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「ヘンリー・パーシー (第4代ノーサンバランド伯)」の版間の差分

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その後の12年間、パーシーはパーシー家が代々勤めた北イングランドの要職を歴任した。[[1485年]]8月22日の[[ボズワースの戦い]]で、彼はヨーク派右翼の予備軍を指揮していた。だがパーシーは戦況を見つつも決して自軍を参戦させようとはしなかった。この時の彼の消極的な行動が、この時の[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の敗死の大きな要因となった。歴史家の中にはこの時の行動を「ヘンリー7世に味方した反逆」とする見方もあるが、「リチャード3世が敗死した時のパーシーの右翼軍は、リチャード3世の本陣の後ろに退陣していたため、戦闘に参加できなかった」という説もある。
その後の12年間、パーシーはパーシー家が代々勤めた北イングランドの要職を歴任した。[[1485年]]8月22日の[[ボズワースの戦い]]で、彼はヨーク派右翼の予備軍を指揮していた。だがパーシーは戦況を見つつも決して自軍を参戦させようとはしなかった。この時の彼の消極的な行動が、この時の[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の敗死の大きな要因となった。歴史家の中にはこの時の行動を「ヘンリー7世に味方した反逆」とする見方もあるが、「リチャード3世が敗死した時のパーシーの右翼軍は、リチャード3世の本陣の後ろに退陣していたため、戦闘に参加できなかった」という説もある。


もっとも、仮に反逆だったとしても[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]はその意図を知らないか感謝もしていなかったらしく、パーシーは[[ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル (第3代)|ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル]]、[[ノーフォーク公マス・ハワード|トマス・ハワード]]とともに逮捕された。彼は数カ月間収監されて新王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]に忠誠を誓った。王権の安定を優先させたいヘンリー7世は、彼を好条件(爵位・所領とも安堵)で解放した。
もっとも、仮に反逆だったとしても[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]はその意図を知らないか感謝もしていなかったらしく、パーシーは[[ラルフ・ネヴィル (第3代ウェストモーランド伯)|ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル]]、[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]とともに逮捕された。彼は数カ月間収監されて新王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]に忠誠を誓った。王権の安定を優先させたいヘンリー7世は、彼を好条件(爵位・所領とも安堵)で解放した。


[[1489年]]4月、パーシーは[[ヨークシャー]]にある彼の所領に住んでいた。当時、ヘンリー7世は[[ヴァロワ朝|フランス]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]に対抗するために[[アンヌ (ブルターニュ女公)|ブルターニュ女公アンヌ]]と同盟しており、軍費調達のために税が高騰していた。この高い課税に抗議してヨークシャーのジョン・イグリモント卿は暴動を扇動し、目をつけられたパーシーは4月28日、暴徒によって殺害された。
[[1489年]]4月、パーシーは[[ヨークシャー]]にある彼の所領に住んでいた。当時、ヘンリー7世は[[ヴァロワ朝|フランス]]の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]に対抗するために[[アンヌ (ブルターニュ女公)|ブルターニュ女公アンヌ]]と同盟しており、軍費調達のために税が高騰していた。この高い課税に抗議してヨークシャーのジョン・イグリモント卿は暴動を扇動し、目をつけられたパーシーは4月28日、暴徒によって殺害された。

2006年10月20日 (金) 14:57時点における版

第4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (Henry Percy, 4th Earl of Northumberland, 1449年頃 - 1489年4月28日) はイングランドの貴族で、薔薇戦争期には父がランカスター派だったためにヨーク派に捕らえられるが、エドワード4世の治世にヨーク派に忠誠を誓い、さらにテューダー朝成立後はテューダー朝のために活動した。

略歴

ヘンリー・パーシーは1449年頃、ヘンリー・パーシー (第3代ノーサンバランド伯)とその妻エレノア・ポイニングズ(リチャード・ポイニングズ卿の娘)との間に生まれた。

彼の父のいとこには、エドワード4世ブルゴーニュ侯爵夫人マーガレットクラレンス公ジョージリチャード3世といったヨーク派の主導者が多数いたが、父第3代ノーサンバランド伯はランカスター派に忠誠を誓っていた。パーシー自身の代になると、エリザベス・オブ・ヨークエドワード5世ヨーク公リチャードアーサー・プランタジネットソールズベリー伯爵夫人マーガレット・ポールウォリック伯エドワードエドワード・オブ・ミドルハムらのヨーク朝の王位に近い面々が「またいとこ」となる。彼は父と道をたがえて、パーシー家で唯一ヨーク派に与する事になる。

彼の父はその血がヨーク派に近いのとは裏腹に、ランカスター派に忠誠を誓っていた。だが、彼の父が1461年3月29日のタウトンの戦いで戦死すると、ノーサンバランド伯爵の爵位は勝者であるヨーク派によって消滅させられ、この時思春期のヘンリー・パーシーはロンドン刑務所(Fleet Prison)に投獄された(1464年に政治犯ということでロンドン塔に移送されている)。

1465年、ランカスター派掃討で功績を認められたジョン・ネヴィルが、ノーサンバランド伯に列せられた。結局パーシーはヨーク派のエドワード4世に忠誠を誓って、1469年に釈放された。パーシーはエドワード4世に、先祖伝来のノーサンバランド伯爵位と伯爵領の返還を請願した。これがエドワード4世に認められた事で、ジョン・ネヴィルはノーサンバランド伯爵位を返還しなければならなくなり、代わりに1470年モンターギュ侯に列せられた。だがパーシーへの所領の返還は、イングランド議会によって1473年まで延期された。

その後の12年間、パーシーはパーシー家が代々勤めた北イングランドの要職を歴任した。1485年8月22日のボズワースの戦いで、彼はヨーク派右翼の予備軍を指揮していた。だがパーシーは戦況を見つつも決して自軍を参戦させようとはしなかった。この時の彼の消極的な行動が、この時のリチャード3世の敗死の大きな要因となった。歴史家の中にはこの時の行動を「ヘンリー7世に味方した反逆」とする見方もあるが、「リチャード3世が敗死した時のパーシーの右翼軍は、リチャード3世の本陣の後ろに退陣していたため、戦闘に参加できなかった」という説もある。

もっとも、仮に反逆だったとしてもヘンリー7世はその意図を知らないか感謝もしていなかったらしく、パーシーはウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルトマス・ハワードとともに逮捕された。彼は数カ月間収監されて新王ヘンリー7世に忠誠を誓った。王権の安定を優先させたいヘンリー7世は、彼を好条件(爵位・所領とも安堵)で解放した。

1489年4月、パーシーはヨークシャーにある彼の所領に住んでいた。当時、ヘンリー7世はフランスシャルル8世に対抗するためにブルターニュ女公アンヌと同盟しており、軍費調達のために税が高騰していた。この高い課税に抗議してヨークシャーのジョン・イグリモント卿は暴動を扇動し、目をつけられたパーシーは4月28日、暴徒によって殺害された。

ヨークシャーは元々ヨーク派の拠点であり、リチャード3世の支持が根強かったので、恐らくパーシーはリチャードの敵討ちで殺されたのだろう。

結婚と子供たち

パーシーは1473年から1476年のどこかで、モード・ハーバート(1448年 - 1485/1495年7月27日)と結婚していた。彼女はウィリアム・ハーバート (ペンブルク伯)と彼の妻アン・デヴェローの娘であった。

彼らには8人の子供がいた。

爵位・家督
先代
ヘンリー・パーシー
ノーサンバランド伯
1470年 - 1489年
次代
ヘンリー・アルジャーノン・パーシー