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== 生涯 ==
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=== 将軍候補 ===
=== 将軍候補 ===
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室町幕府後期の[[政所]]執事は代々[[伊勢氏]]が世襲していたが、永禄5年(1562年)に当時の政所執事・[[伊勢貞孝]]は失脚して討たれ、後任は義輝側近の[[摂津晴門]]になっていた。そこで、義栄側は、伊勢貞孝の孫である[[伊勢貞為]]の帰参を許して、伊勢氏宗家の再興を認めた。一方で、摂津晴門や[[御供衆]]の[[大舘晴忠]]は、[[越前国]]にいた義昭の下へ下向した。直前まで実務を行っていた[[奉行衆]]8名のうち、[[松田藤弘]]・[[中澤光俊]]の2名が義栄のために奉行人奉書を作成したことが確認されているが、残り6名は義昭と何らかのつながりを有していたことが確認できる{{Sfn|木下|2014|p=221-233}}。
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2021年3月12日 (金) 11:14時点における版

 
足利義栄
足利義栄像(阿南市立阿波公方・民俗資料館蔵)
時代 戦国時代
生誕 天文7年(1538年) / 天文9年(1540年
死没 永禄11年(1568年)9月 - 10月
改名 義親・義勝、義栄
別名 阿州公方[1][2][3]、阿波御所[4]、富田武家[5]、とんたのふけ[6]
戒名 光徳院玉山
墓所 西光寺
官位 従五位下左馬頭征夷大将軍
幕府 室町幕府 第14代征夷大将軍
氏族 平島足利家
父母 父:足利義維、母:大内義興の娘
兄弟 義栄義助義任
結城氏[注釈 4]
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足利 義栄(あしかが よしひで)は、戦国時代室町幕府第14代将軍(在職:永禄11年(1568年)2月 - 9月)。

生涯

将軍候補

三好三人衆

天文7年(1538年)、足利義冬の長男として阿波国那賀郡平島の平島館で生まれる。生年は天文9年(1540年)説もある。初名は義親(よしちか)または義勝(よしかつ)。

永禄8年(1565年5月19日永禄の変で従兄弟の13代将軍・足利義輝三好義継三好三人衆松永久通らに殺害されると、三人衆らによって、中風で将軍の任に堪えられないであろうとされた父・義冬の代わりに、将軍候補として擁立された。

畿内入りと将軍宣下

永禄8年(1566年)11月から三人衆と松永久秀が権力抗争を開始すると、久秀討伐令を出した[7]。永禄9年(1566年)6月、三人衆方の篠原長房三好康長らに擁されて淡路国に渡海、9月23日[1]には摂津国越水城に入城した。そして冬の12月5日には摂津国富田総持寺に、12月7日には普門寺城に入った。

将軍就任を争う足利義昭に半年遅れの[8]永禄9年(1566年)12月24日従五位下左馬頭への任官許可が出され、永禄10年(1567年1月5日に正式に叙任された。同時に義栄と改名した[9]

永禄10年(1567年)11月、朝廷に対して将軍宣下を申請したが、朝廷の要求した献金に応じられなかったために当初は拒絶された。その後交渉が進展し、永禄11年2月8日1568年3月10日)、朝廷から将軍宣下がなされ、第14代将軍に就任した。このとき宣旨を富田に持参したのが山科言継であり、『言継卿記』には、2月2日に頭中将庭田重通から手紙で知らされたこと、2月13日に富田に着いたことなどの経緯が書かれている。

しかし、三人衆と久秀の抗争が止まず、義栄自身が背中に腫物を患っていたため将軍に就任しても入京せず、富田に留まった。

足利義栄墓(西光寺内)

撤退と死去

永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛の動きを見せた。三人衆は畿内で信長に抗戦したが、敗れて畿内の勢力を失い、阿波に逃れた。その直後、以前から患っていた腫物が悪化して病死した。享年は29または31。没した月日は9月13日9月30日[10]10月1日[11]10月8日10月20日[12]10月22日[13]など諸説あり、死去した場所も阿波国のほかに淡路国、摂津国の普門寺など諸説ある。

久秀は信長に臣従し、障害がなくなった義昭は15代将軍に就任した。足利義昭は同年10月18日に将軍宣下を受けているが、義栄の死去日については諸説あるため、義栄の将軍職は解任されたのか死去によって空席になっていたのかは不明である。

義栄期の室町幕府

人事

阿波国から摂津国に入った義栄の下には、堺公方を称した父の義冬やその養父であった10代将軍・足利義稙に仕えた幕臣やその子孫が家臣として仕えていたが、義冬・義栄の2代の御内書に付属された副状の発給者となっている畠山維広など、その数は限られており、人的基盤は脆弱なものであった。さらに、当時、義冬は中風のため隠居していて発言力が皆無に等しく、義稙の父で大御所として権勢を揮った足利義視のような立場ではなかった。

そのため、義栄側は義輝に仕えていた幕臣の取り込みを図った。当時の在京の幕臣の所領の多くは三好氏の勢力圏にあった京都周辺に集中しており、所領の安堵と引換えに義栄の下に置こうとしたのである。この動きに応じたのは大舘輝光伊勢貞助小笠原稙盛秀清父子であった。

伊勢貞為

室町幕府後期の政所執事は代々伊勢氏が世襲していたが、永禄5年(1562年)に当時の政所執事・伊勢貞孝は失脚して討たれ、後任は義輝側近の摂津晴門になっていた。そこで、義栄側は、伊勢貞孝の孫である伊勢貞為の帰参を許して、伊勢氏宗家の再興を認めた。一方で、摂津晴門や御供衆大舘晴忠は、越前国にいた義昭の下へ下向した。直前まで実務を行っていた奉行衆8名のうち、松田藤弘中澤光俊の2名が義栄のために奉行人奉書を作成したことが確認されているが、残り6名は義昭と何らかのつながりを有していたことが確認できる[14]

義栄の幕府では、三好三人衆のひとり・三好長逸御供衆に抜擢された。また、義栄の畿内での拠点である富田の普門寺城は、もうひとりの三好三人衆・三好宗渭のかつての主君だった細川晴元を隠居させるために整備されたもので、晴元の子・細川昭元は義栄の幕府で管領として遇された。

義栄は伊勢氏や大舘氏など武家故実をもって仕える層を取り込むことには成功したものの、諏方氏、飯尾氏、松田氏など相論の裁許や行政事務をもって仕える層の取り込みは一部しか成功せず、将軍就任後の幕府機構の再建に不安を残す形となった。それでも、父・義冬の時とは違って現職の将軍が不在であり、対抗者である義昭の立場が弱かったことが義栄の将軍宣下に有利に働いたとみられている[15]

業績

従来は義栄の事跡として、春日大社や朝廷に、太刀や馬を献上したという話ぐらいしか知られておらず、三好三人衆と松永久秀による完全な傀儡将軍と考えられてきたが、三人衆と久秀の対立後は三人衆側に擁されながらも石清水八幡宮の人事に介入して朝廷と対立したり、永禄10年(1567年)5月に発生した京都住民と大徳寺の対立では義栄が派遣した幕府奉行人である松田藤弘が朝廷から派遣された勧修寺晴右とともに仲裁にあたっている。三人衆と久秀の対立は、結果的には彼らからの制約を受けなくなった義栄の発言力を高めたと考えられる。

一方で、将軍宣下の遅れや奉行衆の支持が得られなかったこと、主に支えるべき三好家内でも、三好実休と三人衆で認識の差異があることで一枚岩になれなかったなどの影響は大きく、自身の病気や在任期間も半年ほどと短かったことなども相まって、義栄の意向で出された奉行人奉書がわずか2通しか確認できず、義冬か義栄か不明なものもあるのでこの2通で正しいのかもよくわかっていない[15]など、将軍としての主体性を発揮できる状況にはなかったとみられている[15]

人物

  • 室町幕府は初代尊氏より本拠地を京都に置いていたが、幕府を支える勢力は父義維以来分裂しており、義栄は京都に一度も足を踏み入れることはなかった[16]
  • 阿南市立阿波公方・民俗資料館所蔵の『嶋公方・阿波公方譜』によると、阿波公方義冬の次代の阿波公方として記載がある。
  • 足利家の菩提寺である鑁阿寺には他の14人の将軍像とともに、大仏師朝運作とされる義栄の木像が現存し、栃木県指定有形文化財に指定されている[17]。それを模造した像が、阿南市立阿波公方・民俗資料館に所蔵、常設展示されている。同じように菩提寺であり、室町幕府歴代将軍の木像を安置している等持院では、足利義量と義栄の木像は存在しない。
  • 松永久秀は、従弟の松永喜内を用いて義栄を暗殺しようとしたが撃退され、仕方ないので鴆毒を盛って毒殺を命じたと言うが、どうも毒を盛ったというのはさすがに嘘だろうと『阿州将裔記』には記されている。
  • 偽書とされる『江源武鑑』においては、義栄の存在は全く無視されている。

官歴

※日付=旧暦

  • 永禄9年(1567年)12月28日、従五位下に叙す。義栄に改名。
  • 永禄10年(1567年)1月5日、左馬頭に任官
  • 永禄11年(1568年)2月8日、征夷大将軍宣下。禁色賜り、昇殿を許される。

登場する作品

脚注

注釈

  1. ^ "一昨日廿三日、夜半時分阿州公方攝州へ御着岸云々、左馬頭入道殿御息、卅一才、同御十四才御三人云々"
  2. ^ "澤路備前入道來、伊曾與右衛門方より三好日向守返事到、山科之公用、河州之公方ママ〕へ渡申候云々" 誤記でなけば三好長逸の奉じる公方が河州にいたことになる。
  3. ^ "伊勢備中入道被來、就富田武家御妹之儀內々被申子細有之、一盞勸了"
  4. ^ 『平島殿先祖并細川家三好家覚書』に「永禄十年平嶋にて果給なり」とある。また、『阿州将裔記』にもその名が見える。
  5. ^ "頓而阿波ノ御所義榮エ言上シテ松永退治ノ御教書ヲ申請ケ是即公方家ノ御敵也ト云觸タリ"

出典

  1. ^ a b 言継卿記』永禄9年9月25日条[注釈 1]
  2. ^ 『言継卿記』永禄9年3月13日条[注釈 2]
  3. ^ 細川両家記』永禄9年9月23日条
  4. ^ 足利季世記
  5. ^ 『言継卿記』永禄9年12月11日条[注釈 3]
  6. ^ 御湯殿上日記』永禄9年11月7日条
  7. ^ 『続応仁後記』巻8 「三好三人衆與松永彈正牟楯事」[注釈 5]
  8. ^ 義昭のこの時期の任官は疑問視する説があるが、遅くとも永禄11年(1568年)までには任官していたと推測されている。
  9. ^ 那賀川町史編さん室 編『平島公方史料集』2006年3月17日、41頁。 
  10. ^ 公卿補任
  11. ^ 重編応仁記
  12. ^ 阿州将裔記
  13. ^ 『平島記』・『嶋公方・阿波公方譜』
  14. ^ 木下 2014, p. 221-233.
  15. ^ a b c 木下 2014, p. 207-246.
  16. ^ 近い例としては徳川慶喜は将軍在職中に江戸城に入ることはなかったが、江戸城にある幕府機構は慶喜の統制下にあり、将軍後見職時や大政奉還後には入城している。
  17. ^ とちぎの文化財【木造 足利歴代将軍坐像

参考文献

  • 群書類従第4輯補任部
  • 群書類従第20輯合戦部
  • 群書類従第21輯合戦部

参考資料

  • 木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2 (初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年。 

関連項目