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[[1883年]](明治16年)、出島・英和学校が生徒数減少により閉校。閉校後の出島の校舎は長崎神学校の校舎として使用されることとなり、チャペルと図書館も設置する<ref name="cms"/>。長崎神学校では、[[木庭孫彦]]、[[洪恒太郎]]などの人材を育成する。
[[1883年]](明治16年)、出島・英和学校が生徒数減少により閉校。閉校後の出島の校舎は長崎神学校の校舎として使用されることとなり、チャペルと図書館も設置する<ref name="cms"/>。長崎神学校では、[[木庭孫彦]]、[[洪恒太郎]]などの人材を育成する。


[[1884年]](明治17年)9月、「大阪聖三一神学校」の開校に伴い、モーンドレルの意に反して長崎神学校の学生は順次大阪に送られて編入されられることとなり、[[1886年]](明治19年)、長崎神学校は閉校<ref name="cms"/>。
[[1884年]](明治17年)9月、「大阪聖三一神学校」の開校に伴い、モーンドレルの意に反して長崎神学校の学生は順次大阪に送られて編入されられることとなり、[[1886年]](明治19年)、長崎神学校は閉校<ref name="cms"/>。(その後、CMSの大阪聖三一神学校は、[[1908年]](明治41年)のパン・アングリカン・コングレスの感謝献金によって[[米国聖公会]]の東京聖三一神学校、[[:en:Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts|SPG(海外福音伝道協会)]]の聖教社神学校と3者で合併し、[[聖公会神学院]]に発展した<ref name="cms"/>。)


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[[1892年]](明治25年)には、「ガールズ・トレーニング・ホーム」を「長崎女学校」と改称<ref name="nagazine"/>。グッドオール女史は、高齢にも関わらず長年ひとりでこの女学校を担当した。グッドオール女史は、長い闘病生活ののち、1893年(明治26年)3月21日、75才の生涯を閉じた<ref name="cms"/>。[[坂本国際墓地]]の墓石には、「具宇土留氏之墓」と刻まれている<ref name="nagazine"/>。(その後、長崎女学校は、1906年(明治39年)[[プール学院中学校・高等学校|大阪プール女学校]]と合併<ref name="cms"/>


モーンドレルは、こうしてグッドオール女史とともに長崎で学校開設と教育活動を行い、日本への伝道と日本の近代化に多大な貢献をすることとなったが、佐賀県、熊本県、鹿児島県でも教会を開拓し伝道者を定住させた。モーンドレルは、[[1893年]](明治26年)病気のために引退し帰国する。
モーンドレルは、こうしてグッドオール女史とともに長崎で学校開設と教育活動を行い、日本への伝道と日本の近代化に多大な貢献をすることとなったが、佐賀県、熊本県、鹿児島県でも教会を開拓し伝道者を定住させた。モーンドレルは、[[1893年]](明治26年)病気のために引退し帰国する。

2022年1月24日 (月) 07:39時点における版

ハーバート・モーンドレル(Herbert Maundrell、1840年 - 1896年11月3日)はイギリス教会宣教会(CMS)の宣教師である。長崎神学校(聖アンデレ神学校)や出島・英和学校を設立し、日本の伝道と日本の近代化に多大な貢献をした。イライザ・グッドオールとともに女子教育にも力を入れるとともに、長崎以外に佐賀、熊本、鹿児島でも教会を開拓し伝道を行った。

人物・経歴

1840年イギリスウィルトシャーに生まれ、キャノン・ガスリー(Canon Gathrie)牧師の推挙により、シズリントンチャーチ・ミッショナリー神学校で学び、1863年に卒業し、執事になる。

1864年祭司按手礼を受け、マダガスカル島に行き、10年間伝道に従事する。

1875年(明治8年)7月上旬、夫人のイライザとともに、イギリス教会宣教会(CMS)の伝道本部より日本宣教師を命じられて、長崎に上陸する[1][2]。前任のヘンダーソン・バーンサイドが病気のため離崎することとなり、後任として来日したのであった[1]。 バーンサイドは、聖公会の「長崎出島教会」が完成する前に帰英したが[3]、モーンドレル夫妻が来日したのは教会の献堂式の数日前のことであった[2]

聖公会の「長崎出島教会」は、1875年(明治8年)7月に設立された日本人専用の日本聖公会最初の教会で、大阪のエビントンが長崎に来て建築を完了した[3][2]。 教会はジョージ・エンソルとバーンサイドが教会か学校を建てる目的で出島新橋口の出島8番と9番に土地を購入し、CMSの本部を設置し、その場所に建てられた[1][2]。エンソルが病気のため帰英後はバーンサイドが教会設立の準備をしてきたものであった[2]。また、モーンドレルは日本最初のプロテスタント教会である「英国聖公会会堂」(来日した外国人のため教会で東山手11番地にあった。)でバーンサイド(4代目)に次いで、5代目チャプレンを務めた[4]

1876年(明治9年)に、イライザ・グッドオールが長崎に来日し、モーンドレルをサポートしていくこととなる[2]。グッドオール女史は58歳での来日であった。女史の来日には、バーンサイドが帰国の際、後継者に女子教育部門からの派遣者を希望していた背景があった[1]。 モーンドレルは長崎で日本語を習得し、水科五郎伝道師の助けで、長崎を中心に伝道する。1876年(明治9年)、モーンドレルが青年たちを宣教師館近くに下宿させ、聖書と英語教育を行い[2]、グッドオール女史が英語を教えた[2]

1877年(明治10年)9月に、CMS本部より神学校開設の許可を受け、「長崎神学校」(長崎聖アンデレ神学校)を開設[2]し、神学教育を始める。(生徒は1876年堅信礼を受けた8名の信徒のうち選ばれた4名であった。)1877年(明治10年)11月30日、東山手居留地9番、モーンドレルの住居敷地内にCMSの資金をもとにして、聖徒アンデレ日に長崎神学校の校舎が落成する[2]

1879年(明治12年)2月3日には、長崎出島教会に隣接する出島10番・11番に「出島・英和学校」(小学科、英語塾、裁縫塾)を開く[2][3]。 グッドオール女史が校長兼教師。英語・裁縫を教える[2]

1879年(明治12年)、グッドオール女史が、かつてグイド・フルベッキが居住した東山手居留地3番に女子塾「ガールズ・トレーニング・ホーム」(女子寄宿学校)を開校(のちの長崎女学校)[2]

1883年(明治16年)、出島・英和学校が生徒数減少により閉校。閉校後の出島の校舎は長崎神学校の校舎として使用されることとなり、チャペルと図書館も設置する[2]。長崎神学校では、木庭孫彦洪恒太郎などの人材を育成する。

1884年(明治17年)9月、「大阪聖三一神学校」の開校に伴い、モーンドレルの意に反して長崎神学校の学生は順次大阪に送られて編入されられることとなり、1886年(明治19年)、長崎神学校は閉校[2]。(その後、CMSの大阪聖三一神学校は、1908年(明治41年)のパン・アングリカン・コングレスの感謝献金によって米国聖公会の東京聖三一神学校、SPG(海外福音伝道協会)の聖教社神学校と3者で合併し、聖公会神学院に発展した[2]。)

1892年(明治25年)には、「ガールズ・トレーニング・ホーム」を「長崎女学校」と改称[1]。グッドオール女史は、高齢にも関わらず長年ひとりでこの女学校を担当した。グッドオール女史は、長い闘病生活ののち、1893年(明治26年)3月21日、75才の生涯を閉じた[2]坂本国際墓地の墓石には、「具宇土留氏之墓」と刻まれている[1]。(その後、長崎女学校は、1906年(明治39年)大阪プール女学校と合併[2]。)

モーンドレルは、こうしてグッドオール女史とともに長崎で学校開設と教育活動を行い、日本への伝道と日本の近代化に多大な貢献をすることとなったが、佐賀県、熊本県、鹿児島県でも教会を開拓し伝道者を定住させた。モーンドレルは、1893年(明治26年)病気のために引退し帰国する。

参考文献

  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年

出典

  1. ^ a b c d e f 『長崎Webマガジン』長崎ハイカラ女子教育の歴史
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 木村信一「C・M・S・の日本初期伝道 : 忘れられた宣教師モンドレルの教育事業」『桃山学院大学キリスト教論集』第5号、桃山学院大学経済学部、1969年2月、153-175頁、ISSN 0286973X 
  3. ^ a b c 長崎パブテスト教会 長崎聖三一教会原爆被害報告書 一、教会の沿革
  4. ^ 木村信一「我国最初のプロテスタント教会について」『桃山学院大学キリスト教論集』第6号、桃山学院大学総合研究所、1970年3月、59-74頁、ISSN 0286973XNAID 110000215470 

関連項目