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| 画像 = Marco van Basten2.jpg
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| 画像サイズ = 250px
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| 本名 = マルセル・ファン・バステン
| 本名 = マルセル・ファン・バステン<br />Marcel van Basten
| 愛称 = 聖マルコ、ユトレヒトの白鳥
| 愛称 = 聖マルコ、ユトレヒトの白鳥
| カタカナ表記 =
| カタカナ表記 =
| アルファベット表記 = Marcel van Basten
| アルファベット表記 = Marco van Basten
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| 監督年7 = 2015-2016 | 監督チーム7 = {{Flagicon|NED}} [[サッカーオランダ代表|オランダ代表]] (Assistant)
| 監督年7 = 2015-2016 | 監督チーム7 = {{Flagicon|NED}} [[サッカーオランダ代表|オランダ代表]] (Assistant)
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'''マルコ・ファン・バステン'''(Marco van Basten, [[1964年]][[10月31日]] - )は、[[オランダ]]・[[ユトレヒト]]出身の元同国代表[[サッカー|サッカー選手]]、元[[監督|サッカー指導者]]。元[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]監督。現在はコラムニスト、FIFA最高技術開発責任者。
'''マルコ・ファン・バステン'''(Marco van Basten, [[1964年]][[10月31日]] - )は、[[オランダ]]・[[ユトレヒト]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]、元[[監督|サッカー指導者]]。元[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]。現役時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。現在はコラムニスト、FIFA最高技術開発責任者。


== 概要 ==
== 概要 ==
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1987年から在籍した[[イタリア]][[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[ACミラン]]では、[[ルート・フリット]]、[[フランク・ライカールト]]らと共に「[[オランダトリオ]]」と呼ばれ、国内リーグ優勝や[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]などの数々のタイトルを獲得、キャリア全盛期を過ごした。
1987年から在籍した[[イタリア]][[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[ACミラン]]では、[[ルート・フリット]]、[[フランク・ライカールト]]らと共に「[[オランダトリオ]]」と呼ばれ、国内リーグ優勝や[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]などの数々のタイトルを獲得、キャリア全盛期を過ごした。
== 選手時代経歴 ==
== 選手経歴 ==
[[ファイル:Ajax PSV 3-0 Marco van Basten gaat scoren rechts Adick Koot (PSV), Bestanddeelnr 933-7445.jpg|200px|thumb|left|アヤックスでプレーするファン・バステン(左)]]
[[ファイル:Ajax PSV 3-0 Marco van Basten gaat scoren rechts Adick Koot (PSV), Bestanddeelnr 933-7445.jpg|200px|thumb|left|アヤックスでプレーするファン・バステン(左)]]
1964年10月31日生誕。1970年、地元のサッカークラブEDOでサッカーを始め。10歳の時に[[FCユトレヒト]]の下部組織に加入。1980年、USVエリンベイクのユースチームに加入1981年に[[アヤックス・アムステルダム]]とプロ契約。
1970年、地元のサッカークラブEDOでサッカーを始め。10歳の時に[[FCユトレヒト]]の下部組織に加入した。1980年、USVエリンベイクのユースチームに加入し、1981年に[[アヤックス・アムステルダム]]とプロ契約を結んだ


1981-82シーズン、4月3日、[[NECナイメヘン]]戦でプロデビューを飾ると、得点を挙げて5-0での勝利に貢献する<ref name="all goals">{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/marco-van-basten/alletore/spieler/74471 | title =Van Basten all goals | accessdate =26 April 2020}}</ref>。1983年は、前シーズンに[[ヨーロッパ・ゴールデンシュー|ヨーロッパ・ゴールデンブーツ]]を獲得した[[ヴィム・キーフト]]とポジションを争い、リーグ20試合に出場して9得点を挙げた。同年、[[エールディジ]]と[[KNVBカップ]]の二冠を達成。キーフトはシーズン終了後に[[ピサ・カルチョ]]へ移籍したため、ファン・バステンはポジションを掴んだ。6月U-20代表として[[1983 FIFAワールドユース選手権|FIFAワールドユースメキシコ大会]]出場、ベスト8進出。7月9日、[[UEFA欧州選手権1984|ユーロ84]]予選[[サッカーアイスランド代表|アイスランド]]戦でオランダフル代表デビューを飾
1981-82シーズン、4月3日、[[NECナイメヘン]]戦でプロデビューを飾ると、得点を挙げて5-0での勝利に貢献した<ref name="all goals">{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/marco-van-basten/alletore/spieler/74471 | title =Van Basten all goals | accessdate =26 April 2020}}</ref>。1983年は、前シーズンに[[ヨーロッパ・ゴールデンシュー|ヨーロッパ・ゴールデンブーツ]]を獲得した[[ヴィム・キーフト]]とポジションを争い、リーグ20試合に出場して9得点を挙げた。同年、[[エールディヴィジ]]と[[KNVBカップ]]の二冠を達成。キーフトはシーズン終了後に[[ACピサ1909|ピサ・カルチョ]]へ移籍したため、ファン・バステンはポジションを掴んだ。6月にはU-20代表として[[1983 FIFAワールドユース選手権|FIFAワールドユースメキシコ大会]]出場、ベスト8進出した1982年7月9日、[[UEFA欧州選手権1984|EURO1984]]予選[[サッカーアイスランド代表|アイスランド]]戦でフル代表デビューを飾った


1984年エールディジ得点王、以後1985年、1986年、1987年と4年連続得点王に輝。1985年、エールディジ優勝。また、1984-85シーズンの[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]1回戦の[[FAレッド・ボーイズ・ディフェルダンジュ]]戦では、第1戦はスコアレスドローに終わったものの、第2戦はファン・バステンの5得点を含む14-0と大勝となった<ref>{{cite news|url=http://www.uefa.com/uefaeuropaleague/season=1984/matches/round=1121/match=67377/postmatch/lineups/index.html|title=UEFA Europa League 1984/85 - History - Ajax-Differdange|publisher=uefa.com|date=}}</ref>。1985-86シーズン、12月8日、リーグ第17節の[[スパルタ・ロッテルダム]]戦ではプロのキャリアでは最多となる6ゴールダブルハットトリックを達成した(エールディビジでは5ゴールを3度記録した)<ref name="all goals"/>。10月、オランダ代表として[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]予選に挑むがプレーオフの末に敗退。1986年KNVBカップ優勝し、翌年も連覇した。1987年5月、アヤックスの一員として自ら決勝点を上げ東ドイツの[[1.FC ロコモティフ・ライプツィヒ]]を下し、1986-87シーズンのUEFAカップ優勝。
1984年エールディヴィジ得点王に輝くと、以後1985年、1986年、1987年と4年連続得点王に輝いた。1985年、エールディヴィジ優勝。また、1984-85シーズンの[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]1回戦の[[FAレッド・ボーイズ・ディフェルダンジュ]]戦では、1stレグはスコアレスドローに終わったものの、2ndレグはファン・バステンの5得点を含む14-0と大勝となった<ref>{{cite news|url=http://www.uefa.com/uefaeuropaleague/season=1984/matches/round=1121/match=67377/postmatch/lineups/index.html|title=UEFA Europa League 1984/85 - History - Ajax-Differdange|publisher=uefa.com|date=}}</ref>。1985-86シーズン、12月8日、リーグ第17節の[[スパルタ・ロッテルダム]]戦ではプロのキャリアでは最多となる6ゴールダブルハットトリックを達成した(エールディビジでは5ゴールを3度記録した)<ref name="all goals"/>。10月、オランダ代表として[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]予選に挑むがプレーオフの末に敗退した。1986年KNVBカップ優勝し、翌年も連覇した。1987年5月、アヤックスの一員として自ら決勝点を上げ東ドイツの[[1.FC ロコモティフ・ライプツィヒ]]を下し、1986-87シーズンのUEFAカップ優勝。


[[Image:Marco van Basten 1990-1992.jpg|thumb|200px|ミランでプレーするファン・バステン]]
[[Image:Marco van Basten 1990-1992.jpg|thumb|200px|ミランでプレーするファン・バステン]]
7月、イタリアの[[ACミラン]]へ移籍。同年[[ルート・フリット]]もACミランに加わり、翌年には[[フランク・ライカールト]]も加入した。一般的にこの2人とファン・バステンを指して[[オランダトリオ]]と呼ばれている
1987年7月、イタリアの[[ACミラン]]へ移籍。同年[[ルート・フリット]]もACミランに加わり、翌年には[[フランク・ライカールト]]も加入した。一般的にこの2人とファン・バステンを指して[[オランダトリオ]]と呼ばれ


1987-88シーズン、8月23日[[コッパ・イタリア]]グループリーグ、バーリ戦で移籍後初出場初ゴールを決める、セリエAデビューとなった[[ACピサ1909|ピサ]]戦でもいきなりゴールを決めるが<ref name="all goals"/>、6節から24節までを怪我で欠場、ACミランは[[セリエA (サッカー)|セリエA]]優勝を果たすも、ファンバステンは足首の怪我に苦しみ11試合出場3ゴールに終わ
1987-88シーズン、8月23日[[コッパ・イタリア]]グループリーグ、[[SSCバーリ|バーリ]]戦で移籍後初出場初ゴールを挙げた。セリエAデビューとなった[[ACピサ1909|ピサ]]戦でもいきなりゴールを決めるが<ref name="all goals"/>、6節から24節までを怪我で欠場、ACミランは[[セリエA (サッカー)|セリエA]]優勝を果たすも、ファンバステンは足首の怪我に苦しみ11試合出場3ゴールに終わった


1988年、[[UEFA欧州選手権1988|ユーロ88]]優勝、5得点を上げ大会得点王に輝。グループリーグの[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦でハットトリックを決めると、準決勝の[[サッカー西ドイツ代表|西ドイツ]]戦では後半44分にスライディングシュートで逆転ゴールを決めた。[[サッカーソビエト連邦代表|ソ連代表]]との決勝戦ではダイレクトボレーによるゴールを決め、このゴールはサッカー史に残るゴールの一つとして記憶されている<ref>{{cite news|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/13781|title=ファン・バステンの本音。|publisher=Number Web|date=2004年12月24日}}</ref><ref>{{cite news|url=http://qoly.jp/index.php/story/18101-20130811-a-perfect-volley|title=まるでファン・バステン!角度0度から放たれたスーパーなボレー!|publisher=Qoly|date=2013年8月11日}}</ref>。1988年には[[バロンドール]]を初受賞。ちなみに、この時の2位はルート・フリット、3位はライカールトであり、オランダトリオで上位3人を占めた。
1988年、[[UEFA欧州選手権1988|EURO1988]]では優勝、5得点を上げ大会得点王に輝いた。グループリーグの[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦でハットトリックを決めると、準決勝の[[サッカー西ドイツ代表|西ドイツ]]戦では後半44分にスライディングシュートで逆転ゴールを決めた。[[サッカーソビエト連邦代表|ソ連代表]]との決勝戦ではダイレクトボレーによるゴールを決め、このゴールはサッカー史に残るゴールの一つとして記憶されている<ref>{{cite news|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/13781|title=ファン・バステンの本音。|publisher=Number Web|date=2004年12月24日}}</ref><ref>{{cite news|url=http://qoly.jp/index.php/story/18101-20130811-a-perfect-volley|title=まるでファン・バステン!角度0度から放たれたスーパーなボレー!|publisher=Qoly|date=2013年8月11日}}</ref>。1988年には[[バロンドール]]を初受賞した。ちなみに、この時の2位はルート・フリット、3位はライカールトであり、オランダトリオで上位3人を占めた。


1988-89シーズン、6月18日の[[アスコリ・カルチョ1898 |FCアスコリ]]戦でセリエAでは初のハットトリックを達成<ref name="all goals"/>[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]、ルーマニアの[[ステアウア・ブカレスト]]との決勝戦では2得点を挙げた<ref name="all goals"/>。大会を通しても[[レフスキ・ソフィア]]戦で4ゴールを決めるなど<ref name="all goals"/>、ファン・バステンは10得点を記録し、得点王に輝いた。12月[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]、[[アトレティコ・ナシオナル|ナシオナル・メデジン]]戦を1-0と破り優勝。1989年もバロンドールを2年連続で受賞した。
1988-89シーズン、6月18日の[[アスコリ・カルチョ1898 |FCアスコリ]]戦でセリエAでは初のハットトリックを達成した<ref name="all goals"/>[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]決勝の[[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]戦では2得点を挙げた<ref name="all goals" />。大会を通しても[[レフスキ・ソフィア]]戦で4ゴールを決めるなど<ref name="all goals" />、ファン・バステンは10得点を記録し、得点王に輝いた。12月[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]、[[アトレティコ・ナシオナル|ナシオナル・メデジン]]戦を1-0と破り優勝。1989年もバロンドールを2年連続で受賞した。


1989-90シーズンUEFAチャンピオンズカップ決勝の[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]戦ではライカールトの決勝ゴールをアシストし連覇に貢献<ref>{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/1081807 | title =AC Milan - SL Benfica May23 1990 European cup Match sheet | accessdate =26 April 2020}}</ref>。6月、[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]に出場するもベスト16敗退。ファン・バステン自身も無得点に終わった。12月にはインターコンチネンタルカップ、[[オリンピア・アスンシオン]]戦で2ゴールに絡み、3-0での優勝、大会連覇に貢献した<ref>{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/1169652 | title =AC Milan - Olimpia Asuncion December 9 Match sheet | accessdate =26 April 2020}}</ref>。リーグ第20節のアタランタ戦でハットトリックを決めた<ref name="all goals"/>。
1989-90シーズンUEFAチャンピオンズカップ決勝の[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]戦ではライカールトの決勝ゴールをアシストし連覇に貢献<ref>{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/1081807 | title =AC Milan - SL Benfica May23 1990 European cup Match sheet | accessdate =26 April 2020}}</ref>。1990年6月、[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]に出場するもベスト16敗退した。ファン・バステン自身も無得点に終わった。12月にはインターコンチネンタルカップ、[[オリンピア・アスンシオン]]戦で2ゴールに絡み、3-0での優勝、大会連覇に貢献した<ref>{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/1169652 | title =AC Milan - Olimpia Asuncion December 9 Match sheet | accessdate =26 April 2020}}</ref>。リーグ第20節の[[アタランタBC|アタランタ]]戦でハットトリックを決めた<ref name="all goals"/>。1990-91シーズン、リーグ第32節の[[ボローニャFC|ボローニャ]]戦でハットトリックを決めた<ref name="all goals"/>。
1990-91シーズン、リーグ第32節の[[ボローニャFC|ボローニャ]]戦でハットトリックを決めた<ref name="all goals"/>。


1991-92シーズン1月19日の[[USフォッジャ|フォッジャ]]戦、2月2日のカリアリ戦、3月1日の[[アタランタBC|アタランタ]]戦でそれぞれハットトリックを決めるなど<ref name="all goals"/>、25ゴールを決め、セリエA得点王になる活躍でセリエA無敗優勝に貢献した<ref name="football"/>。この間の1991年10月27日の[[FCバーリ1908|SSCバーリ]]戦で直接FKを決め、ミランでの通算100ゴールを達成している<ref name="football">{{cite news|url=https://www.football-italia.net/152692/serie-seasons-milan-1991-92|title=Serie A Seasons: Milan 1991-92|publisher=www.football-italia.net|date=2020年4月30日|accessdate=2020年8月20日}}</ref>。
1991-92シーズン、1992年1月19日の[[フォッジャ・カルチョ|フォッジャ]]戦、2月2日の[[カリアリ・カルチョ|カリアリ]]戦、3月1日の[[アタランタBC|アタランタ]]戦でそれぞれハットトリックを決めるなど<ref name="all goals"/>、25ゴールを決め、セリエA得点王になる活躍でセリエA無敗優勝に貢献した<ref name="football"/>。この間の1991年10月27日の[[SSCバーリ|バーリ]]戦で直接FKを決め、ミランでの通算100ゴールを達成している<ref name="football">{{cite news|url=https://www.football-italia.net/152692/serie-seasons-milan-1991-92|title=Serie A Seasons: Milan 1991-92|publisher=www.football-italia.net|date=2020年4月30日|accessdate=2020年8月20日}}</ref>。


1992年、[[UEFA欧州選手権1992|ユーロ92]]では準決勝、[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]戦において延長PK戦で2人目のキッカーとしてPKを失敗し敗退<ref name="National">{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/928099 | title =Netherlands - Denmark 1992 European Chammionship Semi Final | accessdate =26 April 2020}}</ref>、また4試合でノーゴールに終わった。
1992年、[[UEFA EURO '92|EURO'92]]では準決勝、[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]戦において延長PK戦で2人目のキッカーとしてPKを失敗し敗退<ref name="National">{{cite web | url=https://www.transfermarkt.com/spielbericht/index/spielbericht/928099 | title =Netherlands - Denmark 1992 European Chammionship Semi Final | accessdate =26 April 2020}}</ref>、また4試合でノーゴールに終わった。


1992-93シーズンのセリエAでは、2節のペスカーラとの対戦でハットトリック、9節の[[SSCナポリ|ナポリ]]戦では4得点を決めるなど<ref name="all goals"/>、13試合で12ゴールと得点ランキング首位であったが、怪我の影響で以降の大半の試合を欠場29節の[[ウディネーゼ・カルチョ|ウディネーゼ]]との対戦で途中出場で復帰、30節の[[USアンコーナ1905|アンコーナ]]戦でゴールを決めたが<ref name="all goals"/>、そのゴールが現役最後のゴールとなった。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では11月の[[IFKヨーテボリ]]戦で4ゴールを挙げ<ref name="all goals"/>、チャンピオンズリーグと名称が変更されてから1試合4ゴールを記録した初めての選手となった。1992年もバロンドールを受賞し、[[ヨハン・クライフ]]、[[ミシェル・プラティニ]]と並んでバロンドールを3度受賞した3人目の選手となった(この自身は
1992-93シーズンのセリエAでは、2節の[[デルフィーノ・ペスカーラ1936|ペスカーラ]]との対戦でハットトリック、9節の[[SSCナポリ|ナポリ]]戦では4得点を決めるなど<ref name="all goals"/>、13試合で12ゴールと得点ランキング首位であったが、怪我の影響で以降の大半の試合を欠場した。第29節の[[ウディネーゼ・カルチョ|ウディネーゼ]]との対戦で途中出場で復帰30節の[[USアンコーナ1905|アンコーナ]]戦でゴールを決めたが<ref name="all goals"/>、そのゴールが現役最後のゴールとなった。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]では11月の[[IFKヨーテボリ]]戦で4ゴールを挙げ<ref name="all goals"/>、チャンピオンズリーグと名称が変更されてから1試合4ゴールを記録した初めての選手となった。1992年もバロンドールを受賞し、[[ヨハン・クライフ]]、[[ミシェル・プラティニ]]と並んでバロンドールを3度受賞した3人目の選手となった(ファン・バステン自身は、[[フリスト・ストイチコフ]]が受賞するのではないかと思っていたという。ストイチコフが受賞しなかったのは退場が多いからではないかと分析した<ref> [[ストライカー (雑誌)|サッカーストライカー]] 1993年2月18日号 p.19-21 [[学研]] </ref>)。ミランはUEFAチャンピオンズリーグ決勝まで駒を進め、5月26日[[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン]]で行われた決勝の[[オリンピック・マルセイユ]]戦に先発出場、完璧なクロスを送りチャンスメイクするも[[ダニエレ・マッサーロ|マッサーロ]]が決め切れず<ref name="fr"/>、また自身もゴールマウスを脅かすシュートを放つなどのプレーを見せたが<ref name="fr">{{cite web | url=https://www.francefootball.fr/news/Les-notes-de-marseille-milan-1993-avec-un-boli-epoustouflant/1131036 |publisher=www.francefootball.fr| title =Les notes de Marseille-Milan 1993, avec un Boli époustouflant| accessdate =26 April 2020}}</ref>、後半[[バジール・ボリ|ボリ]]の激しいタックルを受けて負傷交代<ref>{{cite web | url=https://www.dailyrecord.co.uk/sport/football/football-news/marco-van-basten-reveals-rangers-21600633 |publisher=www.dailyrecord.co.uk| title =Marco van Basten reveals Rangers stars' role in recovery from injury trauma that caused doctor 'half a heart attack'|date=2020年2月28日| accessdate =20 August 2020}}</ref>、試合も1-0で敗れ、れが現役生活最後試合となった。以降復帰に向けてリハビリや手術を繰り返し、チームのトレーニングには復帰するも、怪我のため1995-96シーズン開幕を目前に現役引退。彼が引退を表明した直後のシーズンにはホームスタジアムの観客席に「マルコのいない[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]は羽の無い風車だ」という横断幕が掲げられ、ACミランの指揮官であった[[ファビオ・カペッロ]]は、「彼の早すぎる引退は彼自身、サッカー界、そしてミランにとって不運だった」と嘆いた<ref>{{cite news|url=http://www.goal.com/en-gh/news/4375/editorials/2012/12/09/3589458/theres-only-one-marco-van-basten-ac-milans-dutch-legend-may|title=There's only one Marco van Basten: AC Milan's Dutch legend may never be surpassed|publisher=Goal.com|date=2012年12月9日}}</ref>。ミランで通算10回のハットトリックを含め<ref name="all goals"/>、201試合125ゴール(セリエAでは147試合90ゴール)の成績を残した<ref>{{cite web | url=https://www.acmilan.com/en/club/hall-of-fame/players/van-basten |publisher=www.acmilan.com| title =Marco Van Basten stats and matches| accessdate =20 August 2020}}</ref>。
[[フリスト・ストイチコフ]]が受賞するのではないかと思っていたという、ストイチコフが受賞しなかったのは退場が多いからではないかと分析した<ref> [[ストライカー (雑誌)|サッカーストライカー]] 1993年2月18日号 p.19-21 [[学研]] </ref>。)。ミランはUEFAチャンピオンズリーグ決勝まで駒を進め、5月26日[[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン]]で行われた決勝の[[オリンピック・マルセイユ]]戦に先発出場、完璧なクロスを送りチャンスメイクするも[[ダニエレ・マッサーロ|マッサーロ]]が決め切れず<ref name="fr"/>、また自身もゴールマウスを脅かすシュートを放つなどのプレーを見せたが<ref name="fr">{{cite web | url=https://www.francefootball.fr/news/Les-notes-de-marseille-milan-1993-avec-un-boli-epoustouflant/1131036 |publisher=www.francefootball.fr| title =Les notes de Marseille-Milan 1993, avec un Boli époustouflant| accessdate =26 April 2020}}</ref>、後半[[バジール・ボリ|ボリ]]の激しいタックルを受けて負傷交代<ref>{{cite web | url=https://www.dailyrecord.co.uk/sport/football/football-news/marco-van-basten-reveals-rangers-21600633 |publisher=www.dailyrecord.co.uk| title =Marco van Basten reveals Rangers stars' role in recovery from injury trauma that caused doctor 'half a heart attack'|date=2020年2月28日| accessdate =20 August 2020}}</ref>、試合も1-0で破れ、これが現役生活最後の試合となった。以降復帰に向けてリハビリや手術を繰り返し、チームのトレーニングには復帰するも、怪我のため1995-96シーズン開幕を目前に現役引退。彼が引退を表明した直後のシーズンにはホームスタジアムの観客席に「マルコのいない[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]は羽の無い風車だ」という横断幕が掲げられ、ACミランの指揮官であった[[ファビオ・カペッロ]]は、「彼の早すぎる引退は彼自身、サッカー界、そしてミランにとって不運だった」と嘆いた<ref>{{cite news|url=http://www.goal.com/en-gh/news/4375/editorials/2012/12/09/3589458/theres-only-one-marco-van-basten-ac-milans-dutch-legend-may|title=There's only one Marco van Basten: AC Milan's Dutch legend may never be surpassed|publisher=Goal.com|date=2012年12月9日}}</ref>。ミランでは通算10回のハットトリックを含め<ref name="all goals"/>、201試合125ゴール(セリエAでは147試合90ゴール)の成績を残した<ref>{{cite web | url=https://www.acmilan.com/en/club/hall-of-fame/players/van-basten |publisher=www.acmilan.com| title =Marco Van Basten stats and matches| accessdate =20 August 2020}}</ref>。


== 指導者経歴 ==
== 指導者経歴 ==
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指導者としては皆無に等しい実績から、疑問を差し挟む声も少なくなかったものの、フタをあけてみれば[[2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|ワールドカップドイツ大会予選]]で[[サッカーチェコ代表|チェコ]]、[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]といった強豪と同居し「死のグループ」と呼ばれたグループ1を10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過を果たし、[[2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|日韓ワールドカップ地区予選]]敗退の悪夢を払拭した。
指導者としては皆無に等しい実績から、疑問を差し挟む声も少なくなかったものの、フタをあけてみれば[[2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|ワールドカップドイツ大会予選]]で[[サッカーチェコ代表|チェコ]]、[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]といった強豪と同居し「死のグループ」と呼ばれたグループ1を10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過を果たし、[[2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|日韓ワールドカップ地区予選]]敗退の悪夢を払拭した。


監督としてのファン・バステンは4-3-3システムを重用しているように、[[リヌス・ミケルス]]以来の[[トータルフットボール]]の伝統を受け継いでいるが、最大の特徴は新しい選手の招集に非常に積極的な点であ。彼はこれまでほとんど注目されていなかったオランダ3強(アヤックス・[[フェイエノールト]]・[[PSVアイントホーフェン]])以外のチームからも多くの選手を招集している。特に2000年代に3強を脅かすクラブに成長した[[AZアルクマール]]の選手を重用し、[[デニー・ランツァート]]、[[ヤン・クロカンプ]]、[[ヨリス・マタイセン]]、[[バリー・オプダム]]などの有能な選手がブレイクするきっかけともなった。
監督としてのファン・バステンは4-3-3システムを重用しているように、[[リヌス・ミケルス]]以来の[[トータルフットボール]]の伝統を受け継いでいるが、最大の特徴は新しい選手の招集に非常に積極的な点であった。彼はこれまでほとんど注目されていなかったオランダ3強(アヤックス・[[フェイエノールト]]・[[PSVアイントホーフェン]])以外のチームからも多くの選手を招集している。特に2000年代に3強を脅かすクラブに成長した[[AZアルクマール]]の選手を重用し、[[デニー・ランツァート]]、[[ヤン・クロカンプ]]、[[ヨリス・マタイセン]]、[[バリー・オプダム]]などの有能な選手がブレイクするきっかけともなった。


また[[ライアン・バベル]]、[[ヘドヴィヘス・マドゥロ]]といったリーグでの実績がほとんど無かった選手でも戦力になると思えば躊躇なく招集する一方で、実績はあるが調子が悪かったり代表でのプレーの質が悪い選手([[パトリック・クライファート]]ら)は容赦なく戦力外としている。最も顕著な例が就任後最初の会見で「[[フース・ヒディンク|ヒディンク]]も[[ルイ・ファン・ハール|ファン・ハール]]もライカールトもアドフォカートもセードルフをフットボールに組み込むのに失敗した。なぜ私も同じことを繰り返さなければいけないんだ?」と[[クラレンス・セードルフ]]を構想外に置いたことである<ref>http://www.volkskrant.nl/sport/van-basten-zet-seedorf-buitenspel~a694441/</ref>(後に再評価されて招集されたが、少なからず2人の間には因縁としてしこりが残っている)。そのため、[[マルク・ファン・ボメル]]など実績のある代表候補の選手の中には「(ファン・バステンが監督在任中は)代表に復帰しない」と明言する者もいる。他に一時代表から戦力外とした[[ルート・ファン・ニステルローイ]]とも確執があったがファン・バステンが謝罪をして和解した。ファン・ボメルによれば彼は自分の出身であるアヤックス出身の選手を贔屓傾向があり、納得出来ないそうであったが、[[ヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンク]]の様に国外の欧州主要リーグから漏れている[[セルティックFC]]に移籍した選手も招集し続けてる(一説に寄ればフェネホールがファン・バステンの崇拝者だったからだと言われている)。
また[[ライアン・バベル]]、[[ヘドヴィヘス・マドゥロ]]といったリーグでの実績がほとんど無かった選手でも戦力になると思えば躊躇なく招集する一方で、実績はあるが調子が悪かったり代表でのプレーの質が悪い選手([[パトリック・クライファート]]ら)は容赦なく戦力外としている。最も顕著な例が就任後最初の会見で「[[フース・ヒディンク|ヒディンク]]も[[ルイ・ファン・ハール|ファン・ハール]]もライカールトもアドフォカートもセードルフをフットボールに組み込むのに失敗した。なぜ私も同じことを繰り返さなければいけないんだ?」と[[クラレンス・セードルフ]]を構想外に置いたことである<ref>http://www.volkskrant.nl/sport/van-basten-zet-seedorf-buitenspel~a694441/</ref>(後に再評価されて招集されたが、少なからず2人の間には因縁としてしこりが残っている)。そのため、{{要出典範囲|[[マルク・ファン・ボメル]]など実績のある代表候補の選手の中には「(ファン・バステンが監督在任中は)代表に復帰しない」と明言する者もいる。他に一時代表から戦力外とした[[ルート・ファン・ニステルローイ]]とも確執があったがファン・バステンが謝罪をして和解した。ファン・ボメルによれば彼は自分の出身であるアヤックス出身の選手を贔屓傾向があり、納得出来ないそうであったが、[[ヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンク]]の様に国外の欧州主要リーグから漏れている[[セルティックFC]]に移籍した選手も招集し続けてる(一説に寄ればフェネホールがファン・バステンの崇拝者だったからだと言われている)|date=2021年8月}}


[[Image:Van Basten Oranje.jpg|thumb|150px|オランダ代表監督時代のファン・バステン]]
[[Image:Van Basten Oranje.jpg|thumb|150px|オランダ代表監督時代のファン・バステン]]
2006年3月15日、ACミラン時代の同僚[[デメトリオ・アルベルティーニ]]の引退試合に出場、往年を彷彿させる豪快なダイビングヘッドで先制点を決める。2006年のワールドカップは死のグループと呼ばれたグループCを2勝1分けの成績で突破したが、決勝トーナメント1回戦で[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]に敗れベスト16に終わった。しかしオランダサッカー協会はファン・バステン監督を留任させることを決定し、契約を2010年まで延長した。
2006年3月15日、ACミラン時代の同僚[[デメトリオ・アルベルティーニ]]の引退試合に出場、往年を彷彿させる豪快なダイビングヘッドで先制点を決める。[[2006 FIFAワールドカップ]]は死のグループと呼ばれたグループCを2勝1分けの成績で突破したが、決勝トーナメント1回戦で[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]に敗れベスト16に終わった。しかしオランダサッカー協会はファン・バステン監督を留任させることを決定し、契約を2010年まで延長した。


2007年には[[ジョゼ・モウリーニョ]]が突然辞任した[[チェルシーFC]]への監督就任が取り沙汰されたが、オランダサッカー協会から代表監督との兼務を断られたためにチェルシーが獲得を断念したという話もある。
2007年には[[ジョゼ・モウリーニョ]]が突然辞任した[[チェルシーFC]]への監督就任が取り沙汰されたが、オランダサッカー協会から代表監督との兼務を断られたためにチェルシーが獲得を断念したという話もある。


2008年の[[UEFA欧州選手権2008|EURO2008]]終了後を以って退任し、アヤックスの監督に就任した。しかしながら、欧州カップ出場権を逃すなどチームは低迷、シーズン終了を待たず辞任をすることとなった。
2008年の[[UEFA EURO 2008|EURO2008]]終了後を以って退任し、アヤックスの監督に就任した。しかしながら、欧州カップ出場権を逃すなどチームは低迷、シーズン終了を待たず辞任をすることとなった。


2012年7月より、[[SCヘーレンフェーン]]監督に就任。契約期間は2年間。2012-2013シーズンは前半悲劇的な成績も、超守備的な5バックシステムなどの採用で守備が安定した後半に巻き返してPO圏内の8位に進む一定の評価を得た。翌2013-20414シーズンは前年を大きく上回る勝ち点を稼ぐも、攻撃はカウンター頼みで自分たちで主導権を取ったフットボールが全く前進せず、守備もミスが多く不安定な戦いとなり、「選手たちを成長させていない」、「フットボール・ビジョンはあるが実践的なトレーニング手段を持っていない」とクラブOBの[[フォッペ・デ・ハーン]]などから激しい批判を受ける<ref>http://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/376641/-van-basten-moet-op-een-hoger-niveau-werken-met-betere-spelers-.html</ref>。フロントの大規模な入れ替えがあった影響もありヘーレンフェーンが契約延長のオファーを出すか微妙な状況だった2014年1月、ファン・バステン自ら契約を延長せずにフリースラントを去ると発表した。
2012年7月より、[[SCヘーレンフェーン]]監督に就任。契約期間は2年間。2012-13シーズンは前半悲劇的な成績も、超守備的な5バックシステムなどの採用で守備が安定した後半に巻き返してPO圏内の8位に進む一定の評価を得た。翌2013-14シーズンは前年を大きく上回る勝ち点を稼ぐも、攻撃はカウンター頼みで自分たちで主導権を取ったフットボールが全く前進せず、守備もミスが多く不安定な戦いとなり、「選手たちを成長させていない」、「フットボール・ビジョンはあるが実践的なトレーニング手段を持っていない」とクラブOBの[[フォッペ・デ・ハーン]]などから激しい批判を受ける<ref>http://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/376641/-van-basten-moet-op-een-hoger-niveau-werken-met-betere-spelers-.html</ref>。フロントの大規模な入れ替えがあった影響もありヘーレンフェーンが契約延長のオファーを出すか微妙な状況だった2014年1月、ファン・バステン自ら契約を延長せずに退任す発表した。


2014年4月18日、翌シーズンから[[AZアルクマール]]の監督に就任する事が合意した<ref>{{cite news|url=http://www.goal.com/jp/news/3637/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80/2014/04/18/4760676/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3az%E3%81%AE%E6%96%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E5%B0%B1%E4%BB%BB%E3%81%8C%E5%90%88%E6%84%8F?ICID=OP|title=ファン・バステン、AZの新監督就任が合意|publisher=Goal|date=2014年4月18日}}</ref>。しかし同年、体調不良により監督を退き、AZのアシスタントコーチとなった<ref>{{cite news|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/eusoccer/1415/columndtl/201410090002-spnavi|title=ファン・バステンが監督から退きコーチへ 過度のストレスとプレッシャーに苦しむ|publisher=Sportsnavi|date=2014年10月9日}}</ref>。
2014年4月18日、翌シーズンから[[AZアルクマール]]の監督に就任する事が合意した<ref>{{cite news|url=http://www.goal.com/jp/news/3637/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80/2014/04/18/4760676/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3az%E3%81%AE%E6%96%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E5%B0%B1%E4%BB%BB%E3%81%8C%E5%90%88%E6%84%8F?ICID=OP|title=ファン・バステン、AZの新監督就任が合意|publisher=Goal|date=2014年4月18日}}</ref>。しかし同年、体調不良により監督を退き、AZのアシスタントコーチとなった<ref>{{cite news|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/eusoccer/1415/columndtl/201410090002-spnavi|title=ファン・バステンが監督から退きコーチへ 過度のストレスとプレッシャーに苦しむ|publisher=Sportsnavi|date=2014年10月9日}}</ref>。
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* 監督時代からビデオ判定の要求、三重罰ルールへの批判などフットボールのルールについて度々意見を明確に示していたが、フットボール・インターナショナルでのコラムではオフサイドの廃止、出場選手数を減らしてピッチサイズを縮小など、かなり抜本的な改革を提案。特にオフサイド・ルール廃止のアイディアはオランダ国内でほとんど理解を得られず、オランダの元トップ主審 マリオ・ファン・デル・エンデは「彼のような人物がオフサイド無しのフットボールを見たいと思うのは非常に奇妙。こういうアイディアは時間の無駄だ」と感想を語った<ref>http://www.metronieuws.nl/xl/sport/2016/09/marco-van-basten-moet-van-buitenspel-afblijven</ref>。
* 監督時代からビデオ判定の要求、三重罰ルールへの批判などフットボールのルールについて度々意見を明確に示していたが、フットボール・インターナショナルでのコラムではオフサイドの廃止、出場選手数を減らしてピッチサイズを縮小など、かなり抜本的な改革を提案。特にオフサイド・ルール廃止のアイディアはオランダ国内でほとんど理解を得られず、オランダの元トップ主審 マリオ・ファン・デル・エンデは「彼のような人物がオフサイド無しのフットボールを見たいと思うのは非常に奇妙。こういうアイディアは時間の無駄だ」と感想を語った<ref>http://www.metronieuws.nl/xl/sport/2016/09/marco-van-basten-moet-van-buitenspel-afblijven</ref>。


* 2017年1月にFIFA Chief Officer for Technical DevelopmentとしてBildのインタビューで語った抜本的なルール改革案。「オフサイド・ルールの廃止」、「イエローカードの代わりに5~10分のプレー禁止ペナルティ」、「PK戦の代わりにシュートアウト戦導入」、「終盤での時間稼ぎを防ぎ、プレー時間を効率化するために最後の10分間は数秒以内にプレー再開を義務づけ」、「選手交代のスピードアップ」、「延長での交代枠の増大」、「審判への抗議をチーム一人だけが可能に」、「1選手5ファールで退場処分」、「11人対11人制の代わりに8人対8人制にしてピッチも小さく」、「1シーズンの試合数を減らし、最大50試合に制限」<ref>http://www.ad.nl/buitenlands-voetbal/van-basten-wil-voetbal-met-tien-punten-ingrijpend-veranderen~a33af3a3/</ref>。
* 2017年1月にFIFA Chief Officer for Technical DevelopmentとしてBildのインタビューで語った抜本的なルール改革案。「オフサイド・ルールの廃止」、「イエローカードの代わりに5~10分のプレー禁止ペナルティ」、「PK戦の代わりにシュートアウト戦導入」、「終盤での時間稼ぎを防ぎ、プレー時間を効率化するために最後の10分間は数秒以内にプレー再開を義務づけ」、「選手交代のスピードアップ」、「延長での交代枠の増大」、「審判への抗議をチーム一人だけが可能に」、「1選手5ファールで退場処分」、「11人対11人制の代わりに8人対8人制にしてピッチも小さく」、「1シーズンの試合数を減らし、最大50試合に制限」<ref>http://www.ad.nl/buitenlands-voetbal/van-basten-wil-voetbal-met-tien-punten-ingrijpend-veranderen~a33af3a3/</ref>。この改革案には世界中のファンから本人のTwitterアカウントに多くの意見が集まり、その多くが否定的な意見だった。サッカー指導者である[[クリスティアン・グルキュフ]]は「糞の山のような提案。特にオフサイド・ルール廃止は私が過去に読んだ中で最もデタラメなアイディアであり、信じられないほど"bullshit"(牛の糞)だ」と特に強く批判した<ref>https://www.foxsports.nl/nieuws/artikel/1419847/coaches-kraken-plannen-van-basten-ongelofelijke-bullshit</ref>。


== タイトル ==
* 上記改革案には世界中のファンから本人のTwitterアカウントに多くの意見が集まり、その多くが否定的な意見だった。サッカー指導者である[[クリスティアン・グルキュフ]]は「糞の山のような提案。特にオフサイド・ルール廃止は私が過去に読んだ中で最もデタラメなアイディアであり、信じられないほど"bullshit"(牛の糞)だ」と特に強く批判した<ref>https://www.foxsports.nl/nieuws/artikel/1419847/coaches-kraken-plannen-van-basten-ongelofelijke-bullshit</ref>。
=== クラブ ===
; アヤックス・アムステルダム
* [[エールディヴィジ]] : 3回(1981–82, 1982–83, 1984–85)
* [[KNVBカップ]] : 3回(1982–83, 1985–86, 1986–87)
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] : 1回(1986–87)


; ACミラン
== 獲得タイトル ==
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]] : 3回(1987–88, 1991–92, 1992–93)
=== チームタイトル ===
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]] : 2回(1988, 1992)
{{Flagicon|NED}} オランダ代表
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] : 2回(1988–89, 1989–90)
* [[UEFA欧州選手権]] 1回(1988)
* [[UEFAスーパーカップ]] : 2回(1989, 1990)
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] : 2回(1989, 1990)


=== 代表 ===
アヤックス・アムステルダム
オランダ代表
* [[エールディヴィジ]] 3回(1981–82, 1982–83, 1984–85)
* [[UEFA欧州選手権]] : 1回(1988)
* [[KNVBカップ]] 3回(1982–83, 1985–86, 1986–87)
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] 1回(1986–87)

[[ファイル:Bianco e Rosso (Croce) e Rosso e Nero (Strisce).png|20px|Milan]] ACミラン
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 3回(1987–88, 1991–92, 1992–93)
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]] 2回(1988, 1992)
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] 2回(1988–89, 1989–90)
* [[UEFAスーパーカップ]] 2回(1989, 1990)
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] 2回(1989, 1990)

=== 個人タイトル ===

* [[バロンドール]] 3回(1988, 1989, 1992年)
* [[ワールドサッカー (雑誌)#世界最優秀選手賞|世界年間最優秀選手賞(ワールドサッカー誌)]] 2回(1988, 1992年)
* [[FIFA最優秀選手賞]] 1回(1992年)
* [[オンズドール]] 2回(1988, 1989年)
* [[ブラヴォー賞]] 1回(1987年)
* オランダ年間最優秀選手賞 1回(1985年)
* [[ヨーロッパ・ゴールデンシュー|ゴールデンブーツ]] 1回(1986年)
* UEFA欧州選手権 得点王 1回(1988年)


=== 個人 ===
* エールディヴィジ 得点王 4回(1984, 1985, 1986, 1987年)
* [[バロンドール]] : 3回(1988, 1989, 1992)
* [[カポカンノニエーレ|セリエA得点王]] 2回(1990, 1992年)
* [[ワールドサッカー (雑誌)#世界最優秀選手賞|世界年間最優秀選手賞(ワールドサッカー誌)]] : 2回(1988, 1992)
* [[FIFA最優秀選手賞]] : 1回(1992)
* [[オンズドール]] : 2回(1988, 1989)
* [[ブラヴォー賞]] : 1回(1987)
* オランダ年間最優秀選手賞 : 1回(1985)
* [[ヨーロッパ・ゴールデンシュー|ゴールデンブーツ]] : 1回(1986)
* UEFA欧州選手権得点王 : 1回(1988)
* エールディヴィジ得点王 : 4回(1983-84, 1984-85, 1985-86, 1986-87)
* [[カポカンノニエーレ|セリエA得点王]]: 2回(1989-90, 1991-92)
* [[FIFA100]]
* [[FIFA100]]
* [[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|20世紀世界最優秀選手]] 12位(1999年、国際サッカー歴史統計連盟)
* [[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|20世紀世界最優秀選手]] 12位(1999年、国際サッカー歴史統計連盟)
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|20世紀の偉大なサッカー選手100人(ワールドサッカー誌)]] 9位(1999年)
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|20世紀の偉大なサッカー選手100人(ワールドサッカー誌)]] 9位(1999年)


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
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[[Category:サッカーオランダ代表監督]]
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[[Category:2006 FIFAワールドカップ監督]]
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2021年8月13日 (金) 13:34時点における版

マルコ・ファン・バステン
名前
本名 マルセル・ファン・バステン
Marcel van Basten
愛称 聖マルコ、ユトレヒトの白鳥
ラテン文字 Marco van Basten
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1964-10-31) 1964年10月31日(59歳)
出身地 ユトレヒト州ユトレヒト
身長 188cm
体重 80kg
選手情報
ポジション FW (CF)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1982–1987 オランダの旗 アヤックス 133 (128)
1987–1993 イタリアの旗 ミラン 147 (90)
通算 280 (218)
代表歴
1983-1992[1] オランダの旗 オランダ 58 (24)
監督歴
2003-2004 オランダの旗 アヤックス B
2004-2008 オランダの旗 オランダ代表
2008-2009 オランダの旗 アヤックス
2012-2014 オランダの旗 ヘーレンフェーン
2014 オランダの旗 AZ
2014-2015 オランダの旗 AZ (Assistant)
2015-2016 オランダの旗 オランダ代表 (Assistant)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten, 1964年10月31日 - )は、オランダユトレヒト出身の元サッカー選手、元サッカー指導者。元オランダ代表。現役時代のポジションはフォワード。現在はコラムニスト、FIFA最高技術開発責任者。

概要

1980年代から1990年代初頭を代表するフォワード。現役時代に3度のバロンドール(1988年、1989年、1992年)[2]と1度のFIFA最優秀選手賞(1992年)を受賞した経験を持つ。プロデビューは17歳のときで、先発のヨハン・クライフが自ら指名して交替出場。その試合でハットトリックを達成している。

1987年から在籍したイタリアセリエAACミランでは、ルート・フリットフランク・ライカールトらと共に「オランダトリオ」と呼ばれ、国内リーグ優勝やUEFAチャンピオンズカップなどの数々のタイトルを獲得、キャリア全盛期を過ごした。

選手経歴

アヤックスでプレーするファン・バステン(左)

1970年、地元のサッカークラブEDOでサッカーを始めた。10歳の時にFCユトレヒトの下部組織に加入した。1980年、USVエリンベイクのユースチームに加入し、1981年にアヤックス・アムステルダムとプロ契約を結んだ。

1981-82シーズン、4月3日、NECナイメヘン戦でプロデビューを飾ると、得点を挙げて5-0での勝利に貢献した[3]。1983年は、前シーズンにヨーロッパ・ゴールデンブーツを獲得したヴィム・キーフトとポジションを争い、リーグ20試合に出場して9得点を挙げた。同年、エールディヴィジKNVBカップの二冠を達成。キーフトはシーズン終了後にピサ・カルチョへ移籍したため、ファン・バステンはポジションを掴んだ。6月にはU-20代表として、FIFAワールドユースメキシコ大会出場し、ベスト8に進出した。1982年7月9日、EURO1984予選のアイスランド戦でフル代表デビューを飾った。

1984年にエールディヴィジ得点王に輝くと、以後1985年、1986年、1987年と4年連続得点王に輝いた。1985年、エールディヴィジ優勝。また、1984-85シーズンのUEFAカップ1回戦のFAレッド・ボーイズ・ディフェルダンジュ戦では、1stレグはスコアレスドローに終わったものの、2ndレグはファン・バステンの5得点を含む14-0と大勝となった[4]。1985-86シーズン、12月8日、リーグ第17節のスパルタ・ロッテルダム戦ではプロのキャリアでは最多となる6ゴールのダブルハットトリックを達成した(エールディビジでは5ゴールを3度記録した)[3]。10月、オランダ代表としてワールドカップ・メキシコ大会予選に挑むがプレーオフの末に敗退した。1986年KNVBカップ優勝し、翌年も連覇した。1987年5月、アヤックスの一員として自ら決勝点を上げ東ドイツの1.FC ロコモティフ・ライプツィヒを下し、1986-87シーズンのUEFAカップ優勝。

ミランでプレーするファン・バステン

1987年7月、イタリアのACミランへ移籍。同年ルート・フリットもACミランに加わり、翌年にはフランク・ライカールトも加入した。一般的にこの2人とファン・バステンを指してオランダトリオと呼ばれた。

1987-88シーズン、8月23日コッパ・イタリアのグループリーグ、バーリ戦で移籍後初出場初ゴールを挙げた。セリエAデビューとなったピサ戦でもいきなりゴールを決めるが[3]、6節から24節までを怪我で欠場、ACミランはセリエA優勝を果たすも、ファンバステンは足首の怪我に苦しみ11試合出場3ゴールに終わった。

1988年、EURO1988では優勝し、5得点を上げ大会得点王に輝いた。グループリーグのイングランド戦でハットトリックを決めると、準決勝の西ドイツ戦では後半44分にスライディングシュートで逆転ゴールを決めた。ソ連代表との決勝戦ではダイレクトボレーによるゴールを決め、このゴールはサッカー史に残るゴールの一つとして記憶されている[5][6]。1988年にはバロンドールを初受賞した。ちなみに、この時の2位はルート・フリット、3位はライカールトであり、オランダトリオで上位3人を占めた。

1988-89シーズン、6月18日のFCアスコリ戦でセリエAでは初のハットトリックを達成した[3]UEFAチャンピオンズカップ決勝のステアウア・ブカレスト戦では2得点を挙げた[3]。大会を通してもレフスキ・ソフィア戦で4ゴールを決めるなど[3]、ファン・バステンは10得点を記録し、得点王に輝いた。12月トヨタカップナシオナル・メデジン戦を1-0と破り優勝。1989年もバロンドールを2年連続で受賞した。

1989-90シーズン、UEFAチャンピオンズカップ決勝のベンフィカ戦ではライカールトの決勝ゴールをアシストし連覇に貢献[7]。1990年6月、ワールドカップ・イタリア大会に出場するもベスト16敗退した。ファン・バステン自身も無得点に終わった。12月にはインターコンチネンタルカップ、オリンピア・アスンシオン戦で2ゴールに絡み、3-0での優勝、大会連覇に貢献した[8]。リーグ第20節のアタランタ戦でハットトリックを決めた[3]。1990-91シーズン、リーグ第32節のボローニャ戦でハットトリックを決めた[3]

1991-92シーズン、1992年1月19日のフォッジャ戦、2月2日のカリアリ戦、3月1日のアタランタ戦でそれぞれハットトリックを決めるなど[3]、25ゴールを決め、セリエA得点王になる活躍でセリエA無敗優勝に貢献した[9]。この間の1991年10月27日のバーリ戦で直接FKを決め、ミランでの通算100ゴールを達成している[9]

1992年、EURO'92では準決勝、デンマーク戦において延長PK戦で2人目のキッカーとしてPKを失敗し敗退[10]、また4試合でノーゴールに終わった。

1992-93シーズンのセリエAでは、第2節のペスカーラとの対戦でハットトリック、第9節のナポリ戦では4得点を決めるなど[3]、13試合で12ゴールと得点ランキング首位であったが、怪我の影響で以降の大半の試合を欠場した。第29節のウディネーゼとの対戦で途中出場で復帰し、第30節のアンコーナ戦でゴールを決めたが[3]、そのゴールが現役最後のゴールとなった。UEFAチャンピオンズリーグでは11月のIFKヨーテボリ戦で4ゴールを挙げ[3]、チャンピオンズリーグと名称が変更されてから1試合4ゴールを記録した初めての選手となった。1992年もバロンドールを受賞し、ヨハン・クライフミシェル・プラティニと並んでバロンドールを3度受賞した3人目の選手となった(ファン・バステン自身は、フリスト・ストイチコフが受賞するのではないかと思っていたという。ストイチコフが受賞しなかったのは退場が多いからではないかと分析した[11])。ミランはUEFAチャンピオンズリーグ決勝まで駒を進め、5月26日ミュンヘン・オリンピアシュタディオンで行われた決勝のオリンピック・マルセイユ戦に先発出場、完璧なクロスを送りチャンスメイクするもマッサーロが決め切れず[12]、また自身もゴールマウスを脅かすシュートを放つなどのプレーを見せたが[12]、後半ボリの激しいタックルを受けて負傷交代[13]、試合も1-0で敗れ、これが現役生活最後の試合となった。以降復帰に向けてリハビリや手術を繰り返し、チームのトレーニングには復帰するも、怪我のため1995-96シーズン開幕を目前に現役引退。彼が引退を表明した直後のシーズンにはホームスタジアムの観客席に「マルコのいないサン・シーロは羽の無い風車だ」という横断幕が掲げられ、ACミランの指揮官であったファビオ・カペッロは、「彼の早すぎる引退は彼自身、サッカー界、そしてミランにとって不運だった」と嘆いた[14]。ミランでは通算10回のハットトリックを含め[3]、201試合125ゴール(セリエAでは147試合90ゴール)の成績を残した[15]

指導者経歴

1995年に引退後はしばらくサッカーから離れていたが、2003年に古巣アヤックスのユースチームのアシスタントコーチに就任すると、そのわずか1年後にはディック・アドフォカートの後任としてオランダ代表監督に就任した。

指導者としては皆無に等しい実績から、疑問を差し挟む声も少なくなかったものの、フタをあけてみればワールドカップドイツ大会予選チェコルーマニアといった強豪と同居し「死のグループ」と呼ばれたグループ1を10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過を果たし、日韓ワールドカップ地区予選敗退の悪夢を払拭した。

監督としてのファン・バステンは4-3-3システムを重用しているように、リヌス・ミケルス以来のトータルフットボールの伝統を受け継いでいるが、最大の特徴は新しい選手の招集に非常に積極的な点であった。彼はこれまでほとんど注目されていなかったオランダ3強(アヤックス・フェイエノールトPSVアイントホーフェン)以外のチームからも多くの選手を招集している。特に2000年代に3強を脅かすクラブに成長したAZアルクマールの選手を重用し、デニー・ランツァートヤン・クロムカンプヨリス・マタイセンバリー・オプダムなどの有能な選手がブレイクするきっかけともなった。

またライアン・バベルヘドヴィヘス・マドゥロといったリーグでの実績がほとんど無かった選手でも戦力になると思えば躊躇なく招集する一方で、実績はあるが調子が悪かったり代表でのプレーの質が悪い選手(パトリック・クライファートら)は容赦なく戦力外としている。最も顕著な例が就任後最初の会見で「ヒディンクファン・ハールもライカールトもアドフォカートもセードルフをフットボールに組み込むのに失敗した。なぜ私も同じことを繰り返さなければいけないんだ?」とクラレンス・セードルフを構想外に置いたことである[16](後に再評価されて招集されたが、少なからず2人の間には因縁としてしこりが残っている)。そのため、マルク・ファン・ボメルなど実績のある代表候補の選手の中には「(ファン・バステンが監督在任中は)代表に復帰しない」と明言する者もいる。他に一時代表から戦力外としたルート・ファン・ニステルローイとも確執があったがファン・バステンが謝罪をして和解した。ファン・ボメルによれば彼は自分の出身であるアヤックス出身の選手を贔屓傾向があり、納得出来ないそうであったが、ヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンクの様に国外の欧州主要リーグから漏れているセルティックFCに移籍した選手も招集し続けてる(一説に寄ればフェネホールがファン・バステンの崇拝者だったからだと言われている)[要出典]

オランダ代表監督時代のファン・バステン

2006年3月15日、ACミラン時代の同僚デメトリオ・アルベルティーニの引退試合に出場、往年を彷彿させる豪快なダイビングヘッドで先制点を決める。2006 FIFAワールドカップは死のグループと呼ばれたグループCを2勝1分けの成績で突破したが、決勝トーナメント1回戦でポルトガルに敗れベスト16に終わった。しかし、オランダサッカー協会はファン・バステン監督を留任させることを決定し、契約を2010年まで延長した。

2007年にはジョゼ・モウリーニョが突然辞任したチェルシーFCへの監督就任が取り沙汰されたが、オランダサッカー協会から代表監督との兼務を断られたためにチェルシーが獲得を断念したという話もある。

2008年のEURO2008終了後を以って退任し、アヤックスの監督に就任した。しかしながら、欧州カップ出場権を逃すなどチームは低迷、シーズン終了を待たず辞任をすることとなった。

2012年7月より、SCヘーレンフェーン監督に就任。契約期間は2年間。2012-13シーズンは前半悲劇的な成績も、超守備的な5バックシステムなどの採用で守備が安定した後半に巻き返してPO圏内の8位に進む一定の評価を得た。翌2013-14シーズンは前年を大きく上回る勝ち点を稼ぐも、攻撃はカウンター頼みで自分たちで主導権を取ったフットボールが全く前進せず、守備もミスが多く不安定な戦いとなり、「選手たちを成長させていない」、「フットボール・ビジョンはあるが実践的なトレーニング手段を持っていない」とクラブOBのフォッペ・デ・ハーンなどから激しい批判を受ける[17]。フロントの大規模な入れ替えがあった影響もありヘーレンフェーンが契約延長のオファーを出すか微妙な状況だった2014年1月、ファン・バステン自ら契約を延長せずに退任することを発表した。

2014年4月18日、翌シーズンからAZアルクマールの監督に就任する事が合意した[18]。しかし同年、体調不良により監督を退き、AZのアシスタントコーチとなった[19]

2015年7月にAZを去ってオランダ代表監督ダニー・ブリントの第1アシスタントに就任。その後も代表スタッフとの立場に縛られずにオープンに書き続けたフットボール・インターナショナル誌での週刊コラムが評価され、2016年8月にFIFAからフットボール・リニューアルのためのルール、レギュレーション、日程についてのアイディアとビジョンを活かして欲しいとのアプローチを受け、多くの批判を受けつつ年内でオランダ代表を去ることを決定した[20]。その後10月1日付けて退任が決定、FIFAからFIFA Chief Officer for Technical Developmentの役職名が発表された。日本のメディアでは「FIFA技術発展部門責任者」と書かれることが多いが、具体的な権力や責任を負っている訳では無く、ファン・バステン自身も「どういう役職か正確には自分でも分かっていないが、良いプレーが行われ、フットボールがスペクタクルなものであり続けるようにしていかなければいけない。私はそのためにたくさんのアイディアを持っているし、多くの人と話をしたい」とアイディア・マン的な仕事だと語っている[21]が、ファン・バステンが個人のアイディアとして語った案が日本ではFIFA自体の検討対象であるかのように報じられてしまうケースもある[22]

エピソード

  • 本名はマルセルでマルコは愛称である。マルコの由来は彼の祖母がマルセルの発音が難しかった事からマルコと呼び始め、それが定着した。
  • 監督時代からビデオ判定の要求、三重罰ルールへの批判などフットボールのルールについて度々意見を明確に示していたが、フットボール・インターナショナルでのコラムではオフサイドの廃止、出場選手数を減らしてピッチサイズを縮小など、かなり抜本的な改革を提案。特にオフサイド・ルール廃止のアイディアはオランダ国内でほとんど理解を得られず、オランダの元トップ主審 マリオ・ファン・デル・エンデは「彼のような人物がオフサイド無しのフットボールを見たいと思うのは非常に奇妙。こういうアイディアは時間の無駄だ」と感想を語った[23]
  • 2017年1月にFIFA Chief Officer for Technical DevelopmentとしてBildのインタビューで語った抜本的なルール改革案。「オフサイド・ルールの廃止」、「イエローカードの代わりに5~10分のプレー禁止ペナルティ」、「PK戦の代わりにシュート・アウト戦導入」、「終盤での時間稼ぎを防ぎ、プレー時間を効率化するために最後の10分間は数秒以内にプレー再開を義務づけ」、「選手交代のスピードアップ」、「延長での交代枠の増大」、「審判への抗議をチーム一人だけが可能に」、「1選手5ファールで退場処分」、「11人対11人制の代わりに8人対8人制にしてピッチも小さく」、「1シーズンの試合数を減らし、最大50試合に制限」[24]。この改革案には世界中のファンから本人のTwitterアカウントに多くの意見が集まり、その多くが否定的な意見だった。サッカー指導者であるクリスティアン・グルキュフは「糞の山のような提案。特にオフサイド・ルール廃止は私が過去に読んだ中で最もデタラメなアイディアであり、信じられないほど"bullshit"(牛の糞)だ」と特に強く批判した[25]

タイトル

クラブ

アヤックス・アムステルダム
ACミラン

代表

オランダ代表

個人

個人成績

年度 クラブ リーグ 背番号 リーグ カップ戦 欧州カップ戦 その他 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1981-82 アヤックス エールディヴィジ 1 1 1 0 0 0 - 2 1
1982-83 20 9 5 4 0 0 - 25 13
1983-84 10 26 28 4 1 2 0 - 32 29
1984-85 9 33 22 4 2 4 5 - 41 29
1985-86 26 37 1 0 2 0 - 29 37
1986-87 27 31 7 6 9 6 - 43 43
1987-88 ACミラン セリエA 11 3 5 5 3 0 - 19 8
1988-89 33 19 4 3 9 9 1 1 47 32
1989-90 26 19 4 3 9 4 1 0 40 24
1990-91 31 11 1 0 2 0 1 0 35 11
1991-92 31 25 7 4 - - 38 29
1992-93 15 13 1 0 5 6 1 1 22 20
1993-94 - -
1994-95 - -
通算 エールディヴィジ 133 128 22 13 17 11 - 172 152
セリエA 147 90 22 13 28 19 4 2 201 124
合計 280 218 44 26 45 30 4 2 373 276

代表

出典・脚注

  1. ^ “Marco van Basten - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/vanbasten-intlg.html 
  2. ^ “ファン・バステン氏、解説業を1週間謹慎…中継で「ジークハイル」”. サッカーキング. (2019年11月26日). https://www.soccer-king.jp/news/world/ned/20191126/1002411.html 2020年2月26日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m Van Basten all goals”. 26 April 2020閲覧。
  4. ^ “UEFA Europa League 1984/85 - History - Ajax-Differdange”. uefa.com. http://www.uefa.com/uefaeuropaleague/season=1984/matches/round=1121/match=67377/postmatch/lineups/index.html 
  5. ^ “ファン・バステンの本音。”. Number Web. (2004年12月24日). http://number.bunshun.jp/articles/-/13781 
  6. ^ “まるでファン・バステン!角度0度から放たれたスーパーなボレー!”. Qoly. (2013年8月11日). http://qoly.jp/index.php/story/18101-20130811-a-perfect-volley 
  7. ^ AC Milan - SL Benfica May23 1990 European cup Match sheet”. 26 April 2020閲覧。
  8. ^ AC Milan - Olimpia Asuncion December 9 Match sheet”. 26 April 2020閲覧。
  9. ^ a b “Serie A Seasons: Milan 1991-92”. www.football-italia.net. (2020年4月30日). https://www.football-italia.net/152692/serie-seasons-milan-1991-92 2020年8月20日閲覧。 
  10. ^ Netherlands - Denmark 1992 European Chammionship Semi Final”. 26 April 2020閲覧。
  11. ^ サッカーストライカー 1993年2月18日号 p.19-21 学研
  12. ^ a b Les notes de Marseille-Milan 1993, avec un Boli époustouflant”. www.francefootball.fr. 26 April 2020閲覧。
  13. ^ Marco van Basten reveals Rangers stars' role in recovery from injury trauma that caused doctor 'half a heart attack'”. www.dailyrecord.co.uk (2020年2月28日). 20 August 2020閲覧。
  14. ^ “There's only one Marco van Basten: AC Milan's Dutch legend may never be surpassed”. Goal.com. (2012年12月9日). http://www.goal.com/en-gh/news/4375/editorials/2012/12/09/3589458/theres-only-one-marco-van-basten-ac-milans-dutch-legend-may 
  15. ^ Marco Van Basten stats and matches”. www.acmilan.com. 20 August 2020閲覧。
  16. ^ http://www.volkskrant.nl/sport/van-basten-zet-seedorf-buitenspel~a694441/
  17. ^ http://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/376641/-van-basten-moet-op-een-hoger-niveau-werken-met-betere-spelers-.html
  18. ^ “ファン・バステン、AZの新監督就任が合意”. Goal. (2014年4月18日). http://www.goal.com/jp/news/3637/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80/2014/04/18/4760676/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3az%E3%81%AE%E6%96%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E5%B0%B1%E4%BB%BB%E3%81%8C%E5%90%88%E6%84%8F?ICID=OP 
  19. ^ “ファン・バステンが監督から退きコーチへ 過度のストレスとプレッシャーに苦しむ”. Sportsnavi. (2014年10月9日). http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/eusoccer/1415/columndtl/201410090002-spnavi 
  20. ^ http://www.knvb.nl/nieuws/oranje/nederlands-elftal/19960/marco-van-basten-gevraagd-door-fifa
  21. ^ https://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/691159/van-basten-wat-mijn-functie-zal-zijn-hier-weet-ik-niet-precies-.html
  22. ^ https://www.footballchannel.jp/2017/01/19/post194567/
  23. ^ http://www.metronieuws.nl/xl/sport/2016/09/marco-van-basten-moet-van-buitenspel-afblijven
  24. ^ http://www.ad.nl/buitenlands-voetbal/van-basten-wil-voetbal-met-tien-punten-ingrijpend-veranderen~a33af3a3/
  25. ^ https://www.foxsports.nl/nieuws/artikel/1419847/coaches-kraken-plannen-van-basten-ongelofelijke-bullshit