コンテンツにスキップ

「フランチェスコ・トルド」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Kujiragami (会話 | 投稿記録)
内部リンクの修正。日付の内部リンクを削除。
タグ: 2017年版ソースエディター
25行目: 25行目:
|年4=1992-1993|クラブ4=→{{flagicon|ITA}} [[ラヴェンナ・カルチョ|ラヴェンナ]] (loan)|出場4=31|得点4=0
|年4=1992-1993|クラブ4=→{{flagicon|ITA}} [[ラヴェンナ・カルチョ|ラヴェンナ]] (loan)|出場4=31|得点4=0
|年5=1993-2001|クラブ5={{flagicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]|出場5=266|得点5=0
|年5=1993-2001|クラブ5={{flagicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]|出場5=266|得点5=0
|年6=2001-2010|クラブ6={{flagicon|ITA}} [[インテル・ミラノ]]|出場6=148|得点6=0
|年6=2001-2010|クラブ6={{flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]|出場6=148|得点6=0
|クラブ成績更新日=2009/10シーズン終了時点
|クラブ成績更新日=2009/10シーズン終了時点
|代表年1=1993-1994|代表1={{ITAf}} U-21|代表出場1=8|代表得点1=0
|代表年1=1993-1994|代表1={{ITAf}} U-21|代表出場1=8|代表得点1=0
34行目: 34行目:


== 略歴 ==
== 略歴 ==
[[1989年]]に[[ACミラン]]でキャリアをスタート。その後下部クラブを転々とし、[[1993年]]に[[フィオレンティーナ]]へ移籍し正GKとして活躍。同時に[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]にも招集され、[[1995年]][[10月8日]]の[[サッカークロアチア代表|クロアチア]]戦で代表デビューを果たす。以来[[ジャンルイジ・ブッフォン]]と並ぶゴールキーパーとしてイタリア代表を牽引していたが、[[UEFA EURO 2004]]終了後に代表は引退した。
1989年に[[ACミラン]]でキャリアをスタート。その後下部クラブを転々とし、1993年に[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]へ移籍し正GKとして活躍。同時に[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]にも招集され、1995年10月8日の[[サッカークロアチア代表|クロアチア]]戦で代表デビューを果たす。以来[[ジャンルイジ・ブッフォン]]と並ぶゴールキーパーとしてイタリア代表を牽引していたが、[[UEFA EURO 2004]]終了後に代表は引退した。


[[2001年]]に移籍した[[インテル・ミラノ]]でも正GKを務めていたが2005-06シーズンより当時監督であった[[ロベルト・マンチーニ]]の方針により、新加入の[[ジュリオ・セザル・ソアレス・エスピンドラ|ジュリオ・セザル]]に正GKの座を譲ったものの、彼の貴重なバックアッパーとしてチームのリーグ5連覇・イタリア史上初の三冠などを支えた。
2001年に移籍した[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]でも正GKを務めていたが2005-06シーズンより当時監督であった[[ロベルト・マンチーニ]]の方針により、新加入の[[ジュリオ・セザル・ソアレス・エスピンドラ|ジュリオ・セザル]]に正GKの座を譲ったものの、彼の貴重なバックアッパーとしてチームのリーグ5連覇・イタリア史上初の三冠などを支えた。


[[2010年]][[7月8日]]、現役引退を表明。セザルに背番号1番を託し20年の選手生活を終えた。
2010年7月8日、現役引退を表明。セザルに背番号1番を託し20年の選手生活を終えた。


== エピソード ==
== エピソード ==
*02-03シーズンの[[イタリアダービー]]では1点ビハインドの終了間際に事実上の同点ゴールを決めた。(トルドのシュートが倒れているヴィエリの足に当たって入ったので記録上はヴィエリのゴール。)
*2002-03シーズンの[[イタリアダービー]]では1点ビハインドの終了間際に事実上の同点ゴールを決めた。(トルドのシュートが倒れているヴィエリの足に当たって入ったので記録上はヴィエリのゴール。)
*[[ペナルティーキック|PK]]をストップすることが多く、[[UEFA EURO 2000|EURO2000]]の準決勝・[[オランダ]]戦では試合中に2本の[[ペナルティーキック|PK]]をストップし、さらに0-0のまま迎えた[[ペナルティーキック|PK]]戦でも2本の[[ペナルティーキック|PK]]をストップして勝利の立役者になった。
*[[ペナルティーキック|PK]]をストップすることが多く、[[UEFA EURO 2000|EURO2000]]の準決勝・[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦では試合中に2本の[[ペナルティーキック|PK]]をストップし、さらに0-0のまま迎えた[[ペナルティーキック|PK]]戦でも2本の[[ペナルティーキック|PK]]をストップして勝利の立役者になった。


== 獲得タイトル ==
== 獲得タイトル ==

2022年3月26日 (土) 01:33時点における版

フランチェスコ・トルド
名前
愛称 トルドーネ
ラテン文字 Francesco Toldo
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1971-12-02) 1971年12月2日(52歳)
出身地 パドヴァ
身長 196cm
体重 90kg
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
ユース
1987-1990 イタリアの旗 ACミラン
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1990-1993 イタリアの旗 ACミラン 0 (0)
1990-1991 イタリアの旗 ヴェローナ (loan) 0 (0)
1991-1992 イタリアの旗 トレント (loan) 38 (0)
1992-1993 イタリアの旗 ラヴェンナ (loan) 31 (0)
1993-2001 イタリアの旗 フィオレンティーナ 266 (0)
2001-2010 イタリアの旗 インテル・ミラノ 148 (0)
代表歴
1993-1994 イタリアの旗 イタリア U-21 8 (0)
1995-2004 イタリアの旗 イタリア 28 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2009/10シーズン終了時点現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フランチェスコ・トルドFrancesco Toldo, 1971年12月2日 - )は、イタリアパドヴァ出身の元同国代表サッカー選手GK)。

略歴

1989年にACミランでキャリアをスタート。その後下部クラブを転々とし、1993年にフィオレンティーナへ移籍し正GKとして活躍。同時にイタリア代表にも招集され、1995年10月8日のクロアチア戦で代表デビューを果たす。以来ジャンルイジ・ブッフォンと並ぶゴールキーパーとしてイタリア代表を牽引していたが、UEFA EURO 2004終了後に代表は引退した。

2001年に移籍したインテル・ミラノでも正GKを務めていたが2005-06シーズンより当時監督であったロベルト・マンチーニの方針により、新加入のジュリオ・セザルに正GKの座を譲ったものの、彼の貴重なバックアッパーとしてチームのリーグ5連覇・イタリア史上初の三冠などを支えた。

2010年7月8日、現役引退を表明。セザルに背番号1番を託し20年の選手生活を終えた。

エピソード

  • 2002-03シーズンのイタリアダービーでは1点ビハインドの終了間際に事実上の同点ゴールを決めた。(トルドのシュートが倒れているヴィエリの足に当たって入ったので記録上はヴィエリのゴール。)
  • PKをストップすることが多く、EURO2000の準決勝・オランダ戦では試合中に2本のPKをストップし、さらに0-0のまま迎えたPK戦でも2本のPKをストップして勝利の立役者になった。

獲得タイトル

クラブ

ヴェローナ
  • セリエC1 : 1992-93
フィオレンティーナ
  • セリエB : 1993-94
  • コッパ・イタリア : 1995-96, 2000-01
  • スーペルコッパ・イタリアーナ : 1996
インテル
  • セリエA : 2005-06, 2006-07, 2007-08, 2008-09, 2009-10
  • コッパ・イタリア : 2004-05, 2005–06, 2009-10
  • スーペルコッパ・イタリアーナ : 2005, 2006, 2008
  • UEFAチャンピオンズリーグ : 2009-10

代表

個人