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「森和俊」の版間の差分

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m 「ノーベル賞まであと一歩」岡山県立倉敷青陵高等学校卒業の出典
核青 (会話 | 投稿記録)
「あと一歩」はやや否定的なニュアンスを含むため、出典の通りに「に迫る」を付加
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'''森 和俊'''(もり かずとし、[[1958年]]〈[[昭和]]33年〉[[7月7日]] - )は、[[日本]]の[[生物学]]者([[分子生物学]])。[[学位]]は[[博士(薬学)|薬学博士]]([[京都大学]]・[[1987年]])。[[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学大学院理学研究科]][[教授]]。[[文化功労者]]。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
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=== 生物学者として ===
=== 生物学者として ===
京都大学から[[岐阜薬科大学]]に転勤することになった[[林恭三]]から誘われ、博士課程を中途退学して岐阜薬科大学で[[助手]]となる。[[テキサス大学]]に移り[[博士研究員]]となり、サムブルックとゲシングの研究室に在籍した。帰国後、[[由良隆]]が設立したエイチ・エス・ピー研究所にて[[主任研究員]]に就任した。[[1999年]]、京都大学に移り、[[助教授]]に就任した。[[2003年]]、京都大学の[[教授]]に昇任した。
京都大学から[[岐阜薬科大学]]に転勤することになった[[林恭三]]から誘われ、博士課程を中途退学して岐阜薬科大学で[[助手]]となる。[[テキサス大学]]に移り[[博士研究員]]となり、サムブルックとゲシングの研究室に在籍した。帰国後、[[由良隆]]が設立したエイチ・エス・ピー研究所にて[[主任研究員]]に就任した。[[1999年]]、京都大学に移り、[[助教授]]に就任した。[[2003年]]、京都大学の[[教授]]に昇任した。

[[アルバート・ラスカー基礎医学研究賞|ラスカー賞]]などの国際的医学賞を受賞していることから、「[[ノーベル賞]]まであと一歩に迫る男」と評されている<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/west/news/141014/wst1410140009-n1.html|title=【関西の議論】ノーベル賞まであと一歩に迫る男、山中教授と同じラスカー賞獲得 ライバルとデッドヒート|date=2014-10-1|publisher=[[産経新聞]]|language=日本語|accessdate=2020-10-04}}</ref>


== 研究 ==
== 研究 ==

2021年4月17日 (土) 17:17時点における版

もり かずとし
森 和俊
恩賜賞受賞に際して
公表された肖像写真
生誕 森 和俊(もり かずとし)
(1958-07-07) 1958年7月7日(66歳)
日本の旗 岡山県倉敷市
居住 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 日本の旗 日本
研究分野 生物学
研究機関 岐阜薬科大学
テキサス大学
エイチ・エス・ピー研究所
京都大学
出身校 京都大学薬学部
指導教員 山科郁男
川嵜敏祐
主な業績 小胞体ストレス応答
分子機構の解明
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

森 和俊(もり かずとし、1958年昭和33年〉7月7日 - )は、日本生物学者(分子生物学)。学位薬学博士京都大学1987年)。京都大学大学院理学研究科教授文化功労者

略歴

岐阜薬科大学薬学部助手テキサス大学博士研究員、エイチ・エス・ピー研究所主任研究員、京都大学大学院生命科学研究科助教授などを歴任した。

ホルモンやその受容体が高次構造を形成する場である小胞体の恒常性についての研究に取り組んでおり、小胞体ストレス応答分子機構を解明したことで知られている。岐阜薬科大学助手テキサス大学博士研究員を経て、由良隆が設立したエイチ・エス・ピー研究所にて主任研究員となった。のちに母校である京都大学に転じ、生命科学研究科の助教授理学研究科教授を歴任した。

人物

生い立ち

岡山県倉敷市出身。京都大学に進学し、工学部の合成化学科にて学んでいたが、利根川進の新聞記事を読み、分子生物学に興味を持つ。そのため、工学部から薬学部に転学部し、製薬化学科にて学んだ。薬学部では山科郁男の研究室に在籍し、川嵜敏祐から指導を受けた。

生物学者として

京都大学から岐阜薬科大学に転勤することになった林恭三から誘われ、博士課程を中途退学して岐阜薬科大学で助手となる。テキサス大学に移り博士研究員となり、サムブルックとゲシングの研究室に在籍した。帰国後、由良隆が設立したエイチ・エス・ピー研究所にて主任研究員に就任した。1999年、京都大学に移り、助教授に就任した。2003年、京都大学の教授に昇任した。

ラスカー賞などの国際的医学賞を受賞していることから、「ノーベル賞まであと一歩に迫る男」と評されている[1]

研究

専門は生物学であり、特に分子生物学細胞生物学生物物理学といった分野の研究に従事した。細胞内の小胞体で作られた不良品のタンパク質がどのように感知され、処理されるかを明らかにした、小胞体ストレス応答の研究で知られる。

年譜

文化功労者顕彰に際して文部科学省より公表された肖像写真

賞歴

栄典

著書

脚注

参照

外部リンク