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[[File:Disco ball4.jpg|thumb|ディスコを象徴するアイテムの一つである、[[ミラーボール]]]]
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'''ディスコ'''は[[ダンス・ミュージック]]のジャンルの一つ。
'''ディスコ'''はポピュラー音楽の[[ダンス・ミュージック]]のジャンルの一つ。


== 概要 ==
== 概要 ==
ディスコは、[[ファンク]]や[[ソウルミュージック]]からの影響を含んでいる。[[音強|音量]]の大きい反響する[[ボーカル]]、[[4つ打ち]]で一定の[[リズム]]を刻むキック、8分[[音符]]ないし16分音符刻みかつ拍間でオープンする[[ハイハット]]パターン、そして突出した[[シンコペーション]]を持ち、時には[[オクタブ]]でなる[[エレキベース]]のベースラインの上で演奏される。[[ストリングス]]や[[管楽器|ホーン]]セクション<ref>[[トランペット]]、[[トロンボーン]]、[[サクソフォーン|サックス]]などからなる複数の[[金管楽器]]奏者</ref>、[[エレクトリックピアノ]]、[[エレクトリックギター|エレキギター]]が華やかなバッキングを創出する。[[フルート]]のような[[オーケストラ]][[楽器]]がしばしば[[ソロ]]に用いられ<ref>「[[:en:Michael Zager|Let's All Chant]]」(邦題:チャンタで行こう!)では[[クラリネット]]が使われている。</ref>また[[ロック (音楽)|ロック]]と異なり[[リードギタ]]用いられることはめったない
ディスコ音楽には、[[R&B]]や[[ソウルミュージック]]からの影響が見られる。女性[[ボーカル]]が起用されることも多く、一定の[[リズム]]を刻むドラムスのキック、16ビートの[[ハイハット]]パターン、[[シンコペーション]]を持ち、時にはチョッパベースも見せる[[エレキベース]]など特徴がある。[[ストリングス]]や[[管楽器|ホーン]]セクション<ref>[[トランペット]]、[[トロンボーン]]、[[サクソフォーン|サックス]]などからなる複数の[[金管楽器]]奏者</ref>、[[エレクトリックピアノ]]、リズムを刻むことがメインの[[エレクトリックギター|エレキギター]]が華やかなバッキングをつとめる。また、[[フルート]]のような[[オーケストラ]][[楽器]]がしばしば[[ソロ]]に用いられ<ref>「[[:en:Michael Zager|Let's All Chant]]」(邦題:チャンタで行こう!1978)では[[クラリネット]]が使われている。</ref>また、ブルックリンなどの白人、黒人ら、ニュクのダンス音楽好きディスコ参入した<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=GG1jtWGU0S8C&pg=PA205|title=Turn the Beat Around: The Secret History of Disco|first=Peter|last=Shapiro|publisher=Faber & Faber| access-date=2 October 2021|via=Google Books|isbn=9780865479524}}</ref>


一部のディスコ・ミュージシャンの[[レコード]]は、[[ディスクジャケット|ジャケット]]に写っている人物と、実際に歌っているシンガーが違うという、お粗末な事実もあった。[[ヴィレッジ・ピープル]]がその代表で、歌っているのはスタジオ・ミュージシャンである。
一部のディスコ・ミュージシャンの[[レコード]]は、[[ディスクジャケット|ジャケット]]に写っている人物と、実際に歌っているシンガーが違うという、お粗末な事実もあった。[[ヴィレッジ・ピープル]]がその代表で、歌っているのはスタジオ・ミュージシャンである。
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[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、[[アフリカ系アメリカ人]]や[[ヒスパニック]]のコミュニティを起源とし、1960年代から1970年代前半にかけて[[フィラデルフィア]]から[[ニューヨーク]]へと伝わっていった<ref>(1995) "Out in Culture: Gay, Lesbian and Queer Essays on Popular Culture", ISBN 030433488X, 9780304334889, p.439:(Disco 1990). "Although the disco pulse was born in the small gay black clubs of New York, disco music only began to gain commercial attention when it was exposed to the dance floor public of large, predominantly white gay discos."</ref><ref>(1998) "The Cambridge History of American Music", ISBN 0521454298, 9780521454292, p.372: "Initially, disco musicians and audiences alike belonged to marginalized communities: women, gay, black, and Latinos"</ref><ref name="alternative to rock'n'roll">(2007) "The 1970s", ISBN 0313339198, 9780313339196, p.203-204: "During the late 1960s various male counterculture groups, most notably gay, but also heterosexual black and Latino, created an alternative to rock'n'roll, which was dominated by white — and presumably heterosexual — men. This alternative was disco,..."</ref><ref>(2002) "Traces of the Spirit: The Religious Dimensions of Popular Music", ISBN 0814798098, 9780814798096, p.117: "New York City was the primary center of disco, and the original audience was primarily gay African Americans and Latinos."</ref><ref>(1976) "Stereo Review", University of Michigan, p.75: "[..] and the result - what has come to be called disco - was clearly the most compelling and influential form of black commercial pop music since the halcyon days of the "Motown Sound" of the middle Sixties."</ref>。[[ディスコ]]スタイルの[[クラブ]]の前身は、[[1970年]]2月にニューヨーク市の[[DJ]]、David Mancusoが自宅に開いたメンバー制プライベートダンスクラブ「The Loft」である<ref>[http://www.empsfm.org/exhibitions/index.asp?articleID=128 empsfm.org Past Exhibitions]</ref><ref>[http://www.discomusic.com/101-more/7124_0_7_0_C/ discomusic.com Timeline]</ref>。<!--そして、彼の死因は?-->
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、[[アフリカ系アメリカ人]]や[[ヒスパニック]]のコミュニティを起源とし、1960年代から1970年代前半にかけて[[フィラデルフィア]]から[[ニューヨーク]]へと伝わっていった<ref>(1995) "Out in Culture: Gay, Lesbian and Queer Essays on Popular Culture", ISBN 030433488X, 9780304334889, p.439:(Disco 1990). "Although the disco pulse was born in the small gay black clubs of New York, disco music only began to gain commercial attention when it was exposed to the dance floor public of large, predominantly white gay discos."</ref><ref>(1998) "The Cambridge History of American Music", ISBN 0521454298, 9780521454292, p.372: "Initially, disco musicians and audiences alike belonged to marginalized communities: women, gay, black, and Latinos"</ref><ref name="alternative to rock'n'roll">(2007) "The 1970s", ISBN 0313339198, 9780313339196, p.203-204: "During the late 1960s various male counterculture groups, most notably gay, but also heterosexual black and Latino, created an alternative to rock'n'roll, which was dominated by white — and presumably heterosexual — men. This alternative was disco,..."</ref><ref>(2002) "Traces of the Spirit: The Religious Dimensions of Popular Music", ISBN 0814798098, 9780814798096, p.117: "New York City was the primary center of disco, and the original audience was primarily gay African Americans and Latinos."</ref><ref>(1976) "Stereo Review", University of Michigan, p.75: "[..] and the result - what has come to be called disco - was clearly the most compelling and influential form of black commercial pop music since the halcyon days of the "Motown Sound" of the middle Sixties."</ref>。[[ディスコ]]スタイルの[[クラブ]]の前身は、[[1970年]]2月にニューヨーク市の[[DJ]]、David Mancusoが自宅に開いたメンバー制プライベートダンスクラブ「The Loft」である<ref>[http://www.empsfm.org/exhibitions/index.asp?articleID=128 empsfm.org Past Exhibitions]</ref><ref>[http://www.discomusic.com/101-more/7124_0_7_0_C/ discomusic.com Timeline]</ref>。<!--そして、彼の死因は?-->


ディスコの主要な客は黒人と[[ゲイ]]だった。ゲイのDJや客は、[[ドナ・サマー]]、[[グロリア・ゲイナー]]、[[ダイアナ・ロス]]、[[グレイス・ジョーンズ]]、メルバ・ムーア、[[ロリータ・ハラウェイ|ロリータ・ハロウェイ]]らを「ディスコ・クイーン」の地位へ押し上げた。また当初はソウル・ミュージックにあわせて踊っていたが、後には気持ちよく踊らせるのはどうしたらよいのか、という発想になり、曲の[[テンポ]]が注目される。1分間に120ぐらいが人が踊っているときの心臓の鼓動に近いということで、それに合わせたフォーマットの曲が増えた。[[シルヴェスター (歌手)|シルヴェスター]]の曲などに、その典型が見られる。
ディスコの主要な客は黒人と[[ゲイ]]だった。ゲイのDJや客は、[[ドナ・サマー]]、[[グロリア・ゲイナー]]、[[ダイアナ・ロス]]、[[グレイス・ジョーンズ]]、メルバ・ムーア、[[ロリータ・ハラウェイ|ロリータ・ハロウェイ]]らを「ディスコ・クイーン」の地位へ押し上げた<ref>「リズム&ブルースの死」ネルソン・ジョージ著、p.286。早川書房</ref>。また当初はソウル・ミュージックにあわせて踊っていたが、後には気持ちよく踊らせるのはどうしたらよいのか、という発想になり、曲の[[テンポ]]が注目される。1分間にBPM・120ぐらいが人が踊っているときの心臓の鼓動に近いということで、それに合わせたフォーマットの曲が増えた。[[シルヴェスター (歌手)|シルヴェスター]]の曲<ref>「ユー・メイク・ミー・フィール」「ドゥ・ユー・ワナ・ファンク」などがヒットしたゲイのディスコ歌手。若くしてエイズで死去した</ref>などに、その典型が見られる。


日本においてオールジャンルで選曲していたディスコは、1990年代に個々のジャンルに特化して「クラブ」と呼ばれるようになった。<!--ただ、日本国内の「クラブ」に関して、様々な利権が関係している。-->日本国内では、高齢者となったかつてのディスコ世代に向けたディスコイベントなどが開催されている。海外でのディスコは、[[フィラデルフィア・ソウル|フィリーソウル]]とともに[[ハウス (音楽)|ハウス]]など多くのダンス・ミュージックに影響を及ぼしジャンル名として現在進行形である[[2019年]]現在はハウスとの再融合もみられ、[[イギリス]]、[[イビサ島]]、[[クロチア]]などで盛んにイベントが開催されている。
日本においてオールジャンルで選曲していたディスコは、1990年代に個々のジャンルに特化して「クラブ」と呼ばれるようになった。<!--ただ、日本国内の「クラブ」に関して、様々な利権が関係している。-->日本国内では、高齢者となったかつてのディスコ世代に向けたディスコイベントなどが開催されている。[[フィラデルフィア・ソウル|フィリーソウル]]は、[[ハウス (音楽)|ハウス]]など後進のダンス・ミュージックに影響を与えた。[[イギリス]]・ロンドン、[[イビサ島]]、アなどで盛んにイベントが開催されている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 1960年代-1974年 ===
=== 1960年代-1974年 ===
60年代のディスコで流れた音楽は、[[ジェームス・ブラウン]]や[[テンプテーションズ]]、[[フォー・トップス]]などの本物のソウル・ミュージックだった。やがて70年代前半になると、フィラデルフィア・ソウルがブームになってきた。最も初期のディスコ・ソングには、[[1972年]]にリリースされたManu Dibangoの「Soul Makossa」や[[ザ・スリー・ディグリーズ|スリー・ディグリーズ]]の「荒野のならず者」、ハロルド・メルビン&ブルーノーツの「ザ・ラブ・アイ・ロスト」などがある<ref name=origins>[http://www.experiencefestival.com/a/Disco_-_Origins/id/1328269 Disco origins] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090227223028/http://www.experiencefestival.com/a/Disco_-_Origins/id/1328269 |date=2009年2月27日 }}</ref>。ディスコに関する最初の記事は、1973年9月の[[ローリング・ストーン]]に、Vince Alettiによって書かれた<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C04EFDF163AF933A25751C1A9649C8B63&sec=&spon=&pagewanted=1 ARTS IN AMERICA; Here's to Disco, It Never Could Say Goodbye], The New York Times, December 10, 2002]</ref><ref>[http://www.jahsonic.com/VinceAletti.html Excerpt from first article about disco]</ref>。1974年にはニューヨーク市のWPIX-FMで世界初のディスコのラジオ番組が放送された<ref>[http://www.discomusic.com/101-more/7124_0_7_0_C/ discomusic.com Timeline first disco radio show]</ref> 。さらに、エレガントなサウンドを得意とするバリー・ホワイトが結成したラヴ・アンリミテッド・オーケストラ「愛のテーマ」は、ビルボード・ポップ・チャートで1位になる大ヒットとな
60年代のディスコで流れた音楽は、[[ジェームス・ブラウン]]や[[テンプテーションズ]]、[[フォー・トップス]]などの本物のソウル・ミュージックだった。やがて70年代前半になると、フィラデルフィア・ソウルがブームになってきた。最も初期のディスコ・ソングには、[[1972年]]にリリースされたManu Dibangoの「Soul Makossa」や[[ザ・スリー・ディグリーズ|スリー・ディグリーズ]]の「荒野のならず者」、ハロルド・メルビン&ブルーノーツの「ザ・ラブ・アイ・ロスト」などがある<ref name=origins>[http://www.experiencefestival.com/a/Disco_-_Origins/id/1328269 Disco origins] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090227223028/http://www.experiencefestival.com/a/Disco_-_Origins/id/1328269 |date=2009年2月27日 }}</ref>。ディスコに関する最初の記事は、1973年9月の[[ローリング・ストーン]]に、Vince Alettiによって書かれた<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C04EFDF163AF933A25751C1A9649C8B63&sec=&spon=&pagewanted=1 ARTS IN AMERICA; Here's to Disco, It Never Could Say Goodbye], The New York Times, December 10, 2002]</ref><ref>[http://www.jahsonic.com/VinceAletti.html Excerpt from first article about disco]</ref>。1974年にはニューヨーク市のWPIX-FMで世界初のディスコのラジオ番組が放送された<ref>[http://www.discomusic.com/101-more/7124_0_7_0_C/ discomusic.com Timeline first disco radio show]</ref> 。さらに、エレガントなサウンドを得意とするバリー・ホワイトが結成したラヴ・アンリミテッド・オーケストラ「愛のテーマ」は、ビルボード・ポップ・チャートで1位になる大ヒットとなった


=== 1975-79年: ディスコ・ブーム ===
=== 1975-79年: ディスコ・ブーム ===
1975年には[[ヴァン・マッコイ]]の「[[ハッスル (曲)|ハッスル]]」が大ヒットした<ref>https://www.discogs.com/Van-McCoy-The-Soul-City-Symphony-The-Hustle/release/2422820</ref>。75年以後79年までに、ジョニー・テイラー、リック・ディーズ、ヴィッキ・スー・ロビンソン、ヒートウェイブ、[[テイスト・オブ・ハニー (バンド)|テイスト・オブ・ハニー]]、[[シック (バンド)|シック]]、フォクシー、マイケル・ゼイガー・バンド、シスター・スレッジ、ピーチズ&ハーブらがディスコ・ヒットを飛ばした。[[1970年代]]後半のディスコパフォーマーには[[ビージーズ]]や[[ヴィレッジ・ピープル]]、[[ドナ・サマー]]、[[アラベスク (歌手)|アラベスク]]、[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]]がいる。ドナ・サマーは多くのビッグヒットを生み出し、またもっともポピュラーになったディスコのスターである。彼女はまた、後にディスコサウンドの一部となったエレクトロニックサウンドの初期のヒットを出したシンガーとしての役割も果たした。パフォーマーやシンガーが取り分を獲得していく中、「裏方であった[[ジョルジオ・モロダー]]らの[[プロデューサー]]たちは同程度、あるいはそれ以上の役割を担った。彼らはしばしば曲を書き、画一的なサウンドと演出創造していった。これらは「ディスコサウンド」の一部となった<ref>[http://www.allmusic.com/style/disco-ma0000002552 allmusic<!-- Bot generated title -->]</ref>。多くの非ディスコアーティストディスコ絶頂期にディスコソングを録っている。また[[サタデー・ナイト・フィーバー]]や、「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」(78) のような映画はディスコをメインストリム化させた。
1975年には[[ヴァン・マッコイ]]の「[[ハッスル (曲)|ハッスル]]」が大ヒットした<ref>https://www.discogs.com/Van-McCoy-The-Soul-City-Symphony-The-Hustle/release/2422820</ref>。75年以後79年までに、ジョニー・テイラー、リック・ディーズ、ヴィッキ・スー・ロビンソン、ヒートウェイブ、[[テイスト・オブ・ハニー (バンド)|テイスト・オブ・ハニー]]、[[シック (バンド)|シック]]、フォクシー、マイケル・ゼイガー・バンド、シスター・スレッジ、ピーチズ&ハーブらがディスコ・ヒットを飛ばした。[[1970年代]]後半のディスコパフォーマーには[[ビージーズ]]や[[ヴィレッジ・ピープル]]、[[ドナ・サマー]]、[[アラベスク (歌手)|アラベスク]]、[[ジンギスカン (グループ)|ジンギスカン]]がいる。ドナ・サマーは多くのビッグヒットを生み出し、またもっともポピュラーになったディスコのスターである。また、彼女はエレクトロニックサウンドが特徴ユーロ・ディスコのヒットを出した。裏方であった[[ジョルジオ・モロダー]]らの[[プロデューサー]]たちは大きな役割を果たした。彼らは曲を書き制作を行い、画一的なシンセ・サウンドを確立していった。これらは「ディスコサウンド」の一部となった<ref>[http://www.allmusic.com/style/disco-ma0000002552 allmusic<!-- Bot generated title -->]</ref>。ヒットが量産されるを見た非ディスコアーティストは、ディスコ絶頂期にディスコソングを録音した。また[[サタデー・ナイト・フィーバー]]や、「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」(78) のような商業映画はディスコのマケットを拡大する上で、大きな役割を果たした。


一方でディスコミュージックや[[文化]]に対する激しい反発が起き、アメリカで[[1979年]]7月に起こった[[ディスコ・デモリッション・ナイト]]事件はディスコ人気に打撃を与える1つの原因になった。ただ、ディスコが衰退した大きな原因は、ヒットが大量に生まれ音楽ファンに飽きられたことと、ファンの需要は多様であり画一的なレコード供給ではダメだという点にあった。また、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]や産業ロックと同様に、ディスコに対する音楽ファンと音楽評論家による[[商業主義]]との批判も、容赦なく浴びせられた。その結果、アメリカではディスコの人気が著しく低下したが、踊らせるためのダンス・ミュージックは[[1980年代]]以降も世界で存在し続けた。
一方でディスコミュージックや[[文化]]に対する激しい反発が起き、アメリカで[[1979年]]7月に起こった[[ディスコ・デモリッション・ナイト]]事件はディスコ人気に打撃を与える1つの原因になった。ただ、ディスコが衰退した大きな原因は、ヒットが大量に生まれ音楽ファンに飽きられたことと、ファンの需要は多様であり画一的なレコード供給ではダメだという点にあった。また、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]や産業ロックと同様に、ディスコに対する音楽ファンと音楽評論家による[[商業主義]]との批判も、容赦なく浴びせられた。その結果、アメリカではディスコの人気が著しく低下したが、踊らせるためのダンス・ミュージックは[[1980年代]]以降も世界で存在し続けた。
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[[ロック (音楽)|ロック]]の主な例としては、[[ローリング・ストーンズ]]の「[[ミス・ユー (ローリング・ストーンズの曲)|ミス・ユー]]」、[[バッド・カンパニー]]<ref>「キャント・ゲット・イナフ」が74年にヒット</ref>の「ロックンロール・ファンタジー」、[[エレクトリック・ライト・オーケストラ|ELO]]の「[[シャイン・ラヴ|シャイン・ア・リトル・ラブ]]」、[[キッス]]の「[[ラヴィン・ユー・ベイビー|アイ・ウォズ・メイド・フォー・ラビング・ユー]]」、[[ロッド・スチュアート]]の「[[アイム・セクシー]]」、[[ドゥービー・ブラザーズ]]の「[[ホワット・ア・フール・ビリーヴス]]」、[[ブロンディ (バンド)|ブロンディ]]の「[[ハート・オブ・グラス]]」、[[クイーン (バンド)|クイーン]]の「[[地獄へ道づれ]]」などがある。
[[ロック (音楽)|ロック]]の主な例としては、[[ローリング・ストーンズ]]の「[[ミス・ユー (ローリング・ストーンズの曲)|ミス・ユー]]」、[[バッド・カンパニー]]<ref>「キャント・ゲット・イナフ」が74年にヒット</ref>の「ロックンロール・ファンタジー」、[[エレクトリック・ライト・オーケストラ|ELO]]の「[[シャイン・ラヴ|シャイン・ア・リトル・ラブ]]」、[[キッス]]の「[[ラヴィン・ユー・ベイビー|アイ・ウォズ・メイド・フォー・ラビング・ユー]]」、[[ロッド・スチュアート]]の「[[アイム・セクシー]]」、[[ドゥービー・ブラザーズ]]の「[[ホワット・ア・フール・ビリーヴス]]」、[[ブロンディ (バンド)|ブロンディ]]の「[[ハート・オブ・グラス]]」、[[クイーン (バンド)|クイーン]]の「[[地獄へ道づれ]]」などがある。


また[[ジャズ]]では、[[クインシー・ジョーンズ]](「スタッフ・ライク・ザット」)や[[ジョージ・ベンソン]]、[[ジョー・ファレル]]、[[ヒューストン・ピアソン]](「ディスコ・サックス」)、[[クリーブランド・イートン]]から、ベテランの[[ベニー・ゴルソン]]や[[ソニー・ロリンズ]]<ref>http://news.allaboutjazz.com/sonny-rollins-on-disco-monk.php</ref>までが、ディスコ・ビートを取り入れた曲を発表した。
また[[ジャズ]]では、[[クインシー・ジョーンズ]](「スタッフ・ライク・ザット」)[[ジョー・ファレル]]、[[ヒューストン・ピアソン]](「ディスコ・サックス」)、[[クリーブランド・イートン]]<ref>78年の「バマ・ブギー・ウギー」がファンキーディスコの佳曲である</ref>から、ベテランの[[ベニー・ゴルソン]]や[[ソニー・ロリンズ]]<ref>http://news.allaboutjazz.com/sonny-rollins-on-disco-monk.php</ref>までが、ディスコ・ビートを取り入れた曲を発表した。


== ファンキー・ディスコ ==
== ファンキー・ディスコ ==
ディスコは踊らせるための音楽であるため、どうしてもソウルや[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、ファンクなどに比べると、軽く見られる傾向が強かった。しかし、一部のアーティストは黒人らしさを強調したファンキー・ディスコ(ブラック・ディスコ)の曲を発表した。この分野の例としては、[[イヴリン・キング]]の「シェイム」<ref>[http://www.allmusic.com/artist/evelyn-champagne-king-mn0000788937  ALL MUSIC] </ref>、[[D・トレイン]]の「ユアー・ザ・ワン・フォー・ミー」、レイディオの「パーティー・ナウ」<ref>レイ・パーカー・ジュニアのグループ。同曲のヴォーカルはジェリー・ナイト</ref>、GQの「ディスコ・ナイト」、BB&Qバンドの「オン・ザ・ビート」、ダズ・バンドの「レット・イット・ホイップ」、シックの「グッド・タイムズ」<ref>「ダンスダンスダンス」「おしゃれフリーク」などヒット曲多数</ref>などがある。
ディスコは踊らせるための音楽であるため、どうしてもソウルや[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、ファンクなどに比べると、軽く見られる傾向が強かった。しかし、一部のアーティストは黒人らしさを強調したファンキー・ディスコ(ブラック・ディスコ)の曲を発表した。この分野の例としては、[[イヴリン・キング]]の「シェイム」<ref>[http://www.allmusic.com/artist/evelyn-champagne-king-mn0000788937  ALL MUSIC] </ref>、[[D・トレイン]]の「ユアー・ザ・ワン・フォー・ミー」、レイディオの「パーティー・ナウ」<ref>レイ・パーカー・ジュニアのグループ。同曲のヴォーカルはジェリー・ナイト</ref>、GQの「ディスコ・ナイト」、BB&Qバンドの「オン・ザ・ビート」、ダズ・バンドの「レット・イット・ホイップ」、シックの「グッド・タイムズ」<ref>「ダンスダンスダンス」「おしゃれフリーク」などヒット曲多数</ref>などがある。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年10月2日 (土) 10:17時点における版

ディスコ
様式的起源 ソウルミュージック
R&B
ラテン音楽
ポップ・ミュージック
クロスオーバー
フュージョン
文化的起源 1960年代のイギリスおよびアメリカ合衆国、フランス
使用楽器 エレクトリックギターエレクトリックベースドラムセットシンセサイザー鍵盤楽器打楽器弦楽器、ホーンセクション
派生ジャンル Hi-NRGハウステクノポップテクノユーロ・ビートヒップホップポスト・ディスコ
サブジャンル
イタロ・ディスコ、スペース・ディスコ、ユーロ・ディスコ英語版
融合ジャンル
ニュー・ディスコ
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ディスコを象徴するアイテムの一つである、ミラーボール

ディスコはポピュラー音楽のダンス・ミュージックのジャンルの一つ。

概要

ディスコ音楽には、R&Bソウルミュージックからの影響が見られる。女性ボーカルが起用されることも多く、一定のリズムを刻むドラムスのキック、16ビートのハイハットパターン、シンコペーションを持ち、時にはチョッパーベースも見せるエレキベースなどの特徴がある。ストリングスホーンセクション[1]エレクトリックピアノ、リズムを刻むことがメインのエレキギターが華やかなバッキングをつとめる。また、フルートのようなオーケストラ楽器がしばしばソロに用いられた[2]。また、ブルックリンなどの白人、黒人ら、ニューヨークのダンス音楽好きがディスコに参入した[3]

一部のディスコ・ミュージシャンのレコードは、ジャケットに写っている人物と、実際に歌っているシンガーが違うという、お粗末な事実もあった。ヴィレッジ・ピープルがその代表で、歌っているのはスタジオ・ミュージシャンである。

詳細

ディスコの語源となったのは、バンドの生演奏ではなくDJがレコード演奏をおこない、客がそれに合わせてダンスを踊る娯楽場のことを指す「ディスコティーク」で、もともとフランス語[4]である。

アメリカでは、アフリカ系アメリカ人ヒスパニックのコミュニティを起源とし、1960年代から1970年代前半にかけてフィラデルフィアからニューヨークへと伝わっていった[5][6][7][8][9]ディスコスタイルのクラブの前身は、1970年2月にニューヨーク市のDJ、David Mancusoが自宅に開いたメンバー制プライベートダンスクラブ「The Loft」である[10][11]

ディスコの主要な客は黒人とゲイだった。ゲイのDJや客は、ドナ・サマーグロリア・ゲイナーダイアナ・ロスグレイス・ジョーンズ、メルバ・ムーア、ロリータ・ハロウェイらを「ディスコ・クイーン」の地位へ押し上げた[12]。また当初はソウル・ミュージックにあわせて踊っていたが、後には気持ちよく踊らせるのはどうしたらよいのか、という発想になり、曲のテンポが注目される。1分間にBPM・120ぐらいが人が踊っているときの心臓の鼓動に近いということで、それに合わせたフォーマットの曲が増えた。シルヴェスターの曲[13]などに、その典型が見られる。

日本においてオールジャンルで選曲していたディスコは、1990年代に個々のジャンルに特化して「クラブ」と呼ばれるようになった。日本国内では、高齢者となったかつてのディスコ世代に向けたディスコイベントなどが開催されている。フィリーソウルは、ハウスなど後進のダンス・ミュージックに影響を与えた。イギリス・ロンドン、イビサ島、ゴアなどで盛んにイベントが開催されている。

歴史

1960年代-1974年

60年代のディスコで流れた音楽は、ジェームス・ブラウンテンプテーションズフォー・トップスなどの本物のソウル・ミュージックだった。やがて70年代前半になると、フィラデルフィア・ソウルがブームになってきた。最も初期のディスコ・ソングには、1972年にリリースされたManu Dibangoの「Soul Makossa」やスリー・ディグリーズの「荒野のならず者」、ハロルド・メルビン&ブルーノーツの「ザ・ラブ・アイ・ロスト」などがある[14]。ディスコに関する最初の記事は、1973年9月のローリング・ストーンに、Vince Alettiによって書かれた[15][16]。1974年にはニューヨーク市のWPIX-FMで世界初のディスコのラジオ番組が放送された[17] 。さらに、エレガントなサウンドを得意とするバリー・ホワイトが結成したラヴ・アンリミテッド・オーケストラ「愛のテーマ」は、ビルボード・ポップ・チャートで1位になる大ヒットとなった。

1975-79年: ディスコ・ブーム

1975年にはヴァン・マッコイの「ハッスル」が大ヒットした[18]。75年以後79年までに、ジョニー・テイラー、リック・ディーズ、ヴィッキ・スー・ロビンソン、ヒートウェイブ、テイスト・オブ・ハニーシック、フォクシー、マイケル・ゼイガー・バンド、シスター・スレッジ、ピーチズ&ハーブらがディスコ・ヒットを飛ばした。1970年代後半のディスコパフォーマーにはビージーズヴィレッジ・ピープルドナ・サマーアラベスクジンギスカンがいる。ドナ・サマーは多くのビッグヒットを生み出し、またもっともポピュラーになったディスコのスターである。また、彼女はエレクトロニック・サウンドが特徴のユーロ・ディスコのヒットを出した。裏方であったジョルジオ・モロダーらのプロデューサーたちは大きな役割を果たした。彼らは曲を書き制作を行い、画一的なシンセ・サウンドを確立していった。これらは「ディスコサウンド」の一部となった[19]。ヒットが量産されるのを見た非ディスコアーティストは、ディスコ絶頂期にディスコ・ソングを録音した。またサタデー・ナイト・フィーバーや、「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」(78) のような商業映画は、ディスコのマーケットを拡大する上で、大きな役割を果たした。

一方でディスコミュージックや文化に対する激しい反発が起き、アメリカで1979年7月に起こったディスコ・デモリッション・ナイト事件はディスコ人気に打撃を与える1つの原因になった。ただ、ディスコが衰退した大きな原因は、ヒットが大量に生まれ音楽ファンに飽きられたことと、ファンの需要は多様であり画一的なレコード供給ではダメだという点にあった。また、フュージョンや産業ロックと同様に、ディスコに対する音楽ファンと音楽評論家による商業主義との批判も、容赦なく浴びせられた。その結果、アメリカではディスコの人気が著しく低下したが、踊らせるためのダンス・ミュージックは1980年代以降も世界で存在し続けた。

ロックからのアプローチ

ディスコ・ブームが長期化するのを受け、ロックなど他ジャンルからディスコ・サウンドを取り入れる現象が見られた。

ロックの主な例としては、ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」、バッド・カンパニー[20]の「ロックンロール・ファンタジー」、ELOの「シャイン・ア・リトル・ラブ」、キッスの「アイ・ウォズ・メイド・フォー・ラビング・ユー」、ロッド・スチュアートの「アイム・セクシー」、ドゥービー・ブラザーズの「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」、ブロンディの「ハート・オブ・グラス」、クイーンの「地獄へ道づれ」などがある。

またジャズでは、クインシー・ジョーンズ(「スタッフ・ライク・ザット」)ジョー・ファレルヒューストン・ピアソン(「ディスコ・サックス」)、クリーブランド・イートン[21]から、ベテランのベニー・ゴルソンソニー・ロリンズ[22]までが、ディスコ・ビートを取り入れた曲を発表した。

ファンキー・ディスコ

ディスコは踊らせるための音楽であるため、どうしてもソウルやR&B、ファンクなどに比べると、軽く見られる傾向が強かった。しかし、一部のアーティストは黒人らしさを強調したファンキー・ディスコ(ブラック・ディスコ)の曲を発表した。この分野の例としては、イヴリン・キングの「シェイム」[23]D・トレインの「ユアー・ザ・ワン・フォー・ミー」、レイディオの「パーティー・ナウ」[24]、GQの「ディスコ・ナイト」、BB&Qバンドの「オン・ザ・ビート」、ダズ・バンドの「レット・イット・ホイップ」、シックの「グッド・タイムズ」[25]などがある。

脚注

  1. ^ トランペットトロンボーンサックスなどからなる複数の金管楽器奏者
  2. ^ Let's All Chant」(邦題:チャンタで行こう!1978)ではクラリネットが使われている。
  3. ^ Shapiro, Peter. Turn the Beat Around: The Secret History of Disco. Faber & Faber. ISBN 9780865479524. https://books.google.com/books?id=GG1jtWGU0S8C&pg=PA205 2 October 2021閲覧。 
  4. ^ http://eow.alc.co.jp/search?q=discotheque
  5. ^ (1995) "Out in Culture: Gay, Lesbian and Queer Essays on Popular Culture", ISBN 030433488X, 9780304334889, p.439:(Disco 1990). "Although the disco pulse was born in the small gay black clubs of New York, disco music only began to gain commercial attention when it was exposed to the dance floor public of large, predominantly white gay discos."
  6. ^ (1998) "The Cambridge History of American Music", ISBN 0521454298, 9780521454292, p.372: "Initially, disco musicians and audiences alike belonged to marginalized communities: women, gay, black, and Latinos"
  7. ^ (2007) "The 1970s", ISBN 0313339198, 9780313339196, p.203-204: "During the late 1960s various male counterculture groups, most notably gay, but also heterosexual black and Latino, created an alternative to rock'n'roll, which was dominated by white — and presumably heterosexual — men. This alternative was disco,..."
  8. ^ (2002) "Traces of the Spirit: The Religious Dimensions of Popular Music", ISBN 0814798098, 9780814798096, p.117: "New York City was the primary center of disco, and the original audience was primarily gay African Americans and Latinos."
  9. ^ (1976) "Stereo Review", University of Michigan, p.75: "[..] and the result - what has come to be called disco - was clearly the most compelling and influential form of black commercial pop music since the halcyon days of the "Motown Sound" of the middle Sixties."
  10. ^ empsfm.org Past Exhibitions
  11. ^ discomusic.com Timeline
  12. ^ 「リズム&ブルースの死」ネルソン・ジョージ著、p.286。早川書房
  13. ^ 「ユー・メイク・ミー・フィール」「ドゥ・ユー・ワナ・ファンク」などがヒットしたゲイのディスコ歌手。若くしてエイズで死去した
  14. ^ Disco origins Archived 2009年2月27日, at the Wayback Machine.
  15. ^ ARTS IN AMERICA; Here's to Disco, It Never Could Say Goodbye, The New York Times, December 10, 2002]
  16. ^ Excerpt from first article about disco
  17. ^ discomusic.com Timeline first disco radio show
  18. ^ https://www.discogs.com/Van-McCoy-The-Soul-City-Symphony-The-Hustle/release/2422820
  19. ^ allmusic
  20. ^ 「キャント・ゲット・イナフ」が74年にヒット
  21. ^ 78年の「バマ・ブギー・ウギー」がファンキーディスコの佳曲である
  22. ^ http://news.allaboutjazz.com/sonny-rollins-on-disco-monk.php
  23. ^ ALL MUSIC
  24. ^ レイ・パーカー・ジュニアのグループ。同曲のヴォーカルはジェリー・ナイト
  25. ^ 「ダンス・ダンス・ダンス」「おしゃれフリーク」などヒット曲多数

関連項目