「サンエーマチナトシティ」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Anaka Satamiya (会話 | 投稿記録) m formatnum引数修正 |
編集の要約なし |
||
67行目: | 67行目: | ||
== 備考 == |
== 備考 == |
||
開店当日の新聞広告より引用([[1985年]][[11月15日]][[琉球新報]][[朝刊]]12面より)。 |
|||
開店当日の新聞広告より引用([[1985年]][[11月15日]][[琉球新報]][[朝刊]]12面より)。なお、[[源為朝]]が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王[[舜天]]になったという説がある<ref>[[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』や『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』、『[[椿説弓張月]]』などでは、[[源為朝]]は現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったとされる。この話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、[[大正]]11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。</ref>。 |
|||
; 店名であるマチナトの由来 |
; 店名であるマチナトの由来 |
||
その昔、[[源為朝]]が琉球に渡来し、地元の女性と恋に落ち男子をもうけたという有名な故事がある{{efn|[[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』『[[おもろさうし]]』『[[鎮西琉球記]]』『[[椿説弓張月]]』などでは、[[源為朝]]は現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったとされる。この話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、[[大正]]11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広土]]([[鹿児島大学]]が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274.html|title=ルーツ解明 沖縄に注目|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2010-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100420201708/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274.html|archivedate=2010-04-20}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274_01.html|title=ルーツ解明 沖縄に注目|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|date=2010-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110629171640/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274_01.html|archivedate=2011-06-29}}</ref>。[[2021年]][[11月10日]]、[[マックス・プランク人類史科学研究所]]を中心とした、[[中華人民共和国|中国]]、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]、[[ヨーロッパ]]、[[ニュージーランド]]、[[ロシア]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の研究者を含む国際チームが『[[ネイチャー]]』に発表した論文によると、[[宮古島市]]の[[長墓遺跡]]の[[先史時代]]の[[人間の骨の一覧|人骨]]を[[DNA型鑑定|DNA分析]]したところ「100%[[縄文人]]」だったことが分かり、先史時代の[[先島諸島]]の人々は[[沖縄諸島]]から来たことを示す研究成果となった<ref name="沖縄タイムス1112"/>。また、[[言語学]]および[[考古学]]からは、[[中世]]([[グスク時代]]、[[11世紀]]~[[15世紀]])に[[九州]]から「本土日本人」が[[南西諸島|琉球列島]]に移住したことが推定でき、[[高宮広土]]([[鹿児島大学]])は、「結果として、[[琉球語|琉球方言]]の元となる言語を有した農耕民が本土から[[植民地|植民]]した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している<ref name="沖縄タイムス1112">{{Cite news|author=|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/862140|title=宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人|newspaper=[[沖縄タイムス]]|publisher=|date=2021-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211113042120/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/862140|archivedate=2021-11-13}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/|title=トランスユーラシア言語は農耕と共に新石器時代に拡散した|newspaper=[[九州大学]]|publisher=|date=2021-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211127021902/https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/|archivedate=2021-11-27}}</ref>。}}。愛する家族ができたとはいえ、月日がたつにつれ、為朝の望郷の念は増すばかり。ある日故郷を目指し妻子とともに航海にでたが、途中で暴風雨に遭い、琉球に引き返らざるをえなくなった。暴風雨に遭ったのは、女子供を乗せたことで、海神が怒ったからだという。やむなく為朝は妻子を残して、立ち去った。琉球に残された妻と子は、毎日港に出て、ひたすら為朝の帰りを待ち続けたという。この故事にちなんでこの地を、待つ港、マチミナト、マチナトと呼ぶようになったといわれている。 |
|||
その昔、源為朝が琉球に渡来し、地元の女性と恋に落ち男子をもうけたという有名な故事がある。愛する家族ができたとはいえ、月日がたつにつれ、為朝の望郷の念は増すばかり。ある日故郷を目指し妻子とともに航海にでたが、途中で暴風雨に遭い、琉球に引き返らざるをえなくなった。暴風雨に遭ったのは、女子供を乗せたことで、海神が怒ったからだという。やむなく為朝は妻子を残して、立ち去った。琉球に残された妻と子は、毎日港に出て、ひたすら為朝の帰りを待ち続けたという。この故事にちなんでこの地を、待つ港、マチミナト、マチナトと呼ぶようになったといわれている。 |
|||
; マークの由来 |
; マークの由来 |
||
航海に出た愛する人を港で待つ女性の姿は美しい。それは、為朝の世も今も変らない。古よりマチナトは、そうした女性のイメージの似合う街である。Mの字をシンボライズした中に描かれた2人の女性の神秘的で洗練された横顔に、心のおしゃれを大切にする沖縄女性の気持を表現している。 |
航海に出た愛する人を港で待つ女性の姿は美しい。それは、為朝の世も今も変らない。古よりマチナトは、そうした女性のイメージの似合う街である。Mの字をシンボライズした中に描かれた2人の女性の神秘的で洗練された横顔に、心のおしゃれを大切にする沖縄女性の気持を表現している。 |
||
⚫ | |||
=== 注釈 === |
|||
{{notelist}} |
|||
=== 出典 === |
|||
⚫ | |||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
85行目: | 92行目: | ||
** [[サンエー西原シティ]] |
** [[サンエー西原シティ]] |
||
** [[サンエーハンビータウン]] |
** [[サンエーハンビータウン]] |
||
⚫ | |||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
⚫ | |||
{{Company-stub}} |
{{Company-stub}} |
2022年1月15日 (土) 19:44時点における版
![]() |
![]() | この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
サンエーマチナトシティ SAN-A MACHINATO CITY | |
---|---|
| |
店舗概要 | |
所在地 |
〒901-2133 沖縄県浦添市城間2008-1 |
座標 | 北緯26度15分40.7秒 東経127度42分39.1秒 / 北緯26.261306度 東経127.710861度座標: 北緯26度15分40.7秒 東経127度42分39.1秒 / 北緯26.261306度 東経127.710861度 |
開業日 | 1985年11月15日 |
施設所有者 | マチナト興産 |
施設管理者 | サンエー |
敷地面積 | 14,000 m² |
商業施設面積 | 9,700 m² |
中核店舗 | サンエー |
店舗数 | 21店舗(テナントのみ) |
営業時間 | 9:00-24:00(一部テナントは22:00閉店) |
駐車台数 | 400台 |
外部リンク | http://www.san-a.co.jp/store/shopping-center/post-67.html |
San-a |
サンエーマチナトシティは、沖縄県浦添市城間にある株式会社サンエーが運営するGMSである。当ショッピングセンターは株式会社サンエー初の郊外型GMSである(尚、当社初のGMSは沖縄市にあるサンエー中の町タウンである)。
沿革
- 1985年11月15日 マチナトショッピングセンター開店。
- 2009年10月29日 リニューアルオープン。
- 2010年2月20日 グランドリニューアルオープン。これにより、1階の専門店のほとんどを閉店し、当社の電気館(家電コーナー)であるデオデオの売場面積を拡大。
- 2013年9月20日 店名をサンエーマチナトシティに変更しリニューアルオープン。1階にあった電気館(デオデオ)を閉店し、そこの部分を減築し、駐車場にした。沖縄県内初出店のジーユー、県内2号店のタリーズコーヒーがテナントとして入居。
アクセス
- 路線バス
第二城間バス停下車、徒歩1分-5分。
詳細は「沖縄本島のバス路線」を参照
- 20番・名護西線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 23番・具志川線 (琉球バス交通)※基幹急行バスも停車
- 24番・那覇大謝名線 (琉球バス交通)
- 26番・宜野湾空港線 (琉球バス交通)
- 27番・屋慶名(大謝名)線 (沖縄バス)
- 28番・読谷(楚辺)線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 29番・読谷(喜名)線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 31番・泡瀬西線 (東陽バス)
- 32番・コンベンションセンター線 (沖縄バス)
- 43番・北谷線 (沖縄バス)
- 52番・与勝線 (沖縄バス)
- 63番・謝苅線 (琉球バス交通)
- 77番・名護東(辺野古)線 (沖縄バス)※基幹急行バスも停車
- 80番・与那城線 (沖縄バス)
- 110番・長田具志川線 (琉球バス交通)
- 120番・名護西空港線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 223番・具志川おもろまち線 (琉球バス交通)
- 227番・屋慶名おもろまち線 (沖縄バス)
- 228番・読谷おもろまち線 (琉球バス交通・沖縄バス)
- 263番・謝苅おもろまち線 (琉球バス交通)
- 331番・泡瀬西線基幹急行バス (東陽バス)
- 777番・屋慶名線基幹急行バス (沖縄バス)
備考
開店当日の新聞広告より引用(1985年11月15日琉球新報朝刊12面より)。
- 店名であるマチナトの由来
その昔、源為朝が琉球に渡来し、地元の女性と恋に落ち男子をもうけたという有名な故事がある[注釈 1]。愛する家族ができたとはいえ、月日がたつにつれ、為朝の望郷の念は増すばかり。ある日故郷を目指し妻子とともに航海にでたが、途中で暴風雨に遭い、琉球に引き返らざるをえなくなった。暴風雨に遭ったのは、女子供を乗せたことで、海神が怒ったからだという。やむなく為朝は妻子を残して、立ち去った。琉球に残された妻と子は、毎日港に出て、ひたすら為朝の帰りを待ち続けたという。この故事にちなんでこの地を、待つ港、マチミナト、マチナトと呼ぶようになったといわれている。
- マークの由来
航海に出た愛する人を港で待つ女性の姿は美しい。それは、為朝の世も今も変らない。古よりマチナトは、そうした女性のイメージの似合う街である。Mの字をシンボライズした中に描かれた2人の女性の神秘的で洗練された横顔に、心のおしゃれを大切にする沖縄女性の気持を表現している。
脚注
注釈
- ^ 琉球王国の正史『中山世鑑』『おもろさうし』『鎮西琉球記』『椿説弓張月』などでは、源為朝は現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広土(鹿児島大学が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている[1][2]。2021年11月10日、マックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国、日本、韓国、ヨーロッパ、ニュージーランド、ロシア、アメリカの研究者を含む国際チームが『ネイチャー』に発表した論文によると、宮古島市の長墓遺跡の先史時代の人骨をDNA分析したところ「100%縄文人」だったことが分かり、先史時代の先島諸島の人々は沖縄諸島から来たことを示す研究成果となった[3]。また、言語学および考古学からは、中世(グスク時代、11世紀~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住したことが推定でき、高宮広土(鹿児島大学)は、「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している[3][4]。
出典
- ^ “ルーツ解明 沖縄に注目”. 朝日新聞. (2010年4月16日). オリジナルの2010年4月20日時点におけるアーカイブ。
- ^ “ルーツ解明 沖縄に注目”. 朝日新聞. (2010年4月16日). オリジナルの2011年6月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人”. 沖縄タイムス. (2021年11月12日). オリジナルの2021年11月13日時点におけるアーカイブ。
- ^ “トランスユーラシア言語は農耕と共に新石器時代に拡散した”. 九州大学. (2021年11月26日). オリジナルの2021年11月27日時点におけるアーカイブ。