「台南海軍航空隊」の版間の差分
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昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時、午前4時発進予定であったが、3時より濃霧が台湾を襲う。 |
昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時、午前4時発進予定であったが、3時より濃霧が台湾を襲う。 |
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「今晩6時、味方機動部隊は、ハワイ奇襲に成功せり…」 |
「今晩6時、味方機動部隊は、ハワイ奇襲に成功せり…」 |
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いたずらに時間を空費し、台南航空隊搭乗員は奇襲攻撃が頓挫するのではと不安になる。しかしこれは成功の要因となり、霧が晴れるとともに午前10時45分台南空零戦隊は第一次攻撃隊(目標イバ飛行場)に高雄空一式陸攻27機、鹿屋空一式陸攻27機を第3航空隊横山 |
いたずらに時間を空費し、台南航空隊搭乗員は奇襲攻撃が頓挫するのではと不安になる。しかしこれは成功の要因となり、霧が晴れるとともに午前10時45分台南空零戦隊は第一次攻撃隊(目標イバ飛行場)に高雄空一式陸攻27機、鹿屋空一式陸攻27機を第3航空隊横山保大尉が零戦54機を率いて、第二次攻撃隊(目標クラーク飛行場)は高雄空一式陸攻27機、第一航空隊96陸攻27機を台南航空隊新郷英城大尉が零戦36機を率いて出撃。 |
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戦果報告 |
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撃墜12機敵機20数機地上撃破29機を報告 |
撃墜12機敵機20数機地上撃破29機を報告 |
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昭和17年1月1日、元旦をホロ基地で迎えた台南空本隊はお祝いと皇居遥拝を行ったのち、浅井 |
昭和17年1月1日、元旦をホロ基地で迎えた台南空本隊はお祝いと皇居遥拝を行ったのち、浅井正雄大尉率いる零戦8機でプエルト・プリンサラを機銃掃射 |
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不明 |
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1月11日11時より発進の4着の船団護衛隊の豊田 |
1月11日11時より発進の4着の船団護衛隊の豊田光雄少尉、山上常弘2飛曹、小林京次1飛曹らB-17一機を発見これを攻撃、撃墜を報告 |
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戦果報告 |
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B- |
B-17、1機撃墜(実際は雲中に隠れ無事帰着) |
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2月8日、新郷 |
2月8日、新郷英樹大尉率いる零戦9機は早朝バリクパパンを出撃、バリ島テンバサルを攻撃、途中ジャワ海上空にてB-17編隊を発見、これを攻撃。撃墜を報告 |
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戦果報告 |
戦果報告 |
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B- |
B-17、5機撃墜 (実際は6機撃墜) |
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2月27日、正午に敵艦隊発見の通報を受け、2水戦、4水戦が出撃、途中敵空母発見の知らせにより、牧 |
2月27日、正午に敵艦隊発見の通報を受け、2水戦、4水戦が出撃、途中敵空母発見の知らせにより、牧幸男大尉率いる零戦9機は高雄空一式陸攻16機を護衛、途中第3航空隊、横山保大尉率いる零戦6機も参加 |
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戦果報告 |
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飛行機輸送艦ラングレー撃破(後に駆逐艦に撃沈される) |
飛行機輸送艦ラングレー撃破(後に駆逐艦に撃沈される) |
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3月12日、台南空および第3航空隊の新編成が行われる。新郷 |
3月12日、台南空および第3航空隊の新編成が行われる。新郷英樹大尉が内地へ帰還。新任に中島正少佐が着任。台南空からも半数が内地に帰還。 |
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1942年4月1日、第25航空戦隊が新編される。25航戦は編制上第11航空艦隊所属だが、連合艦隊は軍隊区分で南洋部隊に配属され、24航戦に代わりラバウル方面で西方空襲部隊任務を引き継いだ<ref>戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 145頁</ref>。25航戦には台南空、四空、横浜空が編入された。23航戦で南西方面作戦中だった台南空は飛行機を現地部隊に渡して人員のみラバウル方面に移動した。台南空はラバウルおよびラエ方面で作戦中だった四空の戦闘機隊の人員、機材の大部分を吸収し、バリ島およびクーパンに展開中だった台南空本隊もラバウルに進出した<ref>戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 146-147頁</ref>。定数は戦闘機45(補用15)、陸偵6(補用2)<ref>戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 146頁</ref>。 |
1942年4月1日、第25航空戦隊が新編される。25航戦は編制上第11航空艦隊所属だが、連合艦隊は軍隊区分で南洋部隊に配属され、24航戦に代わりラバウル方面で西方空襲部隊任務を引き継いだ<ref>戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 145頁</ref>。25航戦には台南空、四空、横浜空が編入された。23航戦で南西方面作戦中だった台南空は飛行機を現地部隊に渡して人員のみラバウル方面に移動した。台南空はラバウルおよびラエ方面で作戦中だった四空の戦闘機隊の人員、機材の大部分を吸収し、バリ島およびクーパンに展開中だった台南空本隊もラバウルに進出した<ref>戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 146-147頁</ref>。定数は戦闘機45(補用15)、陸偵6(補用2)<ref>戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 146頁</ref>。 |
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戦艦一隻撃沈、一隻大破、重巡一隻大破。(実際は戦果なしで4機損失) |
戦艦一隻撃沈、一隻大破、重巡一隻大破。(実際は戦果なしで4機損失) |
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7月26日、坂井 |
7月26日、坂井三郎1飛曹は敵飛行場に単機突撃 |
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敵機10機撃破 |
敵機10機撃破 |
2021年2月24日 (水) 13:08時点における版
台南海軍航空隊(たいなんかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊。1941年10月1日開設の初代および1942年(昭和17年)11月1日に改称した第251海軍航空隊(だい251かいぐんこうくうたい)と1943年4月1日開設の二代目がある。
初代
沿革
台南空
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f4/RabaulJapaneseEnlistedFighterPilots.jpg/280px-RabaulJapaneseEnlistedFighterPilots.jpg)
1941年10月1日、第一航空隊戦闘機隊を母体に戦闘機航空隊として発足した。零式艦上戦闘機21型、九八式陸上偵察機・二式陸上偵察機を装備。司令に樋口曠大佐[1]、飛行長に小園安名少佐[1]、飛行隊長に新郷英城大尉[1]、先任分隊長に浅井正雄大尉[1]、分隊長に戸梶忠恒大尉[1]、瀬藤満寿三大尉[1]、美坐正己中尉[1]、若尾晃中尉[1]、牧幸男中尉[1]、通信長に薗田美輝少佐[1]、整備長に中川貞一機関少佐[1]、整備分隊長に有松漸機関大尉[1]、軍医長に藤村信義軍医少佐[1]、主計長 金子清三郎主計大尉[1]が配属された。所属機識別章は「V」。
主要な戦い 昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時、午前4時発進予定であったが、3時より濃霧が台湾を襲う。 「今晩6時、味方機動部隊は、ハワイ奇襲に成功せり…」 いたずらに時間を空費し、台南航空隊搭乗員は奇襲攻撃が頓挫するのではと不安になる。しかしこれは成功の要因となり、霧が晴れるとともに午前10時45分台南空零戦隊は第一次攻撃隊(目標イバ飛行場)に高雄空一式陸攻27機、鹿屋空一式陸攻27機を第3航空隊横山保大尉が零戦54機を率いて、第二次攻撃隊(目標クラーク飛行場)は高雄空一式陸攻27機、第一航空隊96陸攻27機を台南航空隊新郷英城大尉が零戦36機を率いて出撃。 戦果報告 撃墜12機敵機20数機地上撃破29機を報告
昭和17年1月1日、元旦をホロ基地で迎えた台南空本隊はお祝いと皇居遥拝を行ったのち、浅井正雄大尉率いる零戦8機でプエルト・プリンサラを機銃掃射 戦果報告 不明
1月11日11時より発進の4着の船団護衛隊の豊田光雄少尉、山上常弘2飛曹、小林京次1飛曹らB-17一機を発見これを攻撃、撃墜を報告 戦果報告 B-17、1機撃墜(実際は雲中に隠れ無事帰着)
2月8日、新郷英樹大尉率いる零戦9機は早朝バリクパパンを出撃、バリ島テンバサルを攻撃、途中ジャワ海上空にてB-17編隊を発見、これを攻撃。撃墜を報告 戦果報告 B-17、5機撃墜 (実際は6機撃墜)
2月27日、正午に敵艦隊発見の通報を受け、2水戦、4水戦が出撃、途中敵空母発見の知らせにより、牧幸男大尉率いる零戦9機は高雄空一式陸攻16機を護衛、途中第3航空隊、横山保大尉率いる零戦6機も参加 戦果報告 飛行機輸送艦ラングレー撃破(後に駆逐艦に撃沈される)
3月12日、台南空および第3航空隊の新編成が行われる。新郷英樹大尉が内地へ帰還。新任に中島正少佐が着任。台南空からも半数が内地に帰還。
1942年4月1日、第25航空戦隊が新編される。25航戦は編制上第11航空艦隊所属だが、連合艦隊は軍隊区分で南洋部隊に配属され、24航戦に代わりラバウル方面で西方空襲部隊任務を引き継いだ[2]。25航戦には台南空、四空、横浜空が編入された。23航戦で南西方面作戦中だった台南空は飛行機を現地部隊に渡して人員のみラバウル方面に移動した。台南空はラバウルおよびラエ方面で作戦中だった四空の戦闘機隊の人員、機材の大部分を吸収し、バリ島およびクーパンに展開中だった台南空本隊もラバウルに進出した[3]。定数は戦闘機45(補用15)、陸偵6(補用2)[4]。
4月16日、台南空本隊ラバウルに進出、余談だがこの時輸送船小牧丸に乗っていた搭乗員のほとんどが船酔いや体調不良に悩まされ到着後ほとんどが山の上の海軍病院に入院
5月7日、珊瑚海海戦の支援に第四航空隊一式陸攻12機、元山航空隊20機がラバウル発進。ラエ基地からは中島少佐指揮の零戦11機も出撃。しかし、索敵限界を突破しての索敵であったため、全機ニューブリテン島のガスマタに不時着。 戦果報告 戦艦一隻撃沈、一隻大破、重巡一隻大破。(実際は戦果なしで4機損失)
7月26日、坂井三郎1飛曹は敵飛行場に単機突撃 戦果報告 敵機10機撃破
8月2日、8:10よりB-17、5機来襲。空戦により全機撃墜、8:20P-39、3機来襲。空戦にのり全機撃墜 9:00B-26、5機来襲空戦すると敵機奔走。9:35 敵機発見も逃す。11:00サラモア南方洋上にB-17、1機来襲、不確実撃墜。 戦果報告 9機撃墜うち2機不確実(実際は不明)
二五一空
1942年11月1日、第251海軍航空隊と改称。11月中旬、機材を残して人員のみ内地に帰還(一部の人員はラバウルの他の航空隊に転属した)。豊橋で練成・再編成にかかった。所属機識別章は「UI」へと変更。
1943年5月14日、ラバウルに再進出。再進出当初は零戦装備の昼間戦闘機部隊と、小園司令の考案した斜銃を追加装備した夜間戦闘機月光(当時は二式陸偵改)装備の夜間戦闘機部隊の2隊が配備されていた。零戦隊はラバウル航空隊の主力戦闘機部隊として、攻勢に転じていた米軍とのソロモン・東ニューギニア方面での戦闘に当たった。月光隊も5月21日夜にラバウルに来襲したB-17 2機を初撃墜するなど戦果を上げて行った。
9月1日、251空は正式採用となった月光24機を揃え、夜間戦闘専門部隊として編成が変わった。零戦要員は201空や253空へ転属となった。しかし皮肉にもこの頃から米軍の攻撃は、夜間爆撃中心から昼間爆撃中心に変わりつつあり、活躍の場はほとんどなかった。
1944年2月、トラック島に後退したがトラック島空襲によって機材は壊滅した。その後フィリピンへ後退したが7月解隊。夜戦要員は153空へ、トラック島残留者は東カロリン海軍航空隊へ、一部の隊員は内地へと転属となった。
歴代司令
- 樋口曠大佐:1941年10月1日[1] - 1941年10月4日[5]
- 斎藤正久大佐:1941年10月4日[5] -
- 小園安名 中佐:1942年12月10日 -
- 楠本幾登 中佐:1943年9月22日 -
- 柴田武雄 中佐:1944年3月4日 - 1944年7月解隊
二代目
沿革
1943年4月1日、練習航空隊として発足。艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機の教程が行われる。また台湾周辺の防空、哨戒も行った。1944年1月特乙1期が入隊。以降、乙種(特)飛行予科練習生の教育も行う。1945年1月18日、神風特別攻撃隊新高隊を編成して以降、特攻にも従事。所属機識別章は「タイ」。
歴代司令
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「昭和16年10月1日付 海軍辞令公報(部内限)第721号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082600
- ^ 戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 145頁
- ^ 戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 146-147頁
- ^ 戦史叢書49巻 南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで 146頁
- ^ a b 「昭和16年10月6日付 海軍辞令公報(部内限)第724号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082600
- ^ 「昭和18年4月1日付 海軍辞令公報 (部内限)第1085号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090400
関連項目
参考文献
- 秦郁彦・伊沢保穂著『日本海軍戦闘機隊 戦歴と航空隊史話』大日本絵画、2010年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。