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「二・二八事件」の版間の差分

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当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、[[中国大陸]]から来た[[国民党政府]]の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの[[汚職]]の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は、当時の[[国共内戦]]の影響で(人格的にも能力的にも精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られており)質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が[[処罰]]されぬことがしばしばあった。
当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、[[中国大陸]]から来た[[国民党政府]]の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの[[汚職]]の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は、当時の[[国共内戦]]の影響で(人格的にも能力的にも精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られており)質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が[[処罰]]されぬことがしばしばあった。
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劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では大陸の国民党政府に密かに援軍を要請していた。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っている。
劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では大陸の国民党政府に密かに援軍を要請していた。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っている。


蔣介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし{{Efn|ただし、蔣介石は3月16日の日記で「陳儀は台湾の政事を行うにあたり、みずからの欠点をわきまえず、いばりくさり、とりつくろうことを大切なことだと思っている。この度の激変(二二八事件)があっても、なお自分の責任を認めようとしない。痛憤のあまり、深いためいきがでる」と不満を綴っている<ref>{{Citation|和書|title=台湾総統列伝 - {{small|米中関係の裏面史 }}|year=2004|last=本田|first=善彦|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-150132-2|pages=13-16}}</ref>。}}、3月8日に大陸から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。[[基隆市|基隆]]では街頭にて検問所を設け、市民に対し、[[北京語]]を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「[[粽]](チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まった。
国民政府主席蔣介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし{{Efn|ただし、蔣介石は3月16日の日記で「陳儀は台湾の政事を行うにあたり、みずからの欠点をわきまえず、いばりくさり、とりつくろうことを大切なことだと思っている。この度の激変(二二八事件)があっても、なお自分の責任を認めようとしない。痛憤のあまり、深いためいきがでる」と不満を綴っている<ref>{{Citation|和書|title=台湾総統列伝 - {{small|米中関係の裏面史 }}|year=2004|last=本田|first=善彦|publisher=中央公論新社|isbn=4-12-150132-2|pages=13-16}}</ref>。}}、3月8日に大陸から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。[[基隆市|基隆]]では街頭にて検問所を設け、市民に対し、[[北京語]]を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「[[粽]](チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まった。


[[嘉義市]]の議員で民衆側に立った{{仮リンク|陳澄波|zh|陳澄波|label=}}が市中引き回しのうえで[[嘉義駅]]前で銃殺されたのをはじめ<ref name=":1" />、この事件によって多くの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。犠牲者数については800人〜10万人まで様々な説があり<ref name="yomiuri20130404" />、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。1992年、台湾の[[行政院]]は、事件の犠牲者数を1万8千〜2万8千人とする推計を公表している<ref>{{cite news |title=台湾2・28事件式典で台北市長、馬総統と握手拒否|newspaper=[[産経新聞]] |date=2015-2-28 |url=http://www.sankei.com/world/news/150228/wor1502280048-n1.html |accessdate=2015-7-18 |author=田中靖人}}</ref>。
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2021年3月8日 (月) 10:10時点における版

二・二八事件
抗議した群衆
各種表記
繁体字 二二八事件
簡体字 二二八事件
拼音 Èrèrbā Shìjiàn
注音符号 ㄦˋ ㄦˋ ㄅㄚ ㄕˋ ㄐㄧㄢˋ
発音: アーアーバー シージェン
台湾語白話字 Jī-ji-pat Sū-kiāⁿ
日本語読み: ににはちじけん
英文 February 28 Incident
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二・二八事件(ににはちじけん, 拼音: Èr’èrbā shìjiàn)は、1947年2月28日台湾台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中国国民党政権外省人〔在台中国人〕)による長期的な白色テロ、すなわち民衆(当時はまだ日本国籍を有していた本省人〔台湾人〕と日本人)弾圧・虐殺の引き金となった事件[1]

1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。

背景

"Chinese Exploit Formosa Worse Than Japs Did"(ザ・ワシントン・デイリーニュース

1945年日本が敗戦した後の台湾では、カイロ宣言に基づき、連合国軍の委託を受けて、日本軍の武装解除を行うために、中国大陸から蔣介石国民政府主席率いる中国国民党政府の官僚軍人らが同地へ進駐し、失地回復という名目で台湾の行政を引き継いでいた。

当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、中国大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、やがて彼らの汚職の凄まじさに驚き、失望した。大陸から来た軍人・官僚は、当時の国共内戦の影響で(人格的にも能力的にも精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られており)質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が処罰されぬことがしばしばあった。

もし罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。また、台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海市の国際市場で競売にかけられるに到り、物資不足に陥った台湾では、相対的に物価は高騰、インフレーションによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した。

日本統治時代の台湾では、厳しい同化政策(皇民化教育)などはあったが、不正は少なく、帝国大学も創設され、インフラストラクチャも整備した台湾の経済は、日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった[2]。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい汚職、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。

当時の台湾人たちは、「何日君再来」を歌ったり、「犬去りて、豚来たる」(意味:犬〔日本人〕が去れば、今度は豚〔中国人〕が来た。)と揶揄した(日本人〕はうるさくても番犬として役に立つが、〔中国人〕はただ貪り食うのみで、役に立たないという意味が込められている[3])。

経緯

専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日)
台北市民に焼き討ちされた専売局台北分局
当時の弾圧を描いた木版画
台湾省警備総司令部のビラ(中国語とともに日本語も併記している)

戦後の台湾では、日本統治時代の専売制度を引き継ぎ・タバコ・砂糖等は全て中華民国によって専売された。しかし、中国大陸ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていた。

1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた女性(林江邁、40歳、2人の子持ち寡婦)を、中華民国の官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名と警察官4名)が摘発した。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収した。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人である陳文渓に被弾・死亡させてしまい、逃亡した。

この事件をきっかけとし、民衆の中華民国への怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に大挙して押しかけたが、庁舎を守備する衛兵は屋上から機関銃で銃弾を浴びせかけ、多くの市民が死傷した[4][5]

激怒した本省人民衆は国民政府の諸施設を襲撃し、大陸人商店を焼いた[4]日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本語が話せないグループもいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と全島に呼びかけた[6]

3月1日からは各主要都市で民衆が蜂起して官庁や警察を占拠し、外省人を殴打した[4]台南では台南飛行場が占拠され、旧日本軍の飛行機で東京に飛んでマッカーサー元帥に陳情してGHQの占領下に組み入れてもらおうとする者もいた(機体の部品が欠損していたため果たせず)[6]高雄では要塞司令の彭孟緝がこれに対し武力掃討を行い、多くの死者を出している[5]

3月4日には台湾人による秩序維持と食糧確保のための全島処理委員会が成立。事態の収拾に向けて、知識人や地方名士からなる二・二八事件処理委員会も台湾各地に組織され、台北の同委員会は3月7日に貪官汚吏の一掃・省自治の実施・政府各機関への本省人の登用などの改革を陳儀に要求した[4][5]

劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿勢を示したが、裏では大陸の国民党政府に密かに援軍を要請していた。陳は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蔣介石に送っている。

国民政府主席蔣介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし[注釈 1]、3月8日に大陸から援軍として派遣された第21師団や憲兵隊が到着した。これと連動して、陳儀の部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、戦った(「独立自衛隊」、「学生隊」等 )。しかし、最後はこれらも制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まった。

嘉義市の議員で民衆側に立った陳澄波中国語版が市中引き回しのうえで嘉義駅前で銃殺されたのをはじめ[5]、この事件によって多くの本省人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。犠牲者数については800人〜10万人まで様々な説があり[3]、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。1992年、台湾の行政院は、事件の犠牲者数を1万8千〜2万8千人とする推計を公表している[8]

事件当時地区ごとに度々発令された戒厳令は台湾省政府の成立をもって一旦は解除された。しかしその後、1949年5月19日に改めて発令された戒厳令は38年後[9]1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑される根源となった。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。

その後

二二八和平公園の慰霊塔(台北市)
二二八和平記念碑の碑文(台北市)
二・二八紀念館(二二八和平公園内。建物は旧台湾放送協会 (THK) 台北支局)。
台湾放送協会台北支局(1931年)
二二八紀念碑(嘉義市

事件後、関係者の多くは処刑されるか身を隠すか、あるいは海外逃亡を企てた。

後に中華民国総統を務めた李登輝は留学経験者という知識分子であったため処刑を恐れて知人宅に潜伏し、ほとぼりの冷めるのをまった。外国人初の直木賞受賞作家であり実業家の邱永漢は学生運動のリーダーであったが、当局の眼を掻い潜って出航。香港を経由して日本に逃亡した。亡命者の中には反国民党を掲げたものもあったが、当時は東西冷戦の時代であり、反国民党=親共産党とみなされて、日米ではその主張は理解されなかった。

事件収束後も、長らく国民党は知識分子や左翼分子を徹底的に弾圧した(白色テロ)ため、この事件については、長らく公に発言することはタブーとなっていた。

しかし時が経つにつれ、これを話題にすることができる状況も生まれてくる。当初、国民党は台湾人に高等教育を与えると反乱の元になる、と考えていたが、経済建設を進めるに当たって専門家の必要性が明白となり、方針を転換して大学の建設を認めた。

1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画であった。この映画がヴェネツィア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界的に知られる事となった。

事件当時の証言や告発をする動きもみられるようになり、政府に対する反逆として定義されていた二・二八事件も、現在は自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動として公式に再評価されるに至った。

李登輝体制下で事件の再調査が行われ、1992年に長大な調査報告書が作成された。1995年2月には台北新公園(現・二二八和平公園)に二・二八事件記念碑が建てられ、李自らが除幕式で公式な謝罪の意を表明した[4]。同公園内の台北二二八紀念館や台北市内の二二八国家記念館で、事件の資料が展示されている。

なお、二・二八事件については、当時台湾共産党中国共産党の指令を受けて、国民党政権を倒すべく民衆の蜂起を煽ったとの説もあるが、これに対し、それは蔣介石が台湾人を虐殺するための口実だったという反論もある。[要出典]

2006年には、二・二八事件の最大の責任者は蔣介石だとする研究結果が発表された[10]

外国人犠牲者への対応

二・二八事件が発生した当時、基隆市の社寮島(現・和平島)に約30人の琉球人漁民が残ったが、中国語が分からなかったため処刑された。2011年に訪台した沖縄県議員當間盛夫らの要請により、「琉球漁民銅像記念碑」が設立された[11][12][13][14]

2016年2月17日、台北高等行政法院は外国人犠牲者へ初めて賠償を認める判決を下し、二二八事件記念基金会(中華民国政府から委託を受け事件処理を行う基金)に対して犠牲になった与論島出身の日本人遺族の一人に600万台湾元(約2050万円)の支払いを命じた[1]。また、これ以外にも日本人1人を含む外国人2人が犠牲者として認定を受けた。一方、事件前に与那国島から台湾へ渡ってそのまま失踪した2人は2017年7月と2018年3月に外国人犠牲者の認定申請が却下された[15]

関連作品

映画

音楽

脚注

注釈

  1. ^ ただし、蔣介石は3月16日の日記で「陳儀は台湾の政事を行うにあたり、みずからの欠点をわきまえず、いばりくさり、とりつくろうことを大切なことだと思っている。この度の激変(二二八事件)があっても、なお自分の責任を認めようとしない。痛憤のあまり、深いためいきがでる」と不満を綴っている[7]

出典

  1. ^ a b 名切千絵 (2016年2月17日). “二・二八事件の日本人犠牲者遺族が勝訴 基金会に2千万円賠償命令/台湾” ((日本語)). 中央通訊社. 2016年2月23日閲覧。
  2. ^ 野嶋剛 (2015年12月2日). “今なぜ台湾で「懐日映画」が大ヒットするのか (4/4)”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2015年12月5日閲覧。
  3. ^ a b 松野良一 (2013年4月4日). “「悲情城市」の証言-台湾228事件と中大卒業生”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/research/20130404.html 2016年11月13日閲覧。 
  4. ^ a b c d e 二・二八事件(に・にはちじけん)とは”. コトバンク. 2020年6月6日閲覧。
  5. ^ a b c d 228・七○:私たちの二二八特別展”. www.nmth.gov.tw. 国立台湾歴史博物館. 2020年6月6日閲覧。
  6. ^ a b 【それぞれの70年 台湾から】日本の言葉、獄中の支えに”. 産経ニュース (2015年5月6日). 2020年8月14日閲覧。
  7. ^ 本田善彦『台湾総統列伝 - 米中関係の裏面史 』中央公論新社、2004年、13-16頁。ISBN 4-12-150132-2 
  8. ^ 田中靖人 (2015年2月28日). “台湾2・28事件式典で台北市長、馬総統と握手拒否”. 産経新聞. http://www.sankei.com/world/news/150228/wor1502280048-n1.html 2015年7月18日閲覧。 
  9. ^ http://228memorialmuseum.gov.taipei/ct.asp?xItem=1938462&ctNode=41711&mp=11900A
  10. ^ “台南市、学校から蔣介石像を全面撤去へ/台湾”. フォーカス台湾 (中央通訊社). (2015年2月28日). http://japan.cna.com.tw/news/apol/201502280003.aspx 2015年10月31日閲覧。 
  11. ^ 基隆和平島 曾是琉球人群居聚落 公視新聞網
  12. ^ 自由時報電子報 (2010年8月13日). “紀念228罹難日人/沖繩盼在和平島設碑 - 政治 - 自由時報電子報” (中国語). 自由電子報. 2020年6月12日閲覧。
  13. ^ 自由時報電子報 (2011年4月28日). “建228紀念碑 日人勘和平島 - 地方 - 自由時報電子報” (中国語). 自由電子報. 2020年6月12日閲覧。
  14. ^ 中時電子報. “日籍受難者家屬 和平島祭父 - 地方新聞” (中国語). 中時電子報. 2020年6月12日閲覧。
  15. ^ 二・二八事件と沖縄人―被害認定の厚い壁”. nippon.com (2020年3月1日). 2020年6月12日閲覧。

参考文献

関連項目

  • 葉秋木 - 国民政府に虐殺された政治家
  • 李瑞漢 - 事件当時行方不明になった弁護士
  • 省籍矛盾
  • 美麗島事件
  • 白色テロ - 二・二八事件以降の戒厳令下において国民党政府が反体制派に対して行った政治的弾圧
  • 坂井徳章(台湾名:湯德章) - 事件で反乱罪に問われ処刑された日台混血の弁護士、元警察官。後に名誉回復がなされた。
  • 湯徳章紀念公園 - 台南市中西区にある徳章が処刑された民生緑園の現在の名称。

外部リンク

中国語