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== 概要 ==
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ディスコは、[[ファンク]]や[[ソウルミュージック]]からの影響を含んでいる。[[音強|音量]]の大きい反響する[[ボーカル]]、[[4つ打ち]]で一定の[[リズム]]を刻むキック、8分[[音符]]ないし16分音符刻みかつ拍の間でオープンする[[ハイハット]]パターン、そして突出した[[シンコペーション]]を持ち、時には[[オクターブ]]でなる[[エレキベース]]のベースラインの上で演奏される。[[ストリングス]]や[[管楽器|ホーン]]セクション<ref>[[トランペット]]、[[トロンボーン]]、[[サクソフォーン|サックス]]などからなる複数の[[金管楽器]]奏者</ref>、[[エレクトリックピアノ]]、[[エレキギター]]が華やかなバッキングを創出する。[[フルート]]のような[[オーケストラ]][[楽器]]がしばしば[[ソロ]]に用いられ<ref>「[[:en:Michael Zager|Let's All Chant]]」(副邦題:チャンタで行こう!)では[[クラリネット]]が使われている。</ref>、また[[ロック (音楽)|ロック]]と異なり[[リードギター]]が用いられることはめったにない。
ディスコは、[[ファンク]]や[[ソウルミュージック]]からの影響を含んでいる。[[音強|音量]]の大きい反響する[[ボーカル]]、[[4つ打ち]]で一定の[[リズム]]を刻むキック、8分[[音符]]ないし16分音符刻みかつ拍の間でオープンする[[ハイハット]]パターン、そして突出した[[シンコペーション]]を持ち、時には[[オクターブ]]でなる[[エレキベース]]のベースラインの上で演奏される。[[ストリングス]]や[[管楽器|ホーン]]セクション<ref>[[トランペット]]、[[トロンボーン]]、[[サクソフォーン|サックス]]などからなる複数の[[金管楽器]]奏者</ref>、[[エレクトリックピアノ]]、[[エレクトリックギター|エレキギター]]が華やかなバッキングを創出する。[[フルート]]のような[[オーケストラ]][[楽器]]がしばしば[[ソロ]]に用いられ<ref>「[[:en:Michael Zager|Let's All Chant]]」(副邦題:チャンタで行こう!)では[[クラリネット]]が使われている。</ref>、また[[ロック (音楽)|ロック]]と異なり[[リードギター]]が用いられることはめったにない。


一部のディスコ・ミュージシャンの[[レコード]]は、[[ディスクジャケット|ジャケット]]にっている人物と、実際に歌っているシンガーが違うという、お粗末な事実もあった。[[ヴィレッジ・ピープル]]がその代表で、歌っているのはスタジオ・ミュージシャンである。
一部のディスコ・ミュージシャンの[[レコード]]は、[[ディスクジャケット|ジャケット]]にっている人物と、実際に歌っているシンガーが違うという、お粗末な事実もあった。[[ヴィレッジ・ピープル]]がその代表で、歌っているのはスタジオ・ミュージシャンである。


== 詳細 ==
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=== 1975-79年: ディスコ・ブーム ===
=== 1975-79年: ディスコ・ブーム ===
1975年には[[ヴァン・マッコイ]]の「ハッスル」が大ヒットした<ref>https://www.discogs.com/Van-McCoy-The-Soul-City-Symphony-The-Hustle/release/2422820</ref>。75年以後79年までに、ジョニー・テイラー、リック・ディーズ、ヴィッキ・スー・ロビンソン、ヒートウェイブ、[[テイスト・オブ・ハニー (バンド)|テイスト・オブ・ハニー]]、[[シック (バンド)|シック]]、フォクシー、マイケル・ゼイガー・バンド、シスター・スレッジ、ピーチズ&ハーブらがディスコ・ヒットを飛ばした。[[1970年代]]後半のディスコパフォーマーには[[ビージーズ]]や[[ヴィレッジ・ピープル]]、[[ドナ・サマー]]、[[アラベスク (歌手)|アラベスク]]、[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]]がいる。ドナ・サマーは多くのビッグヒットを生み出し、またもっともポピュラーになったディスコのスターである。彼女はまた、後にディスコサウンドの一部となったエレクトロニックサウンドの初期のヒットを出したシンガーとしての役割も果たした。パフォーマーやシンガーが取り分を獲得していく中、「裏方」であった[[ジョルジオ・モロダー]]らの[[プロデューサー]]たちは同程度、あるいはそれ以上の役割を担った。彼らはしばしば曲を書き、画一的なサウンドと[[演出]]を創造していった。これらは「ディスコサウンド」の一部となった<ref>[http://www.allmusic.com/style/disco-ma0000002552 allmusic<!-- Bot generated title -->]</ref>。多くの非ディスコアーティストがディスコ絶頂期にディスコソングを録っている。また[[サタデー・ナイト・フィーバー]]や、「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」(78) のような映画はディスコをメインストリーム化させた。
1975年には[[ヴァン・マッコイ]]の「[[ハッスル (曲)|ハッスル]]」が大ヒットした<ref>https://www.discogs.com/Van-McCoy-The-Soul-City-Symphony-The-Hustle/release/2422820</ref>。75年以後79年までに、ジョニー・テイラー、リック・ディーズ、ヴィッキ・スー・ロビンソン、ヒートウェイブ、[[テイスト・オブ・ハニー (バンド)|テイスト・オブ・ハニー]]、[[シック (バンド)|シック]]、フォクシー、マイケル・ゼイガー・バンド、シスター・スレッジ、ピーチズ&ハーブらがディスコ・ヒットを飛ばした。[[1970年代]]後半のディスコパフォーマーには[[ビージーズ]]や[[ヴィレッジ・ピープル]]、[[ドナ・サマー]]、[[アラベスク (歌手)|アラベスク]]、[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]]がいる。ドナ・サマーは多くのビッグヒットを生み出し、またもっともポピュラーになったディスコのスターである。彼女はまた、後にディスコサウンドの一部となったエレクトロニックサウンドの初期のヒットを出したシンガーとしての役割も果たした。パフォーマーやシンガーが取り分を獲得していく中、「裏方」であった[[ジョルジオ・モロダー]]らの[[プロデューサー]]たちは同程度、あるいはそれ以上の役割を担った。彼らはしばしば曲を書き、画一的なサウンドと演出を創造していった。これらは「ディスコサウンド」の一部となった<ref>[http://www.allmusic.com/style/disco-ma0000002552 allmusic<!-- Bot generated title -->]</ref>。多くの非ディスコアーティストがディスコ絶頂期にディスコソングを録っている。また[[サタデー・ナイト・フィーバー]]や、「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」(78) のような映画はディスコをメインストリーム化させた。


一方でディスコミュージックや[[文化]]に対する激しい反発が起き、アメリカで[[1979年]]7月に起こった[[ディスコ・デモリッション・ナイト]]事件はディスコ人気に打撃を与える1つの原因になった。ただ、ディスコが衰退した大きな原因は、ヒットが大量に生まれ音楽ファンに飽きられたことと、ファンの需要は多様であり画一的なレコード供給ではダメだという点にあった。また、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]や産業ロックと同様に、ディスコに対する音楽ファンと音楽評論家による[[商業主義]]との批判も、容赦なく浴びせられた。その結果、アメリカではディスコの人気が著しく低下したが、踊らせるためのダンス・ミュージックは[[1980年代]]以降も世界で存在し続けた。
一方でディスコミュージックや[[文化]]に対する激しい反発が起き、アメリカで[[1979年]]7月に起こった[[ディスコ・デモリッション・ナイト]]事件はディスコ人気に打撃を与える1つの原因になった。ただ、ディスコが衰退した大きな原因は、ヒットが大量に生まれ音楽ファンに飽きられたことと、ファンの需要は多様であり画一的なレコード供給ではダメだという点にあった。また、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]や産業ロックと同様に、ディスコに対する音楽ファンと音楽評論家による[[商業主義]]との批判も、容赦なく浴びせられた。その結果、アメリカではディスコの人気が著しく低下したが、踊らせるためのダンス・ミュージックは[[1980年代]]以降も世界で存在し続けた。

2021年5月29日 (土) 03:53時点における版

ディスコ
様式的起源 ソウルミュージック
R&B
ラテン音楽
ポップ・ミュージック
クロスオーバー
フュージョン
文化的起源 1960年代のイギリスおよびアメリカ合衆国、フランス
使用楽器 エレクトリックギターエレクトリックベースドラムセットシンセサイザー鍵盤楽器打楽器弦楽器、ホーンセクション
派生ジャンル Hi-NRGハウステクノポップテクノユーロ・ビートヒップホップポスト・ディスコ
サブジャンル
イタロ・ディスコ、スペース・ディスコ、ユーロ・ディスコ英語版
融合ジャンル
ニュー・ディスコ
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ディスコを象徴するアイテムの一つである、ミラーボール

ディスコダンス・ミュージックのジャンルの一つ。

概要

ディスコは、ファンクソウルミュージックからの影響を含んでいる。音量の大きい反響するボーカル4つ打ちで一定のリズムを刻むキック、8分音符ないし16分音符刻みかつ拍の間でオープンするハイハットパターン、そして突出したシンコペーションを持ち、時にはオクターブでなるエレキベースのベースラインの上で演奏される。ストリングスホーンセクション[1]エレクトリックピアノエレキギターが華やかなバッキングを創出する。フルートのようなオーケストラ楽器がしばしばソロに用いられ[2]、またロックと異なりリードギターが用いられることはめったにない。

一部のディスコ・ミュージシャンのレコードは、ジャケットに写っている人物と、実際に歌っているシンガーが違うという、お粗末な事実もあった。ヴィレッジ・ピープルがその代表で、歌っているのはスタジオ・ミュージシャンである。

詳細

ディスコの語源となったのは、バンドの生演奏ではなくDJがレコード演奏をおこない、客がそれに合わせてダンスを踊る娯楽場のことを指す「ディスコティーク」で、もともとフランス語[3]である。

アメリカでは、アフリカ系アメリカ人ヒスパニックのコミュニティを起源とし、1960年代から1970年代前半にかけてフィラデルフィアからニューヨークへと伝わっていった[4][5][6][7][8]ディスコスタイルのクラブの前身は、1970年2月にニューヨーク市のDJ、David Mancusoが自宅に開いたメンバー制プライベートダンスクラブ「The Loft」である[9][10]

ディスコの主要な客は黒人とゲイだった。ゲイのDJや客は、ドナ・サマーグロリア・ゲイナーダイアナ・ロスグレイス・ジョーンズ、メルバ・ムーア、ロリータ・ハロウェイらを「ディスコ・クイーン」の地位へ押し上げた。また当初はソウル・ミュージックにあわせて踊っていたが、後には気持ちよく踊らせるのはどうしたらよいのか、という発想になり、曲のテンポが注目される。1分間に120拍ぐらいが人が踊っているときの心臓の鼓動に近いということで、それに合わせたフォーマットの曲が増えた。シルヴェスターの曲などに、その典型が見られる。

日本においてオールジャンルで選曲していたディスコは、1990年代に個々のジャンルに特化して「クラブ」と呼ばれるようになった。日本国内では、高齢者となったかつてのディスコ世代に向けたディスコイベントなどが開催されている。海外でのディスコは、フィリーソウルとともにハウスなど多くのダンス・ミュージックに影響を及ぼしたジャンル名として現在進行形である。2019年現在はハウスとの再融合もみられ、イギリスイビサ島クロアチアなどで盛んにイベントが開催されている。

歴史

1960年代-1974年

60年代のディスコで流れた音楽は、ジェームス・ブラウンテンプテーションズフォー・トップスなどの本物のソウル・ミュージックだった。やがて70年代前半になると、フィラデルフィア・ソウルがブームになってきた。最も初期のディスコ・ソングには、1972年にリリースされたManu Dibangoの「Soul Makossa」やスリー・ディグリーズの「荒野のならず者」、ハロルド・メルビン&ブルーノーツの「ザ・ラブ・アイ・ロスト」などがある[11]。ディスコに関する最初の記事は、1973年9月のローリング・ストーンに、Vince Alettiによって書かれた[12][13]。1974年にはニューヨーク市のWPIX-FMで世界初のディスコのラジオ番組が放送された[14] 。さらに、エレガントなサウンドを得意とするバリー・ホワイトが結成したラヴ・アンリミテッド・オーケストラ「愛のテーマ」は、ビルボード・ポップ・チャートで1位になる大ヒットとなる。

1975-79年: ディスコ・ブーム

1975年にはヴァン・マッコイの「ハッスル」が大ヒットした[15]。75年以後79年までに、ジョニー・テイラー、リック・ディーズ、ヴィッキ・スー・ロビンソン、ヒートウェイブ、テイスト・オブ・ハニーシック、フォクシー、マイケル・ゼイガー・バンド、シスター・スレッジ、ピーチズ&ハーブらがディスコ・ヒットを飛ばした。1970年代後半のディスコパフォーマーにはビージーズヴィレッジ・ピープルドナ・サマーアラベスクジンギスカンがいる。ドナ・サマーは多くのビッグヒットを生み出し、またもっともポピュラーになったディスコのスターである。彼女はまた、後にディスコサウンドの一部となったエレクトロニックサウンドの初期のヒットを出したシンガーとしての役割も果たした。パフォーマーやシンガーが取り分を獲得していく中、「裏方」であったジョルジオ・モロダーらのプロデューサーたちは同程度、あるいはそれ以上の役割を担った。彼らはしばしば曲を書き、画一的なサウンドと演出を創造していった。これらは「ディスコサウンド」の一部となった[16]。多くの非ディスコアーティストがディスコ絶頂期にディスコソングを録っている。またサタデー・ナイト・フィーバーや、「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」(78) のような映画はディスコをメインストリーム化させた。

一方でディスコミュージックや文化に対する激しい反発が起き、アメリカで1979年7月に起こったディスコ・デモリッション・ナイト事件はディスコ人気に打撃を与える1つの原因になった。ただ、ディスコが衰退した大きな原因は、ヒットが大量に生まれ音楽ファンに飽きられたことと、ファンの需要は多様であり画一的なレコード供給ではダメだという点にあった。また、フュージョンや産業ロックと同様に、ディスコに対する音楽ファンと音楽評論家による商業主義との批判も、容赦なく浴びせられた。その結果、アメリカではディスコの人気が著しく低下したが、踊らせるためのダンス・ミュージックは1980年代以降も世界で存在し続けた。

ロックからのアプローチ

ディスコ・ブームが長期化するのを受け、ロックなど他ジャンルからディスコ・サウンドを取り入れる現象が見られた。

ロックの主な例としては、ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」、バッド・カンパニー[17]の「ロックンロール・ファンタジー」、ELOの「シャイン・ア・リトル・ラブ」、キッスの「アイ・ウォズ・メイド・フォー・ラビング・ユー」、ロッド・スチュアートの「アイム・セクシー」、ドゥービー・ブラザーズの「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」、ブロンディの「ハート・オブ・グラス」、クイーンの「地獄へ道づれ」などがある。

またジャズでは、クインシー・ジョーンズ(「スタッフ・ライク・ザット」)やジョージ・ベンソンジョー・ファレルヒューストン・ピアソン(「ディスコ・サックス」)、クリーブランド・イートンから、ベテランのベニー・ゴルソンソニー・ロリンズ[18]までが、ディスコ・ビートを取り入れた曲を発表した。

ファンキー・ディスコ

ディスコは踊らせるための音楽であるため、どうしてもソウルやR&B、ファンクなどに比べると、軽く見られる傾向が強かった。しかし、一部のアーティストは黒人らしさを強調したファンキー・ディスコ(ブラック・ディスコ)の曲を発表した。この分野の例としては、イヴリン・キングの「シェイム」[19]D・トレインの「ユアー・ザ・ワン・フォー・ミー」、レイディオの「パーティー・ナウ」[20]、GQの「ディスコ・ナイト」、BB&Qバンドの「オン・ザ・ビート」、ダズ・バンドの「レット・イット・ホイップ」、シックの「グッド・タイムズ」[21]などがある。

脚注

  1. ^ トランペットトロンボーンサックスなどからなる複数の金管楽器奏者
  2. ^ Let's All Chant」(副邦題:チャンタで行こう!)ではクラリネットが使われている。
  3. ^ http://eow.alc.co.jp/search?q=discotheque
  4. ^ (1995) "Out in Culture: Gay, Lesbian and Queer Essays on Popular Culture", ISBN 030433488X, 9780304334889, p.439:(Disco 1990). "Although the disco pulse was born in the small gay black clubs of New York, disco music only began to gain commercial attention when it was exposed to the dance floor public of large, predominantly white gay discos."
  5. ^ (1998) "The Cambridge History of American Music", ISBN 0521454298, 9780521454292, p.372: "Initially, disco musicians and audiences alike belonged to marginalized communities: women, gay, black, and Latinos"
  6. ^ (2007) "The 1970s", ISBN 0313339198, 9780313339196, p.203-204: "During the late 1960s various male counterculture groups, most notably gay, but also heterosexual black and Latino, created an alternative to rock'n'roll, which was dominated by white — and presumably heterosexual — men. This alternative was disco,..."
  7. ^ (2002) "Traces of the Spirit: The Religious Dimensions of Popular Music", ISBN 0814798098, 9780814798096, p.117: "New York City was the primary center of disco, and the original audience was primarily gay African Americans and Latinos."
  8. ^ (1976) "Stereo Review", University of Michigan, p.75: "[..] and the result - what has come to be called disco - was clearly the most compelling and influential form of black commercial pop music since the halcyon days of the "Motown Sound" of the middle Sixties."
  9. ^ empsfm.org Past Exhibitions
  10. ^ discomusic.com Timeline
  11. ^ Disco origins Archived 2009年2月27日, at the Wayback Machine.
  12. ^ ARTS IN AMERICA; Here's to Disco, It Never Could Say Goodbye, The New York Times, December 10, 2002]
  13. ^ Excerpt from first article about disco
  14. ^ discomusic.com Timeline first disco radio show
  15. ^ https://www.discogs.com/Van-McCoy-The-Soul-City-Symphony-The-Hustle/release/2422820
  16. ^ allmusic
  17. ^ 「キャント・ゲット・イナフ」が74年にヒット
  18. ^ http://news.allaboutjazz.com/sonny-rollins-on-disco-monk.php
  19. ^ ALL MUSIC
  20. ^ レイ・パーカー・ジュニアのグループ。同曲のヴォーカルはジェリー・ナイト
  21. ^ 「ダンスダンスダンス」「おしゃれフリーク」などヒット曲多数

関連項目