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「オスカル・ルジェリ」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
1980年、当時[[ディエゴ・マラドーナ]]が所属していた[[ボカ・ジュニアーズ]]でキャリアをスタートする。1985年にライバルの[[CAリーベル・プレート]]に移籍し、1986年の[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチンリーグ]]、[[コパ・リベルタドーレス]]、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]の3冠獲得に貢献した。1989年から[[レアル・マドリード]]で1シーズンプレー、コパデルレイでは決勝で[[FCバルセロナ]]にれ優勝を逃したが、リーグ戦では31試合に出場し<ref>{{Cite web|title=Oscar Ruggeri Real Madrid 89/90|publisher=www.transfermarket|accessdate= September 11 2020|url=https://www.transfermarkt.com/oscar-ruggeri/leistungsdatendetails/spieler/102214/plus/0?saison=1989&verein=&liga=&wettbewerb=&pos=&trainer_id=}}</ref>リーグ優勝に貢献した。その後[[ベレス]]、1992年にはイタリアセリエAの[[アンコーナ]]、[[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ]]などに在籍する。1997年に[[ラヌース]]で現役引退した。
1980年、当時[[ディエゴ・マラドーナ]]が所属していた[[ボカ・ジュニアーズ]]でキャリアをスタートする。1985年にライバルの[[CAリーベル・プレート]]に移籍し、1986年の[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチンリーグ]]、[[コパ・リベルタドーレス]]、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]の3冠獲得に貢献した。1989年から[[レアル・マドリード]]で1シーズンプレー、コパデルレイでは決勝で[[FCバルセロナ]]にれ優勝を逃したが、リーグ戦では31試合に出場し<ref>{{Cite web|title=Oscar Ruggeri Real Madrid 89/90|publisher=www.transfermarket|accessdate= September 11 2020|url=https://www.transfermarkt.com/oscar-ruggeri/leistungsdatendetails/spieler/102214/plus/0?saison=1989&verein=&liga=&wettbewerb=&pos=&trainer_id=}}</ref>リーグ優勝に貢献した。その後[[ベレス]]、1992年にはイタリアセリエAの[[アンコーナ]]、[[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ]]などに在籍する。1997年に[[ラヌース]]で現役引退した。


[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]としては97キャップを記録し、3回の[[FIFAワールドカップ]]に出場した。代表キャップ数は[[ディエゴ・シメオネ]]に抜かれるまで最多記録であった。1986年の[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコW杯]]では、大会で出場した最も優れたストッパーと賞賛されるプレーで優勝に貢献<ref name="Inter"/>、1990年の[[1990 FIFAワールドカップ|イタリアW杯]]では5試合に出場したが、決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦では負傷で途中交代を強いられ<ref>{{Cite web|title=Argentina - West Germany 1990 World cup Final match sheet|publisher=www.transfermarket|accessdate= September 11 2020|url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/928085}}</ref>、チームは敗れ、準優勝に終わった。1994年の[[1994 FIFAワールドルドカップ|アメリカW杯]]では、[[ディエゴ・マラドーナ]]が大会から追放された後はキャプテンを務めた、決勝トーナメントのルーマニア戦で敗れ、その試合が最後の試合となった<ref>{{Cite news|title=Oscar Alfredo Ruggeri – International Appearances|publisher=[[Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation]]|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/ruggeri-intl.html}}</ref>。
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2021年7月23日 (金) 13:42時点における版

オスカル・ルジェリ
ファイル:Ruggeri 2.jpg
名前
本名 オスカル・アルフレド・ルジェリ
Óscar Alfredo Ruggeri
愛称 エル・カベソン
ラテン文字 Óscar RUGGERI
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1962-01-26) 1962年1月26日(62歳)
出身地 コラル・デ・ブストススペイン語版
身長 183cm
体重 82kg
選手情報
ポジション DF (CB)
利き足 右足
ユース
1970-1980 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1984 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ 147 (11)
1985-1988 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 81 (4)
1988-1989 スペインの旗 ログロニェス 34 (1)
1989-1990 スペインの旗 レアル・マドリード 31 (2)
1990-1992 アルゼンチンの旗 ベレス・サルスフィエルド 55 (5)
1992 イタリアの旗 アンコーナ 7 (1)
1992-1993 メキシコの旗 クラブ・アメリカ 27 (4)
1994-1997 アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ 114 (12)
1997 アルゼンチンの旗 ラヌース 13 (2)
代表歴
1983-1994 アルゼンチンの旗 アルゼンチン [1] 97 (7)
監督歴
1998-2001 アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ
2001-2002 メキシコの旗 グアダラハラ
2003 メキシコの旗 テコス
2003 アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ
2003-2004 スペインの旗 エルチェ
2004 メキシコの旗 クラブ・アメリカ
2006 アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

オスカル・アルフレド・ルジェリÓscar Alfredo Ruggeri, 1962年1月26日 - )は、アルゼンチンコルドバ州出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。ニックネームはエル・カベソン(El Cabezon=デカ頭)[2]

経歴

1980年、当時ディエゴ・マラドーナが所属していたボカ・ジュニアーズでキャリアをスタートする。1985年にライバルのCAリーベル・プレートに移籍し、1986年のアルゼンチンリーグコパ・リベルタドーレスインターコンチネンタルカップの3冠獲得に貢献した。1989年からレアル・マドリードで1シーズンプレー、コパデルレイでは決勝でFCバルセロナに敗れ優勝を逃したが、リーグ戦では31試合に出場し[3]リーグ優勝に貢献した。その後ベレス、1992年にはイタリアセリエAのアンコーナCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロなどに在籍する。1997年にラヌースで現役引退した。

アルゼンチン代表としては97キャップを記録し、3回のFIFAワールドカップに出場した。代表キャップ数はディエゴ・シメオネに抜かれるまで最多記録であった。1986年のメキシコW杯では、大会で出場した最も優れたストッパーと賞賛されるプレーで優勝に貢献[2]、1990年のイタリアW杯では5試合に出場したが、決勝の西ドイツ戦では負傷で途中交代を強いられ[4]、チームは敗れ、準優勝に終わった。1994年のアメリカW杯では、ディエゴ・マラドーナが大会から追放された後はキャプテンを務めた、決勝トーナメントのルーマニア戦で敗れ、その試合が最後の試合となった[5]

コパ・アメリカでは1991年、1993年大会で優勝している。また1991年は、キャプテンとしてコパ・アメリカの優勝にも貢献し、南米最優秀選手を受賞した。

引退後は監督として、古巣のサン・ロレンソなど複数のクラブを率いている。

所属クラブ

指導歴

獲得タイトル

代表

アルゼンチン代表

クラブ

ボカ・ジュニアーズ
リーベル・プレート
サン・ロレンソ
  • アルゼンチンリーグ:1994-95C
レアル・マドリード

個人

出典

外部リンク