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[[1940年]](昭和15年)3月、野戦重砲兵第2[[旅団]]長に就任し[[日中戦争]]に出征。[[1941年]](昭和16年)8月、陸軍中将に進み[[太平洋戦争]]を迎えた。[[1942年]](昭和17年)4月、[[第60師団 (日本軍)|第60師団]]長に親補され[[上海市|上海]]・[[蘇州市|蘇州]]の治安警備を担当。[[1945年]](昭和20年)6月、[[第54軍 (日本軍)|第54軍]][[司令官]]となり、[[愛知県]][[新城市|新城]]に在って[[本土決戦]]に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。同年10月、[[予備役]]に編入された。
[[1940年]](昭和15年)3月、野戦重砲兵第2[[旅団]]長に就任し[[日中戦争]]に出征。[[1941年]](昭和16年)8月、陸軍中将に進み[[太平洋戦争]]を迎えた。[[1942年]](昭和17年)4月、[[第60師団 (日本軍)|第60師団]]長に親補され[[上海市|上海]]・[[蘇州市|蘇州]]の治安警備を担当。[[1945年]](昭和20年)6月、[[第54軍 (日本軍)|第54軍]][[司令官]]となり、[[愛知県]][[新城市|新城]]に在って[[本土決戦]]に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。同年10月、[[予備役]]に編入された。


==栄典==
== 栄典 ==
* [[1911年]](明治44年)[[3月10日]] - [[正八位]]<ref>『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。</ref>
* [[1937年]](昭和12年)[[12月28日]] - [[正五位]]
* [[1937年]](昭和12年)[[12月28日]] - [[正五位]]
* [[1942年]](昭和17年)[[1月15日]] - [[従四位]]
* [[1942年]](昭和17年)[[1月15日]] - [[従四位]]

2022年3月19日 (土) 17:18時点における版

小林 信男(こばやし のぶお、1888年10月21日 - 1951年10月16日) は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

大阪府出身。地主・小林清四郎の長男として生まれる。緑中学校陸軍中央幼年学校予科同校本科を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第17連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍野戦砲兵射撃学校(乙種学生)を卒業した。

1917年(大正6年)1月、野戦砲兵射撃学校教官となり、同校教導大隊中隊長、参謀本部付、第14師団参謀近衛師団参謀などを経て、1926年(大正15年)12月から翌年11月まで陸軍大学校専攻学生として学んだ。1927年(昭和2年)12月、陸軍野戦砲兵学校教官となり、砲兵監部員、野戦砲兵学校教官、砲兵監部員、陸士教官などを歴任し、1935年(昭和10年)8月、砲兵大佐に昇進し野戦砲兵学校教官に就任。支那駐屯砲兵連隊長、山砲兵第27連隊長などを経て、1938年(昭和13年)12月、陸軍少将に進級し野戦砲兵学校幹事となる。

1940年(昭和15年)3月、野戦重砲兵第2旅団長に就任し日中戦争に出征。1941年(昭和16年)8月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)4月、第60師団長に親補され上海蘇州の治安警備を担当。1945年(昭和20年)6月、第54軍司令官となり、愛知県新城に在って本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。同年10月、予備役に編入された。

栄典

親族

  • 娘婿 今村中(陸軍中佐、戦死)

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  1. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。