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== 経歴 == |
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=== 自由将校団への参加とエジプト革命 === |
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サダトは[[ミヌーフィーヤ県]]のミト・アブー・アル=クムで、貧しい[[スーダン]]系エジプト人一家の13人兄弟の一人として誕生した。[[1937年]]末、[[カイロ]]の[[エジプト軍#陸軍士官学校|王立陸軍士官学校]]1期生を卒業し<ref>{{Cite book| author = John McCain, Mark Salter | title =Hard Call: Great Decisions and the Extraordinary People Who Made Them |year=2007 | publisher =Twelve | url = https://books.google.co.jp/books?id=fnVlAgAAQBAJ&pg=PT104&lpg=PT104&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=eZgmsYRmUt&sig=vplploYl049_I1AsaWS6eZnn0mA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEILTAB#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false}}</ref>、当初カイロ近郊の通信部隊に配属されたが、間もなく第3旅団附として{{仮リンク|マンカバド|en|Manqabad}}に転属。ここで2期生卒業の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]、{{仮リンク|ザカリア・ムヒエディン|en|Zakaria Mohieddin}}と出会い、やがて彼らは密かに士官達の祖国解放運動に加わる。それは[[1922年]]に[[イギリス]]の[[保護領]]として成立した[[エジプト王国]]において、実権を握る[[イギリス軍]]の支配から、真に祖国を解放しようという運動であった。1939年12月、カイロ・{{仮リンク|マーディ|en|Maadi}}の陸軍通信学校に入学、卒業時には生徒代表として答辞を読む<ref>{{Cite book| author = Magdalena Alagna | title =Anwar Sadat |year=2004 | publisher =Rosen Pub Group | pages = 30 | url = https://books.google.co.jp/books?id=9lIOS5DjocIC&pg=PA30&lpg=PA30&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=NSShINeoYl&sig=s2EJnat9I_IO_PBmontKKF7GPek&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEIMzAC#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false}}</ref>。卒業後、マーディに留まり、通信部隊長。僻地に転任したナ |
サダトは[[ミヌーフィーヤ県]]のミト・アブー・アル=クムで、貧しい[[スーダン]]系エジプト人一家の13人兄弟の一人として誕生した。[[1937年]]末、[[カイロ]]の[[エジプト軍#陸軍士官学校|王立陸軍士官学校]]1期生を卒業し<ref>{{Cite book| author = John McCain, Mark Salter | title =Hard Call: Great Decisions and the Extraordinary People Who Made Them |year=2007 | publisher =Twelve | url = https://books.google.co.jp/books?id=fnVlAgAAQBAJ&pg=PT104&lpg=PT104&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=eZgmsYRmUt&sig=vplploYl049_I1AsaWS6eZnn0mA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEILTAB#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false}}</ref>、当初カイロ近郊の通信部隊に配属されたが、間もなく第3旅団附として{{仮リンク|マンカバド|en|Manqabad}}に転属。ここで2期生卒業の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]、{{仮リンク|ザカリア・ムヒエディン|en|Zakaria Mohieddin}}と出会い、やがて彼らは密かに士官達の祖国解放運動に加わる。それは[[1922年]]に[[イギリス]]の[[保護領]]として成立した[[エジプト王国]]において、実権を握る[[イギリス軍]]の支配から、真に祖国を解放しようという運動であった。1939年12月、カイロ・{{仮リンク|マーディ|en|Maadi}}の陸軍通信学校に入学、卒業時には生徒代表として答辞を読む<ref>{{Cite book| author = Magdalena Alagna | title =Anwar Sadat |year=2004 | publisher =Rosen Pub Group | pages = 30 | url = https://books.google.co.jp/books?id=9lIOS5DjocIC&pg=PA30&lpg=PA30&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=NSShINeoYl&sig=s2EJnat9I_IO_PBmontKKF7GPek&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEIMzAC#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false}}</ref>。卒業後、マーディに留まり、通信部隊長。僻地に転任したナセルとアーメルに代わって地下組織の育成にいそしむ。 |
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[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]、[[エルヴィン・ロンメル]]率いる[[ドイツ・アフリカ軍団]]は[[エル・アラメイン]]まで進撃していた。祖国解放を目指したサダトは、[[ゲズィーラ島]]の{{仮リンク|ザマーレク|en|Zamalek}}にナ |
[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]、[[エルヴィン・ロンメル]]率いる[[ドイツ・アフリカ軍団]]は[[エル・アラメイン]]まで進撃していた。祖国解放を目指したサダトは、[[ゲズィーラ島]]の{{仮リンク|ザマーレク|en|Zamalek}}にナセルらと集まり、ドイツ軍に呼応して、カイロ市内でナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した<ref name="林(1973)115">[[#林(1973)|林(1973)、p.115]]</ref>。また、イギリスの圧力で解任された参謀総長{{仮リンク|アジズ・エル・アル=マスリ|en|Aziz Ali al-Misri}}がドイツ軍より呼応を求められていると知るや、その手段を講じ、最終的にドイツ軍陣地までエジプト陸軍の飛行機を飛ばそうと計画するも<ref name="林(1973)119-120">[[#林(1973)|林(1973)、p.119-120]]</ref>、離陸直前に飛行機が大破して失敗。その後、接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員({{仮リンク|サラム作戦|en|Operation Salam}})が逮捕され自白したことでサダトの名前が上がり、軍法会議にかけられる<ref name="林(1973)119-120"/>。なお、スパイの協力者であった踊り子ヒクマト・ファフミーがサーダートの愛人であったとのち告白しているが、サダトは否定している<ref name="林(1973)119-120"/>。その後、証拠不十分で銃殺は免れたが、軍籍剥奪の上投獄され、初めは外国人留置所に、次に監獄病院と拘留生活を送った。[[1944年]]に脱獄し、終戦までカイロの日本庭園で潜伏する。 |
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士官学校の同期で友人の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ガマール・アブドゥル=ナセル]]とともに[[自由将校団]]を結成し、[[1952年]]の[[クーデター]]([[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]])に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し、国民に革命の発表を行なった。 |
士官学校の同期で友人の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ガマール・アブドゥル=ナセル]]とともに[[自由将校団]]を結成し、[[1952年]]の[[クーデター]]([[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]])に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し、国民に革命の発表を行なった。 |
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=== 大統領就任 === |
=== 大統領就任 === |
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[[1970年]][[9月28日]]、ナセル |
[[1970年]][[9月28日]]、ナセルが死去すると、副大統領として大統領代行を務めることになったサダトは、国民へ大統領の死去を伝えるスピーチを行った。同年10月15日、サダトは正式に大統領に就任する。大統領就任後はナセルの[[社会主義]]的経済政策を改めて経済自由化を進めるとともに、[[イスラーム主義]]の運動を解禁してエジプトの路線を大きく右旋回させた。これらの政策に対する反対派は一掃し、国有メディアはそれを革命の矯正と名付けた。さらに[[1961年]]にシリアが離脱して以来、連合国家の体をなしていなかったアラブ連合共和国の正式な解体を決断し[[1971年]][[9月2日]]、国号をエジプト・アラブ共和国に改めた。 |
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=== 第四次中東戦争と対イスラエル和平 === |
=== 第四次中東戦争と対イスラエル和平 === |
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[[1977年]]にイスラエルの[[メナヘム・ベギン]]首相の招きで[[エルサレム]]を訪問した。エジプト・イスラエル間の和平交渉を開始し、翌[[1978年]]にアメリカの[[ジミー・カーター]]大統領の仲介のもと、[[キャンプ・デービッド合意]]にこぎつけた。そして[[1979年]]には両国間に平和条約が結ばれた。 |
[[1977年]]にイスラエルの[[メナヘム・ベギン]]首相の招きで[[エルサレム]]を訪問した。エジプト・イスラエル間の和平交渉を開始し、翌[[1978年]]にアメリカの[[ジミー・カーター]]大統領の仲介のもと、[[キャンプ・デービッド合意]]にこぎつけた。そして[[1979年]]には両国間に平和条約が結ばれた。 |
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この合意は長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらすものだけではなく、[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]でイスラエルに奪われた[[シナイ半島]]の領土を平和裡に返還する伏線ともいうべきもので、エジプトが中東和平の先駆けとして周知されることにも繋がった。 |
この合意は、長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらすものだけではなく、[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]でイスラエルに奪われた[[シナイ半島]]の領土を平和裡に返還する伏線ともいうべきもので、エジプトが中東和平の先駆けとして周知されることにも繋がった。 |
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=== 国民からの反発 === |
=== 国民からの反発 === |
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この歴史的合意により、サダトはベギンとともに[[1978年]][[ノーベル平和賞]]を受賞し世界各国から高い支持を受けた。が、このエジプト=イスラエル単独和平は「[[パレスチナ]]の[[アラブ人]]同胞に対する裏切り」と受け取られ、[[スーダン]]の[[モハメド・アン=ヌメイリ]]<ref>[http://www.mongabay.com/reference/country_studies/libya/GOVERNMENT.html Libya - Government]</ref>を除く[[アラブ諸国]]の指導者と[[ムスリム|イスラム教徒]]の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また[[1974年]]から[[1982年]]まで2度の石油危機もあって急激に成長したものの、経済自由化と外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。 |
この歴史的合意により、サダトはベギンとともに[[1978年]][[ノーベル平和賞]]を受賞し世界各国から高い支持を受けた。が、このエジプト=イスラエル単独和平は「[[パレスチナ]]の[[アラブ人]]同胞に対する裏切り」と受け取られ、[[スーダン]]の[[モハメド・アン=ヌメイリ]]<ref>[http://www.mongabay.com/reference/country_studies/libya/GOVERNMENT.html Libya - Government]</ref>を除く[[アラブ諸国]]の指導者と[[ムスリム|イスラム教徒]]の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また[[1974年]]から[[1982年]]まで2度の石油危機もあって急激に成長したものの、経済自由化と外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。 |
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1978年11月、[[イラク]]の[[バグダッド]]で行われた{{仮リンク|1978年アラブ首脳会議|en|1978 Arab League summit}}でエジプトは主導国であるにもかかわらず[[アラブ連盟]]を追放された<ref>Tucker, Spencer C.; Roberts, Priscilla (12 May 2008). The Encyclopedia of the Arab-Israeli Conflict: A Political, Social, and Military History [4 volumes]: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. ISBN 9781851098422.</ref>。同時にアラブ連盟の本部もエジプトのカイロから[[ハビーブ・ブルギーバ|ブルギーバ]]政権下の[[チュニジア]]の[[チュニス]]へと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み<ref>Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)</ref>、後に[[イラン・イラク戦争]]を引き起こす原因の1つになったともされる。 |
1978年11月、[[イラク]]の[[バグダッド]]で行われた{{仮リンク|1978年アラブ首脳会議|en|1978 Arab League summit}}でエジプトは主導国であるにもかかわらず、[[アラブ連盟]]を追放された<ref>Tucker, Spencer C.; Roberts, Priscilla (12 May 2008). The Encyclopedia of the Arab-Israeli Conflict: A Political, Social, and Military History [4 volumes]: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. ISBN 9781851098422.</ref>。同時にアラブ連盟の本部もエジプトのカイロから[[ハビーブ・ブルギーバ|ブルギーバ]]政権下の[[チュニジア]]の[[チュニス]]へと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み<ref>Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)</ref>、後に[[イラン・イラク戦争]]を引き起こす原因の1つになったともされる。 |
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[[File:Queen Farah of Persia Egyption President Anwar Sadat Mohammad Reza Shah Pahlavi of Persia 1975.jpg|thumb|right|220px|1975年、イランの[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パーレビ国王]]とともに]] |
[[File:Queen Farah of Persia Egyption President Anwar Sadat Mohammad Reza Shah Pahlavi of Persia 1975.jpg|thumb|right|220px|1975年、イランの[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パーレビ国王]]とともに]] |
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1979年1月、イランで[[ルーホッラー・ホメイニー]]が指導する[[イラン革命]]が勃発した。サダトは親しかった[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]][[シャー|皇帝]]のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうと、イスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。 |
1979年1月、イランで[[ルーホッラー・ホメイニー]]が指導する[[イラン革命]]が勃発した。サダトは親しかった[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]][[シャー|皇帝]]のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうと、イスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。 |
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1981年[[10月6日]]、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中にイスラム復興主義過激派の[[ジハード団]]に所属する[[ハリド・イスランブリ]]砲兵[[中尉]]によって暗殺された。 |
1981年[[10月6日]]、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中にイスラム復興主義過激派の[[ジハード団]]に所属する[[ハリド・イスランブリ]]砲兵[[中尉]]によって暗殺された。 |
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サダト本人も自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも自らの死を予期する記述がある。 |
サダト本人も、自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも自らの死を予期する記述がある。 |
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そのため、4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官はメッカ巡礼に出かけていた。折しも上空では空軍のフランス製の6機の[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュ]]が見事なアクロバット飛行を披露して赤・白・緑の煙でエジプト国旗を描いており、群衆はそれに気をとられていた。パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前に突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたがイスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は[[アサルトライフル|突撃銃]]で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。イスランブリ砲兵中尉は「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。 |
そのため、4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官は、メッカ巡礼に出かけていた。折しも上空では空軍のフランス製の6機の[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュ]]が見事なアクロバット飛行を披露して赤・白・緑の煙でエジプト国旗を描いており、群衆はそれに気をとられていた。パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前に突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたが、イスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は[[アサルトライフル|突撃銃]]で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。イスランブリ砲兵中尉は「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。 |
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銃撃戦は約2分間続いた。[[キューバ]]の[[特命全権大使]]、[[オマーン]]の将官、中国の軍事技術者<ref>{{cite web|title=我驻埃及使馆在开罗祭奠烈士张宝玉|publisher=[[人民網]]|date=2017-09-30|accessdate=2018-07-30|url=http://world.people.com.cn/n1/2017/0930/c1002-29570772.html}}</ref>、[[コプト正教]][[司祭]]を含む11名が死亡し、[[ホスニー・ムバーラク]]副大統領、[[ブトロス・ブトロス=ガーリ]]外務大臣、訪問客の[[アイルランド]]の[[ジェームズ・タリー]]国防大臣、4人の[[アメリカ軍]]連絡将校を含む38名が負傷した。 |
銃撃戦は約2分間続いた。[[キューバ]]の[[特命全権大使]]、[[オマーン]]の将官、中国の軍事技術者<ref>{{cite web|title=我驻埃及使馆在开罗祭奠烈士张宝玉|publisher=[[人民網]]|date=2017-09-30|accessdate=2018-07-30|url=http://world.people.com.cn/n1/2017/0930/c1002-29570772.html}}</ref>、[[コプト正教]][[司祭]]を含む11名が死亡し、[[ホスニー・ムバーラク]]副大統領、[[ブトロス・ブトロス=ガーリ]]外務大臣、訪問客の[[アイルランド]]の[[ジェームズ・タリー]]国防大臣、4人の[[アメリカ軍]]連絡将校を含む38名が負傷した。 |
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保安部隊は不意を突かれたものの、間もなく応戦した。 暗殺隊の2人が射殺され、イスランブリ砲兵中尉と他の暗殺隊は憲兵隊によってその場で逮捕された。 |
保安部隊は不意を突かれたものの、間もなく応戦した。 暗殺隊の2人が射殺され、イスランブリ砲兵中尉と他の暗殺隊は憲兵隊によってその場で逮捕された。 |
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首・胸・腰などに被弾したサダトは病院へ搬送され11人の医師による手術を受けたが |
首・胸・腰などに被弾したサダトは病院へ搬送され、11人の医師による手術を受けたが同日午後7時50分(日本時間7日午前2時50分)、エジプト政府から正式にその死が発表された。{{没年齢|1918|12|25|1981|10|6}}。サダトの後継として、ムバラク副大統領が大統領に昇格した。ムバラク副大統領もこの攻撃で手を負傷し、サダトの葬儀には世界中から多くの高官が参列した。その亡骸は{{仮リンク|ナスルシティ|en|Nasr City}}の[[ピラミッド]]状の[[無名戦士の墓]]に葬られた。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
2021年10月29日 (金) 13:22時点における版
アンワル・アッ=サーダート محمد أنور السادات ![]() | |
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任期 | 1971年9月2日 – 1981年10月6日 |
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任期 | 1970年10月15日 – 1971年9月2日 (1970年9月28日から10月15日まで大統領代行) |
任期 | 1964年2月17日 – 1964年3月23日 1969年12月19日 – 1970年10月15日 |
元首 | ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領 |
任期 | 1973年3月26日 – 1974年9月25日 1980年3月15日 – 1981年10月6日 |
元首 | アンワル・アッ=サーダート大統領(兼務) |
任期 | 1960年7月21日 – 1968年11月12日 |
元首 | ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領 |
出生 | 1918年12月25日![]() ミト・アブー・アル=クム |
死去 | 1981年10月6日(62歳没)![]() |
政党 | アラブ社会主義連合(1977年まで) 国民民主党 |
配偶者 | ジーハーン・サーダート |
署名 | ![]() |
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ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート(アラビア語: محمد أنور السادات, ラテン文字: Muhammad Anwar al-Sādāt, 1918年12月25日 - 1981年10月6日)は、エジプトの軍人、政治家。共和政エジプト第3代大統領(第2代アラブ連合共和国大統領、初代エジプト・アラブ共和国大統領)。また首相を2期務めた。
「アッ=サーダート」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本では存命中から現在に至るまで、外務省[1]や新聞・報道は一貫してサダトと表記しており、一般にはこちらの方がより広く知られている。
経歴
自由将校団への参加とエジプト革命
サダトはミヌーフィーヤ県のミト・アブー・アル=クムで、貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として誕生した。1937年末、カイロの王立陸軍士官学校1期生を卒業し[2]、当初カイロ近郊の通信部隊に配属されたが、間もなく第3旅団附としてマンカバドに転属。ここで2期生卒業のガマール・アブドゥル=ナーセル、ザカリア・ムヒエディンと出会い、やがて彼らは密かに士官達の祖国解放運動に加わる。それは1922年にイギリスの保護領として成立したエジプト王国において、実権を握るイギリス軍の支配から、真に祖国を解放しようという運動であった。1939年12月、カイロ・マーディの陸軍通信学校に入学、卒業時には生徒代表として答辞を読む[3]。卒業後、マーディに留まり、通信部隊長。僻地に転任したナセルとアーメルに代わって地下組織の育成にいそしむ。
第二次世界大戦中の1942年、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団はエル・アラメインまで進撃していた。祖国解放を目指したサダトは、ゲズィーラ島のザマーレクにナセルらと集まり、ドイツ軍に呼応して、カイロ市内でナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した[4]。また、イギリスの圧力で解任された参謀総長アジズ・エル・アル=マスリがドイツ軍より呼応を求められていると知るや、その手段を講じ、最終的にドイツ軍陣地までエジプト陸軍の飛行機を飛ばそうと計画するも[5]、離陸直前に飛行機が大破して失敗。その後、接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員(サラム作戦)が逮捕され自白したことでサダトの名前が上がり、軍法会議にかけられる[5]。なお、スパイの協力者であった踊り子ヒクマト・ファフミーがサーダートの愛人であったとのち告白しているが、サダトは否定している[5]。その後、証拠不十分で銃殺は免れたが、軍籍剥奪の上投獄され、初めは外国人留置所に、次に監獄病院と拘留生活を送った。1944年に脱獄し、終戦までカイロの日本庭園で潜伏する。
士官学校の同期で友人のガマール・アブドゥル=ナセルとともに自由将校団を結成し、1952年のクーデター(エジプト革命)に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し、国民に革命の発表を行なった。
ナセル政権下で
革命によって1953年、エジプトは王制を廃止し共和制へ移行した。サダトは新政府のリーダーとなったナセルを支え、ナセル政権が成立した1954年、国務大臣に就任する。1958年にナセルがエジプトとシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し、その初代大統領の地位に就くと、サダトは翌年、連合国務長官に任命された。さらに1960年から1968年まで人民議会議長を務める。この間の1964年には副大統領に任命され、大統領評議会の議員となった。このときの副大統領就任は短期間であったが1969年12月19日に再び副大統領に任命され、翌年10月15日まで同職を務めた。
大統領就任
1970年9月28日、ナセルが死去すると、副大統領として大統領代行を務めることになったサダトは、国民へ大統領の死去を伝えるスピーチを行った。同年10月15日、サダトは正式に大統領に就任する。大統領就任後はナセルの社会主義的経済政策を改めて経済自由化を進めるとともに、イスラーム主義の運動を解禁してエジプトの路線を大きく右旋回させた。これらの政策に対する反対派は一掃し、国有メディアはそれを革命の矯正と名付けた。さらに1961年にシリアが離脱して以来、連合国家の体をなしていなかったアラブ連合共和国の正式な解体を決断し1971年9月2日、国号をエジプト・アラブ共和国に改めた。
第四次中東戦争と対イスラエル和平
大統領就任当初、サダトはナセルが敷いた汎アラブ対イスラエル強硬路線を継承し、シリアやリビアとともにアラブ共和国連邦を結成した。1973年10月6日、シリアと共同でイスラエルに開戦して第四次中東戦争を主導し、イスラエル軍に大打撃を与えた。これによってサダトは国民的英雄となった。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f8/Begin%2C_Carter_and_Sadat_at_Camp_David_1978.jpg/220px-Begin%2C_Carter_and_Sadat_at_Camp_David_1978.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/Sadat_and_Begin_%28cropped%29_-_USNWR.jpg/220px-Sadat_and_Begin_%28cropped%29_-_USNWR.jpg)
だが、この戦争前にはソビエト連邦の軍事顧問団を追放しており、1974年2月にアメリカ合衆国との国交を正常化させて当時のリチャード・ニクソン政権から軍事的経済的援助を受け[6][7]、1976年にはナセルの親ソ・反米の外交路線を完全に反ソ・親米に転換した。同年3月にソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月に中ソ対立を起こしていた中国にホスニー・ムバラク副大統領を派遣して毛沢東と会見させて武器を購入した[8][9][10]。同年9月にはサウジアラビアやモロッコ、イランなどとともに結成した反ソ同盟サファリ・クラブの本部をカイロに置き[11][12]、第一次シャバ紛争やオガデン戦争ではザイールとソマリアを支援してアフリカからのソ連の影響力排除を画策し[13]、ソ連のアフガニスタン侵攻を批判してモスクワオリンピックをボイコットして反政府武装勢力のムジャヒディンへの支援を表明した[14][15]。
1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問した。エジプト・イスラエル間の和平交渉を開始し、翌1978年にアメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デービッド合意にこぎつけた。そして1979年には両国間に平和条約が結ばれた。
この合意は、長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらすものだけではなく、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の領土を平和裡に返還する伏線ともいうべきもので、エジプトが中東和平の先駆けとして周知されることにも繋がった。
国民からの反発
この歴史的合意により、サダトはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞し世界各国から高い支持を受けた。が、このエジプト=イスラエル単独和平は「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、スーダンのモハメド・アン=ヌメイリ[16]を除くアラブ諸国の指導者とイスラム教徒の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また1974年から1982年まで2度の石油危機もあって急激に成長したものの、経済自由化と外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。
1978年11月、イラクのバグダッドで行われた1978年アラブ首脳会議でエジプトは主導国であるにもかかわらず、アラブ連盟を追放された[17]。同時にアラブ連盟の本部もエジプトのカイロからブルギーバ政権下のチュニジアのチュニスへと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み[18]、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d3/Queen_Farah_of_Persia_Egyption_President_Anwar_Sadat_Mohammad_Reza_Shah_Pahlavi_of_Persia_1975.jpg/220px-Queen_Farah_of_Persia_Egyption_President_Anwar_Sadat_Mohammad_Reza_Shah_Pahlavi_of_Persia_1975.jpg)
1979年1月、イランでルーホッラー・ホメイニーが指導するイラン革命が勃発した。サダトは親しかったモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうと、イスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。
イスラム教徒や知識層からの反発が強まる中、1981年9月に、サダトは共産主義者、ナセル支持者、フェミニスト、イスラム原理派、大学教授やジャーナリスト、学生運動家といった知識人および政治的活動家の多くを厳しく取り締まり拘束した。その数はおよそ1600人におよび、国際的な非難を受けた。
この間に発生した経済恐慌と反対派に対する抑圧によって、サダトに対する国民の支持はますます失われていった。
暗殺
1981年10月6日、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中にイスラム復興主義過激派のジハード団に所属するハリド・イスランブリ砲兵中尉によって暗殺された。
サダト本人も、自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも自らの死を予期する記述がある。
そのため、4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官は、メッカ巡礼に出かけていた。折しも上空では空軍のフランス製の6機のミラージュが見事なアクロバット飛行を披露して赤・白・緑の煙でエジプト国旗を描いており、群衆はそれに気をとられていた。パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前に突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたが、イスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は突撃銃で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。イスランブリ砲兵中尉は「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。
銃撃戦は約2分間続いた。キューバの特命全権大使、オマーンの将官、中国の軍事技術者[19]、コプト正教司祭を含む11名が死亡し、ホスニー・ムバーラク副大統領、ブトロス・ブトロス=ガーリ外務大臣、訪問客のアイルランドのジェームズ・タリー国防大臣、4人のアメリカ軍連絡将校を含む38名が負傷した。
保安部隊は不意を突かれたものの、間もなく応戦した。 暗殺隊の2人が射殺され、イスランブリ砲兵中尉と他の暗殺隊は憲兵隊によってその場で逮捕された。
首・胸・腰などに被弾したサダトは病院へ搬送され、11人の医師による手術を受けたが同日午後7時50分(日本時間7日午前2時50分)、エジプト政府から正式にその死が発表された。62歳没。サダトの後継として、ムバラク副大統領が大統領に昇格した。ムバラク副大統領もこの攻撃で手を負傷し、サダトの葬儀には世界中から多くの高官が参列した。その亡骸はナスルシティのピラミッド状の無名戦士の墓に葬られた。
家族
サダトは2度結婚している。最初の妻エーサン・マジと1949年5月29日に離婚し、その日に、16歳年下のエジプト人とイギリス人の混血であるジーハーン・サフワト・ラオウフ(当時15歳)と結婚(再婚)した。サダトはジーハーンとの間に三人の娘と一人の息子をもうけた。ジーハーンは『In Search of Identity』(1977年)により2001年にパール・バック賞を受賞している。
邦訳著作
- 『サダト・最後の回想録』(読売新聞外報部訳、読売新聞社、1982年)
- 『サダト自伝』(朝日新聞外報部訳、朝日新聞社、1978年)
- 『ナイルの叛乱』(井上幸治訳、岩波書店〈岩波新書〉、初版1958年) - フランス語版を元にしている。
脚注
- ^ 外務省公式サイトにおける「サダト大統領」の表記例。
- ^ John McCain, Mark Salter (2007). Hard Call: Great Decisions and the Extraordinary People Who Made Them. Twelve
- ^ Magdalena Alagna (2004). Anwar Sadat. Rosen Pub Group. pp. 30
- ^ 林(1973)、p.115
- ^ a b c 林(1973)、p.119-120
- ^ Craig A. Daigle, "The Russians are going: Sadat, Nixon and the Soviet presence in Egypt." Middle East 8.1 (2004): 1.
- ^ Moshe Gat (2012). In Search of a Peace Settlement: Egypt and Israel Between the Wars, 1967-1973. Palgrave Macmillan. pp. 256–58.
- ^ “EGYPT AND CHINA SIGN ARMS PACT, HAIL CLOSER TIES”. ニューヨーク・タイムズ (1976年4月22日). 2019年7月11日閲覧。
- ^ “长城拥抱苏伊士:中埃军事合作的那些事儿”. 360doc个人图书馆. (2015年9月8日) 2019年7月11日閲覧。
- ^ “China Will Sell Arms to Egypt, Sadat Announces”. ワシントン・ポスト. (1979年6月6日) 2019年7月11日閲覧。
- ^ Heikal, Iran: The Untold Story (1982), p. 114.
- ^ Cooley, John. Unholy Wars: Afghanistan, America and International Terrorism. London: Pluto Press, 1999; 3rd edition, 2002. ISBN 9780745319179 p.17
- ^ Bronson, Thicker than Oil (2006), p. 134.
- ^ “SADAT SAYS U.S. BUYS SOVIET ARMS IN EGYPT FOR AFGHAN REBELS”. ニューヨーク・タイムズ. (1981年9月23日) 2019年7月12日閲覧。
- ^ “Egypt Says It Trains Afghan Rebels”. ワシントン・ポスト. (1980年2月14日) 2019年7月12日閲覧。
- ^ Libya - Government
- ^ Tucker, Spencer C.; Roberts, Priscilla (12 May 2008). The Encyclopedia of the Arab-Israeli Conflict: A Political, Social, and Military History [4 volumes]: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. ISBN 9781851098422.
- ^ Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)
- ^ “我驻埃及使馆在开罗祭奠烈士张宝玉”. 人民網 (2017年9月30日). 2018年7月30日閲覧。
参考文献
- 林武『ナセル小伝』日本国際問題研究所、1973年。
関連項目
- 自由将校団
- 第四次中東戦争
- キャンプ・デービッド合意
- ミストラル級強襲揚陸艦 フランスからロシアに引き渡される予定だった「ウラジオストク」「セヴァストポリ」がウクライナ危機の影響で破談となり、後にエジプト海軍に引き渡され、その際にその名が付けられる。
外部リンク
- Official website (アラビア語)
- http://www.anwarelsadat.com/
- http://www.elsadat.info/
- http://www.bsos.umd.edu/sadat
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