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「マーガレット・ミッチェル」の版間の差分

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'''マーガレット・マナーリン・ミッチェル'''(Margaret Munnerlyn Mitchell、[[1900年]][[11月8日]] - [[1949年]][[8月16日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[女流]][[小説家]]。長編小説『[[風と共に去りぬ]]』で知られている。
'''マーガレット・マナーリン・ミッチェル'''(Margaret Munnerlyn Mitchell、[[1900年]][[11月8日]] - [[1949年]][[8月16日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[小説家]]。長編小説『[[風と共に去りぬ]]』で知られる。


== 生い立ち ==
==生い立ち==
ミッチェルは1900年、[[ジョージア州]][[アトランタ]]で生まれた。父はユージン・ミューズ・ミッチェル、母はメーベル(旧姓スティーブンス)だった。兄が2人居り(1人は夭折)、3人兄弟の末っ子だった。父は弁護士であり、アトランタ弁護士会会長、アトランタ歴史協会会長を務め、アトランタの市史およびジョージア州史の権威として知られていた{{sfn|河出|pp=III, 479}}。ミッチェルの幼年期は[[南北戦争]]を生き抜いた母方の親類の影響を大きく受けた。彼らは戦争に関する全て - [[アメリカ連合国|南部連邦]]支持者が全てを失ったことを除いて - をミッチェルに伝えた。ミッチェルが全てを知ったのは10歳のときであった。
ミッチェルは[[ジョージア州]][[アトランタ]]で生まれた。父はユージン・ミューズ・ミッチェル、母はメーベル(旧姓スティーブンス)だった。兄が2人居り(1人は夭折)、3人兄弟の末っ子だった。父は弁護士であり、アトランタ弁護士会会長、アトランタ歴史協会会長を務め、アトランタの市史およびジョージア州史の権威として知られていた{{sfn|河出|pp=III, 479}}。彼女の幼年期は[[南北戦争]]を生き抜いた母方の親類の影響を大きく受けた。彼らは戦争に関する全て - [[アメリカ連合国|南部連邦]]支持者が全てを失ったことを除いて - を彼女に伝えた。彼女が全てを知ったのは10歳のときであった。


ミッチェルは[[1918年]]にワシントン神学校を卒業し、その後医学を志し[[マサチューセッツ州]][[ノーサンプトン (マサチューセッツ州)|ノーサンプトン]]の[[スミス大学]]に入学する。だが翌[[1919年]]1月に母親がその年大流行した[[インフルエンザ]]で死去し、ミッチェル学業をあきらめ故郷のアトランタへ戻った{{sfn|河出|pp=III, 481}}。この出来事は『風と共に去りぬ』でスカーレットの母親が[[腸チフス]]で死去し、[[タラ・プランテーション|タラ]]へ戻る場面の元となった。ミッチェルはアトランタで『アトランタ・ジャーナル』に入社し、日曜版のコラム執筆者となった。[[1922年]]にミッチェルはベリーン・「レッド」・アップショーと結婚する。しかしながらレッドは酒の密売人であり、彼らは2年後の1924年に離婚する。ミッチェル[[1925年]][[7月4日]]にアップショーの友人であったジョン・マーシュと再婚する{{sfn|河出|pp=III, 482}}。再婚日を[[7月4日]](アメリカ独立記念日)としたのは家族から独立の意志を示すためと言われている。
彼女は[[1918年]]にワシントン神学校を卒業し、その後医学を志し[[マサチューセッツ州]][[ノーサンプトン (マサチューセッツ州)|ノーサンプトン]]の[[スミス大学]]に入学する。だが翌[[1919年]]1月に母親がその年大流行した[[インフルエンザ]]で死去し、ミッチェル学業をあきらめアトランタへ戻った{{sfn|河出|pp=III, 481}}。この出来事は『風と共に去りぬ』でスカーレットの母親が[[腸チフス]]で死去し、[[タラ・プランテーション|タラ]]へ戻る場面の元となった。彼女はアトランタで『アトランタ・ジャーナル』に入社し、日曜版のコラム執筆者となった。[[1922年]]に彼女はベリーン・「レッド」・アップショーと結婚する。しかしながらレッドは酒の密売人であり、彼らは2年後の1924年に離婚する。彼女は[[1925年]][[7月4日]]にアップショーの友人であったジョン・マーシュと再婚する{{sfn|河出|pp=III, 482}}。再婚日を[[7月4日]](アメリカ独立記念日)としたのは家族から独立の意志を示すためと言われている。


==『風と共に去りぬ』出版に至るまで ==
==『風と共に去りぬ』出版に至るまで==
そんなミッチェルはくるぶしの骨折で寝たきり生活を送っていた[[1926年]]、『[[風と共に去りぬ]]』を書きはじめたと伝えられている。ミッチェルの夫のジョン・マーシュは、ミッチェルの気晴らしにと図書館から歴史書を借りてくるのだったが、あるとき「ねえ、そんなに本が好きなら、今度は自分で書いてみたら?」と言った。南北戦争の豊富な知識を持っていたミッチェルは、それを背景として自分の人生体験を叙事詩に綴っていった。執筆には旧式のレミントン・タイプライターが使われた。当初、主人公の名前はパンジー・オハラであり、オハラ家の領地であるタラはフォントノイ・ホールと呼ばれていた。
ミッチェルはくるぶしの骨折で寝たきり生活を送っていた[[1926年]]、『[[風と共に去りぬ]]』を書きはじめたと伝えられている。夫のジョン・マーシュは彼女の気晴らしにと図書館から歴史書を借りてくるのだったが、あるとき「ねえ、そんなに本が好きなら、今度は自分で書いてみたら?」と言った。南北戦争の豊富な知識を持っていた彼女は、それを背景として自分の人生体験を叙事詩に綴っていった。執筆には旧式のレミントン・タイプライターが使われた。当初、主人公の名前はパンジー・オハラであり、オハラ家の領地であるタラはフォントノイ・ホールと呼ばれていた。


マーシュの協力的な姿勢も手伝って、ミッチェルは療養中の楽しみを創作に見出した。ミッチェルは最終章から書き出し、章を飛び飛びに書き進めるなど、独特な執筆手法を取っていた。ときどき、夫に原稿を読んでもらっていたものの、山積みになった原稿にタオルで覆いをしたり、戸棚やベッドの下に置いて、他人の目には触れないようにしていた。[[1929年]]にはは完治し、小説もほぼ完成していたがミッチェルは創作活動への意欲を失っていた。
マーシュの協力的な姿勢も手伝って、ミッチェルは療養中の楽しみを創作に見出した。彼女は最終章から書き出し、章を飛び飛びに書き進めるなど、独特な執筆手法を取っていた。ときどき、夫に原稿を読んでもらっていたものの、山積みになった原稿にタオルで覆いをしたり、戸棚やベッドの下に置いて、他人の目には触れないようにしていた。[[1929年]]にはくるぶしは完治し、小説もほぼ完成していたが、彼女自身は創作活動への意欲を失っていた。


[[1935年]]、[[アトランタ]]の一主婦として生きていた女性の運命を一変させる出来事があった。当時、南部地域で有望な作家を探していたマクミラン出版社の編集者、ハワード・ラザムがミッチェルのもとを訪れたのである。ラザムの同僚が2人の共通の友人であり、ミッチェルにアトランタを案内してもらう予定であった。すっかりミッチェルに惹かれたラザムは、これまでに何か書いたものはないかと尋ねた。ミッチェルは困惑した。かつて新聞社に勤め、プロの書き手の意識を持っていたミッチェルにとって、出来損ないの古い原稿を編集者に見せるなど、思いも寄らないことであった。それでもラザムは「もし何か書いたら最初に読ませてください」と懇願するのだった。後日、この話を友人にしたところ、「あなたが本を書くなんてあり得ない話よね」と笑われ、腹を立てたミッチェルは、自宅に帰るとボロボロの封筒から古い原稿を引っ張り出した。The Georgian Terrace Hotelに着いたときには、ラザムはちょうど[[アトランタ]]を発つために荷造りをしていた。「原稿があるわ―気が変わらないうちに持って行って」。
[[1935年]]、[[アトランタ]]の一主婦として生きていた女性の運命を一変させる出来事があった。当時、南部地域で有望な作家を探していたマクミラン出版社の編集者、ハワード・ラザムがミッチェルのもとを訪れたのである。ラザムの同僚が2人の共通の友人であり、ミッチェルにアトランタを案内してもらう予定であった。すっかり彼女に惹かれたラザムは、これまでに何か書いたものはないかと尋ねた。彼女は困惑した。かつて新聞社に勤め、プロの書き手の意識を持っていた彼女にとって、出来損ないの古い原稿を編集者に見せるなど、思いも寄らないことであった。それでもラザムは「もし何か書いたら最初に読ませてください」と懇願するのだった。後日、この話を友人にしたところ、「あなたが本を書くなんてあり得ない話よね」と笑われ、腹を立てた彼女は、自宅に帰るとボロボロの封筒から古い原稿を引っ張り出した。The Georgian Terrace Hotelに着いたときには、ラザムはちょうど[[アトランタ]]を発つために荷造りをしていた。「原稿があるわ―気が変わらないうちに持って行って」。


この原稿は小柄な作家の背の高さ以上の分量があったため、ラザムはスーツケースを新たに買い足さなければならなかった。後になってミッチェルは自分の大胆な行動を振り返り、背筋が寒くなる思いがした。そこでミッチェルは「気が変わりました。原稿は送り返してください」と書いた電報を送ったが、ラザムは原稿を読んで、未完成で荒削りな部分はあるが大ベストセラーになる作品だと確信していた。ミッチェルも原稿の代わりに、小説の出版を熱望するラザムの手紙を受け取り、続いてマクミランから稿料の前渡し分を受け取った。小説は[[1936年]]に完成したが、ミッチェルは最後まで第一章を書かなかった。
この原稿は小柄な作家の背の高さ以上の分量があったため、ラザムはスーツケースを新たに買い足さなければならなかった。後になってミッチェルは自分の大胆な行動を振り返り、背筋が寒くなる思いがした。そこで「気が変わりました。原稿は送り返してください」と書いた電報を送ったが、ラザムは原稿を読んで、未完成で荒削りな部分はあるが大ベストセラーになる作品だと確信していた。彼女は原稿の代わりに、小説の出版を熱望するラザムの手紙を受け取り、続いてマクミランから稿料の前渡し分を受け取った。小説は[[1936年]]に完成したが、彼女は最後まで第一章を書かなかった。


[[6月30日]]、『風と共に去りぬ』出版され、異常な成功をめ同年のクリスマスには100万部を突破するなど、1年後には150万部に達した{{sfn|河出|pp=III, 483}}。数年間の内にフランスや日本など29か国語に翻訳された。同年にピュリッツァー賞を受賞した{{sfn|河出|pp=III, 483}}。
[[6月30日]]、『風と共に去りぬ』出版され、異常な成功をおさ同年のクリスマスには100万部を突破、1年後には150万部に達した{{sfn|河出|pp=III, 483}}。数年間の内にフランスや日本など29か国語に翻訳された。同年にピュリッツァー賞を受賞した{{sfn|河出|pp=III, 483}}。


3年後の1939年には[[デヴィッド・O・セルズニック|デビッド・セルズニック]]により映画化された。[[1939年]][[12月15日]]、アトランタのローズグランドシアターで「[[風と共に去りぬ (映画)|映画 風と共に去りぬ]]」プレミア上映会が開かれている{{sfn|河出|pp=III, 484}}。
3年後の1939年には[[デヴィッド・O・セルズニック|デビッド・セルズニック]]により映画化された。[[1939年]][[12月15日]]、アトランタのローズグランドシアターで「[[風と共に去りぬ (映画)|映画 風と共に去りぬ]]」プレミア上映会が開かれている{{sfn|河出|pp=III, 484}}。


== 死去 ==
==死去==
[[File:MargaretMitchell-grave.jpg|thumb|right|アトランタにあるミッチェルの墓]]
[[File:MargaretMitchell-grave.jpg|thumb|right|アトランタにあるミッチェルの墓]]
1949年[[8月11日]]、ミッチェルはマーシュとアトランタのアーツ劇場へ出掛けた夜、その道中でピーチツリー街を横断時にヒュー・グラビットの運転する車に撥ねられた。ミッチェルはその後、市内のグレーディ記念病院に運ばれたが、この事故の際の傷が元で5日後に息を引き取った。享年48。グラビットは[[飲酒運転]]であり、過失致死で有罪判決となり、40年の重労働が宣告された。
1949年[[8月11日]]、マーシュとアトランタのアーツ劇場へ出掛けた夜、その道中でピーチツリー街を横断時にヒュー・グラビットの運転する車に撥ねられた。その後、市内のグレーディ記念病院に運ばれたが、この事故の際の傷が元で5日後に息を引き取った。48歳没。グラビットは[[飲酒運転]]であり、過失致死で有罪となり、40年の重労働が宣告された。


グラビットはタクシー運転手で、当日は非番で自家用車を運転していたのだが報道はこれをタクシー事故として煽りたて、[[ジョージア州]]のハーマン・タルマッジ知事(当時)は、以後タクシー運転手の認可規制強化を発表するまでに至っている。
グラビットはタクシー運転手で、当日は非番で自家用車を運転していたのだが報道はこれをタクシー事故として煽りたて、[[ジョージア州]]のハーマン・タルマッジ知事(当時)は、以後タクシー運転手の認可規制強化を発表するまでに至っている。


事故の目撃者は、ミッチェルが車を確認せずに車道に飛び出したと証言しており、それ以前にも同様の行動を繰り返していたと友人が発言していた為、運転士であるグラビットの有罪については未だ論争となっている。
事故の目撃者は、ミッチェルが車を確認せずに車道に飛び出したと証言しており、それ以前にも同様の行動を繰り返していたと友人が発言していた為、運転の有罪については未だ論争となっている。


ミッチェルの墓所はアトランタの[[:en:Oakland Cemetery (Atlanta, Georgia)|オークランド墓地]]に埋葬された。生涯で発表した作品は『風と共に去りぬ』のみで、ミッチェルの遺志により未発表の原稿は破棄されたと言われる。
墓所はアトランタの[[:en:Oakland Cemetery (Atlanta, Georgia)|オークランド墓地]]に埋葬された。生涯で発表した作品は『風と共に去りぬ』のみで、彼女の遺志により未発表の原稿は破棄されたと言われる。


ミッチェルが執筆当時住んでいた家はアトランタの中心部にあり、今日ではThe Margaret Mitchell Houseとして観光名所となっている。[[アトランタ]]の数マイル北の[[ジョージア州]]マリエッタには小説と映画を対象にした博物館、Scarlett On the Squareがある。撮影に使われた衣装や台本など、多くの関連物を展示しており、ミッチェル自身が収集した『[[風と共に去りぬ]]』の外国語版も陳列されている。
ミッチェルが執筆当時住んでいた家は[[アトランタ]]の中心部にあり、今日ではThe Margaret Mitchell Houseとして観光名所となっている。[[アトランタ]]の数マイル北の[[ジョージア州]]マリエッタには小説と映画を対象にした博物館、Scarlett On the Squareがある。撮影に使われた衣装や台本など、多くの関連物を展示しており、マーガレット・ミッチェル自身が収集した『[[風と共に去りぬ]]』の外国語版も陳列されている。


このほか、The Road to Tara博物館がクレイトン・カウンティー(アトランタの南にあり映画ではタラのロケ地となった)、ジョーンズボロの商業地区にある。
このほか、The Road to Tara博物館がクレイトン・カウンティー([[アトランタ]]の南にあり映画ではタラのロケ地となった)、ジョーンズボロの商業地区にある。


==日本語文献==
==日本語文献==

2021年11月1日 (月) 13:20時点における版

マーガレット・ミッチェル
Margaret Mitchell
マーガレット・ミッチェル(1941年
誕生 Margaret Munnerlyn Mitchell
(1900-11-08) 1900年11月8日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ジョージア州アトランタ
死没 1949年8月16日(1949-08-16)(48歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ジョージア州アトランタ
職業 小説家
活動期間 1926年 - 1949年
ジャンル ロマンス小説歴史小説
ウィキポータル 文学
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マーガレット・マナーリン・ミッチェル(Margaret Munnerlyn Mitchell、1900年11月8日 - 1949年8月16日)は、アメリカ小説家。長編小説『風と共に去りぬ』で知られる。

生い立ち

ミッチェルはジョージア州アトランタで生まれた。父はユージン・ミューズ・ミッチェル、母はメーベル(旧姓スティーブンス)だった。兄が2人居り(1人は夭折)、3人兄弟の末っ子だった。父は弁護士であり、アトランタ弁護士会会長、アトランタ歴史協会会長を務め、アトランタの市史およびジョージア州史の権威として知られていた[1]。彼女の幼年期は南北戦争を生き抜いた母方の親類の影響を大きく受けた。彼らは戦争に関する全て - 南部連邦支持者が全てを失ったことを除いて - を彼女に伝えた。彼女が全てを知ったのは10歳のときであった。

彼女は1918年にワシントン神学校を卒業し、その後医学を志しマサチューセッツ州ノーサンプトンスミス大学に入学する。だが翌1919年1月に母親がその年大流行したインフルエンザで死去し、ミッチェルは学業をあきらめアトランタへ戻った[2]。この出来事は『風と共に去りぬ』でスカーレットの母親が腸チフスで死去し、タラへ戻る場面の元となった。彼女はアトランタで『アトランタ・ジャーナル』に入社し、日曜版のコラム執筆者となった。1922年に彼女はベリーン・「レッド」・アップショーと結婚する。しかしながらレッドは酒の密売人であり、彼らは2年後の1924年に離婚する。彼女は1925年7月4日にアップショーの友人であったジョン・マーシュと再婚する[3]。再婚日を7月4日(アメリカ独立記念日)としたのは家族から独立の意志を示すためと言われている。

『風と共に去りぬ』出版に至るまで

ミッチェルはくるぶしの骨折で寝たきり生活を送っていた1926年、『風と共に去りぬ』を書きはじめたと伝えられている。夫のジョン・マーシュは彼女の気晴らしにと図書館から歴史書を借りてくるのだったが、あるとき「ねえ、そんなに本が好きなら、今度は自分で書いてみたら?」と言った。南北戦争の豊富な知識を持っていた彼女は、それを背景として自分の人生体験を叙事詩に綴っていった。執筆には旧式のレミントン・タイプライターが使われた。当初、主人公の名前はパンジー・オハラであり、オハラ家の領地であるタラはフォントノイ・ホールと呼ばれていた。

マーシュの協力的な姿勢も手伝って、ミッチェルは療養中の楽しみを創作に見出した。彼女は最終章から書き出し、章を飛び飛びに書き進めるなど、独特な執筆手法を取っていた。ときどき、夫に原稿を読んでもらっていたものの、山積みになった原稿にタオルで覆いをしたり、戸棚やベッドの下に置いて、他人の目には触れないようにしていた。1929年にはくるぶしは完治し、小説もほぼ完成していたが、彼女自身は創作活動への意欲を失っていた。

1935年アトランタの一主婦として生きていた女性の運命を一変させる出来事があった。当時、南部地域で有望な作家を探していたマクミラン出版社の編集者、ハワード・ラザムがミッチェルのもとを訪れたのである。ラザムの同僚が2人の共通の友人であり、ミッチェルにアトランタを案内してもらう予定であった。すっかり彼女に惹かれたラザムは、これまでに何か書いたものはないかと尋ねた。彼女は困惑した。かつて新聞社に勤め、プロの書き手の意識を持っていた彼女にとって、出来損ないの古い原稿を編集者に見せるなど、思いも寄らないことであった。それでもラザムは「もし何か書いたら最初に読ませてください」と懇願するのだった。後日、この話を友人にしたところ、「あなたが本を書くなんてあり得ない話よね」と笑われ、腹を立てた彼女は、自宅に帰るとボロボロの封筒から古い原稿を引っ張り出した。The Georgian Terrace Hotelに着いたときには、ラザムはちょうどアトランタを発つために荷造りをしていた。「原稿があるわ―気が変わらないうちに持って行って」。

この原稿は小柄な作家の背の高さ以上の分量があったため、ラザムはスーツケースを新たに買い足さなければならなかった。後になってミッチェルは自分の大胆な行動を振り返り、背筋が寒くなる思いがした。そこで「気が変わりました。原稿は送り返してください」と書いた電報を送ったが、ラザムは原稿を読んで、未完成で荒削りな部分はあるが大ベストセラーになる作品だと確信していた。彼女は原稿の代わりに、小説の出版を熱望するラザムの手紙を受け取り、続いてマクミランから稿料の前渡し分を受け取った。小説は1936年に完成したが、彼女は最後まで第一章を書かなかった。

6月30日、『風と共に去りぬ』は出版され、異常な成功をおさめ、同年のクリスマスには100万部を突破、1年後には150万部に達した[4]。数年間の内にフランスや日本など29か国語に翻訳された。同年にピュリッツァー賞を受賞した[4]

3年後の1939年にはデビッド・セルズニックにより映画化された。1939年12月15日、アトランタのローズグランドシアターで「映画 風と共に去りぬ」プレミア上映会が開かれている[5]

死去

アトランタにあるミッチェルの墓

1949年8月11日、マーシュとアトランタのアーツ劇場へ出掛けた夜、その道中でピーチツリー街を横断時にヒュー・グラビットの運転する車に撥ねられた。その後、市内のグレーディ記念病院に運ばれたが、この事故の際の傷が元で5日後に息を引き取った。48歳没。グラビットは飲酒運転であり、過失致死で有罪となり、40年の重労働が宣告された。

グラビットはタクシー運転手で、当日は非番で自家用車を運転していたのだが、報道はこれをタクシー事故として煽りたて、ジョージア州のハーマン・タルマッジ知事(当時)は、以後タクシー運転手の認可規制強化を発表するまでに至っている。

事故の目撃者は、ミッチェルが車を確認せずに車道に飛び出したと証言しており、それ以前にも同様の行動を繰り返していたと友人が発言していた為、運転手の有罪については未だ論争となっている。

墓所はアトランタのオークランド墓地に埋葬された。生涯で発表した作品は『風と共に去りぬ』のみで、彼女の遺志により未発表の原稿は破棄されたと言われる。

ミッチェルが執筆当時住んでいた家はアトランタの中心部にあり、今日ではThe Margaret Mitchell Houseとして観光名所となっている。アトランタの数マイル北のジョージア州マリエッタには小説と映画を対象にした博物館、Scarlett On the Squareがある。撮影に使われた衣装や台本など、多くの関連物を展示しており、マーガレット・ミッチェル自身が収集した『風と共に去りぬ』の外国語版も陳列されている。

このほか、The Road to Tara博物館がクレイトン・カウンティー(アトランタの南にあり映画ではタラのロケ地となった)、ジョーンズボロの商業地区にある。

日本語文献

その他の著作

  • 『「風と共に去りぬ」の故郷アトランタに抱かれて マーガレット・ミッチェルの手紙』
Gone with the wind letters 1936~1949
リチャード・ハーウェル編、大久保康雄訳、三笠書房、1983年
  • 『マーガレット・ミッチェル 十九通の手紙』 - A dynamo going to waste
    ジェーン・ボナー・ピーコック編、羽田詩津子訳、潮出版社、1994年
  • 『ロスト・レイセン』 - Lost Laysen 
    デブラ・フリアー編、講談社、1996年。作者16歳の作品と多数の写真・手紙。
  • 『明日は明日の風が吹く 女はすべてスカーレット』 - Tomorrow is another day 
    早野依子訳、PHP研究所、2002年。新聞記者時代に書いた記事の集成

伝記研究

  • 『タラへの道 マーガレット・ミッチェルの生涯』
    アン・エドワーズ、大久保康雄訳、文藝春秋、1986年、文春文庫、1992年
  • 『マーガレット ラブ・ストーリー 「風と共に去りぬ」に秘められた真実』
    マリアン・ウォーカー、林真理子訳、講談社、1996年、講談社文庫、1999年 
  • 『「風と共に去りぬ」の女たち ミッチェルの生き方とアメリカ南部』
    大島良行、専修大学出版局、1996年

作品研究

  • 『「風と共に去りぬ」のアメリカ 南部と人種問題』
    青木冨貴子岩波新書、1996年
  • 『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』
    鴻巣友季子新潮社新潮選書〉、2018年 
  • 『風と共に去りぬ アメリカン・サーガの光と影』
    荒このみ岩波書店、2021年。文庫版・各巻解説と新章「アメリカン・サーガ」
  • 『わが青春のスカーレット 「風と共に去りぬ」と女たち』
    ヘレン・テイラー、池田比佐子・前田啓子訳、朝日新聞社、1992年
  • 『風と共に去りぬ スカーレットの故郷、アメリカ南部をめぐる』
    越智道雄監修・文、吉田隆志写真、求龍堂グラフィックス、1993年

脚注

  1. ^ 河出, pp. III, 479.
  2. ^ 河出, pp. III, 481.
  3. ^ 河出, pp. III, 482.
  4. ^ a b 河出, pp. III, 483.
  5. ^ 河出, pp. III, 484.

参考文献

  • マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』大久保康雄、竹内道之助訳、河出書房新社(全3巻)、1960年・新版多数。 

外部リンク