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「風魔」の版間の差分

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小峯堂 (会話 | 投稿記録)
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'''風魔'''(かざま/ふうま、風广/風摩)は、[[三浦浄心]]の『[[北条五代記]]』において、[[北条氏直]]に扶持され、[[天正]]9年(1581)の「黄瀬川の戦い」で敵方の[[武田氏|武田]]の陣に[[夜討ち]]をする集団を率いた[[乱波]]として紹介されている人物。[[後北条氏]]の発給文書などに名前のみえる「風間出羽守」や、『[[関八州古戦録]]』などに名前のみえる「風間孫右衛門」はそのモデルとみられている。
'''風魔'''(かざま/ふうま、風广/風摩)は、[[三浦浄心]]の『[[北条五代記]]』において、[[北条氏直]]に扶持され、[[天正]]9年(1581年)の「黄瀬川の戦い」で敵方の[[武田氏|武田]]の陣に[[夜討ち]]をする集団を率いた[[乱波]]として紹介されている人物。[[後北条氏]]の発給文書などに名前のみえる「風間出羽守」や、『[[関八州古戦録]]』などに名前のみえる「風間孫右衛門」はそのモデルとみられている。


また同著者の『[[見聞集|(慶長)見聞集]]』には、江戸時代初期に[[向崎甚内]]が関東各地の盗賊の首領を「風魔の一類らっぱの子孫ども」と告発して[[江戸町奉行所]]による「盗人狩」が行われとの逸話あり風魔が率いた集団を風魔」とか'''風魔一族'''(ふうまいちぞく)呼ぶこともある。
また同著者の『[[見聞集]]』には、江戸時代初期に[[向崎甚内]]が関東各地の盗賊の首領を「風魔の一類らっぱの子孫ども」と告発して[[江戸町奉行所]]による「盗人狩」が行われ、盗賊は根絶やしにされたが、後で向崎甚内も大盗人」として処刑された、の逸話がある。


『[[鎌倉管領九代記]]』に登場する[[風間小太郎]]とは別人。派生して物語に登場する人物として[[風魔小太郎]]は著名。
『[[鎌倉管領九代記]]』に登場する[[風間小太郎]]とは別人。派生して物語に登場する人物として[[風魔小太郎]]は著名。
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『北条五代記』には、風魔や乱波は後北条氏滅亡後、その名前や噂を聞かなくなった、とあるが、同じ三浦浄心の著書『[[見聞集]]』には、後北条氏滅亡後、[[向崎甚内]]が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領はみな昔有名だったいたづら者、風魔の一類・らっぱの子孫です。自分は居場所を知っているので案内しましょう」と訴え出て、[[江戸町奉行所]]による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたという逸話を載せている。しかし、向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613年)に処刑された。
『北条五代記』には、風魔や乱波は後北条氏滅亡後、その名前や噂を聞かなくなった、とあるが、同じ三浦浄心の著書『[[見聞集]]』には、後北条氏滅亡後、[[向崎甚内]]が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領はみな昔有名だったいたづら者、風魔の一類・らっぱの子孫です。自分は居場所を知っているので案内しましょう」と訴え出て、[[江戸町奉行所]]による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたという逸話を載せている。しかし、向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613年)に処刑された。
*[[嘉永]]3年(1850年)刊の『[[武江年表]]』の[[天正]]18年([[1590年]])の記事でも上述の解説をしているが、『武江年表補正略』を著した[[喜多村信節]]は、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと補説している。<ref>{{Citation|和書|author=[[今井金吾]]|title=定本 武江年表 上|publisher=[[筑摩書房]]|date=2003-10}}</ref>


===出自===
===出自===
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== モデル ==
== モデル ==
後北条氏の発給文書に、風魔のモデルと思しき「風間」の人名がみえることは、文政13年(1830年)の『[[新編武蔵風土記稿]]』の中に指摘があり、その後、関連する文書が何件か見つかっていて、中でも「風間出羽守」の人名がみえるものが1件あることが知られている<ref name="下山">下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年9月、523-524頁、ISBN 978-4490106961</ref><ref name="黒田">黒田基樹「コラム 風間出羽守のこと」『北条氏年表』高志書院、2013年、136-138頁</ref><ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』小田原市、1993年</ref>。
===風間孫右衛門===
『[[関八州古戦録]]』巻10「多賀谷政経乗捕湯(弓)田砦事」には、[[関宿城]]落城の翌年・甲戌(天正2年・1574年)の秋、[[猿島郡|猿島領]]が後北条氏の持分となったため、北条氏政が[[伊勢貞運|伊勢備中守貞連]]に命じて湯田村([[坂東市]]弓田)に砦を築かせ、[[飯沼]]の対岸にあった[[大生郷天満宮|天満天神の社]]を焼き払って城を築き、'''風間孫兵衛'''(または'''孫右衛門''')と石塚藤兵衛に軽卒300人を付けて守らせた。これは[[多賀谷政経]]の領地を押さえ、敵方の隙をついて襲撃するためだった、との記事がある。


類似の記事は、『関八州古戦録』以前成立した[[下妻市|下妻]]・[[多賀谷]]家記にもみえる。
また『関八州古戦録』など、後北条武将「風間孫右衛門」の名がみえる。

===風間出羽守===
====後北条氏の発給文書====
後北条氏の発給文書に、風魔のモデルと思しき「風間」の人名がみえることは、『[[新編武蔵風土記稿]]』の中に指摘があり、その後、関連する文書が何件か見つかっていて、中でも「風間出羽守」の人名がみえるものが1件ある。<ref name="下山">下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年9月、523-524頁、ISBN 978-4490106961</ref><ref name="黒田">黒田基樹「コラム 風間出羽守のこと」『北条氏年表』高志書院、2013年、136-138頁</ref><ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』小田原市、1993年</ref>


===岩槻・越谷周辺に残る足跡===
[[元亀]]3年(1572年)[[5月7日_(旧暦)|5月7日]]付けで、後北条氏(笠原藤左衛門尉)は岩井弥右衛門尉ら5人に対し、「風間」を同年7月まで(約2ヵ月間、[[岩付領]]内の)「六ヶ村」に配置する予定として、宿以下のことを手配し、馬草・薪を調達させるよう命じ、もし知行分に対して狼藉があった場合は、風間にいったん断わりを入れ、承諾しなければ書付を小田原へ提出するように伝える[[朱印状]]を与えた<ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1106、93-94頁</ref>。
[[ファイル:Kazama-Kuroya-map.png|thumb|岩槻・越谷周辺の「風間出羽守」関連地名地図]]
[[元亀]]3年(1572年)[[5月7日_(旧暦)|5月7日]]付けで、後北条氏(笠原藤左衛門尉)は、岩井弥右衛門尉らに、風間の受け入れの準備をさせるよう指示した<ref name="小1106">『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1106、93-94頁</ref>。
{{-}}
{| class="wikitable"
|+ 北条家朱印状写(新編武蔵風土記稿111)<ref name="小1106" />
|-
! style="width: 50%; "|原文
! 仮訳
|-
|風間来七月迄六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼籍致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、則書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件、<br />
(虎朱印)壬申(元亀3年・1572)五月七日   笠原藤左衛門尉奉<br />
岩井弥右衛門尉殿<br />
中村宮内丞殿<br />
足立又二郎殿<br />
浜野将監殿<br />
立川藤左衛門尉殿<br />
|風間が来たる7月まで六ヶ村に配置させられることになりましたので、宿以下のことを、間違いないように指示してください。万が一、知行分に対して少しでも狼藉に及ぶことがあれば、まず風間に相談して、承諾しない場合は、書き付けを小田原へ提出するようにと、明確に指示するようにしてください。馬草や薪を調達させることが、間違いなくできるようにしてください。以上


(以下省略)
{{Quote|風間来七月迄六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼籍致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、則書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件、<br />
|}
   壬申(元亀3年・1572)五月七日      笠原藤左衛門尉奉<br />
   岩井弥右衛門尉殿<br />
   中村宮内丞殿<br />
   足立又二郎殿<br />
   浜野将監殿<br />
   立川藤左衛門尉殿|北条家朱印状写(新編武蔵風土記稿111)<ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1106、93-94頁</ref>}}


:*『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、[[武蔵国]][[小宮領]][[檜原村]]の旧家・百姓(吉野)軍次の家伝文書2通のうちの1つで、その先祖は後北条氏の配下で、天正元年(1573年)に没した[[吉野盛光|吉野対馬守盛光]]といい、その子・九郎右衛門以降も代々「対馬守」を名乗り、軍次は13代目とされている<ref name="檜">『新編武蔵風土記稿』巻之111 多磨郡之23 小宮領 檜原村 上 旧家 百姓(吉野)軍次。蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第10巻 風土記稿6』雄山閣、1931年、81-82頁。</ref>。
:*『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、[[武蔵国]][[多摩郡]][[小宮領]][[檜原村]]の旧家・百姓(吉野)軍次の家伝文書2通のうちの1つで、その先祖は後北条氏の配下で、天正元年(1573年)に没した[[吉野盛光|吉野対馬守盛光]]といい、その子・九郎右衛門以降も代々「対馬守」を名乗り、軍次は13代目とされている<ref name="檜">『新編武蔵風土記稿』巻之111 多磨郡之23 小宮領 檜原村 上 旧家 百姓(吉野)軍次。蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第10巻 風土記稿6』雄山閣、1931年、81-82頁。</ref>。
:**「吉野対馬守」の[[受領]]は、[[青梅市|青梅]]の[[師岡町 (青梅市)|師岡村]]の[[里正]]となって慶長16年(1611年)に[[新町 (青梅市)|新町村]]を起村したことで知られる[[吉野正清|吉野織部之助正清]]家の家系図にも先祖の名としても見え(ただし諱は「正方」とある)、吉野正清は、[[忍城]]主の[[成田氏]]に仕えていたが、後北条氏滅亡の後、師岡村へ来て帰農したとされており、『[[成田分限帳]]』には他にも成田氏に仕えていた吉野氏の人物の名がみえる<ref>滝沢博「帰農した地侍たち - 吉野氏と師岡氏」たましん地域文化財団『多摩のあゆみ』第46号、1987年2月、37-50頁</ref>。
:**「吉野対馬守」の[[受領]]は、[[青梅市|青梅]]の[[師岡町 (青梅市)|師岡村]]の[[里正]]となって慶長16年(1611年)に[[新町 (青梅市)|新町村]]を起村したことで知られる[[吉野正清|吉野織部之助正清]]家の家系図にも先祖の名としても見え(ただし諱は「正方」とある)、吉野正清は、[[忍城]]主の[[成田氏]]に仕えていたが、後北条氏滅亡の後、師岡村へ来て帰農したとされており、『[[成田分限帳]]』には他にも成田氏に仕えていた吉野氏の人物の名がみえる<ref>滝沢博「帰農した地侍たち - 吉野氏と師岡氏」たましん地域文化財団『多摩のあゆみ』第46号、1987年2月、37-50頁</ref>。
:*「笠原藤左衛門尉」は、[[北条氏政]]の宿老として、永禄10年(1568)から天正5年(1577)頃、領域担当の奉行として北条家当主から岩付領への取次ぎを担当していた[[笠原康明]]とみられている<ref
:*「笠原藤左衛門尉」は、[[北条氏政]]の宿老として、永禄10年(1568)から天正5年(1577)頃、領域担当の奉行として北条家当主から岩付領への取次ぎを担当していた[[笠原康明]]とみられている<ref
>黒田基樹「総論 北条氏房の研究」黒田基樹(編)『北条氏房』〈論集戦国大名と国衆19〉岩田書院、2015年、19頁</ref>。
>黒田基樹「総論 北条氏房の研究」黒田基樹(編)『北条氏房』〈論集戦国大名と国衆19〉岩田書院、2015年、19頁</ref>。
:**黒田基樹は、笠原が奉者となっていることから、文書は武蔵岩付領(さいたま市周辺)に宛てたもので、宛名にみえる岩井氏ら5人は岩付衆、と推測している<ref name="黒田" />。
:**黒田基樹は、笠原が奉者となっていることから、文書は武蔵岩付領(さいたま市周辺)に宛てたもので、宛名にみえる岩井氏ら5人は岩付衆、と推測している<ref name="黒田" />。
:*「岩井弥右衛門尉」は、自序により[[天保]]11年(1840年)頃成立の、[[越谷宿]][[大沢町]]の名主・江沢昭融が著した地誌『[[大沢町古馬筥]]』に、以前、[[新方領]]向畑(むこうばたけ)村(越谷市向畑)にあった陣屋の陣屋守で、後に[[修験者|修験]]となって同村の[[花光院|花向院]]の住職をしていた人の名としてみえる<ref name="向畑">「8 ○向畑村新方三郎之事」『越谷市史 第4巻 史料2』(越谷市、1972年)133頁。茂木和平『埼玉苗字辞典』ウェブ版の「イ」「岩井氏」の項に言及がある。</ref>。天保に近い頃まで子孫の縁者が残っていたが、嫡家は没落しており、天保当時、向畑村字陣屋の百姓・初右衛門の家に伝説的な人物「新方三郎」の肖像画として伝えられてた掛け軸は、実際には岩井弥右衛門の肖像画で、また[[文化 (元号)|文化]]の頃まで花向院には岩井弥右衛門所持の短刀が伝えられていた、とされている<ref name="向畑" />。
:*「岩井弥右衛門尉」は、自序により[[天保]]11年(1840年)頃成立の、[[越谷宿]][[大沢町]]の名主・江沢昭融が著した地誌『[[大沢町古馬筥]]』に、以前、[[新方領]]向畑村(越谷市向畑)にあった陣屋の陣屋守で、後に[[修験者|修験]]となって同村の[[花光院|花向院]]の住職をしていた人の名としてみえる<ref name="向畑">「8 ○向畑村新方三郎之事」『越谷市史 第4巻 史料2』(越谷市、1972年)133頁。茂木和平『埼玉苗字辞典』ウェブ版の「イ」「岩井氏」の項に言及がある。</ref>。天保に近い頃まで子孫の縁者が残っていたが、嫡家は没落しており、天保当時、向畑村字陣屋の百姓・初右衛門の家に伝説的な人物「新方三郎」の肖像画として伝えられてた掛け軸は、実際には岩井弥右衛門の肖像画で、また[[文化 (元号)|文化]]の頃まで花向院には岩井弥右衛門所持の短刀が伝えられていた、とされている<ref name="向畑" />。


:*中村宮内丞:未詳
*元亀4年(1573年)[[12月10日_(旧暦)|12月10日]]、後北条氏([[評定衆]]・勘解由左衛門尉康保)は[[武蔵国]]の「すな原」の百姓達からの訴えを受けて、以後、風間を「すな原」に在宿させないとする裁許朱印状を与えた<ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1137、128頁</ref>。

*[[天正]]5年(1577年)2月に北条氏(評定衆・下総守康信)は、内田孫四郎に、「風間同心渡辺新三」からの、内田が定められた軍役を果たしていないとの訴えを却下した旨を伝える朱印状を与えた<ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1239、217-218頁</ref>。
:*足立又二郎:未詳
**内田孫四郎は、天正元年(1573年)2月に関宿の合戦で戦功があったとして[[北条氏直]]の感状を受け、天正2年(1574年)7月に[[北条氏好|(北条)氏好]]から[[太田資正|太田美濃守]]時代からの「すな原」の「打明」の領有を引き続き認められていた<ref>『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料 下』1983年、No.475,481</ref>。

:*浜野将監:未詳。『埼玉苗字辞典』によれば、「浜野」は武蔵国では[[利根川]]流域に多くある姓<ref>『埼玉苗字辞典』ウェブ版、ハ~ヒ</ref>。永禄3年(1560年)の『関東幕注文』に岩付衆として「浜野修理亮」の名がみえ、また『[[武家雲箋]]』所収文書に永禄12年(1569年)の[[春日摂津守]]配下の奉行として、永禄年間(1558年 - 1570年)の「高麗文書」に[[太田資正]]やその子・[[梶原景政]]に従った人物として「浜野弥六郎」の名がみえる<ref>『埼玉苗字辞典』ウェブ版、ハ~ヒ</ref>。『越谷市史』には、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入国の後、新方領[[増林村]](越谷市増林)に建てられた仮御殿の御殿番をしていたという浜野藤右衛門の子孫の由緒書を載せている<ref>「496 明和4年11月 浜野藤蔵由緒書」(市史編さん室蔵)『越谷市史 第3巻 史料1』越谷市、1973年、495-497頁</ref>。また『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』によると、1982年当時、後出の、始祖が風間出羽守の子という雨宮弥太夫家のあった岩槻・黒谷の約半数は「浜野」姓で、屋号「アブラヤ」で村内の薬師堂を創建した浜野家は、古くから屋号「ケイッカ」から分れた屋号「シモノカタヤ」の雨宮家と交流があった<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27,35-36,268頁。</ref>。

:*立川藤左衛門尉:天正元年(1573年)に後北条氏が与野(さいたま市[[中央区]])の立石甚左衛門と百姓中に宛てた印判状に納税先としてその名がみえ、天正5年(1577年)7月13日付の「岩付諸奉行但今度之陣一廻之定」に、[[旗奉行|小籏奉行]]・[[篝奉行]]として名前がみえる<ref name="嗣永">嗣永芳照「岩付の立川氏 その関連史料」36-37頁</ref>。天文14年(1545年)に[[扇谷上杉氏]]が北条氏康に滅ぼされた後、後北条氏の家臣団に繰り入れられた[[立川氏]]の一族の中から、岩付へ配置された人物とみられている<ref name="嗣永" />。

元亀4年(1573年)[[12月10日_(旧暦)|12月10日]]、後北条氏([[評定衆]]・勘解由左衛門尉康保)は、([[武蔵国]]の)「すな原」の百姓達からの訴えを受けて、以後、風間を「すな原」に在宿させないとする裁許朱印状を与えた<ref name="小1137">『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1137、128頁</ref>。

{| class="wikitable"
|+ 北条家裁許朱印状写([[武州文書]]12)<ref name="小1137" />
|-
! style="width: 50%; "|原文
! 仮訳
|-
| 風間在所被仰付間、すな原ニ者有之間敷被思召処、于今致在宿候哉、百姓迷惑之段申処、無余儀候間、向後風間置事無用候旨、被仰出者也、仍如件、<br />
(虎朱印)元亀4年癸酉(1573年)十二月十日   評定衆 勘解由左衛門尉 康保(花押)<br />
すな原百姓中
| 風間の在所を命じられ、すな原には有るべきではないとお考えのところ、今に至るまで在宿しましたので、百姓が困惑しているとのお話を頂き、やむを得ませんので、今後は風間を置かないことにする旨、指示されました。以上

(以下省略)
|}

:*『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、[[武蔵国]][[足立郡]][[鴻巣領]][[鴻巣宿]]の旧家・(小池)三太夫の家に伝わった文書で、その先祖は、もと[[畠山政長|畠山尾張守政長]]幕下の[[紀伊国|紀州]][[日高郡]]小池の領主だったが、先祖・小池主計助が[[北条早雲]]に仕えて小田原へ移住し、その子・小池長門守が[[岩槻領|岩槻]]市宿に居住、功労があって[[鴻巣領]]の原地に砦を築き、天文20年(1551年)9月1日に岩槻市宿から移住して、「市宿新田」と名付けた、とされている<ref name="鴻">『新編武蔵風土記稿』 巻之148 足立郡之14 鴻巣領 鴻巣宿 旧家(小池)三太夫。蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第12巻 風土記稿8』雄山閣、1932年、5-6頁。</ref>。
:*「すな原」は文書が鴻巣宿の小池氏の家に伝わったことから、『岩槻市史』<ref>『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』岩槻市役所、1983年、182頁、No.477</ref>、『鴻巣市史』<ref>鴻巣市市史編さん調査会『鴻巣市史 資料編2 古代・中世』埼玉県鴻巣市、1991年、508-509頁、No.353</ref>、下山『後北条氏家臣団人名辞典』<ref>523頁</ref>などは[[鴻巣市]]内の地名と推測しているが、黒田基樹「風間出羽守のこと」は「岩付領砂原村(越谷市)」に比定している<ref>黒田基樹(編)『北条氏年表』高志書院、2013年、137頁</ref>。
::*『新編武蔵国風土記稿』によると、埼玉郡の「砂原村」は向川辺領([[加須市]])と越谷領(越谷市)にある<ref>巻203 埼玉郡14 向川辺領 砂原村、巻203 埼玉郡 5 越ヶ谷領 砂原村。ほかに、巻23 葛飾郡 4 西葛西領 本田筋にも「砂原村」がある。</ref>。

天正5年(1577年)2月に北条氏(評定衆・下総守康信)は、内田孫四郎に、「風間同心渡辺新三」からの、内田が定められた軍役を果たしていないとの訴えを却下した旨を伝える朱印状を与えた<ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1239、217-218頁</ref>。
*内田孫四郎は、天正元年(1573年)2月に関宿の合戦で戦功があったとして[[北条氏直]]の感状を受け、天正2年(1574年)7月に[[北条氏好|(北条)氏好]]から太田美濃守時代からの「すな原」の「打明」の領有を引き続き認められていた<ref>『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』1983年、No.475,481</ref>。
*後出の「万代記録帳」にみえる風間出羽守の子・雨宮主水正の子・弥太夫の妻・雲信女(1684年没)は、[[新方領]]恩間村([[越谷市]]恩間、『新編武蔵風土記稿』には「岩槻領忍間村」としてみえる<ref>『新編武蔵風土記稿』巻203 崎玉郡 5 岩槻領 忍間村附持添新田</ref>)の渡辺氏から嫁いでいる<ref>前掲書959頁</ref>。『越谷市史』<ref>『越谷市史 第3巻 史料1』越谷市、1973年、962-967頁</ref>や『大竹の歩み』(抄本)<ref>大竹自治会、1997年、30-32頁</ref> に恩間村渡辺氏の家譜が収載されているが、自序によると、中世の系譜は[[正保]]年間の火災で焼失したため、後年、他の渡辺氏の系図を参照して書き継いだといい、「新三」名はみえない<ref>「497 天明7年12月 恩間渡辺氏家譜」『越谷市史 第3巻 史料1』962-963頁</ref>。

(推定天正9年・1581年以降に、北条氏政が、この頃、[[岩槻城|岩槻城]]主だった)[[太田氏房|十郎(氏房)]]に宛てた書状では、夜間の警備を厳重に行うにあたっては前々から準備しておくこと、風間のところへ加勢することが重要であり、「かき」を1里ほど指示すべきこと、「かゝり」を極め、夜中くらいままにしておくように(?)厳しく指示すべきことなどを指示している<ref name="小1082">『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.2245、1082-1083頁</ref>。

{| class="wikitable"
|+ 北條氏政〔カ〕書状写(家伝史料6)<ref name="小1082" />
|-
! style="width: 50%; "|原文
! 仮訳
|-
| 今日之構肝悪(要カ)之処侯、然者、夜中之仕置極候、兼而不申付儀者、俄ニ成かたく候、日中さへ厳敷候事者あわたゝしく候、いわんや夜中之儀者、兼而之仕置専一候條、風間処江堅加勢専一候、第一かきを一里計可被申付侯、又かゝりニ極候、夜中くら(暗)く候まゝ堅可被申付候、返々夜分の用心専一ニ候、大かたニ覚悟ニ而ハ口惜候、又煩ハ如何、くわしくきゝ(聞)度候、<br />
十郎殿へ
| 今日の構えは肝心なところです。さてそこで、夜間の措置を決めました。兼ねてから言い付けていない事は、急にやるのは難しいものです。昼間でも、厳重に行うことは落ち着いてできないものです。まして夜間のことは、兼ねてからの措置が重要ですので、風間のところへしっかり加勢することが重要です。第一に「かき」を1里(約4km)ほど指示されるべきです。また「かかり」に決めました(?)。夜間暗くなっているままに(?)しっかりと指示されるべきです。くれぐれも、夜分の用心が重要です。通り一遍の覚悟では思うようになりません。また病気は如何ですか。詳しく聞きたいです。<br />
十郎殿へ
|}


*(推定天正9年・1581年以降に)北条氏政が([[岩槻城|岩付城主]]の)[[太田氏房|十郎(氏房)]]に宛てた書状では、夜間の警備を厳重に行うにあたっては前々から準備しておくこと、風間のところへ加勢することが重要であり、「かき」を1里ほど指示すべきこと、「かゝり」を極め、夜中くらいままにしておくように(?)厳しく指示すべきことなどを繰り返し指示している。
{{Quote|今日之構肝悪(要カ)之処侯、然者、夜中之仕置極候、兼而不申付儀者、俄ニ成かたく候、日中さへ厳敷候事者あわたゝしく候、いわんや夜中之儀者、兼而之仕置専一候條、風間処江堅加勢専一候、第一かきを一里計可被申付侯、又かゝりニ極候、夜中くら(暗)く候まゝ堅可被申付候、返々夜分の用心専一ニ候、大かたニ覚悟ニ而ハロ惜候、又煩ハ如何、くわしくきゝ(聞)度候、<br />
十郎殿へ|北條氏政〔カ〕書状写(家伝史料6)<ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.2245、1082-1083頁</ref>}}
:*平山優は、「かき」は「嗅ぎ」(嗅物聞、偵察の忍び)と推測している<ref name="平山">平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、94-95頁</ref>。
:*平山優は、「かき」は「嗅ぎ」(嗅物聞、偵察の忍び)と推測している<ref name="平山">平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、94-95頁</ref>。


===湯田砦の戦い===
*(推定天正10年・1582年)[[9月13日_(旧暦)|9月13日]]付の書状で[[北条氏政]]は風間出羽守に「大手陣」(氏直の軍勢)の[[信濃国|信]][[遠江国|遠]]境での戦況を伝え、味方と示し合わせて出陣するよう命じている。
[[ファイル:Kazama-Iinuma-map.png|thumb|飯沼周辺の「風間」関連地名地図]]
{{Quote|注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能々首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、<br />
『[[関八州古戦録]]』巻10「多賀谷政経乗捕湯田砦事」には、[[関宿城]]落城の翌年・甲戌(天正2年・1574年)の秋、[[猿島郡|猿島領]]が後北条氏の持分となったため、北条氏政が[[伊勢貞運|伊勢備中守貞連]]に命じて湯田村([[坂東市]]弓田)に砦を築かせ、[[飯沼]]の対岸にあった[[大生郷天満宮|天満天神の社]]を焼き払って城を築き、'''風間孫兵衛'''(または'''孫右衛門''')と石塚藤兵衛に軽卒300人を付けて守らせた。これは[[多賀谷政経]]の領地を押さえ、敵方の隙をついて襲撃するためだった、との記事がある。
(天正10年)九月十三日   (北条)氏政(花押)<br />
風間出羽守殿|北条氏政書状(佐藤行信氏所蔵文書)<ref>『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、416頁、No.1464、</ref> }}


同書によると、多賀谷政経・[[多賀谷重経|重経]]父子は、岡田原(常総市岡田)へ打ち出して湯田の城兵を花島(茨城県常総市花島町)へ誘い出し、[[鬼怒川]]の下流から兵を回して退路を断ち、古間木(茨城県常総市)の城主・渡辺周防守が仁連村(茨城県古河市)を越えて湯田砦を焼き討ちにして大勝し、後北条氏の軍勢は関宿城へ退却して、多賀谷氏が下猿島を占領し、大生郷天満宮を再建した、という。
====黒谷村・雨宮弥太夫家の家記====
[[ファイル:Kazama-Kuroya-map.png|thumb|黒谷周辺の「風間出羽守」関連地名地図]]


類似の記事は、『関八州古戦録』以前に成立した[[下妻市|下妻]]・[[多賀谷氏]]の家記にもみえる。
2006年刊の[[茂木和平]]『埼玉苗字辞典』<ref name="茂木">茂木和平、2006年、第2巻、カ-シ、2165頁</ref>および[[下山治久]]『後北条氏家臣団人名辞典』<ref name="下山" />に、岩付城下・[[黒谷 (さいたま市)|黒谷村]]([[さいたま市]][[岩槻区]])の[[妙円寺]]の開基は、風間出羽守の嫡子・雨宮主水正、とあり、茂木は、「風間」は[[信濃国]][[水内郡]]の[[風間神社|式内社風間神社]]から起る在名で、本名が「雨宮」と推測し、黒谷村には、雨宮氏が5戸あり、風間氏は無い、と指摘している<ref name="茂木" />。『岩槻市史 通史編』<ref>岩槻市市史編さん室、1985年</ref>には、「妙円寺:曹洞宗:開基:風間出羽守嫡子・雨宮主水正。開山:真浄寺第三世雪庭祖林和尚」とある<ref>782頁。下山氏のご教示による。</ref>。


===若御子対陣===
江戸時代に黒谷村の名主をしていた雨宮弥太夫家で安政2年(1855年)から書き継がれた「万代記録帳」(杉崎賢治家文書)<ref>『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』1982年、952-1060頁</ref>中の「清和天皇七代之孫源頼義公 当家世代控」によると、同家の始祖は、「風間出羽守嫡子雨宮主水正〔本国紀州清和源氏頼義18代之後 風間出羽守〕」である<ref>前掲書958-959頁</ref>。また明治8年(1875年)に調査が行われた『[[武蔵国郡村誌]]』の黒谷村 妙円寺の項には「正保の頃、村吏雨宮利之助の祖先・風間出羽守庶子雨宮主水、開基創建すと云」とあり<ref>『武蔵国郡村誌 第11巻』埼玉県立図書館、1954年、第11巻 埼玉郡村誌 巻之七 黒谷村、323頁</ref>、「利之助」の名は「万代記録帳」にもみえる<ref>前掲書960頁</ref>。
[[本能寺の変]]後の天正10年(1582年)8-10月にかけて、後北条氏と徳川氏が上・甲・信地方の領有を巡って争った[[若御子対陣]]<ref>10巻本『北条記』巻8「若御子対陣之事」(国立公文書館蔵本・昌平坂学問所旧蔵本 第3冊 コマ67)</ref>のとき、(推定天正10年・1582年)[[9月13日_(旧暦)|9月13日]]付の書状で、[[北条氏政]]は風間出羽守に「大手陣」(氏直の軍勢)の戦況が有利だと伝え、当方と示し合わせて攻勢に出るよう伝えている<ref name="小1464">『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、416頁、No.1464</ref>。


{| class="wikitable"
黒谷地区の雨宮姓には2系統あり、屋号「ホンケ」「トライチドン」の雨宮家には、4代前の継嗣が幼いうちに両親が死去したため、母方の実家のあった越谷市西新井で養われ、成長してから黒谷に戻り家を復活させたと伝えられていた<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁</ref>。「万代記録帳」が伝わった杉崎家は、雨宮家の継嗣の姉の嫁ぎ先で、雨宮家の継嗣が幼い頃に両親が死去したため、その後見人となり、継嗣は成長した後に岩槻へ移住したため、雨宮家の跡を継いだ、とされている<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁</ref>。
|+ 北条氏政書状(佐藤行信氏所蔵文書)<ref name="小1464" />
|-
! style="width: 50%; " |原文
! 仮訳
|-
| 注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能々首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、<br />
(天正10年・1582年)九月十三日   氏政(花押)<br />
風間出羽守殿
| 報告書の趣旨は、なるほどいいと思いました。絵図を描かせて確認してみました。さてところで、大手陣は良いこと続きで、[[信州]]・[[遠州]]の境で[[山家三方衆]]千余人を討捕り、信州は余すところが無くなりました。我々の方面へもきっと使者が確認できるでしょう。毎日、人数が攻撃しているところですので、よくよくタイミングを合わせて出撃してください。今この時こそ、ご活躍ください。謹言<br />
(以下省略)
|}


===岩槻・黒谷の雨宮弥太夫家の先祖===
「万代記録帳」が伝わった家とは別系統の屋号「ケイッカ」の雨宮家には、先祖は[[大坂城]]で財政の仕事をしていたが、[[大阪夏の陣|大阪落城]]のとき、[[松伏町|松ブシ]]の[[石川民部|ミンブサマ]]と一緒に落ち延びてきた、と伝えられていた<ref>岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁</ref>。松伏町の石川民部家の祖流については、[[石川源氏|河内石川氏]]とする説もあり<ref>大河内博「ある豪農の盛衰 - 石川民部の系譜」『大きく砕けよ』1990年、160-161頁</ref>、松伏町で2001-2002年頃、町史編纂のため聞き取り調査を実施した際にも、石川民部家始祖は大阪の陣の頃、関西から落ち延びてきた、との民間伝承が残っていた<ref>「松伏町聞き取り調査カード(事件用)」No.1-35・1-146、2001年・2002年</ref><ref>「万代記録帳」によると、風間出羽守は黒谷の雨宮家の先祖筋であるが、始祖はその子・雨宮主水正とされているため、後北条氏の推定天正10年の発給文書にみえる風間出羽守と同一人物(の子)であったとしても、当時から一貫して黒谷にあったかは不明で、『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』の伝のように別地からの移住の経緯があったとも考えられる。</ref>。
2006年刊の[[茂木和平]]『埼玉苗字辞典』<ref name="茂木">茂木和平、2006年、第2巻、カ-シ、2165頁</ref>および[[下山治久]]『後北条氏家臣団人名辞典』<ref name="下山" />に、岩付城下・[[黒谷 (さいたま市)|黒谷村]]([[さいたま市]][[岩槻区]])の[[妙円寺]]の開基は、風間出羽守の嫡子・雨宮主水正、とあり、茂木は、「風間」は[[信濃国]][[水内郡]]の[[風間神社|式内社風間神社]]から起る在名で、本名が「雨宮」と推測し、黒谷村には、雨宮氏が5戸あり、風間氏は無い、と指摘している<ref name="茂木" />。『岩槻市史』<ref>『岩槻市史 通史編』岩槻市市史編さん室、1985年</ref>には、「妙円寺:曹洞宗:開基:風間出羽守嫡子・雨宮主水正。開山:真浄寺第三世雪庭祖林和尚」とある<ref>782頁。下山氏のご教示による。</ref>。


江戸時代に黒谷村の名主をしていた雨宮弥太夫家で安政2年(1855年)から書き継がれた「万代記録帳」(杉崎賢治家文書)<ref>『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』1982年、952-1060頁</ref>中の「清和天皇七代之孫源頼義公 当家世代控」によると、同家の始祖は、「風間出羽守嫡子雨宮主水正〔本国紀州清和源氏頼義18代之後 風間出羽守〕」である<ref>前掲書958-959頁</ref>。雨宮主水正の没年は[[承応]]元年壬辰(1652年)で、その子(1689年没)から代々「弥太夫」を名乗ったとされている<ref>前掲書958-959頁</ref>。明治8年(1875年)に調査が行われた『[[武蔵国郡村誌]]』の黒谷村 妙円寺の項には「正保の頃、村吏雨宮利之助の祖先・風間出羽守庶子雨宮主水、開基創建すと云」とあり<ref>『武蔵国郡村誌 第11巻』埼玉県立図書館、1954年、第11巻 埼玉郡村誌 巻之七 黒谷村、323頁</ref>、「利之助」の名は「万代記録帳」にもみえる<ref>前掲書960頁</ref>。
「万代記録帳」には、別に、雨宮家が毎年正月と7月に黒谷村の妙円寺と遍照院に付け届けをしており、妙円寺については、先祖が開基だった旨がみえる<ref>『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』976頁</ref> <ref>『岩槻市史 金石史料編Ⅰ 中世史料』(岩槻市、1984年、196頁)には、妙円寺には[[明応]]9年(1500年)の板碑があるとされており、同寺の創建は雨宮主水正の時代よりも遡る可能性がある。</ref>。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』所載の聞書によると、黒谷の雨宮氏一党の本寺は[[太田 (さいたま市)|岩槻太田]]の[[浄源寺]]で、妙円寺には墓のみがあったが、遍照院に墓を移した、とされている<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、36-37,252,257-258頁</ref>。


「万代記録帳」には、別に、雨宮家が毎年正月と7月に黒谷村の妙円寺と遍照院に付け届けをしており、妙円寺については、先祖が開基だった旨がみえる<ref>『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』976頁</ref><ref>『岩槻市史 金石史料編Ⅰ 中世史料』(岩槻市、1984年、196頁)には、妙円寺には[[明応]]9年(1500年)の板碑があるとされており、同寺の創建は雨宮主水正の時代よりも遡る可能性がある。</ref>。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』所載の聞書によると、黒谷の雨宮氏一党の本寺は[[太田 (さいたま市)|岩槻太田]]の[[浄源寺]]で、妙円寺には墓のみがあったが、遍照院に墓を移した、とされている<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、36-37,252,257-258頁</ref>。
「万代記録帳」によると、雨宮主水正の没年は[[承応]]元年壬辰(1652年)で、その子・弥太夫(1689年没)から代々「弥太夫」を名乗っており、初代弥太夫の妻・雲信女(1684年没)は[[新方領]]恩間村(現[[越谷市]]恩間、『新編武蔵風土記稿』には「岩槻領忍間村」としてみえる<ref>『新編武蔵風土記稿』巻203 崎玉郡 5 岩槻領 忍間村附持添新田</ref>)の渡辺氏から嫁いでいる<ref>前掲書959頁</ref>。(上記の天正5年の後北条氏の発給文書にみえる「風間同心渡辺新三」との関連が考えられ、)恩間村渡辺氏はその家譜が『越谷市史 第3巻 史料1』<ref>越谷市、1973年、962-967頁</ref>や『大竹の歩み』(抄本)<ref>大竹自治会、1997年、30-32頁</ref>に収載されているが、家譜の自序によると、中世の系譜は[[正保]]年間の火災で焼失し、系譜は後年、他の渡辺氏の系図を参照して書き継いだもの、とされており、「新三」名はみえない<ref>『越谷市史 第3巻 史料1』962-963頁</ref>。


た『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』によると黒谷の約半数は「浜野」姓で屋号アブラヤ」で村内薬師堂を創建した浜野家は古くから屋号「ケイッカ」から分れ屋号「シモノカタヤ」の雨宮家と交流があった<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27,35-36,268</ref>。
黒谷地区の雨宮姓には2系統あり、屋号「ホンケ」「トライチドン」の雨宮家には、4代前の継嗣が幼いうちに両親が死去しため、母方の実家のあった越谷市西新井で養われ、成長してから黒谷に戻り家を復活させたと伝えられていた<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室1982年27-28頁</ref>。万代記録帳が伝わった杉崎家は、雨宮家の継嗣の姉の嫁ぎ先、雨宮家継嗣が幼い頃に両親が死去したため、そ後見人となり、継嗣は成長した後に岩槻へ移住したため、雨宮家の跡を継いだ、されている<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁</ref>。

「万代記録帳」が伝わった家とは別系統の屋号「ケイッカ」の雨宮家には、先祖は[[大坂城]]で財政の仕事をしていたが、[[大阪夏の陣|大阪落城]]のとき、[[松伏町|松ブシ]]の[[石川民部|ミンブサマ]]と一緒に落ち延びてきた、と伝えられていた<ref>『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁</ref>。松伏町の石川民部家の祖流については、[[石川源氏|河内石川氏]]とする説もあり<ref>大河内博「ある豪農の盛衰 - 石川民部の系譜」『大きく砕けよ』1990年、160-161頁</ref>、松伏町で2001-2002年頃、町史編纂のため聞き取り調査を実施した際にも、石川民部家始祖は大阪の陣の頃、関西から落ち延びてきた、との民間伝承が残っていた<ref>「松伏町聞き取り調査カード(事件用)」No.1-35・1-146、2001年・2002年</ref><ref>「万代記録帳」によると、風間出羽守は黒谷の雨宮家の先祖筋であるが、始祖はその子・雨宮主水正とされているため、後北条氏の推定天正10年の発給文書にみえる風間出羽守と同一人物(の子)であったとしても、当時から一貫して黒谷にあったかは不明で、『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』の伝のように別地からの移住の経緯があったとも考えられる。</ref>。


====風間用水と風間圦====
===風間用水と風間圦===
『武蔵国郡村誌』の下新井村の項に、同村の北方・飯塚村から南に流れて高曽根村・黒谷村の間に入る「風間堀」について言及がある<ref>第11巻 埼玉郡村誌 巻7 下新井村、339-340頁</ref>。1984年当時は「風間用水」と呼ばれるようになっており、「飯塚から南下新井・黒谷・高曽根へと続く」とされている<ref>『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市市史編さん室、1984年、177頁。『岩槻市史料13 民俗調査報告書2』(岩槻市史編さん室、1982年)58頁に、「風間用水は、飯塚の金子亀次家の裏、島田タイル屋から入ってきて高曽根に来ているもの」とあり。</ref>。
『武蔵国郡村誌』の下新井村の項に、同村の北方・飯塚村から南に流れて高曽根村・黒谷村の間に入る「風間堀」について言及がある<ref>第11巻 埼玉郡村誌 巻7 下新井村、339-340頁</ref>。1984年当時は「風間用水」と呼ばれるようになっており、「飯塚から南下新井・黒谷・高曽根へと続く」とされている<ref>『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市市史編さん室、1984年、177頁。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』(岩槻市史編さん室、1982年)58頁に、「風間用水は、飯塚の金子亀次家の裏、島田タイル屋から入ってきて高曽根に来ているもの」とあり。</ref>。


天明3年(1783年)の「飯塚村明細書上帳」には、[[元荒川]]から用水を引き入れるため、風間と風間新田の2箇所に[[圦|圦(いり)]]を普請してある旨がみえ、風間の圦について飯塚・下新井・黒谷・高曽根・野島・孫十郎の6ヶ村、風間新田の圦について末田・飯塚の2ヶ村の組合とされている<ref>「清水金之亮家文書」『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料()』1982年、585-595頁</ref>。
天明3年(1783年)の「飯塚村明細書上帳」には、[[元荒川]]から用水を引き入れるため、風間と風間新田の2箇所に[[圦|圦(いり)]]を普請してある旨がみえ、風間の圦について飯塚・下新井・黒谷・高曽根・野島・孫十郎の6ヶ村、風間新田の圦について末田・飯塚の2ヶ村の組合とされている<ref>「清水金之亮家文書」『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料岩槻市市史編さん室、1982年、585-595頁</ref>。


{{Quote|
{{Quotation|
一 村国村治郎兵衛裏より風間圦前迄堀長三百八拾三間<br />
一 村国村治郎兵衛裏より風間圦前迄堀長三百八拾三間<br />
一 風間(圦)尻より往還石橋迄 七拾弐間<br />
一 風間(圦)尻より往還石橋迄 七拾弐間<br />
88行目: 146行目:
 〆堀長サ千六拾八間(約1.942km)有之申侯、右之役人者共算ニ当年<br />
 〆堀長サ千六拾八間(約1.942km)有之申侯、右之役人者共算ニ当年<br />
 ハ〆九百五拾九間当有之、清水右金次当<br />
 ハ〆九百五拾九間当有之、清水右金次当<br />
|風間堀筋之覚「清水金之亮家文書」<ref>『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料()』1982年、591頁</ref>}}
|風間堀筋之覚|「清水金之亮家文書」<ref>『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料岩槻市市史編さん室、1982年、591頁</ref>}}


===考証・評価===
===考証・評価===
*文政11年(1828年)の『[[新編武蔵風土記稿]]』は、「風間」の名が記された後北条氏の発給文書2点を収載し、うち1点に「文中に風間といへるは、小田原北条氏にかかへおける[[乱波]]なり、乱波とは忍びの者のことにて、あるひは[[透波]]とも云、風間はその首領にて、諸国を廻り軍事をたすけしものなり」と編注を付している<ref name="檜" />。
*文政11年(1828年)の『[[新編武蔵風土記稿]]』は、「風間」の名が記された後北条氏の発給文書2点を収載し、うち1点に「文中に風間といへるは、小田原北条氏にかかへおける[[乱波]]なり、乱波とは忍びの者のことにて、あるひは[[透波]]とも云、風間はその首領にて、諸国を廻り軍事をたすけしものなり」と編注を付している<ref name="檜" />。
*[[嘉永]]3年(1850年)刊の『[[武江年表]]』の天正18年([[1590年]])の記事に「天正の頃関東に乱波風間といへる強盗あり、党を結び陣中へも忍び入て盗をなす諸人恐れけるが今年より何れへか逃退て其噂絶たり〔北条五代記に出〕」とあるが、『武江年表補正略』を著した[[喜多村信節]]は、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと補説している。<ref>{{Citation|和書|author=[[今井金吾]]|title=定本 武江年表 上|publisher=[[筑摩書房]]|date=2003-10}}</ref>
*万延元年(1860年)頃完成した[[和学講談所]]の『[[武家名目抄]]』において、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」にみえる乱波は、常に「忍(しのび)」を役する一種の「賎人」で、野武士・強盗などの中から扶持され、戦国大名は間者・かまり・夜討などに使うために彼等を養い置いた、と解釈されている<ref>今泉定介編『故実叢書 武家名目抄 職名部 巻6』吉川弘文館、1903年、701-703頁</ref>。
*万延元年(1860年)頃完成した[[和学講談所]]の『[[武家名目抄]]』において、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」にみえる乱波は、常に「忍(しのび)」を役する一種の「賎人」で、野武士・強盗などの中から扶持され、戦国大名は間者・かまり・夜討などに使うために彼等を養い置いた、と解釈されている<ref>今泉定介編『故実叢書 武家名目抄 職名部 巻6』吉川弘文館、1903年、701-703頁</ref>。
*1926年に[[花見朔巳]]は、もともと身分が低く、情勢次第で主君を替える傭兵・野武士のような雑兵で、軽装で防備が手薄な敵方の陣所に物盗りに入り、火付けをするなどしていた「足軽」が時代が下るにつれ部隊化されたものが「らっぱ」ではないかとし、『北条五代記』の中では不分明な、斥候や偵察をする「忍びの者」とはやや異質な存在だったのではないかと指摘した<ref>花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」日本歴史地理学会『日本兵制史』日本歴史地理学会、121-240頁</ref>。
*1926年に[[花見朔巳]]は、もともと身分が低く、情勢次第で主君を替える傭兵・野武士のような雑兵で、軽装で防備が手薄な敵方の陣所に物盗りに入り、火付けをするなどしていた「足軽」が時代が下るにつれ部隊化されたものが「らっぱ」ではないかとし、『北条五代記』の中では不分明な、斥候や偵察をする「忍びの者」とはやや異質な存在だったのではないかと指摘した<ref>花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」日本歴史地理学会『日本兵制史』日本歴史地理学会、121-240頁</ref>。
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*1928年に[[折口信夫]]は、三田村の「盗賊」的な見方を発展させ、らっぱを「[[サンカ]]」(山岳地帯に住む特殊な民族)が里に下りて街道筋を流浪するようになった存在だと主張した<ref>折口信夫「無頼の徒の芸術」民俗芸術の会『民俗芸術』第1巻第8号、1928年8月、1-14頁。論考のもとは講演での口頭発表で、論拠となる出典への言及が全く示されていないが、[[安野真幸]]「『相良氏法度』の研究(二)『スッパ・ラッパ』考」(弘前大学教養部『文化紀要』第40号、1994年9月、9-51頁)や[[藤木久志]]『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年、201-261頁)など、近年の雑兵論でも通説と見做されている。</ref>。
*1928年に[[折口信夫]]は、三田村の「盗賊」的な見方を発展させ、らっぱを「[[サンカ]]」(山岳地帯に住む特殊な民族)が里に下りて街道筋を流浪するようになった存在だと主張した<ref>折口信夫「無頼の徒の芸術」民俗芸術の会『民俗芸術』第1巻第8号、1928年8月、1-14頁。論考のもとは講演での口頭発表で、論拠となる出典への言及が全く示されていないが、[[安野真幸]]「『相良氏法度』の研究(二)『スッパ・ラッパ』考」(弘前大学教養部『文化紀要』第40号、1994年9月、9-51頁)や[[藤木久志]]『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年、201-261頁)など、近年の雑兵論でも通説と見做されている。</ref>。
*2004年に[[下沢敦]]は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の条に、乱波の言い換えである「二百人の悪盗」について『[[節用集]]』に「悪盗」が「悪党」の言い換えとされていることや、作中の「山賊・海賊・夜討・強盗」の列挙が『[[御成敗式目]]』第3条の罪科の列挙と共通していることから、乱波を[[悪党]](極悪で凶悪な盗人の集団)と解釈し、戦国大名家が傭兵として悪党集団を召し抱え、足軽部隊を先導させるなどして、現代の斥候のような索敵・偵察任務や、[[夜討ち]]に代表される夜間奇襲攻撃のような特殊任務に使役した、と解釈した<ref name="下沢">下沢敦「風摩:『北条五代記』「関東の乱波智略の事」について」『共栄学園短期大学研究紀要』2004年、No.20、15-40頁</ref>。
*2004年に[[下沢敦]]は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の条に、乱波の言い換えである「二百人の悪盗」について『[[節用集]]』に「悪盗」が「悪党」の言い換えとされていることや、作中の「山賊・海賊・夜討・強盗」の列挙が『[[御成敗式目]]』第3条の罪科の列挙と共通していることから、乱波を[[悪党]](極悪で凶悪な盗人の集団)と解釈し、戦国大名家が傭兵として悪党集団を召し抱え、足軽部隊を先導させるなどして、現代の斥候のような索敵・偵察任務や、[[夜討ち]]に代表される夜間奇襲攻撃のような特殊任務に使役した、と解釈した<ref name="下沢">下沢敦「風摩:『北条五代記』「関東の乱波智略の事」について」『共栄学園短期大学研究紀要』2004年、No.20、15-40頁</ref>。
*また下沢は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の後半の「立すぐり・居すぐり」の逸話が『[[太平記]]』巻第34「平石の城軍の事付けたり和田夜討の事」の記事にみえることを指摘し、同話が三浦浄心による再話の可能性を指摘しつつも、身分の低い、社会の最底辺にあるような人々が悪党集団を構成し、中世の古風な悪党の智略をそのまま踏襲していた、と解釈している<ref name="下沢" />。
:また下沢は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の後半の「立すぐり・居すぐり」の逸話が『[[太平記]]』巻第34「平石の城軍の事付けたり和田夜討の事」の記事にみえることを指摘し、同話が三浦浄心による再話の可能性を指摘しつつも、身分の低い、社会の最底辺にあるような人々が悪党集団を構成し、中世の古風な悪党の智略をそのまま踏襲していた、と解釈している<ref name="下沢" />。
*2006年の下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』は、「風間」の名が見える後北条氏の発給文書5点と黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を紹介した上で、「風間」を「ふうま」と読み、「風間」と「風間出羽守」を「北条氏に仕えた忍者の棟梁」と解釈している<ref name="下山" />。
*2006年の下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』は、「風間」の名が見える後北条氏の発給文書5点と黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を紹介した上で、「風間」を「ふうま」と読み、「風間」と「風間出羽守」を「北条氏に仕えた忍者の棟梁」と解釈している<ref name="下山" />。
*2013年に黒田基樹は、下山『後北条氏家臣団人名辞典』に挙げられている史料のうち、黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を除く5点と、別人と目される「風間」の人名が見える後北条氏の発給文書1点の存在を指摘し、風間は史料中で、軍事最前線に配備され、軍事活動を担う存在とされている、とし、推定天正9年以降の北条氏政の十郎あて書状で風間が敵の夜懸への警戒にあたっていることもあわせて、特殊な軍事活動を多く行う存在であったことが伺われ、それが江戸時代に「忍者風魔小太郎」を生み出した、と推測している<ref name="黒田" />。
*2013年に黒田基樹は、下山『後北条氏家臣団人名辞典』に挙げられている史料のうち、黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を除く5点と、別人と目される「風間」の人名が見える後北条氏の発給文書1点の存在を指摘し、風間は史料中で、軍事最前線に配備され、軍事活動を担う存在とされている、とし、推定天正9年以降の北条氏政の十郎あて書状で風間が敵の夜懸への警戒にあたっていることもあわせて、特殊な軍事活動を多く行う存在であったことが伺われ、それが江戸時代に「忍者風魔小太郎」を生み出した、と推測している<ref name="黒田" />。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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==参考文献==
*井上恵一「岩付城主太田氏房の家臣団について 上」『埼玉史談』第29巻第3号、1982年10月、5-11頁
*井上恵一「岩付城主太田氏房の家臣団について 下」『埼玉史談』第29巻第4号、1983年1月、17-23頁
*『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年
*『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』岩槻市市史編さん室、1982年
*『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』岩槻市市史編さん室、1982年
*『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』岩槻市役所、1983年
*『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市市史編さん室、1984年
*『岩槻市史 通史編』岩槻市市史編さん室、1985年
*『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』小田原市、1993年
*黒田基樹(編)『北条氏年表』高志書院、2013年
*黒田基樹(編)『北条氏房』〈論集戦国大名と国衆19〉岩田書院、2015年
*『鴻巣市史 資料編2 古代・中世』埼玉県鴻巣市、1991年
*駒谷散人『関八州古戦録』(『改定史籍集覧第5冊』)
*下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年9月、ISBN 978-4490106961
*武井尚「小室家文書の中世文書‐『屋代典憲氏所蔵古文書之写』について」『埼玉県立文書館紀要』第4号、1990年、3-11頁
*嗣永芳照「岩付の立川氏 その関連史料」『多摩のあゆみ』第25号、たましん地域文化財団、1981年11月、35-40頁
*三浦浄心『北条五代記』『見聞集』(『仮名草子集成』各巻)


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2021年5月18日 (火) 14:03時点における版

風魔(かざま/ふうま、風广/風摩)は、三浦浄心の『北条五代記』において、北条氏直に扶持され、天正9年(1581年)の「黄瀬川の戦い」で敵方の武田の陣に夜討ちをする集団を率いた乱波として紹介されている人物。後北条氏の発給文書などに名前のみえる「風間出羽守」や、『関八州古戦録』などに名前のみえる「風間孫右衛門」はそのモデルとみられている。

また同著者の『見聞集』には、江戸時代初期に向崎甚内が関東各地の盗賊の首領を「風魔の一類らっぱの子孫ども」だと告発して江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、盗賊は根絶やしにされたが、後で向崎甚内も「大盗人」として処刑された、との逸話がある。

鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎とは別人。派生して物語に登場する人物として風魔小太郎は著名。

伝説

三浦浄心が著した寛永18年(1641年)刊の『北条五代記』によると、天正9年(1581年)に北条氏直が黄瀬川をはさんで武田勝頼信勝父子と対陣したとき、風摩と「四頭」に率いられた山賊、海賊、強盗、窃盗の「四盗」、合計200人から成る一党は、夜々に敵陣に忍び込んで、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、更にあちこちに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺した。頭目の風摩について、武田軍の兵士は「身の丈7尺2寸(約218cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、異様な風貌をしていると噂したという[1]

『北条五代記』には、風魔や乱波は後北条氏滅亡後、その名前や噂を聞かなくなった、とあるが、同じ三浦浄心の著書『見聞集』には、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領はみな昔有名だったいたづら者、風魔の一類・らっぱの子孫です。自分は居場所を知っているので案内しましょう」と訴え出て、江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたという逸話を載せている。しかし、向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613年)に処刑された。

出自

『北条五代記』や『見聞集』には風魔の出自や根拠地に関して何も言及がない。

表記・読み

三浦浄心の著書-『北条五代記』寛永版・万治版および『見聞集』(写本、内閣文庫本)-における表記は一貫して「風广」で、「广」は浄心の著書の中で「天广」「須广」「薩广」「達广」など「まだれ」の漢字全般の略字として用いられている。読みは『北条五代記』に振り仮名「かざま」とあり、『見聞集』にはルビがない。

モデル

後北条氏の発給文書に、風魔のモデルと思しき「風間」の人名がみえることは、文政13年(1830年)の『新編武蔵風土記稿』の中に指摘があり、その後、関連する文書が何件か見つかっていて、中でも「風間出羽守」の人名がみえるものが1件あることが知られている[2][3][4]

また『関八州古戦録』などに、後北条氏方の武将「風間孫右衛門」の名がみえる。

岩槻・越谷周辺に残る足跡

岩槻・越谷周辺の「風間出羽守」関連地名地図

元亀3年(1572年)5月7日付けで、後北条氏(笠原藤左衛門尉)は、岩井弥右衛門尉らに、風間の受け入れの準備をさせるよう指示した[5]

北条家朱印状写(新編武蔵風土記稿111)[5]
原文 仮訳
風間来七月迄六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼籍致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、則書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件、

(虎朱印)壬申(元亀3年・1572)五月七日   笠原藤左衛門尉奉
岩井弥右衛門尉殿
中村宮内丞殿
足立又二郎殿
浜野将監殿
立川藤左衛門尉殿

風間が来たる7月まで六ヶ村に配置させられることになりましたので、宿以下のことを、間違いないように指示してください。万が一、知行分に対して少しでも狼藉に及ぶことがあれば、まず風間に相談して、承諾しない場合は、書き付けを小田原へ提出するようにと、明確に指示するようにしてください。馬草や薪を調達させることが、間違いなくできるようにしてください。以上

(以下省略)

  • 『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、武蔵国多摩郡小宮領檜原村の旧家・百姓(吉野)軍次の家伝文書2通のうちの1つで、その先祖は後北条氏の配下で、天正元年(1573年)に没した吉野対馬守盛光といい、その子・九郎右衛門以降も代々「対馬守」を名乗り、軍次は13代目とされている[6]
    • 「吉野対馬守」の受領は、青梅師岡村里正となって慶長16年(1611年)に新町村を起村したことで知られる吉野織部之助正清家の家系図にも先祖の名としても見え(ただし諱は「正方」とある)、吉野正清は、忍城主の成田氏に仕えていたが、後北条氏滅亡の後、師岡村へ来て帰農したとされており、『成田分限帳』には他にも成田氏に仕えていた吉野氏の人物の名がみえる[7]
  • 「笠原藤左衛門尉」は、北条氏政の宿老として、永禄10年(1568)から天正5年(1577)頃、領域担当の奉行として北条家当主から岩付領への取次ぎを担当していた笠原康明とみられている[8]
    • 黒田基樹は、笠原が奉者となっていることから、文書は武蔵岩付領(さいたま市周辺)に宛てたもので、宛名にみえる岩井氏ら5人は岩付衆、と推測している[3]
  • 「岩井弥右衛門尉」は、自序により天保11年(1840年)頃成立の、越谷宿大沢町の名主・江沢昭融が著した地誌『大沢町古馬筥』に、以前、新方領向畑村(越谷市向畑)にあった陣屋の陣屋守で、後に修験となって同村の花向院の住職をしていた人の名としてみえる[9]。天保に近い頃まで子孫の縁者が残っていたが、嫡家は没落しており、天保当時、向畑村字陣屋の百姓・初右衛門の家に伝説的な人物「新方三郎」の肖像画として伝えられてた掛け軸は、実際には岩井弥右衛門の肖像画で、また文化の頃まで花向院には岩井弥右衛門所持の短刀が伝えられていた、とされている[9]
  • 中村宮内丞:未詳
  • 足立又二郎:未詳
  • 浜野将監:未詳。『埼玉苗字辞典』によれば、「浜野」は武蔵国では利根川流域に多くある姓[10]。永禄3年(1560年)の『関東幕注文』に岩付衆として「浜野修理亮」の名がみえ、また『武家雲箋』所収文書に永禄12年(1569年)の春日摂津守配下の奉行として、永禄年間(1558年 - 1570年)の「高麗文書」に太田資正やその子・梶原景政に従った人物として「浜野弥六郎」の名がみえる[11]。『越谷市史』には、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入国の後、新方領増林村(越谷市増林)に建てられた仮御殿の御殿番をしていたという浜野藤右衛門の子孫の由緒書を載せている[12]。また『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』によると、1982年当時、後出の、始祖が風間出羽守の子という雨宮弥太夫家のあった岩槻・黒谷の約半数は「浜野」姓で、屋号「アブラヤ」で村内の薬師堂を創建した浜野家は、古くから屋号「ケイッカ」から分れた屋号「シモノカタヤ」の雨宮家と交流があった[13]
  • 立川藤左衛門尉:天正元年(1573年)に後北条氏が与野(さいたま市中央区)の立石甚左衛門と百姓中に宛てた印判状に納税先としてその名がみえ、天正5年(1577年)7月13日付の「岩付諸奉行但今度之陣一廻之定」に、小籏奉行篝奉行として名前がみえる[14]。天文14年(1545年)に扇谷上杉氏が北条氏康に滅ぼされた後、後北条氏の家臣団に繰り入れられた立川氏の一族の中から、岩付へ配置された人物とみられている[14]

元亀4年(1573年)12月10日、後北条氏(評定衆・勘解由左衛門尉康保)は、(武蔵国の)「すな原」の百姓達からの訴えを受けて、以後、風間を「すな原」に在宿させないとする裁許朱印状を与えた[15]

北条家裁許朱印状写(武州文書12)[15]
原文 仮訳
風間在所被仰付間、すな原ニ者有之間敷被思召処、于今致在宿候哉、百姓迷惑之段申処、無余儀候間、向後風間置事無用候旨、被仰出者也、仍如件、

(虎朱印)元亀4年癸酉(1573年)十二月十日   評定衆 勘解由左衛門尉 康保(花押)
すな原百姓中

風間の在所を命じられ、すな原には有るべきではないとお考えのところ、今に至るまで在宿しましたので、百姓が困惑しているとのお話を頂き、やむを得ませんので、今後は風間を置かないことにする旨、指示されました。以上

(以下省略)

  • 『新編武蔵風土記稿』によると、この文書は、武蔵国足立郡鴻巣領鴻巣宿の旧家・(小池)三太夫の家に伝わった文書で、その先祖は、もと畠山尾張守政長幕下の紀州日高郡小池の領主だったが、先祖・小池主計助が北条早雲に仕えて小田原へ移住し、その子・小池長門守が岩槻市宿に居住、功労があって鴻巣領の原地に砦を築き、天文20年(1551年)9月1日に岩槻市宿から移住して、「市宿新田」と名付けた、とされている[16]
  • 「すな原」は文書が鴻巣宿の小池氏の家に伝わったことから、『岩槻市史』[17]、『鴻巣市史』[18]、下山『後北条氏家臣団人名辞典』[19]などは鴻巣市内の地名と推測しているが、黒田基樹「風間出羽守のこと」は「岩付領砂原村(越谷市)」に比定している[20]
  • 『新編武蔵国風土記稿』によると、埼玉郡の「砂原村」は向川辺領(加須市)と越谷領(越谷市)にある[21]

天正5年(1577年)2月に北条氏(評定衆・下総守康信)は、内田孫四郎に、「風間同心渡辺新三」からの、内田が定められた軍役を果たしていないとの訴えを却下した旨を伝える朱印状を与えた[22]

  • 内田孫四郎は、天正元年(1573年)2月に関宿の合戦で戦功があったとして北条氏直の感状を受け、天正2年(1574年)7月に(北条)氏好から太田美濃守時代からの「すな原」の「打明」の領有を引き続き認められていた[23]
  • 後出の「万代記録帳」にみえる風間出羽守の子・雨宮主水正の子・弥太夫の妻・雲信女(1684年没)は、新方領恩間村(越谷市恩間、『新編武蔵風土記稿』には「岩槻領忍間村」としてみえる[24])の渡辺氏から嫁いでいる[25]。『越谷市史』[26]や『大竹の歩み』(抄本)[27] に恩間村渡辺氏の家譜が収載されているが、自序によると、中世の系譜は正保年間の火災で焼失したため、後年、他の渡辺氏の系図を参照して書き継いだといい、「新三」名はみえない[28]

(推定天正9年・1581年以降に、北条氏政が、この頃、岩槻城主だった)十郎(氏房)に宛てた書状では、夜間の警備を厳重に行うにあたっては前々から準備しておくこと、風間のところへ加勢することが重要であり、「かき」を1里ほど指示すべきこと、「かゝり」を極め、夜中くらいままにしておくように(?)厳しく指示すべきことなどを指示している[29]

北條氏政〔カ〕書状写(家伝史料6)[29]
原文 仮訳
今日之構肝悪(要カ)之処侯、然者、夜中之仕置極候、兼而不申付儀者、俄ニ成かたく候、日中さへ厳敷候事者あわたゝしく候、いわんや夜中之儀者、兼而之仕置専一候條、風間処江堅加勢専一候、第一かきを一里計可被申付侯、又かゝりニ極候、夜中くら(暗)く候まゝ堅可被申付候、返々夜分の用心専一ニ候、大かたニ覚悟ニ而ハ口惜候、又煩ハ如何、くわしくきゝ(聞)度候、

十郎殿へ

今日の構えは肝心なところです。さてそこで、夜間の措置を決めました。兼ねてから言い付けていない事は、急にやるのは難しいものです。昼間でも、厳重に行うことは落ち着いてできないものです。まして夜間のことは、兼ねてからの措置が重要ですので、風間のところへしっかり加勢することが重要です。第一に「かき」を1里(約4km)ほど指示されるべきです。また「かかり」に決めました(?)。夜間暗くなっているままに(?)しっかりと指示されるべきです。くれぐれも、夜分の用心が重要です。通り一遍の覚悟では思うようになりません。また病気は如何ですか。詳しく聞きたいです。

十郎殿へ

  • 平山優は、「かき」は「嗅ぎ」(嗅物聞、偵察の忍び)と推測している[30]

湯田砦の戦い

飯沼周辺の「風間」関連地名地図

関八州古戦録』巻10「多賀谷政経乗捕湯田砦事」には、関宿城落城の翌年・甲戌(天正2年・1574年)の秋、猿島領が後北条氏の持分となったため、北条氏政が伊勢備中守貞連に命じて湯田村(坂東市弓田)に砦を築かせ、飯沼の対岸にあった天満天神の社を焼き払って城を築き、風間孫兵衛(または孫右衛門)と石塚藤兵衛に軽卒300人を付けて守らせた。これは多賀谷政経の領地を押さえ、敵方の隙をついて襲撃するためだった、との記事がある。

同書によると、多賀谷政経・重経父子は、岡田原(常総市岡田)へ打ち出して湯田の城兵を花島(茨城県常総市花島町)へ誘い出し、鬼怒川の下流から兵を回して退路を断ち、古間木(茨城県常総市)の城主・渡辺周防守が仁連村(茨城県古河市)を越えて湯田砦を焼き討ちにして大勝し、後北条氏の軍勢は関宿城へ退却して、多賀谷氏が下猿島を占領し、大生郷天満宮を再建した、という。

類似の記事は、『関八州古戦録』以前に成立した下妻多賀谷氏の家記にもみえる。

若御子対陣

本能寺の変後の天正10年(1582年)8-10月にかけて、後北条氏と徳川氏が上・甲・信地方の領有を巡って争った若御子対陣[31]のとき、(推定天正10年・1582年)9月13日付の書状で、北条氏政は風間出羽守に「大手陣」(氏直の軍勢)の戦況が有利だと伝え、当方と示し合わせて攻勢に出るよう伝えている[32]

北条氏政書状(佐藤行信氏所蔵文書)[32]
原文 仮訳
注進状之趣、何も心地好候、為致絵図見届候、然者大手陣弥吉事連続、於信州遠州之境、山家三方衆千余人討捕、信州者無残所候、当口へも定使可見届候、毎日人衆打着候間、能々首尾を合、可打出候、無二此時可走廻候、謹言、

(天正10年・1582年)九月十三日   氏政(花押)
風間出羽守殿

報告書の趣旨は、なるほどいいと思いました。絵図を描かせて確認してみました。さてところで、大手陣は良いこと続きで、信州遠州の境で山家三方衆千余人を討捕り、信州は余すところが無くなりました。我々の方面へもきっと使者が確認できるでしょう。毎日、人数が攻撃しているところですので、よくよくタイミングを合わせて出撃してください。今この時こそ、ご活躍ください。謹言

(以下省略)

岩槻・黒谷の雨宮弥太夫家の先祖

2006年刊の茂木和平『埼玉苗字辞典』[33]および下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』[2]に、岩付城下・黒谷村さいたま市岩槻区)の妙円寺の開基は、風間出羽守の嫡子・雨宮主水正、とあり、茂木は、「風間」は信濃国水内郡式内社風間神社から起る在名で、本名が「雨宮」と推測し、黒谷村には、雨宮氏が5戸あり、風間氏は無い、と指摘している[33]。『岩槻市史』[34]には、「妙円寺:曹洞宗:開基:風間出羽守嫡子・雨宮主水正。開山:真浄寺第三世雪庭祖林和尚」とある[35]

江戸時代に黒谷村の名主をしていた雨宮弥太夫家で安政2年(1855年)から書き継がれた「万代記録帳」(杉崎賢治家文書)[36]中の「清和天皇七代之孫源頼義公 当家世代控」によると、同家の始祖は、「風間出羽守嫡子雨宮主水正〔本国紀州清和源氏頼義18代之後 風間出羽守〕」である[37]。雨宮主水正の没年は承応元年壬辰(1652年)で、その子(1689年没)から代々「弥太夫」を名乗ったとされている[38]。明治8年(1875年)に調査が行われた『武蔵国郡村誌』の黒谷村 妙円寺の項には「正保の頃、村吏雨宮利之助の祖先・風間出羽守庶子雨宮主水、開基創建すと云」とあり[39]、「利之助」の名は「万代記録帳」にもみえる[40]

「万代記録帳」には、別に、雨宮家が毎年正月と7月に黒谷村の妙円寺と遍照院に付け届けをしており、妙円寺については、先祖が開基だった旨がみえる[41][42]。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』所載の聞書によると、黒谷の雨宮氏一党の本寺は岩槻太田浄源寺で、妙円寺には墓のみがあったが、遍照院に墓を移した、とされている[43]

黒谷地区の雨宮姓には2系統あり、屋号「ホンケ」「トライチドン」の雨宮家には、4代前の継嗣が幼いうちに両親が死去したため、母方の実家のあった越谷市西新井で養われ、成長してから黒谷に戻り家を復活させたと伝えられていた[44]。「万代記録帳」が伝わった杉崎家は、雨宮家の継嗣の姉の嫁ぎ先で、雨宮家の継嗣が幼い頃に両親が死去したため、その後見人となり、継嗣は成長した後に岩槻へ移住したため、雨宮家の跡を継いだ、とされている[45]

「万代記録帳」が伝わった家とは別系統の屋号「ケイッカ」の雨宮家には、先祖は大坂城で財政の仕事をしていたが、大阪落城のとき、松ブシミンブサマと一緒に落ち延びてきた、と伝えられていた[46]。松伏町の石川民部家の祖流については、河内石川氏とする説もあり[47]、松伏町で2001-2002年頃、町史編纂のため聞き取り調査を実施した際にも、石川民部家始祖は大阪の陣の頃、関西から落ち延びてきた、との民間伝承が残っていた[48][49]

風間用水と風間圦

『武蔵国郡村誌』の下新井村の項に、同村の北方・飯塚村から南に流れて高曽根村・黒谷村の間に入る「風間堀」について言及がある[50]。1984年当時は「風間用水」と呼ばれるようになっており、「飯塚から南下新井・黒谷・高曽根へと続く」とされている[51]

天明3年(1783年)の「飯塚村明細書上帳」には、元荒川から用水を引き入れるため、風間と風間新田の2箇所に圦(いり)を普請してある旨がみえ、風間の圦について飯塚・下新井・黒谷・高曽根・野島・孫十郎の6ヶ村、風間新田の圦について末田・飯塚の2ヶ村の組合とされている[52]

一 村国村治郎兵衛裏より風間圦前迄堀長三百八拾三間
一 風間(圦)尻より往還石橋迄 七拾弐間
一 往還石橋より古川堤上口迄 弐百八拾八間
一 古川堤上り口石橋より下新井馬洗場石橋迄百五拾弐間
一 上曾根土橋より落口迄 六拾四間
 〆堀長サ千六拾八間(約1.942km)有之申侯、右之役人者共算ニ当年
 ハ〆九百五拾九間当有之、清水右金次当

— 風間堀筋之覚、「清水金之亮家文書」[53]

考証・評価

  • 文政11年(1828年)の『新編武蔵風土記稿』は、「風間」の名が記された後北条氏の発給文書2点を収載し、うち1点に「文中に風間といへるは、小田原北条氏にかかへおける乱波なり、乱波とは忍びの者のことにて、あるひは透波とも云、風間はその首領にて、諸国を廻り軍事をたすけしものなり」と編注を付している[6]
  • 嘉永3年(1850年)刊の『武江年表』の天正18年(1590年)の記事に「天正の頃関東に乱波風間といへる強盗あり、党を結び陣中へも忍び入て盗をなす諸人恐れけるが今年より何れへか逃退て其噂絶たり〔北条五代記に出〕」とあるが、『武江年表補正略』を著した喜多村信節は、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと補説している。[54]
  • 万延元年(1860年)頃完成した和学講談所の『武家名目抄』において、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」にみえる乱波は、常に「忍(しのび)」を役する一種の「賎人」で、野武士・強盗などの中から扶持され、戦国大名は間者・かまり・夜討などに使うために彼等を養い置いた、と解釈されている[55]
  • 1926年に花見朔巳は、もともと身分が低く、情勢次第で主君を替える傭兵・野武士のような雑兵で、軽装で防備が手薄な敵方の陣所に物盗りに入り、火付けをするなどしていた「足軽」が時代が下るにつれ部隊化されたものが「らっぱ」ではないかとし、『北条五代記』の中では不分明な、斥候や偵察をする「忍びの者」とはやや異質な存在だったのではないかと指摘した[56]
  • 1928年に三田村鳶魚は、『北条五代記』の風魔(、『鎌倉管領九代記』の風間小太郎)と『見聞集』の「風魔の一類らっぱの子孫共」を同じ「風摩の一類」だ、と解釈して、「らっぱ」すなわち怪しげな能力を持った「忍びの上手」の「風摩の一類」が、後北条氏の滅亡で食禄を失い、江戸に上って盗賊(泥坊)になったと主張した[57]
  • 1928年に折口信夫は、三田村の「盗賊」的な見方を発展させ、らっぱを「サンカ」(山岳地帯に住む特殊な民族)が里に下りて街道筋を流浪するようになった存在だと主張した[58]
  • 2004年に下沢敦は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の条に、乱波の言い換えである「二百人の悪盗」について『節用集』に「悪盗」が「悪党」の言い換えとされていることや、作中の「山賊・海賊・夜討・強盗」の列挙が『御成敗式目』第3条の罪科の列挙と共通していることから、乱波を悪党(極悪で凶悪な盗人の集団)と解釈し、戦国大名家が傭兵として悪党集団を召し抱え、足軽部隊を先導させるなどして、現代の斥候のような索敵・偵察任務や、夜討ちに代表される夜間奇襲攻撃のような特殊任務に使役した、と解釈した[59]
また下沢は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の後半の「立すぐり・居すぐり」の逸話が『太平記』巻第34「平石の城軍の事付けたり和田夜討の事」の記事にみえることを指摘し、同話が三浦浄心による再話の可能性を指摘しつつも、身分の低い、社会の最底辺にあるような人々が悪党集団を構成し、中世の古風な悪党の智略をそのまま踏襲していた、と解釈している[59]
  • 2006年の下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』は、「風間」の名が見える後北条氏の発給文書5点と黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を紹介した上で、「風間」を「ふうま」と読み、「風間」と「風間出羽守」を「北条氏に仕えた忍者の棟梁」と解釈している[2]
  • 2013年に黒田基樹は、下山『後北条氏家臣団人名辞典』に挙げられている史料のうち、黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を除く5点と、別人と目される「風間」の人名が見える後北条氏の発給文書1点の存在を指摘し、風間は史料中で、軍事最前線に配備され、軍事活動を担う存在とされている、とし、推定天正9年以降の北条氏政の十郎あて書状で風間が敵の夜懸への警戒にあたっていることもあわせて、特殊な軍事活動を多く行う存在であったことが伺われ、それが江戸時代に「忍者風魔小太郎」を生み出した、と推測している[3]
  • 2020年に平山優は、「風魔の実像を検討した唯一の研究」[60]として黒田の論考を挙げ、他の先行研究の存在を否定した上で、実在した風間は、「嗅ぎ」などの忍びの任務をこなし、後北条氏にとって重要な戦場の最前線に派遣、配置されており、かなりの規模の軍勢を率いていたが、その軍勢は素行が悪く、味方の村々からも悪評紛々であった、として、『北条五代記』などが「明記」する「風魔一党は悪党出身のアウトロー集団であった」という記述とほぼ一致する、と解釈している[61]

関連項目

関連作品

脚注

  1. ^ 萩原龍夫(校注)『北条史料集』人物往来社、1966年、399-400頁。 
  2. ^ a b c 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年9月、523-524頁、ISBN 978-4490106961
  3. ^ a b c 黒田基樹「コラム 風間出羽守のこと」『北条氏年表』高志書院、2013年、136-138頁
  4. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』小田原市、1993年
  5. ^ a b 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1106、93-94頁
  6. ^ a b 『新編武蔵風土記稿』巻之111 多磨郡之23 小宮領 檜原村 上 旧家 百姓(吉野)軍次。蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第10巻 風土記稿6』雄山閣、1931年、81-82頁。
  7. ^ 滝沢博「帰農した地侍たち - 吉野氏と師岡氏」たましん地域文化財団『多摩のあゆみ』第46号、1987年2月、37-50頁
  8. ^ 黒田基樹「総論 北条氏房の研究」黒田基樹(編)『北条氏房』〈論集戦国大名と国衆19〉岩田書院、2015年、19頁
  9. ^ a b 「8 ○向畑村新方三郎之事」『越谷市史 第4巻 史料2』(越谷市、1972年)133頁。茂木和平『埼玉苗字辞典』ウェブ版の「イ」「岩井氏」の項に言及がある。
  10. ^ 『埼玉苗字辞典』ウェブ版、ハ~ヒ
  11. ^ 『埼玉苗字辞典』ウェブ版、ハ~ヒ
  12. ^ 「496 明和4年11月 浜野藤蔵由緒書」(市史編さん室蔵)『越谷市史 第3巻 史料1』越谷市、1973年、495-497頁
  13. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27,35-36,268頁。
  14. ^ a b 嗣永芳照「岩付の立川氏 その関連史料」36-37頁
  15. ^ a b 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1137、128頁
  16. ^ 『新編武蔵風土記稿』 巻之148 足立郡之14 鴻巣領 鴻巣宿 旧家(小池)三太夫。蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第12巻 風土記稿8』雄山閣、1932年、5-6頁。
  17. ^ 『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』岩槻市役所、1983年、182頁、No.477
  18. ^ 鴻巣市市史編さん調査会『鴻巣市史 資料編2 古代・中世』埼玉県鴻巣市、1991年、508-509頁、No.353
  19. ^ 523頁
  20. ^ 黒田基樹(編)『北条氏年表』高志書院、2013年、137頁
  21. ^ 巻203 埼玉郡14 向川辺領 砂原村、巻203 埼玉郡 5 越ヶ谷領 砂原村。ほかに、巻23 葛飾郡 4 西葛西領 本田筋にも「砂原村」がある。
  22. ^ 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.1239、217-218頁
  23. ^ 『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』1983年、No.475,481
  24. ^ 『新編武蔵風土記稿』巻203 崎玉郡 5 岩槻領 忍間村附持添新田
  25. ^ 前掲書959頁
  26. ^ 『越谷市史 第3巻 史料1』越谷市、1973年、962-967頁
  27. ^ 大竹自治会、1997年、30-32頁
  28. ^ 「497 天明7年12月 恩間渡辺氏家譜」『越谷市史 第3巻 史料1』962-963頁
  29. ^ a b 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、No.2245、1082-1083頁
  30. ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、94-95頁
  31. ^ 10巻本『北条記』巻8「若御子対陣之事」(国立公文書館蔵本・昌平坂学問所旧蔵本 第3冊 コマ67)
  32. ^ a b 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』1993年、416頁、No.1464
  33. ^ a b 茂木和平、2006年、第2巻、カ-シ、2165頁
  34. ^ 『岩槻市史 通史編』岩槻市市史編さん室、1985年
  35. ^ 782頁。下山氏のご教示による。
  36. ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』1982年、952-1060頁
  37. ^ 前掲書958-959頁
  38. ^ 前掲書958-959頁
  39. ^ 『武蔵国郡村誌 第11巻』埼玉県立図書館、1954年、第11巻 埼玉郡村誌 巻之七 黒谷村、323頁
  40. ^ 前掲書960頁
  41. ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』976頁
  42. ^ 『岩槻市史 金石史料編Ⅰ 中世史料』(岩槻市、1984年、196頁)には、妙円寺には明応9年(1500年)の板碑があるとされており、同寺の創建は雨宮主水正の時代よりも遡る可能性がある。
  43. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、36-37,252,257-258頁
  44. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁
  45. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁
  46. ^ 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年、27-28頁
  47. ^ 大河内博「ある豪農の盛衰 - 石川民部の系譜」『大きく砕けよ』1990年、160-161頁
  48. ^ 「松伏町聞き取り調査カード(事件用)」No.1-35・1-146、2001年・2002年
  49. ^ 「万代記録帳」によると、風間出羽守は黒谷の雨宮家の先祖筋であるが、始祖はその子・雨宮主水正とされているため、後北条氏の推定天正10年の発給文書にみえる風間出羽守と同一人物(の子)であったとしても、当時から一貫して黒谷にあったかは不明で、『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』の伝のように別地からの移住の経緯があったとも考えられる。
  50. ^ 第11巻 埼玉郡村誌 巻7 下新井村、339-340頁
  51. ^ 『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市市史編さん室、1984年、177頁。『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』(岩槻市史編さん室、1982年)58頁に、「風間用水は、飯塚の金子亀次家の裏、島田タイル屋から入ってきて高曽根に来ているもの」とあり。
  52. ^ 「清水金之亮家文書」『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』岩槻市市史編さん室、1982年、585-595頁
  53. ^ 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』岩槻市市史編さん室、1982年、591頁
  54. ^ 今井金吾『定本 武江年表 上』筑摩書房、2003年10月。 
  55. ^ 今泉定介編『故実叢書 武家名目抄 職名部 巻6』吉川弘文館、1903年、701-703頁
  56. ^ 花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」花見朔巳「室町時代の解体期と足軽の研究」日本歴史地理学会『日本兵制史』日本歴史地理学会、121-240頁
  57. ^ 三田村鳶魚「慶長前後の泥坊」『中央公論』第43巻第2号(通巻481号)1928年2月、説苑8-15頁。三田村の主張はその出典の記述内容と論考の結論が必ずしも結び付いていないと思われるが、戦後の戦後の「風摩忍者」に関する時代考証物において支配的な見方となっている。例示は省略する。
  58. ^ 折口信夫「無頼の徒の芸術」民俗芸術の会『民俗芸術』第1巻第8号、1928年8月、1-14頁。論考のもとは講演での口頭発表で、論拠となる出典への言及が全く示されていないが、安野真幸「『相良氏法度』の研究(二)『スッパ・ラッパ』考」(弘前大学教養部『文化紀要』第40号、1994年9月、9-51頁)や藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年、201-261頁)など、近年の雑兵論でも通説と見做されている。
  59. ^ a b 下沢敦「風摩:『北条五代記』「関東の乱波智略の事」について」『共栄学園短期大学研究紀要』2004年、No.20、15-40頁
  60. ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、88頁
  61. ^ 平山優『戦国の忍び』角川新書、2020年9月、95頁

参考文献

  • 井上恵一「岩付城主太田氏房の家臣団について 上」『埼玉史談』第29巻第3号、1982年10月、5-11頁
  • 井上恵一「岩付城主太田氏房の家臣団について 下」『埼玉史談』第29巻第4号、1983年1月、17-23頁
  • 『岩槻市史料 13 民俗調査報告書2』岩槻市市史編さん室、1982年
  • 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(上)』岩槻市市史編さん室、1982年
  • 『岩槻市史 近世史料編IV 地方史料(下)』岩槻市市史編さん室、1982年
  • 『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』岩槻市役所、1983年
  • 『岩槻市史 民俗史料編』岩槻市市史編さん室、1984年
  • 『岩槻市史 通史編』岩槻市市史編さん室、1985年
  • 『小田原市史 史料編 中世3 小田原北条氏2』小田原市、1993年
  • 黒田基樹(編)『北条氏年表』高志書院、2013年
  • 黒田基樹(編)『北条氏房』〈論集戦国大名と国衆19〉岩田書院、2015年
  • 『鴻巣市史 資料編2 古代・中世』埼玉県鴻巣市、1991年
  • 駒谷散人『関八州古戦録』(『改定史籍集覧第5冊』)
  • 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年9月、ISBN 978-4490106961
  • 武井尚「小室家文書の中世文書‐『屋代典憲氏所蔵古文書之写』について」『埼玉県立文書館紀要』第4号、1990年、3-11頁
  • 嗣永芳照「岩付の立川氏 その関連史料」『多摩のあゆみ』第25号、たましん地域文化財団、1981年11月、35-40頁
  • 三浦浄心『北条五代記』『見聞集』(『仮名草子集成』各巻)