千葉県立木更津東高等学校]]在学中の[[1978年]]に、[[資生堂]]CMモデルのオーディションに応募して出場し、スカウトの目に留まり誘われる<ref name="Kotobank" />。高校卒業後の[[1979年]]に東映俳優センターに入所して同年にテレビドラマ『[[燃えろアタック]]』でデビューし、女優として活動する<ref name="tvbangumi"/>。
幼少時に父親の仕事の関係で[[千葉県]]に移住する。中学生時代は[[バレーボール]]部で活動<ref name="tvbangumi"/>する。少女時代は歌うことが大好きで、高校生時代は歌手志望だった<ref name="myojo800608">[[週刊明星]] 1980年6月8日号 p.16</ref>。[[千葉県立木更津東高等学校]]在学中の[[1978年]]に、[[資生堂]]CMモデルのオーディションに応募して出場し、落選するも(この時合格したのは[[小野みゆき]]<ref name="myojo800608"/>)、スカウトの目に留まり誘われる<ref name="Kotobank" />。高校卒業後の[[1979年]]に東映俳優センターに入所して同年にテレビドラマ『[[燃えろアタック]]』でデビューし、女優として活動する<ref name="tvbangumi"/>。


[[1985年]]に、かねてより「日本初の女性ヘリDJを育ててみたい」と思っていた[[横浜エフエム放送|FM横浜]]「[[湘南ミュージックスカイウェイ]]」のディレクターと出会い、当番組のDJを約1年間務めた。[[役作り]]のために石田を[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]のレポートドライバー「954ガール」に就かせてレポートの訓練に励みながら、合間を見て[[ヘリコプター]]に乗せて実地訓練を積ませた<ref name="typ12">月刊ラジオパラダイス 1988年1月号特集「1987ラジオ界重大ニュース」(30ページ)。</ref>。ディレクターは「彼女は時々怖がって目をつぶることがあるが、そんな時でも平気な顔をしていた。ヘリDJになるために生まれてきたようなもので、彼女の天性のものだと思う」と語っている<ref name="typ12"/>。石田はこの仕事に就く以前はヘリコプターに乗ったことは全くなかった<ref name="typ11"/>が、[[1987年]]8月2日同番組最後の放送中に乗っていたヘリコプターが[[茅ヶ崎]]沖で墜落し死亡した<ref name="Kotobank" />。
本人は、元々はどうしても役者をやりたいと思っていたわけではなく、役者の他にも[[スタイリスト]]や[[ルポライター]]など色々なことをやりたいと思っていたという。「ただ[[OL]]として机で事務をするのだけは嫌だな」と考えていたと話している<ref>[[GORO]] 1980年2月14日号 p.28 - 29 本人のグラビアページ</ref>。
[[1985年]]に、かねてより「日本初の女性ヘリDJを育ててみたい」と思っていた[[横浜エフエム放送|FM横浜]]「[[湘南ミュージックスカイウェイ]]」のディレクターと出会い、当番組のDJを約1年間務めた。[[役作り]]のために石田を[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]のレポートドライバー「954ガール」に就かせてレポートの訓練に励みながら、合間を見て[[ヘリコプター]]に乗せて実地訓練を積ませた<ref name="typ12">月刊ラジオパラダイス 1988年1月号特集「1987ラジオ界重大ニュース」(30ページ)。</ref>。しかし石田はこの仕事に就く以前はヘリコプターに乗ったことは全くなかった<ref name="typ11"/>。ディレクターは「彼女は時々怖がって目をつぶることがあるが、そんな時でも平気な顔をしていた。ヘリDJになるために生まれてきたようなもので、彼女の天性のものだと思う」と語っている<ref name="typ12"/>。[[1987年]]8月2日同番組最後の放送中に乗っていたヘリコプターが[[茅ヶ崎]]沖で墜落し死亡した<ref name="Kotobank" />。


『燃えろアタック』の監督であった[[奥中惇夫]]は、撮影当時はおとなしく「女優に向いていないのでは」と心配したが作品制作終了後も毎年欠かさず年賀状を送るなど律儀な印象もあり、石田の葬儀で両親の姿を見た際に涙ぐんだ<ref>『テレビ映画監督一代記 仮面ライダーがエントツの上に立った日』 奥中惇夫 2004年 筑摩書房 p159-161。</ref>。
『燃えろアタック』の監督であった[[奥中惇夫]]は、撮影当時はおとなしく「女優に向いていないのでは」と心配したが作品制作終了後も毎年欠かさず年賀状を送るなど律儀な印象もあり、石田の葬儀で両親の姿を見た際に涙ぐんだ<ref>『テレビ映画監督一代記 仮面ライダーがエントツの上に立った日』 奥中惇夫 2004年 筑摩書房 p159-161。</ref>。
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湘南ミュージックスカイウェイは、DJの石田が[[神奈川県]]西部の湘南地域上空を[[ヘリコプター]]で飛行して湘南の今を紹介しながら、リスナーから寄せられたはがきのリクエストやお便りを読み上げるもので、生放送の体裁だが実際は事前に録音したものを放送しており、事故当日も5日前に収録したものを放送していた。生放送の雰囲気を醸すため、放送と同じ時間帯に番組と同じコースでヘリコプターを飛ばす試みが行われていた。
湘南ミュージックスカイウェイは、DJの石田が[[神奈川県]]西部の湘南地域上空を[[ヘリコプター]]で飛行して湘南の今を紹介しながら、リスナーから寄せられたはがきのリクエストやお便りを読み上げるもので、生放送の体裁だが実際は事前に録音したものを放送しており、事故当日も5日前に収録したものを放送していた。生放送の雰囲気を醸すため、放送と同じ時間帯に番組と同じコースでヘリコプターを飛ばす試みが行われていた。


1987年8月2日の放送で石田が勇退して[[斉藤子]]が後継を務めることが決まっており、石田の最終フライトが放送される直前の夕方15時54分に[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]西浜海岸上空を飛行していたヘリが墜落し、目撃者らによって救助され、茅ヶ崎市内の病院に搬送されたが、搭乗していた石田と番組スタッフ1名は死亡、機長と番組スタッフ2名が負傷した<ref>{{Cite report |author=国土交通省運輸安全委員会|authorlink=国土交通省 |date=1988年4月28日 |title=航空事故調査報告書|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/63-4-3-JA9355.pdf |ref=harv |page=3 |accessdate=2017年11月4日 }}</ref>。石田は番組の最後に「これから[[東京ヘリポート]]へ私の操縦で戻りたいと思います。私はこれから空に帰ります。女優業に戻ります」と挨拶をしてリスナーに別れを告げたが、結果的に石田の生前最後の挨拶ともなった。この事故を受け、斉藤が担当する予定だった翌週からの放送は急遽中止されてそのまま[[打ち切り]]となった<ref>1987年8月3日付 新聞各紙([[毎日新聞]]、[[朝日新聞]]、[[読売新聞]])の記事、月刊ラジオパラダイス 1987年10月号内の記事より。</ref><ref name="typ12"/>。
1987年8月2日の放送で石田が勇退して[[斉藤子]]が後継を務めることが決まっており、石田の最終フライトが放送される直前の夕方15時54分に[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]西浜海岸上空を飛行していたヘリが墜落し、目撃者らによって救助され、茅ヶ崎市内の病院に搬送されたが、搭乗していた石田と番組スタッフ1名は死亡、機長と番組スタッフ2名が負傷した<ref>{{Cite report |author=国土交通省運輸安全委員会|authorlink=国土交通省 |date=1988年4月28日 |title=航空事故調査報告書|url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/63-4-3-JA9355.pdf |ref=harv |page=3 |accessdate=2017年11月4日 }}</ref>。石田は番組の最後に「これから[[東京ヘリポート]]へ私の操縦で戻りたいと思います。私はこれから空に帰ります。女優業に戻ります」と挨拶をしてリスナーに別れを告げたが、結果的に石田の生前最後の挨拶ともなった。この事故を受け、斉藤が担当する予定だった翌週からの放送は急遽中止されてそのまま[[打ち切り]]となった<ref>1987年8月3日付 新聞各紙([[毎日新聞]]、[[朝日新聞]]、[[読売新聞]])の記事、月刊ラジオパラダイス 1987年10月号内の記事より。</ref><ref name="typ12"/>。


== 出演 ==
== 出演 ==

2021年1月23日 (土) 09:47時点における版

いしだ のりこ
石田 紀子
本名 上野 典子
別名義 中原 歩
生年月日 (1960-12-14) 1960年12月14日
没年月日 (1987-08-02) 1987年8月2日(26歳没)
出生地 日本の旗 日本福岡県福岡市
死没地 日本の旗 日本神奈川県茅ヶ崎市
職業 女優
タレント
ジャンル テレビドラマ
活動期間 1979年 - 1987年
活動内容 1979年:東映俳優センターに入所
1987年:死去
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石田 紀子(いしだ のりこ、1960年12月14日 - 1987年8月2日)は、日本女優タレントである。本名、上野 典子[1]中原 歩名義の活動時期もある[2]

生涯・人物

福岡市で出生し、弟がいる[2]ドライブ映画鑑賞が趣味で、幼少時はCAを志望していた。視力は2.0で平衡感覚の良さが自慢と語っている[3]

幼少時に父親の仕事の関係で千葉県に移住する。中学生時代はバレーボール部で活動[2]する。少女時代は歌うことが大好きで、高校生時代は歌手志望だった[4]千葉県立木更津東高等学校在学中の1978年に、資生堂CMモデルのオーディションに応募して出場し、落選するも(この時合格したのは小野みゆき[4])、スカウトの目に留まり誘われる[1]。高校卒業後の1979年に東映俳優センターに入所して同年にテレビドラマ『燃えろアタック』でデビューし、女優として活動する[2]

本人は、元々はどうしても役者をやりたいと思っていたわけではなく、役者の他にもスタイリストルポライターなど色々なことをやりたいと思っていたという。「ただOLとして机で事務をするのだけは嫌だな」と考えていたと話している[5]

1985年に、かねてより「日本初の女性ヘリDJを育ててみたい」と思っていたFM横浜湘南ミュージックスカイウェイ」のディレクターと出会い、当番組のDJを約1年間務めた。役作りのために石田をTBSラジオのレポートドライバー「954ガール」に就かせてレポートの訓練に励みながら、合間を見てヘリコプターに乗せて実地訓練を積ませた[6]。しかし石田はこの仕事に就く以前はヘリコプターに乗ったことは全くなかった[3]。ディレクターは「彼女は時々怖がって目をつぶることがあるが、そんな時でも平気な顔をしていた。ヘリDJになるために生まれてきたようなもので、彼女の天性のものだと思う」と語っている[6]1987年8月2日、同番組最後の放送中に乗っていたヘリコプターが茅ヶ崎沖で墜落し死亡した[1]

『燃えろアタック』の監督であった奥中惇夫は、撮影当時はおとなしく「女優に向いていないのでは」と心配したが作品制作終了後も毎年欠かさず年賀状を送るなど律儀な印象もあり、石田の葬儀で両親の姿を見た際に涙ぐんだ[7]

ラジオ番組・湘南ミュージックスカイウェイでの事故死

湘南ミュージックスカイウェイは、DJの石田が神奈川県西部の湘南地域上空をヘリコプターで飛行して湘南の今を紹介しながら、リスナーから寄せられたはがきのリクエストやお便りを読み上げるもので、生放送の体裁だが実際は事前に録音したものを放送しており、事故当日も5日前に収録したものを放送していた。生放送の雰囲気を醸すため、放送と同じ時間帯に番組と同じコースでヘリコプターを飛ばす試みが行われていた。

1987年8月2日の放送で石田が勇退して斉藤厚子が後継を務めることが決まっており、石田の最終フライトが放送される直前の夕方15時54分に茅ヶ崎西浜海岸上空を飛行していたヘリが墜落し、目撃者らによって救助され、茅ヶ崎市内の病院に搬送されたが、搭乗していた石田と番組スタッフ1名は死亡、機長と番組スタッフ2名が負傷した[8]。石田は番組の最後に「これから東京ヘリポートへ私の操縦で戻りたいと思います。私はこれから空に帰ります。女優業に戻ります」と挨拶をしてリスナーに別れを告げたが、結果的に石田の生前最後の挨拶ともなった。この事故を受け、斉藤が担当する予定だった翌週からの放送は急遽中止されてそのまま打ち切りとなった[9][6]

出演

テレビドラマ

ラジオ

脚注

  1. ^ a b c 新撰 芸能人物事典 明治~平成
  2. ^ a b c d 週刊テレビ番組(東京ポスト)1980年2月15日号 p.48「中原歩プロフィール」
  3. ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1986年7月号 p.6 紹介記事。
  4. ^ a b 週刊明星 1980年6月8日号 p.16
  5. ^ GORO 1980年2月14日号 p.28 - 29 本人のグラビアページ
  6. ^ a b c 月刊ラジオパラダイス 1988年1月号特集「1987ラジオ界重大ニュース」(30ページ)。
  7. ^ 『テレビ映画監督一代記 仮面ライダーがエントツの上に立った日』 奥中惇夫 2004年 筑摩書房 p159-161。
  8. ^ 国土交通省運輸安全委員会 (28 April 1988). 航空事故調査報告書 (PDF) (Report). p. 3. 2017年11月4日閲覧 {{cite report}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  9. ^ 1987年8月3日付 新聞各紙(毎日新聞朝日新聞読売新聞)の記事、月刊ラジオパラダイス 1987年10月号内の記事より。

関連項目

外部リンク