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「彌彦神社事件」の版間の差分

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== 事件の概要 ==
== 事件の概要 ==
弥彦神社では当時、[[大晦日]]から[[元日]]にかけて行われる二年参りにおいて、紅白の「福もち」撒きが行われていた。事故発生時、前日の[[1955年]](昭和30年)12月31日から約3万人が殺到、拝殿に向かう者と、参拝が終わり戻る者とが、中央の15段ある石段付近でぶつかり合い、滞留した。翌1月1日午前0時20分頃、この重さにより[[玉垣]]が崩壊し、支えを無くした参拝客が後ろから押し出されるように次々と高さ3mの石段下へ、折り重なるように倒れ込んだ。当時の弥彦神社は照明設備が整っておらず周囲が暗かったこと、多くの[[日本の警察官|警察官]]がバス駐車場の交通整理に割り振られて境内にいなかったことも事態に拍車をかけ、この状態が餅撒きを中止した午前1時近くまで30分から40分間続き、死者124人<ref>{{YouTube time|amSkuTHMkGI|1956年ニュースハイライト(1956年(昭和31年)|t=15s}}</ref>・重軽傷者102人を出た。明治以降最悪の群衆事故である。
弥彦神社では当時、[[大晦日]]から[[元日]]にかけて行われる二年参りにおいて、紅白の「福もち」撒きが行われていた。事故発生時、前日の[[1955年]](昭和30年)12月31日から約3万人が殺到、拝殿に向かう者と、参拝が終わり戻る者とが、中央の15段ある石段付近でぶつかり合い、滞留した。翌1月1日午前0時20分頃、この重さにより[[玉垣]]が崩壊し、支えを無くした参拝客が後ろから押し出されるように次々と高さ3mの石垣から転落、折り重なるように倒れ込んだ。当時の弥彦神社は照明設備が整っておらず周囲が暗かったこと、多くの[[日本の警察官|警察官]]がバス駐車場の交通整理に割り振られて境内にいなかったことも事態に拍車をかけ、この状態が餅撒きを中止した午前1時近くまで30分以上続き、死者124人<ref>{{YouTube time|amSkuTHMkGI|1956年ニュースハイライト(1956年(昭和31年)|t=15s}}</ref>・重軽傷者102人を出す大惨事になった。明治以降最悪の群衆事故である。


午前1時頃より警察、[[青年団]]、[[消防団]]などが救助作業を開始し、負傷者を病院へ搬送すると共に遺体を拝殿、拝観所、弥彦小学校の[[体育館]]などに運んで安置した。現場には犠牲者が着用していた多数の[[靴]]や[[草履]]、[[帽子]]などが残されていたという。
午前1時頃より警察、[[青年団]]、[[消防団]]などが救助作業を開始し、負傷者を病院へ搬送すると共に遺体を拝殿、拝観所、弥彦小学校の[[体育館]]などに運んで安置した。現場には犠牲者が着用していた多数の[[靴]]や[[草履]]、[[帽子]]などが残されていたという。

2021年12月31日 (金) 15:02時点における版

彌彦神社事件
彌彦神社より運び出される犠牲者の柩
日付 1956年1月1日
時間 午前0時過ぎ(JST)
場所 新潟県西蒲原郡弥彦村
死者・負傷者
死者124人
重軽傷者77人
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最高裁判所判例
事件名 過失致死被告事件
事件番号 昭和39(あ)2016
1967年(昭和42年)5月25日
判例集 刑集第21巻4号584頁
裁判要旨
 大晦日から元旦にかけて弥彦神社に参拝する二年まいりと呼ばれる行事を企画し、これがその地方における神社の著名な行事であり、毎年多数の参拝者が境内を訪れる場合、神社の職員は、二年まいりの行事を企画実行し、午前0時の花火を合図に拝殿前の広場で餅撒きをする等の催し物を行なうに際しては、参拝や餅撒きに参加するために多数の群集が拝殿前の広場やこれに通じる門とその門前の石段付近に集まり、その雑踏によって転倒者が続出し、多数の死者が生じるような事故が発生するおそれのあることを予見し、これを未然に防止するために、予め相当数の警備員を配置し、参拝者の一方交通を行なう等の雑踏整理の手段を講じるとともに、餅撒きの時刻、場所、方法等を配慮し、それらの終了後に参拝者が安全に分散退出可能なように誘導する等の措置をとるべき注意義務を有する。
第一小法廷
裁判長 入江俊郎
陪席裁判官 松田二郎岩田誠大隅健一郎
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑法210条
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彌彦神社事件 (いやひこじんじゃじけん、やひこじんじゃじけん)は、1956年昭和31年)1月1日午前0時過ぎ、新潟県西蒲原郡弥彦村彌彦神社(弥彦神社)拝殿前で初詣客が新年の餅撒きに殺到、玉垣が崩れて将棋倒しになった事故並びに事件群集事故の一つである。

事件の概要

弥彦神社では当時、大晦日から元日にかけて行われる二年参りにおいて、紅白の「福もち」撒きが行われていた。事故発生時、前日の1955年(昭和30年)12月31日から約3万人が殺到、拝殿に向かう者と、参拝が終わり戻る者とが、中央の15段ある石段付近でぶつかり合い、滞留した。翌1月1日午前0時20分頃、この重さにより玉垣が崩壊し、支えを無くした参拝客が後ろから押し出されるように次々と高さ3mの石垣から転落、折り重なるように倒れ込んだ。当時の弥彦神社は照明設備が整っておらず周囲が暗かったこと、多くの警察官がバス駐車場の交通整理に割り振られて境内にいなかったことも事態に拍車をかけ、この状態が餅撒きを中止した午前1時近くまで30分以上続き、死者124人[1]・重軽傷者102人を出す大惨事になった。明治以降最悪の群衆事故である。

午前1時頃より警察、青年団消防団などが救助作業を開始し、負傷者を病院へ搬送すると共に遺体を拝殿、拝観所、弥彦小学校の体育館などに運んで安置した。現場には犠牲者が着用していた多数の草履帽子などが残されていたという。

原因

事故当時は雪のない元日であった上、前年は豊作で経済的に余裕のある家庭が多かった。またバスなど公共交通機関が新潟県内でも大きく発達した時期で、近隣市町村のみならず遠方からの参拝者が増えていた。このためそれまで多い年でも2万人程度だった弥彦神社の参拝者が、約3万人と大幅に増加していた。

これに対して警備の警察官は16人であり、その多くが交通整理に回っていたこと、また境内の照明の不足も被害を拡大した一因として挙げられる。

その後

この事故を受けて、国家公安委員会は警備にあたった新潟県警察本部の責任を検討、県警本部長が引責辞任し、幹部らが戒告・異動処分を受けている。彌彦神社も正宮司・権宮司2人が引責辞職した上、福餅蒔きも中止、今日に至るまで実施していない。

また、これ以後は初詣に際しては中央の参道を行き、拝殿両側の小道を帰り専用とし、一方通行で参拝を行うようにした。この一方通行の措置は今日においても二年参りから初詣にかけて実施されており、境内では所轄の西蒲警察署が参拝者の整理を行っている。

脚注

関連項目

外部リンク