コンテンツにスキップ

「メス (フランス)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎歴史: 古代から中世盛期までを定評のある事典・研究書を元に記述。
タグ: 曖昧さ回避ページへのリンク
→‎歴史: ヴェルダン条約/メルセン条約での帰属について記述。
45行目: 45行目:
メスは2000年以上前から記録されている。紀元前52年の[[カエサル]]によるガリア征服まで、ケルト人のMediomatrici族のオッピドゥムであった。ローマ帝国へ編入されると、すぐにメスは人口4万のガリアにおける中心都市のひとつへ変化し、蛮族の襲撃と5世紀末のフランク族の移住までそれを維持した。
メスは2000年以上前から記録されている。紀元前52年の[[カエサル]]によるガリア征服まで、ケルト人のMediomatrici族のオッピドゥムであった。ローマ帝国へ編入されると、すぐにメスは人口4万のガリアにおける中心都市のひとつへ変化し、蛮族の襲撃と5世紀末のフランク族の移住までそれを維持した。


[[アッチラ]]による破壊(451年)を伝える史料に初めて出現するこの都市は当初、Divodurumと記されたが、後にMettisを経由して今日のMetzへと変化した。[[古代ローマ時代]]、Gorzeから23 kmの長さに及ぶ運河によって引いた水を用いた大浴場や二つの円形劇場があった。[[リヨン]]から[[トリーア]]および[[ケルン]]に向かう街道と[[ランス]]から[[マインツ]]ないし[[ストラスブール]]に向かう街道の交差する交通の要衝に位置していたことがこの都市の発展の基礎となっている。司教が復活祭期間中に訪問する教会を列挙する表(760年頃)には34の礼拝所が記されている。[[カロリング朝]]においては[[ルートヴィヒ1世]](敬虔王)をはじめ王族がこの地の教会に葬られている。メスは、司教が都市の行政・司法・経済での主権を掌握する君主である司教都市であったが、[[12世紀]]以後、市民側の反抗が激しくなる<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 585-586.</ref>。「[[1118年]]メッスの司教に選任されたシュヴァルツヴァルトの聖ゲオルゲン大修道院院長で[[グレゴリウス]]支持派であったテオトゲルは、住民の強い抵抗をうけて司教座につくことさえできず、クリニューで死んだ」<ref>エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) 、140頁。</ref>。
[[アッチラ]]による破壊(451年)を伝える史料に初めて出現するこの都市は当初、Divodurumと記されたが、後にMettisを経由して今日のMetzへと変化した。[[古代ローマ時代]]、Gorzeから23 kmの長さに及ぶ運河によって引いた水を用いた大浴場や二つの円形劇場があった。[[リヨン]]から[[トリーア]]および[[ケルン]]に向かう街道と[[ランス]]から[[マインツ]]ないし[[ストラスブール]]に向かう街道の交差する交通の要衝に位置していたことがこの都市の発展の基礎となっている。司教が復活祭期間中に訪問する教会を列挙する表(760年頃)には34の礼拝所が記されている。[[カロリング朝]]においては[[ルートヴィヒ1世]](敬虔王)をはじめ王族がこの地の教会に葬られている<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 585-586.</ref>。[[フランス語圏]]にあったが、 [[843年]]の[[ヴェルダン条約]]では[[ロタリンギア]](中フランク王国)に、[[870年]]の[[メルセン条約]]では[[東フランク王国]]に帰属した<ref>Gerhard Köbler: ''Historisches Lexikon der deutschen Länder''. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 396. </ref>。メスは、司教が都市の行政・司法・経済での主権を掌握する君主である司教都市であったが、[[12世紀]]以後、市民側の反抗が激しくなる<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 585-586.</ref>。「[[1118年]]メッスの司教に選任されたシュヴァルツヴァルトの聖ゲオルゲン大修道院院長で[[グレゴリウス]]支持派であったテオトゲルは、住民の強い抵抗をうけて司教座につくことさえできず、クリニューで死んだ」<ref>エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) 、140頁。</ref>。


メスは元は[[神聖ローマ帝国]]領であり、[[中世]]には[[ヨーロッパ]]の経済の中心地であった。しかし、[[1552年]]にフランス王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]が[[トゥール (ムルト=エ=モゼル県)|トゥール]]、[[ヴェルダン]]と共に占領、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]で正式にフランス領になった。
メスは元は[[神聖ローマ帝国]]領であり、[[中世]]には[[ヨーロッパ]]の経済の中心地であった。しかし、[[1552年]]にフランス王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]が[[トゥール (ムルト=エ=モゼル県)|トゥール]]、[[ヴェルダン]]と共に占領、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]で正式にフランス領になった。

2022年3月23日 (水) 02:01時点における版

Metz
 
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) グラン・テスト地域圏
(département) モゼル県(県庁所在地)
(arrondissement) メス市(郡庁所在地)
小郡 (canton) 4小郡庁所在地
INSEEコード 57463
郵便番号 57000
市長任期 ドミニク・グロ
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté d'agglomération de Metz Métropole
人口動態
人口 119 551人
2012年
人口密度 2851人/km2
住民の呼称 Messins
地理
座標 北緯49度07分13秒 東経6度10分40秒 / 北緯49.12027778度 東経6.177777778度 / 49.12027778; 6.177777778座標: 北緯49度07分13秒 東経6度10分40秒 / 北緯49.12027778度 東経6.177777778度 / 49.12027778; 6.177777778
標高 平均:179 m
最低:162 m
最高:256 m
面積 41,94km2 (4 194ha)
Metzの位置(フランス内)
Metz
Metz
公式サイト metz.fr
テンプレートを表示

メスメッス[1](Metz フランス語: [mɛs] ( 音声ファイル)ドイツ語: [mɛts] メッツ)は、フランスの北東部に位置する都市で、グラン・テスト地域圏モゼル県県庁所在地である。

概要

かつてのアウストラシアの首都、のちにカロリング朝の都市であったメスは、3000年前に始まった歴史とその遺産の豊富さで証明される。フランスの文化に、ドイツに併合された遺産が建築上、特に象徴的な図面を維持している。市内にテクノポールを抱える情報通信の都市であると明確に示されており、古くからの商業都市は『田園都市』であることを望んでその都市景観から脱却し、都市生態学に関するフランス国内の政治的開拓者を通じて、水の流れと公園のある都市をつくりあげた。

位置

メスは、巨大なヨーロッパの循環の軸が交差する地点にある。

メス周辺の重要都市には、55km北のルクセンブルク市、53km南のナンシー、60km東のザールブリュッケンがある。ストラスブールとは133km、ランスとは155km、パリとは320km、フランクフルト・アム・マインとは230km離れている。

地形

メス市の西部はモーゼル川とセイユ川の谷にあたり、市中心部とサブロン地区は小高い丘の上にある。市東部の地区は標高が高く、ロレーヌ盆地の支脈にあたる。標高358mのサン=カンタン山が市を見下ろしている。

地質ではメスはパリ盆地東部に位置し、ケスタの麓にある。モーゼル丘陵は、サン=カンタン山の一部である。これらは石灰岩質からなる。

歴史

メスは2000年以上前から記録されている。紀元前52年のカエサルによるガリア征服まで、ケルト人のMediomatrici族のオッピドゥムであった。ローマ帝国へ編入されると、すぐにメスは人口4万のガリアにおける中心都市のひとつへ変化し、蛮族の襲撃と5世紀末のフランク族の移住までそれを維持した。

アッチラによる破壊(451年)を伝える史料に初めて出現するこの都市は当初、Divodurumと記されたが、後にMettisを経由して今日のMetzへと変化した。古代ローマ時代、Gorzeから23 kmの長さに及ぶ運河によって引いた水を用いた大浴場や二つの円形劇場があった。リヨンからトリーアおよびケルンに向かう街道とランスからマインツないしストラスブールに向かう街道の交差する交通の要衝に位置していたことがこの都市の発展の基礎となっている。司教が復活祭期間中に訪問する教会を列挙する表(760年頃)には34の礼拝所が記されている。カロリング朝においてはルートヴィヒ1世(敬虔王)をはじめ王族がこの地の教会に葬られている[2]フランス語圏にあったが、 843年ヴェルダン条約ではロタリンギア(中フランク王国)に、870年メルセン条約では東フランク王国に帰属した[3]。メスは、司教が都市の行政・司法・経済での主権を掌握する君主である司教都市であったが、12世紀以後、市民側の反抗が激しくなる[4]。「1118年メッスの司教に選任されたシュヴァルツヴァルトの聖ゲオルゲン大修道院院長でグレゴリウス支持派であったテオトゲルは、住民の強い抵抗をうけて司教座につくことさえできず、クリニューで死んだ」[5]

メスは元は神聖ローマ帝国領であり、中世にはヨーロッパの経済の中心地であった。しかし、1552年にフランス王アンリ2世トゥールヴェルダンと共に占領、1648年ヴェストファーレン条約で正式にフランス領になった。

1870年に勃発した普仏戦争では、この地において、フランソワ・アシル・バゼーヌ将軍率いるフランス軍の主力が包囲された。その救援に向かったナポレオン3世は、その途中のスダンで捕らえられプロイセンに降伏している。

人口統計

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2012年
102 771 107 537 111 869 114 232 119 594 123 776 124 435 119 551

出典:1999年までLdh/EHESS/Cassini[6]、2004年以降INSEE[7][8]

文化

2010年、パリにある総合文化施設のポンピドゥー・センターの分館であるポンピドゥー・センター・メスが開館。設計は、日本人建築家坂茂とフランス人建築家Jean de Gastines及びイギリス人建築家Philip Gumuchdjianのグループが手掛けた。

観光

サンテチエンヌ大聖堂
サンテチエンヌ大聖堂

身廊の高さが42mに届くサンテチエンヌ大聖堂は、ヨーロッパのゴチック建築のなかでも最も高い建築物のひとつで、ステンドグラスの面積は6500 m² に達し(13世紀から20世紀にかけて作られ、一部はシャガールによる制作)、「ランテルヌ・デュ・ボン・デュー(神のランプ)」という愛称で親しまれています。大聖堂は、この黄色を与えるジョーモン石(モーゼルで抽出された石の一種)で建てられています。13世紀から16世紀に建てられ、ヨーロッパで最大のゴシック様式の天蓋が特徴です。2020年に、建物は800年を迎えます。その際、ビデオマッピングが行われます。

ポンピドゥー・センター・メッス
ポンピドゥーセンターメス


さまざまな形の現代アートのための可能性とスペースのために捧げられたポンピドゥー・センター・メスでは、一年を通じてたくさんのイベントが行われています。斬新な建物の設計は、プロジェクトのコンペティションで優勝した坂茂とジャン・ド・ガスティーユの日仏共同チームが、イングランド建築家フィリップ・グムチジャン協力のもと担当しました。その建設は、セユ公園とメス駅の間にある円形劇場地区の開発の一環として行われました。2010年に作成されたこのポンピドゥー・センター・メスは、特にドイツ、ルクセンブルク、ベルギーに近いため、パリ近郊で最も訪問されるフランスの美術館の1つです。

スポーツ

サッカークラブのFCメスが本拠地を置いており、リーグ・アンに参加している。

メス出身の人物

姉妹都市

メスは以下の姉妹都市と提携している:

脚注

注釈

出典

  1. ^ メス』 - コトバンク
  2. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 585-586.
  3. ^ Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 396.
  4. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München: LexMA 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 585-586.
  5. ^ エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) 、140頁。
  6. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=22347
  7. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
  8. ^ http://www.insee.fr

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、メス (フランス)に関するメディアがあります。