コンテンツにスキップ

「風魔」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
小峯堂 (会話 | 投稿記録)
小峯堂 (会話 | 投稿記録)
11行目: 11行目:
18世紀前半に成立した[[槇島昭武]]の『[[北越軍談]]』には、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])頃の出来事として、小田原の'''風間次郎太郎'''から幻術を学んだ[[加藤段蔵|鳶加藤]]なる幻術師が[[越後国|越後]]の[[上杉謙信|長尾景虎]]のもとに現れたという話が載っている<ref>{{Citation|和書|author=井上鋭夫・編|title=上杉史料集|publisher=[[新人物往来社]]|date=1969}}</ref>。
18世紀前半に成立した[[槇島昭武]]の『[[北越軍談]]』には、[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])頃の出来事として、小田原の'''風間次郎太郎'''から幻術を学んだ[[加藤段蔵|鳶加藤]]なる幻術師が[[越後国|越後]]の[[上杉謙信|長尾景虎]]のもとに現れたという話が載っている<ref>{{Citation|和書|author=井上鋭夫・編|title=上杉史料集|publisher=[[新人物往来社]]|date=1969}}</ref>。


同じ槇島昭武の著した『[[関八州古戦録]]』によれば、[[天文 (元号)|天文]]15年(1546年)あるいは天文12年(1543年)に[[関東管領]]の[[上杉憲政]]が[[川越城]]に攻めよせた時、[[北条氏康]]配下の小田原方の忍びである[[二曲輪猪助]]が斥候として差し向けられた。この二曲輪猪助は「'''風間小太郎'''が指南を得たる(風間小太郎から指導を受けた)」とる<ref>{{Citation|和書|author=槇島昭武|title=関八州古戦録 改訂版|publisher=[[新人物往来社]]|date=1976}}</ref>。
同じ槇島昭武の著した『[[関八州古戦録]]』に、[[河越夜戦]]のとき、[[北条氏康]]配下の小田原方の忍び[[二曲輪猪助]]が敵方の[[上杉氏]]の陣に斥候として差し向けられた。この二曲輪猪助は「[[風間小太郎]]が指南を得たる」とされている<ref>{{Citation|和書|author=槇島昭武|title=関八州古戦録 改訂版|publisher=[[新人物往来社]]|date=1976}}</ref>。


なお、[[17世紀]]前半に成立した『[[北条記]]』には、北条方の忍びの上手として、[[北条氏照]]配下の横江忠兵衛と大橋山城守の名前が挙がっている。
なお、[[17世紀]]前半に成立した『[[北条記]]』には、北条方の忍びの上手として、[[北条氏照]]配下の横江忠兵衛と大橋山城守の名前が挙がっている。

2021年3月16日 (火) 06:13時点における版

風魔(かざま/ふうま、風广/風摩)は、三浦浄心の『北条五代記』において、北条氏直に扶持され、天正9年の「黄瀬川の戦い」で敵陣に夜討をする集団を率いた乱波として紹介されている人物。また同著者の『(慶長)見聞集』には、江戸時代初期に向崎甚内が関東各地の盗賊の首領を「らっぱの一類風广の子孫ども」と告発して江戸奉行所による「盗人狩」が行われた、との逸話があり、風魔が率いた集団を呼ぶこともある。御北条氏の発給文書に名前のみえる「風間出羽守」はそのモデルとみられている。『関八州古戦録』などに登場する風間小太郎は別人。派生して物語に登場する人物として風魔小太郎は著名。

伝説

三浦浄心が著した寛永18年(1641年)刊の『北条五代記』によれば、天正9年に北条氏直が黄瀬川で武田勝頼・信勝父子と対陣したとき、風摩の一党は、山賊、海賊、強盗、窃盗の四盗、合計二百人から成っていた。風摩の一党は、敵陣に忍び込んで、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、夜討ちをかけた。そのうえ、ここかしこに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺した。頭目の風摩について、武田軍の兵士は「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、異様な風貌をしていると噂したという[1]

同じ三浦浄心の著書『慶長見聞集』によれば、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地の盗賊の首領は風魔の一類・らっぱの子孫だ。自分は居場所を知っているので案内する」と密告し、江戸町奉行所によって「盗人狩」が行われ、盗賊が根絶やしにされたという。しかし、向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613)に処刑された。

  • この件について、戸部新十郎の『忍者と盗賊』などでは、風魔小太郎が捕縛・処刑されたと書かれている[2]
  • 嘉永3年(1850年)刊の『武江年表』の天正18年(1590年)の記事でも上述の開設をしているが、『武江年表』の改訂作業を行った江戸時代後期の考証家喜多村信節は、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと補説している。[3]

関連人物

18世紀前半に成立した槇島昭武の『北越軍談』には、弘治3年(1557年)頃の出来事として、小田原の風間次郎太郎から幻術を学んだ鳶加藤なる幻術師が越後長尾景虎のもとに現れたという話が載っている[4]

同じ槇島昭武の著した『関八州古戦録』には、河越夜戦のとき、北条氏康配下の小田原方の忍び・二曲輪猪助が敵方の上杉氏の陣に斥候として差し向けられた。この二曲輪猪助は「風間小太郎が指南を得たる」とされている[5]

なお、17世紀前半に成立した『北条記』には、北条方の忍びの上手として、北条氏照配下の横江忠兵衛と大橋山城守の名前が挙がっている。

出自

『北条五代記』や『稿本そぞろ物語(慶長見聞集)』には風魔の出自や根拠地に関して何も言及がない。

川口素生は、その根拠地は相模国足柄下郡の風祭の近くにある「風間村」ないし「風間谷」という場所であるとする説がある、と書いている[6]。しかし小田原にそんな地名はない。

風間出羽守

後北条氏のいくつかの発給文書には、「風間出羽守」「風間」なる人名がみえ、岩付城の警備を担当するなどしていたことが知られている。元亀3年(1572年5月7日付けで、後北条氏は岩井弥右衛門尉らに対して風間某が7月まで6ヶ村に逗留する予定として宿以下の用意を命じ、不法があれば小田原城に訴えるように命じた。元亀4年(1573年)には、後北条氏は、百姓からの訴えを受けて、以後、風間某を武蔵国の「すな原」に在宿させないことにした。この他に、天正年間に北条氏政十郎氏房にあてたとみられる書状に岩付城の夜間警備を命じられているらしき「風間」の名前がみえたり、天正10年(1582年9月13日付けの「風間出羽守」あての北条氏政書状で、風間は氏政から信濃国遠江国の戦況を知らせられた上で、示し合わせて出陣するよう命じられたりしている。また、風間出羽守の嫡男に雨宮主水正という者がおり、岩付城下の妙円寺(埼玉県さいたま市岩槻区黒谷)を開基したという。[7]

脚注

  1. ^ 萩原龍夫(校注)『北条史料集』人物往来社、1966年。 
  2. ^ 戸部新十郎『忍者と盗賊』河出書房新社、1986年。 
  3. ^ 今井金吾『定本 武江年表 上』筑摩書房、2003年10月。 
  4. ^ 井上鋭夫・編『上杉史料集』新人物往来社、1969年。 
  5. ^ 槇島昭武『関八州古戦録 改訂版』新人物往来社、1976年。 
  6. ^ 『スーパー忍者列伝』PHP研究所、2008年。 
  7. ^ 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版2006年9月、752頁、ISBN 978-4490106961

関連作品

主題作品

モチーフ作品

漫画
映像