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2021年2月4日 (木) 11:16時点における版
渡辺 秀央 わたなべ ひでお | |
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生年月日 | 1934年7月5日(90歳) |
出生地 | 新潟県栃尾市(現:長岡市) |
出身校 | 拓殖大学政経学部卒業 |
前職 | 議員秘書 |
所属政党 |
(自由民主党→) (無所属→) (新進党→) (自由党→) (民主党→) (改革クラブ→) 新党改革 |
称号 |
旭日大綬章 経済学士(拓殖大学) |
第54代 郵政大臣 | |
内閣 | 宮澤内閣 |
在任期間 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1998年7月26日 - 2010年7月25日 |
選挙区 | 旧新潟3区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1976年12月 - 1993年6月18日 |
渡辺 秀央(わたなべ ひでお、1934年7月5日 - )は、日本の政治家。日本ミャンマー協会会長・理事長。
衆議院議員(6期)、参議院議員(2期)、内閣官房副長官(第3次中曽根内閣)、郵政大臣(第54代)、自由民主党全国組織委員長、改革クラブ代表、新党改革最高顧問などを歴任。
来歴・人物
新潟県栃尾市(現・長岡市)出身。東京都立目黒高等学校、拓殖大学政経学部卒業。中曽根康弘の秘書を経て、1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に、旧新潟3区から出馬し初当選。内閣官房副長官、郵政大臣などを歴任[要出典]。
1993年(平成5年)の総選挙で落選。1996年(平成8年)の選挙には新潟4区から無所属で出馬するも、再び落選。その後、自民党を離党し、翌1997年(平成9年)に新進党へ入党。
1998年(平成10年)、第18回参議院議員通常選挙に自由党公認で出馬し、比例名簿4位で当選、参議院議員に鞍替えした[要出典]。
新潟県では保守層にも一定の影響力があり、小泉旋風により自民党が圧勝した第44回衆議院議員総選挙においても県内における自民党の躍進を食い止めている(6選挙区中、小選挙区4・比例1)。第16回統一地方選挙の新潟県議会議員選挙において、息子である渡辺祐介が見附市から出馬したが、落選[要出典]。
反小沢の筆頭
民由合併による自由党の疑惑ともされる資産整理を小沢と幹事長であった藤井裕久が中心で行い、党選挙対策委員長であった渡辺は関与できなかった[要出典]
2007年(平成19年)5月14日の参議院本会議で、国民投票法案の与党案採決(ボタン投票)に際し、党議拘束に造反、賛成にまわる。翌日党として郡司彰参院国対委員長から、厳重注意処分が下された。
2007年(平成19年)7月29日の第21回参議院議員通常選挙で、渡辺は新潟県選挙区において自由党出身の森裕子ではなく黒岩宇洋を支援したが、結果は小沢や田中真紀子の支援を得た森が当選し、黒岩は落選した[要出典]。
2008年(平成20年)4月9日の日本銀行副総裁人事でも党方針に反して大江康弘と共に政府提案に賛成票を投じた[要出典]。
改革クラブから新党改革へ
2008年(平成20年)8月28日に民主党を離党すると発表。改革クラブを結成、代表就任。2010年(平成22年)4月23日に改革クラブは党名を新党改革に変更し、自身は最高顧問に就任した。2010年(平成22年)7月の第22回参議院議員通常選挙へは出馬せず、政界引退。
2010年(平成22年)秋の叙勲において旭日大綬章を受章[要出典]。
2012年(平成24年)3月、日本ミャンマー協会の会長・理事長に就任[1]。
政策
不祥事
議員連盟
- 天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(副会長・常任幹事)
- パチンコ・チェーンストア協会(政治分野アドバイザー)
脚注
関連項目
- 新潟県出身の人物一覧
- 渡辺美智雄
- 菊田真紀子(民主党衆議院議員。一時期渡辺と盟友関係にあった)
- リクルート事件
党職 | ||
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先代 新設 |
新党改革最高顧問 初代:2010年 - |
次代 現職 |
先代 結成 |
改革クラブ代表 初代 : 2008年 - 2010年 |
次代 舛添要一 (新党改革に党名変更) |