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「風魔」の版間の差分

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後北条氏の発給文書には、「風間出羽守」の人名がみえるものが1件あり、「風間」の人名がみえるものもいくつかあって、風魔のモデルになった人物と考えられている。<ref>[[下山治久]]『後北条氏家臣団人名辞典』[[東京堂出版]]、[[2006年]]9月、752頁、ISBN 978-4490106961</ref>
後北条氏の発給文書には、「風間出羽守」の人名がみえるものが1件あり、「風間」の人名がみえるものもいくつかあって、風魔のモデルになった人物と考えられている。<ref>[[下山治久]]『後北条氏家臣団人名辞典』[[東京堂出版]]、[[2006年]]9月、752頁、ISBN 978-4490106961</ref>
*[[天正]]10年([[1582年]])[[9月13日_(旧暦)|9月13日]]付けの「風間出羽守」あての[[北条氏政]]書状で、風間は氏政から[[信濃国]]と[[遠江国]]の戦況を知らせられた上で、示し合わせて出陣するよう命じられている。
*[[天正]]10年([[1582年]])[[9月13日_(旧暦)|9月13日]]付けの「風間出羽守」あての[[北条氏政]]書状で、風間は氏政から[[信濃国]]と[[遠江国]]の戦況を知らせられた上で、示し合わせて出陣するよう命じられている。
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(天正10年)九月十三日   (北条)氏政(花押)
風間出羽守殿|北条氏政書状(佐藤行信氏所蔵文書)<ref>『戦国遺文 後北条氏編3』202頁</ref> }}

*[[元亀]]3年([[1572年]])[[5月7日_(旧暦)|5月7日]]付けで、後北条氏は岩井弥右衛門尉らに対して風間某が7月まで6ヶ村に逗留する予定として宿以下の用意を命じ、不法があれば[[小田原城]]に訴えるように命じた。
*[[元亀]]3年([[1572年]])[[5月7日_(旧暦)|5月7日]]付けで、後北条氏は岩井弥右衛門尉らに対して風間某が7月まで6ヶ村に逗留する予定として宿以下の用意を命じ、不法があれば[[小田原城]]に訴えるように命じた。
*元亀4年([[1573年]])には、後北条氏は、百姓からの訴えを受けて、以後、風間某を[[武蔵国]]の「すな原」に在宿させないことにした。
*元亀4年([[1573年]])には、後北条氏は、百姓からの訴えを受けて、以後、風間某を[[武蔵国]]の「すな原」に在宿させないことにした。

2021年3月18日 (木) 11:10時点における版

風魔(かざま/ふうま、風广/風摩)は、三浦浄心の『北条五代記』において、北条氏直に扶持され、天正9年の「黄瀬川の戦い」で敵陣に夜討をする集団を率いた乱波として紹介されている人物。また同著者の『(慶長)見聞集』には、江戸時代初期に向崎甚内が関東各地の盗賊の首領を「らっぱの一類風广の子孫ども」と告発して江戸奉行所による「盗人狩」が行われた、との逸話があり、風魔が率いた集団を呼ぶこともある。御北条氏の発給文書に名前のみえる「風間出羽守」はそのモデルとみられている。『関八州古戦録』などに登場する風間小太郎は別人。派生して物語に登場する人物として風魔小太郎は著名。

伝説

三浦浄心が著した寛永18年(1641年)刊の『北条五代記』によれば、天正9年に北条氏直が黄瀬川で武田勝頼・信勝父子と対陣したとき、風摩の一党は、山賊、海賊、強盗、窃盗の四盗、合計二百人から成っていた。風摩の一党は、敵陣に忍び込んで、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、夜討ちをかけた。そのうえ、ここかしこに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺した。頭目の風摩について、武田軍の兵士は「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、異様な風貌をしていると噂したという[1]

同じ三浦浄心の著書『慶長見聞集』によれば、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地の盗賊の首領は風魔の一類・らっぱの子孫だ。自分は居場所を知っているので案内する」と密告し、江戸町奉行所によって「盗人狩」が行われ、盗賊が根絶やしにされたという。しかし、向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613)に処刑された。

  • この件について、戸部新十郎の『忍者と盗賊』などでは、風魔小太郎が捕縛・処刑されたと書かれている[2]
  • 嘉永3年(1850年)刊の『武江年表』の天正18年(1590年)の記事でも上述の開設をしているが、『武江年表』の改訂作業を行った江戸時代後期の考証家喜多村信節は、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと補説している。[3]

関連人物

18世紀前半に成立した槇島昭武の『北越軍談』には、弘治3年(1557年)頃の出来事として、小田原の風間次郎太郎から幻術を学んだ鳶加藤なる幻術師が越後長尾景虎のもとに現れたという話が載っている[4]

同じ槇島昭武の著した『関八州古戦録』には、河越夜戦のとき、北条氏康配下の小田原方の忍び・二曲輪猪助が敵方の上杉氏の陣に斥候として差し向けられた。この二曲輪猪助は「風間小太郎が指南を得たる」とされている[5]

なお、17世紀前半に成立した『北条記』には、北条方の忍びの上手として、北条氏照配下の横江忠兵衛と大橋山城守の名前が挙がっている。

出自

『北条五代記』や『稿本そぞろ物語(慶長見聞集)』には風魔の出自や根拠地に関して何も言及がない。

川口素生は、その根拠地は相模国足柄下郡の風祭の近くにある「風間村」ないし「風間谷」という場所であるとする説がある、と書いている[6]。しかし風祭の近くにそのような地名はない。

風間出羽守

後北条氏の発給文書には、「風間出羽守」の人名がみえるものが1件あり、「風間」の人名がみえるものもいくつかあって、風魔のモデルになった人物と考えられている。[7]

注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能々首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、

(天正10年)九月十三日   (北条)氏政(花押)

風間出羽守殿 — 北条氏政書状(佐藤行信氏所蔵文書)[8]
  • 元亀3年(1572年5月7日付けで、後北条氏は岩井弥右衛門尉らに対して風間某が7月まで6ヶ村に逗留する予定として宿以下の用意を命じ、不法があれば小田原城に訴えるように命じた。
  • 元亀4年(1573年)には、後北条氏は、百姓からの訴えを受けて、以後、風間某を武蔵国の「すな原」に在宿させないことにした。
  • この他に、天正年間に北条氏政十郎氏房にあてたとみられる書状に岩付城の夜間警備を命じられているらしき「風間」の名前がみえる。

また、風間出羽守の嫡男に雨宮主水正という者がおり、岩付城下の妙円寺(埼玉県さいたま市岩槻区黒谷)を開基したという。[9]

脚注

  1. ^ 萩原龍夫(校注)『北条史料集』人物往来社、1966年。 
  2. ^ 戸部新十郎『忍者と盗賊』河出書房新社、1986年。 
  3. ^ 今井金吾『定本 武江年表 上』筑摩書房、2003年10月。 
  4. ^ 井上鋭夫・編『上杉史料集』新人物往来社、1969年。 
  5. ^ 槇島昭武『関八州古戦録 改訂版』新人物往来社、1976年。 
  6. ^ 『スーパー忍者列伝』PHP研究所、2008年。 
  7. ^ 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版2006年9月、752頁、ISBN 978-4490106961
  8. ^ 『戦国遺文 後北条氏編3』202頁
  9. ^ 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版2006年9月、752頁、ISBN 978-4490106961

関連作品

主題作品

モチーフ作品

漫画
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