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「西ゴート族」の版間の差分

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== 解説 ==
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[[スカンディナヴィア半島]]から南下した[[ゴート族]]<ref name="五十嵐p245"/>は、[[ドニエプル川|ドネブル川]]の両岸に分かれて居住した<ref>[[#シュライバー,岡ら訳 1979|シュライバー,岡ら訳 1979]], p. 31.</ref>。その西側、[[カルパティア山脈|カルパチア山]]麓に居を構えた人々は「森の住人」を意味する'''テルヴィンゲン''' (Terwingen) {{refnest|group="注釈"|[[#松谷 2003|松谷 (2003)]] によれば'''テルヴィンギ・ウィシゴティ'''<ref>[[#松谷 2003|松谷 2003]], pp. 29-30.</ref>。}}と呼ばれたが、やがて「善良な」を意味する[[ゴート語]]の[[接頭語]]「wesu」をつけて呼ばれるようになり、後に西ゴート族と呼ばれるようになった。彼らは他のゴート族から離れて西の方角に移動していたものの、彼らの名称は本来は方角とは無関係である<ref>[[#シュライバー,岡ら訳 1979|シュライバー,岡ら訳 1979]], pp. 57-58.</ref>。
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西ゴート族が住んだその地域は土地が痩せていて定住に適さなかったため、比較的早い時期から[[ローマ帝国]]領内に、主に[[傭兵]]として移り住んだ。ローマ東部の皇帝[[ウァレンス|ヴァレンス]]帝や[[テオドシウス1世]]はゴート族に寛容で、帝国領内への彼らの移住を認めた。
 西ゴート族が住んだその地域は土地が痩せていて定住に適さなかったため、比較的早い時期から[[ローマ帝国]]領内に、主に[[傭兵]]として移り住んだ。ローマ東部の皇帝[[ウァレンス|ヴァレンス]]帝や[[テオドシウス1世]]はゴート族に寛容で、帝国領内への彼らの移住を認めた。


[[ファイル:Visigoth migrations.jpg|right|thumb|250px|西ゴート族の移動]]
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[[375年]]に[[フン族]]の圧迫により大規模な移住が始まる。[[アリウス派]][[キリスト教]]を受け入れたのもこのころと見られている。5世紀初頭に新たな指導者となった[[アラリック1世]](アラリコ1世)は一族を引き連れて[[イタリア半島]]に侵入したが、説得に応じ[[ガリア]]へと撤退した。[[418年]]にはローマ帝国との契約のもとに、[[プロヴァンス|プロヴァンス地方]]を経由して、南[[アキタニア]]の[[トゥールーズ|トロサ(トゥールーズ)]]を中心に[[西ゴート王国]]を建て、[[フン族]]や[[イベリア半島]]に侵入していた他のゲルマン諸族と戦った。5世紀半ばには一時的に西ゴート王が実質的に西ローマ帝国を統治したこともあった。また時としてローマ帝国との同盟を破り争うこともあった。
 [[375年]]に[[フン族]]の圧迫により大規模な移住が始まる。[[アリウス派]][[キリスト教]]を受け入れたのもこのころと見られている。5世紀初頭に新たな指導者となった[[アラリック1世]](アラリコ1世)は一族を引き連れて[[イタリア半島]]に侵入したが、説得に応じ[[ガリア]]へと撤退した。[[418年]]にはローマ帝国との契約のもとに、[[プロヴァンス|プロヴァンス地方]]を経由して、南[[アキタニア]]の[[トゥールーズ|トロサ(トゥールーズ)]]を中心に[[西ゴート王国]]を建て、[[フン族]]や[[イベリア半島]]に侵入していた他のゲルマン諸族と戦った。5世紀半ばには一時的に西ゴート王が実質的に西ローマ帝国を統治したこともあった。また時としてローマ帝国との同盟を破り争うこともあった。


その後の西ゴート族は、イベリア半島にいた[[イベリア人]]と[[ケルト人]]と[[ラテン人]]および[[ムーア人]]と混血して、今日の[[スペイン人]]および[[ポルトガル人]]の先祖の一派として同化していった。
 その後の西ゴート族は、イベリア半島にいた[[イベリア人]]と[[ケルト人]]と[[ラテン人]]および[[ムーア人]]と混血して、今日の[[スペイン人]]および[[ポルトガル人]]の先祖の一派として同化していった。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年10月3日 (日) 01:56時点における版

西ゴート族

 西ゴート族(にしゴートぞく、Visigoth)は、ゲルマン人の一派である[1]ゴート族が歴史上は、270年頃からこの西ゴート族と東ゴート族に分かれる[2]

解説

 スカンディナヴィア半島から南下したゴート族[1]は、ドネブル川の両岸に分かれて居住した[3]。その西側、カルパチア山麓に居を構えた人々は「森の住人」を意味するテルヴィンゲン (Terwingen) [注釈 1]と呼ばれたが、やがて「善良な」を意味するゴート語接頭語「wesu」をつけて呼ばれるようになり、後に西ゴート族と呼ばれるようになった。彼らは他のゴート族から離れて西の方角に移動していたものの、彼らの名称は本来は方角とは無関係である[5]

 西ゴート族が住んだその地域は土地が痩せていて定住に適さなかったため、比較的早い時期からローマ帝国領内に、主に傭兵として移り住んだ。ローマ東部の皇帝ヴァレンス帝やテオドシウス1世はゴート族に寛容で、帝国領内への彼らの移住を認めた。

西ゴート族の移動

 375年フン族の圧迫により大規模な移住が始まる。アリウス派キリスト教を受け入れたのもこのころと見られている。5世紀初頭に新たな指導者となったアラリック1世(アラリコ1世)は一族を引き連れてイタリア半島に侵入したが、説得に応じガリアへと撤退した。418年にはローマ帝国との契約のもとに、プロヴァンス地方を経由して、南アキタニアトロサ(トゥールーズ)を中心に西ゴート王国を建て、フン族イベリア半島に侵入していた他のゲルマン諸族と戦った。5世紀半ばには一時的に西ゴート王が実質的に西ローマ帝国を統治したこともあった。また時としてローマ帝国との同盟を破り争うこともあった。

 その後の西ゴート族は、イベリア半島にいたイベリア人ケルト人ラテン人およびムーア人と混血して、今日のスペイン人およびポルトガル人の先祖の一派として同化していった。

脚注

注釈

  1. ^ 松谷 (2003) によればテルヴィンギ・ウィシゴティ[4]

出典

参考文献

  • 五十嵐ミドリ「西ゴート王国」『スペイン・ポルトガルを知る事典』牛島信明他監修、平凡社、1992年5月、245-247頁。ISBN 978-4-582-12618-1 
  • シュライバー, ヘルマン『ゴート族 - ゲルマン民族大移動の原点』岡淳、永井潤子、中田健一訳、佑学社、1979年12月。ISBN 978-4-8416-0611-9 
  • 松谷健二『東ゴート興亡史 - 東西ローマのはざまにて』中央公論新社中公文庫BIBLIO〉、2003年4月(原著1994年)。ISBN 978-4-12-204199-8 

関連項目

外部リンク