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|選手名 = 永射 保 |
|選手名 = 永射 保 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== プロ入り前 === |
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[[指宿市立指宿商業高等学校|指宿商業]] |
[[指宿市立指宿商業高等学校|指宿商業高校]]時代は、3年次の[[1971年]]に、[[全国高等学校野球選手権鹿児島大会|夏の甲子園県予選]]2回戦で[[鹿児島県立鹿屋工業高等学校|鹿屋工]]を相手に[[ノーヒットノーラン]]を記録するが、準々決勝では[[定岡智秋]]のいた[[鹿児島実業高等学校|鹿児島実業]]に敗退した。 |
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[[1971年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1971年ドラフト]]3位で[[広島東洋カープ]]に入団した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13003958.html|title=永射保さん死去|publisher=朝日新聞デジタル|date=2017-06-25|accessdate=2020-02-12}}</ref>。 |
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=== 現役時代 === |
=== 現役時代 === |
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プロ入り後は[[外木場義郎]]の投球を見てレベルの高さを痛感し、[[1973年]][[5月]]には初先発の機会も与えられたが、広島では1勝も挙げられなかった。 |
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当時、[[安田猛 (野球)|安田猛]]が遅いボールで[[王貞治]]をキリキリ舞いさせるのを見て、遅いボールで生きて行こうと決意し、2年目の同年オフに[[別当薫]]監督と[[長谷川良平]]コーチと相談して腕を下げ、変則フォームに改造した<ref name="bbm">[[ベースボールマガジン]]9月号 2007年No.4、48-51頁。</ref>。 |
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球団が[[所沢市|所沢]]に移転して「西武ライオンズ」となった[[1979年]]は主に貴重な左のリリーフとして、[[8月]]以降はローテーションの谷間に先発起用されるなどシーズンを通してフル稼働した。[[4月24日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦([[メットライフドーム|西武]])では、先発の新人・[[松沼博久]]が8回まで好投し、永射が9回の1イニングを無失点に抑えて4-2でチームは勝利。西武球団の初勝利と松沼博のプロ入り初勝利に花を添えた、永射にもセーブが付き、西武球団で最初にセーブを記録した投手となった。[[6月2日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦(西武)では2番手として3回から登板し試合終了まで投げ切り、7イニングのロングリリーフとなったが、2被安打、無失点に抑える好投でシーズン初勝利を挙げた。[[8月30日]]のロッテ戦(西武)ではこの年初の先発登板を果たし、9回を投げ切り3失点と先発投手として役目を果たしたが、試合は延長10回3-3の引き分けで勝敗は付かなかった。[[9月16日]]の南海戦([[大阪スタヂアム|大阪]])では2度目の先発を任され、9回1失点の完投勝利で4勝目を挙げた。完投勝利した直後の[[9月18日|同18日]]の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦([[後楽園球場|後楽園]])ではワンポイントリリーフで打者一人を抑え、[[9月23日|同23日]]のロッテ戦(西武)では3度目の先発登板し、8回5失点ながらも8回裏にチームが逆転して5勝目を挙げた。最終的に同年は、リーグ最多の63試合に登板した。 |
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⚫ | [[1974年]]に[[乗替寿好]]との交換トレードで[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]へ移籍し、中継ぎとして起用されたが、当初は結果を出せず苦しみ、[[山田久志]]のフォームを研究、踏み込む足をインステップにして、ワンテンポタイミングを遅らせるフォーム改造に4年を掛けて成功した<ref name="bbm" />。きっかけについて「太平洋ライオンズに移籍した頃、[[理髪店]]の鏡にテレビの野球中継が映されており、そこに阪急の山田さんが投げているのを見ましてね。鏡だから当然左右逆。これ(山田さんの投げ方)を参考にすればいいんじゃないですか」と思いあたったことであったと語っている<ref name="Dankan">{{Cite news|title=【ダンカンが訪ねる 昭和の侍】永射保さん|newspaper=サンケイスポーツ|date=2017-01-31|url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20170131/npb17013105000001-n1.html|accessdate=2017-06-24}}</ref>{{Efn2|自分と逆ポジションの選手の鏡像を参考にしたエピソードは[[門田博光]]にもある(詳細は門田の記事を参照)。}}。[[1976年]]から一軍に定着し、[[1977年]]は15試合に先発として起用されるなど、49試合登板で9勝6セーブを挙げた。 |
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⚫ | 永射は |
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球団が[[所沢市|所沢]]に移転して「西武ライオンズ」となった[[1979年]]は、主にリリーフとして、[[8月]]以降はローテーションの谷間に先発起用されるなど、シーズンを通してフル稼働した。[[4月24日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦([[メットライフドーム|西武球場]])では、先発の新人・[[松沼博久]]が8回まで好投し、永射が9回の1イニングを無失点に抑えて4-2でチームは勝利。永射にもセーブが付き、西武球団で最初にセーブを記録した投手となった。同年はリーグ最多の63試合に登板した。 |
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⚫ | 永射は「左の[[サイドスロー|サイドハンド]]([[アンダースロー]]と書かれることもある)」という当時としては特異な投げ方から、左殺しとして活躍した。[[広岡達朗]]監督時代は左のワンポイントリリーフとして、[[1982年]]、[[1983年]]、[[1985年]]と3度のリーグ優勝に貢献する。1982年前期は、勝てばマジック点灯という「6.23西宮決戦」で、大方先発予想されていた[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]ではなく、永射が奇襲先発した。試合は前半で阪急先発の[[山沖之彦]]を打線が打ち崩し、最終的に4失点で降板したが大差で勝利し、以降「阪急キラー」と呼ばれた<ref>{{Cite news|title=福本豊氏、「左キラー」永射さんを悼む…「背中から球が来る」|newspaper=スポーツ報知|date=2017-06-25|url=http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170625-OHT1T50018.html|accessdate=2017-06-25}}</ref>。 |
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1983年の[[読売ジャイアンツ|巨人]]との[[1983年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では5試合に登板、第6戦ではワンポイントリリーフながら勝利投手となり日本一に貢献した。このシリーズでは巨人のチャンスで左打者である[[篠塚和典|篠塚利夫]]に打順が回るとワンポイント登板で対戦、4打席で3三振(1四球)に打ち取る。篠塚は左投手を苦にしない巧打者だったが、永射はそれを封じた。1985年の[[阪神タイガース|阪神]]との[[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも1勝を挙げた。 |
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永射は歴代3位となる566試合のリリーフ登板を記録し、年間リーグ最多登板試合を4回記録している。 |
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=== 現役引退後 === |
=== 現役引退後 === |
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球界を引退した後はダイエースカウトを数年 |
球界を引退した後はダイエースカウトを数年務め、以降は[[福岡県]][[小郡市]]の[[西鉄小郡駅]]前でスナック「サウスポー」を営んだ。 |
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[[プロ野球マスターズリーグ]]にも福岡ドンタクズの選手として参加し、リトルリーグ「小郡リトルシニア」の監督を務めたほか、筑後・佐賀を放送エリアとするドリームスFMでラジオ番組を担当するなど、地元の筑後を中心に幅広く活動していた。「小郡リトルシニア」での教え子に、元西武の[[永江恭平]]がいる。 |
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=== 闘病・死去 === |
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2016年末に体調を崩して入院し、退院後も在宅治療を続けていた。 |
2016年末に体調を崩して入院し、退院後も在宅治療を続けていた。[[2017年]][[2月18日]]にNHK BS1で放送された『[[球辞苑]]』にVTR出演したのが、最後のメディア出演となった。[[6月24日]]、[[肝臓癌]]のため[[福岡県]][[久留米市]]の病院で死去した<ref>{{Cite news|title=訃報 永射保さん63歳=元プロ野球投手|newspaper=毎日新聞|date=2017-6-24|url=https://mainichi.jp/articles/20170625/k00/00m/050/044000c|accessdate=2020-12-18}}</ref>。63歳没<ref name="sponichi20170625">{{Cite news|title=永射保さん死去 “左殺し”先駆者、あのヒット曲のモデルに|newspaper=日刊スポーツ|date=2017-06-25|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/06/25/kiji/20170624s00001173449000c.html|accessdate=2017-06-25}}</ref>。 |
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== プレーに関して == |
== プレーに関して == |
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現役時代は制球力に優れた投手という評判があった。永射はそれについて、「1日30kmは走った。休んだのが自分の誕生日と[[台風]]で天気が悪かった時くらい、正月も休み無しで走り込みした。自分の制球力はランニングで作られたもの」と述懐している<ref name="Dankan"/>。「とにかく走って、下半身を鍛えないとこの投げ方はできない。そこを省くと、今年は成功しても短命で終わるよ」と、教えを請いに来た後輩たちにも走り込みの重要性を説いていた<ref>[https://sportsbull.jp/p/156450/ 不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り]</ref>。 |
現役時代は制球力に優れた投手という評判があった。永射はそれについて、「1日30kmは走った。休んだのが自分の誕生日と[[台風]]で天気が悪かった時くらい、正月も休み無しで走り込みした。自分の制球力はランニングで作られたもの」と述懐している<ref name="Dankan"/>。「とにかく走って、下半身を鍛えないとこの投げ方はできない。そこを省くと、今年は成功しても短命で終わるよ」と、教えを請いに来た後輩たちにも走り込みの重要性を説いていた<ref>[https://sportsbull.jp/p/156450/ 不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り]</ref>。 |
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左打者に |
左打者に強く<ref name="sponichi20170625" />、[[レロン・リー]](ロッテ)や[[トニー・ソレイタ]]([[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]])が永射を大の苦手としており、「顔を見るのも嫌」と言わしめた。特にリーは苦肉の策として、本来の左打席ではなくメジャー時代以来となる右打席に入って打ったこともある<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0708/kiji/K20090801Z00002950.html 【8月24日】1984年(昭59) レロン・リー、顔も見るのもイヤな天敵から7年ぶり本塁打]</ref>([[1981年]][[8月10日]]の4回表、二死満塁でこれを行い、永射は2点タイムリーヒットを打たれている)。[[門田博光]]([[オリックス・バファローズ|オリックス]])は永射を見ると自ら[[上田利治]]監督に代打を要求してベンチに引っ込んだという<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2017/07/05/___split_63/index_4.php 不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り。] 週刊ベースボールOnline 2018年12月7日(金) 11:06 (2019年11月4日閲覧)</ref> |
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[[門田博光]]([[オリックス・バファローズ|オリックス]])は永射を見ると自ら[[上田利治]]監督に代打を要求してベンチに引っ込んだという<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2017/07/05/___split_63/index_4.php 不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り。] 週刊ベースボールOnline 2018年12月7日(金) 11:06 (2019年11月4日閲覧)</ref> |
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左殺しやワンポイントリリーフと名を馳せていた永射だったが、左打者を抑える欲が強すぎたが故に[[故意四球|敬遠]]をするつもりであった右打者に本塁打を打たれた苦い経験がある。それは1981年[[7月19日]]の[[平和台野球場]]の日本ハム対西武での試合、6回裏二死三塁の状況で打者は右打者の[[柏原純一]]、次の打者は永射が得意としているソレイタだった。西武ベンチは柏原に敬遠の指示を出してソレイタで抑える作戦でいたにもかかわらず、永射の3球目の投球が内角気味に甘く入ってしまったところを柏原に大根斬りのような打法でバットにうまく当てられ、打球が左中間方向に大きく飛び外野フェンスを越えてスタンドにそのまま入って本塁打となってしまった([[2018年]]から日本プロ野球でも申告敬遠のルールが適用されているため、敬遠球からの本塁打は巨人の[[長嶋茂雄]]が[[1960年]][[7月17日]]に打って以来の記録となる)。打たれた永射はその当時は柏原と日本ハムのチームメイトでのちに永射と同じチームメートとなる[[江夏豊]]にそのことを指摘されると「非常に恥ずかしいことだった」と言ったという。 |
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リーが永射の通算500試合登板の記念パーティーに招待されたときには、リーに対して「リーさんのおかげで選手寿命が延びた」と自分を強くしてくれたことに感謝する言葉を残し、リーは「私のために、あなた(永射)の野球人生はあった」と語ったという<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181207-13 永射保 外国人打者に嫌われた最強の“左キラー”/プロ野球1980年代の名選手] 2018年12月7日(金) 11:06</ref>。 |
リーが永射の通算500試合登板の記念パーティーに招待されたときには、リーに対して「リーさんのおかげで選手寿命が延びた」と自分を強くしてくれたことに感謝する言葉を残し、リーは「私のために、あなた(永射)の野球人生はあった」と語ったという<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181207-13 永射保 外国人打者に嫌われた最強の“左キラー”/プロ野球1980年代の名選手] 2018年12月7日(金) 11:06</ref>。 |
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[[水島新司]]の[[漫画]]『[[野球狂の詩]]』の[[水原勇気]]や[[ピンク・レディー]]の『[[サウスポー (ピンク・レディーの曲)|サウスポー]]』のモデルという(本人談)。『サウスポー』の作詞者である[[阿久悠]]は、[[1977年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1977年のオールスターゲーム]]第2戦で永射が王貞治を三振に打ち取った場面をモチーフに詞を書いたとされる<ref>[[佐藤利明]]「戦前・戦中・戦後70年 歌で読むニッポン」[[東京新聞]] 2015年9月29日夕刊</ref>。ピンク・レディーの[[日本武道館|武道館]]コンサートで一緒に踊って下さいと頼まれたともいう<ref name="bbm" />。 |
[[水島新司]]の[[漫画]]『[[野球狂の詩]]』の[[水原勇気]]や[[ピンク・レディー]]の『[[サウスポー (ピンク・レディーの曲)|サウスポー]]』のモデルという(本人談)。『サウスポー』の作詞者である[[阿久悠]]は、[[1977年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1977年のオールスターゲーム]]第2戦で永射が王貞治を三振に打ち取った場面をモチーフに詞を書いたとされる<ref>[[佐藤利明]]「戦前・戦中・戦後70年 歌で読むニッポン」[[東京新聞]] 2015年9月29日夕刊</ref>。ピンク・レディーの[[日本武道館|武道館]]コンサートで一緒に踊って下さいと頼まれたともいう<ref name="bbm" />。 |
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== 人物 == |
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現役時代のニックネームは「毛ガニ」であった。これは体毛が濃かったことに由来している。夫人の永射累理子は、不動産の大家、[[行政書士]]、スナックのママを兼任する女性投資家として活動している<ref>[https://www.rakumachi.jp/news/column/245672 元プロ野球選手の妻 「波乱万丈大家」の壮絶人生]</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
2021年2月25日 (木) 08:48時点における版
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基本情報 | |
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国籍 |
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出身地 | 鹿児島県川辺郡大浦町 |
生年月日 | 1953年10月3日 |
没年月日 | 2017年6月24日(63歳没) |
身長 体重 |
172 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト3位 |
初出場 | 1972年4月14日 |
最終出場 | 1990年10月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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永射 保(ながい たもつ、1953年10月3日 - 2017年6月24日[1])は、鹿児島県川辺郡大浦町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。
経歴
プロ入り前
指宿商業高校時代は、3年次の1971年に、夏の甲子園県予選2回戦で鹿屋工を相手にノーヒットノーランを記録するが、準々決勝では定岡智秋のいた鹿児島実業に敗退した。
現役時代
プロ入り後は外木場義郎の投球を見てレベルの高さを痛感し、1973年5月には初先発の機会も与えられたが、広島では1勝も挙げられなかった。
当時、安田猛が遅いボールで王貞治をキリキリ舞いさせるのを見て、遅いボールで生きて行こうと決意し、2年目の同年オフに別当薫監督と長谷川良平コーチと相談して腕を下げ、変則フォームに改造した[3]。
1974年に乗替寿好との交換トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍し、中継ぎとして起用されたが、当初は結果を出せず苦しみ、山田久志のフォームを研究、踏み込む足をインステップにして、ワンテンポタイミングを遅らせるフォーム改造に4年を掛けて成功した[3]。きっかけについて「太平洋ライオンズに移籍した頃、理髪店の鏡にテレビの野球中継が映されており、そこに阪急の山田さんが投げているのを見ましてね。鏡だから当然左右逆。これ(山田さんの投げ方)を参考にすればいいんじゃないですか」と思いあたったことであったと語っている[4][注 1]。1976年から一軍に定着し、1977年は15試合に先発として起用されるなど、49試合登板で9勝6セーブを挙げた。
球団が所沢に移転して「西武ライオンズ」となった1979年は、主にリリーフとして、8月以降はローテーションの谷間に先発起用されるなど、シーズンを通してフル稼働した。4月24日の南海戦(西武球場)では、先発の新人・松沼博久が8回まで好投し、永射が9回の1イニングを無失点に抑えて4-2でチームは勝利。永射にもセーブが付き、西武球団で最初にセーブを記録した投手となった。同年はリーグ最多の63試合に登板した。
永射は「左のサイドハンド(アンダースローと書かれることもある)」という当時としては特異な投げ方から、左殺しとして活躍した。広岡達朗監督時代は左のワンポイントリリーフとして、1982年、1983年、1985年と3度のリーグ優勝に貢献する。1982年前期は、勝てばマジック点灯という「6.23西宮決戦」で、大方先発予想されていた高橋直樹ではなく、永射が奇襲先発した。試合は前半で阪急先発の山沖之彦を打線が打ち崩し、最終的に4失点で降板したが大差で勝利し、以降「阪急キラー」と呼ばれた[5]。
1983年の巨人との日本シリーズでは5試合に登板、第6戦ではワンポイントリリーフながら勝利投手となり日本一に貢献した。このシリーズでは巨人のチャンスで左打者である篠塚利夫に打順が回るとワンポイント登板で対戦、4打席で3三振(1四球)に打ち取る。篠塚は左投手を苦にしない巧打者だったが、永射はそれを封じた。1985年の阪神との日本シリーズでも1勝を挙げた。
1987年に広瀬新太郎との交換トレードで、片平晋作と共に横浜大洋ホエールズに移籍。1989年には福岡ダイエーホークスに無償トレードで移籍し、1990年シーズンオフに現役を引退した。
永射は歴代3位となる566試合のリリーフ登板を記録し、年間リーグ最多登板試合を4回記録している。
現役引退後
球界を引退した後はダイエースカウトを数年務め、以降は福岡県小郡市の西鉄小郡駅前でスナック「サウスポー」を営んだ。
プロ野球マスターズリーグにも福岡ドンタクズの選手として参加し、リトルリーグ「小郡リトルシニア」の監督を務めたほか、筑後・佐賀を放送エリアとするドリームスFMでラジオ番組を担当するなど、地元の筑後を中心に幅広く活動していた。「小郡リトルシニア」での教え子に、元西武の永江恭平がいる。
2016年末に体調を崩して入院し、退院後も在宅治療を続けていた。2017年2月18日にNHK BS1で放送された『球辞苑』にVTR出演したのが、最後のメディア出演となった。6月24日、肝臓癌のため福岡県久留米市の病院で死去した[6]。63歳没[1]。
プレーに関して
現役時代は制球力に優れた投手という評判があった。永射はそれについて、「1日30kmは走った。休んだのが自分の誕生日と台風で天気が悪かった時くらい、正月も休み無しで走り込みした。自分の制球力はランニングで作られたもの」と述懐している[4]。「とにかく走って、下半身を鍛えないとこの投げ方はできない。そこを省くと、今年は成功しても短命で終わるよ」と、教えを請いに来た後輩たちにも走り込みの重要性を説いていた[7]。
左打者に強く[1]、レロン・リー(ロッテ)やトニー・ソレイタ(日本ハム)が永射を大の苦手としており、「顔を見るのも嫌」と言わしめた。特にリーは苦肉の策として、本来の左打席ではなくメジャー時代以来となる右打席に入って打ったこともある[8](1981年8月10日の4回表、二死満塁でこれを行い、永射は2点タイムリーヒットを打たれている)。門田博光(オリックス)は永射を見ると自ら上田利治監督に代打を要求してベンチに引っ込んだという[9]
リーが永射の通算500試合登板の記念パーティーに招待されたときには、リーに対して「リーさんのおかげで選手寿命が延びた」と自分を強くしてくれたことに感謝する言葉を残し、リーは「私のために、あなた(永射)の野球人生はあった」と語ったという[10]。
水島新司の漫画『野球狂の詩』の水原勇気やピンク・レディーの『サウスポー』のモデルという(本人談)。『サウスポー』の作詞者である阿久悠は、1977年のオールスターゲーム第2戦で永射が王貞治を三振に打ち取った場面をモチーフに詞を書いたとされる[11]。ピンク・レディーの武道館コンサートで一緒に踊って下さいと頼まれたともいう[3]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1972 | 広島 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 1 | 0.0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | ---- | ---- |
1973 | 20 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 81 | 16.2 | 28 | 5 | 5 | 0 | 0 | 15 | 0 | 0 | 11 | 10 | 5.29 | 1.98 | |
1974 | 太平洋 クラウン 西武 |
14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 51 | 11.0 | 13 | 2 | 6 | 0 | 1 | 9 | 0 | 0 | 10 | 10 | 8.18 | 1.73 |
1976 | 45 | 4 | 2 | 0 | 0 | 3 | 4 | 1 | -- | .429 | 372 | 91.2 | 74 | 7 | 25 | 1 | 3 | 60 | 0 | 0 | 44 | 42 | 4.11 | 1.08 | |
1977 | 49 | 15 | 4 | 0 | 2 | 9 | 10 | 6 | -- | .474 | 791 | 199.2 | 164 | 23 | 33 | 2 | 6 | 109 | 2 | 1 | 80 | 74 | 3.33 | 0.99 | |
1978 | 14 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | -- | .000 | 133 | 32.2 | 31 | 4 | 7 | 1 | 1 | 23 | 0 | 0 | 14 | 12 | 3.27 | 1.16 | |
1979 | 63 | 3 | 1 | 0 | 1 | 5 | 3 | 1 | -- | .625 | 448 | 106.2 | 106 | 16 | 23 | 7 | 5 | 70 | 2 | 0 | 58 | 49 | 4.12 | 1.21 | |
1980 | 56 | 11 | 2 | 0 | 1 | 6 | 3 | 1 | -- | .667 | 520 | 123.2 | 123 | 18 | 38 | 1 | 4 | 94 | 0 | 0 | 67 | 61 | 4.43 | 1.30 | |
1981 | 61 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 3 | 4 | -- | .667 | 354 | 86.1 | 76 | 7 | 18 | 3 | 1 | 70 | 0 | 0 | 36 | 30 | 3.14 | 0.98 | |
1982 | 42 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 4 | -- | .429 | 184 | 44.0 | 43 | 10 | 12 | 3 | 1 | 38 | 0 | 0 | 30 | 29 | 5.93 | 1.27 | |
1983 | 42 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 162 | 41.0 | 40 | 3 | 7 | 0 | 2 | 43 | 0 | 0 | 12 | 11 | 2.41 | 1.15 | |
1984 | 48 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 1 | -- | .600 | 251 | 61.1 | 51 | 11 | 21 | 1 | 0 | 50 | 0 | 0 | 29 | 28 | 4.11 | 1.17 | |
1985 | 33 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 134 | 30.0 | 32 | 9 | 16 | 3 | 0 | 20 | 0 | 0 | 24 | 23 | 6.90 | 1.60 | |
1986 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 18 | 3.1 | 5 | 2 | 2 | 1 | 1 | 4 | 0 | 0 | 4 | 4 | 10.80 | 2.10 | |
1987 | 大洋 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | ---- | 111 | 26.0 | 27 | 5 | 7 | 2 | 1 | 24 | 1 | 0 | 19 | 17 | 5.88 | 1.31 |
1988 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 64 | 12.2 | 19 | 0 | 5 | 1 | 2 | 9 | 0 | 0 | 10 | 6 | 4.26 | 1.89 | |
1989 | ダイエー | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 59 | 14.2 | 11 | 2 | 6 | 2 | 0 | 11 | 0 | 0 | 5 | 5 | 3.07 | 1.16 |
1990 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 15 | 4.2 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 2 | 2 | 3.86 | 0.64 | |
通算:18年 | 606 | 40 | 9 | 0 | 4 | 44 | 37 | 21 | -- | .543 | 3749 | 906.0 | 846 | 126 | 232 | 28 | 28 | 654 | 5 | 1 | 456 | 414 | 4.11 | 1.19 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更
記録
- 初記録
- 初登板:1972年4月14日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に2番手として救援登板、遠井吾郎に安打を許し降板・1失点
- 初奪三振:1973年5月16日、対読売ジャイアンツ5回戦(後楽園球場)、7回裏に柴田勲から
- 初先発登板:1973年5月31日、対中日ドラゴンズ5回戦(広島市民球場)、4回2失点
- 初勝利・初先発勝利:1976年6月18日、対近鉄バファローズ前期13回戦(藤井寺球場)、5回1/3を1失点
- 初セーブ:1976年8月14日、対ロッテオリオンズ後期7回戦(平和台球場)、9回表1死に2番手として救援登板・完了、2/3回無失点
- 初完投勝利:1976年9月26日、対近鉄バファローズ後期9回戦(日生球場)、9回1失点
- 節目の記録
- 500試合登板:1987年5月2日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、9回裏1死に2番手として救援登板・完了、2/3回無失点でセーブ投手 ※史上89人目
- 600試合登板:1990年4月10日、対オリックス・ブレーブス1回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回裏1死に5番手として救援登板、1回無失点 ※史上26人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1977年、1981年)
背番号
- 20 (1972年 - 1973年)
- 31 (1974年 - 1986年、1989年 - 1990年、1993年)
- 13 (1987年 - 1988年)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c “永射保さん死去 “左殺し”先駆者、あのヒット曲のモデルに”. 日刊スポーツ. (2017年6月25日) 2017年6月25日閲覧。
- ^ “永射保さん死去”. 朝日新聞デジタル. (2017年6月25日) 2020年2月12日閲覧。
- ^ a b c ベースボールマガジン9月号 2007年No.4、48-51頁。
- ^ a b “【ダンカンが訪ねる 昭和の侍】永射保さん”. サンケイスポーツ. (2017年1月31日) 2017年6月24日閲覧。
- ^ “福本豊氏、「左キラー」永射さんを悼む…「背中から球が来る」”. スポーツ報知. (2017年6月25日) 2017年6月25日閲覧。
- ^ “訃報 永射保さん63歳=元プロ野球投手”. 毎日新聞. (2017年6月24日) 2020年12月18日閲覧。
- ^ 不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り
- ^ 【8月24日】1984年(昭59) レロン・リー、顔も見るのもイヤな天敵から7年ぶり本塁打
- ^ 不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り。 週刊ベースボールOnline 2018年12月7日(金) 11:06 (2019年11月4日閲覧)
- ^ 永射保 外国人打者に嫌われた最強の“左キラー”/プロ野球1980年代の名選手 2018年12月7日(金) 11:06
- ^ 佐藤利明「戦前・戦中・戦後70年 歌で読むニッポン」東京新聞 2015年9月29日夕刊