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[[福岡県]]に生まれる。[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県立中学修猷館]]を経て、1906年、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]仏法科を卒業。1907年、[[高等文官試験]]外交科に合格し[[外務省]]に入省する。
[[福岡県]]に生まれる。[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県立中学修猷館]]を経て、1906年、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]仏法科を卒業。1907年、[[高等文官試験]]外交科に合格し[[外務省]]に入省する。


[[廈門市|廈門]]領事館、[[ホノルル]]総領事館、[[丹東市|安東]]領事館に在勤後、1919年7月、[[済南市|済南]]総領事、1923年、[[イタリア]]大使館参事官(1926年4月には[[落合謙太郎]]大使の帰朝のため臨時代理大使を務めている)を歴任した後、1928年、[[チリ]]特命全権公使に就任し1933年5月まで務めている。
[[廈門市|廈門]]領事館、[[ホノルル]]総領事館、[[丹東市|安東]]領事館に在勤後、1919年7月、[[済南市|済南]]総領事、1923年、{{仮リンク|在イタリア日本国大使館|label=イタリア大使館|it|Ambasciata del Giappone in Italia}}参事官(1926年4月には[[落合謙太郎]]大使の帰朝のため臨時代理大使を務めている)を歴任した後、1928年、[[チリ]]特命全権公使に就任し1933年5月まで務めている。


妻は[[天文学者]]・[[寺尾寿]]の長女・敦子<ref name="アーカイブ室新聞">[http://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/arc_news065.pdf 東京天文台初代台長寺尾寿の家系図を入手] - [[国立天文台]]・天文情報センター・アーカイブ室新聞 第65号([[Portable Document Format|PDFファイル]])</ref>。安三郎は敦子との間に2男4女をもうけ<ref name="アーカイブ室新聞"/>、敦子の死後安三郎は再婚している<ref name="アーカイブ室新聞"/>。
妻は[[天文学者]]・[[寺尾寿]]の長女・敦子<ref name="アーカイブ室新聞">[http://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/arc_news065.pdf 東京天文台初代台長寺尾寿の家系図を入手] - [[国立天文台]]・天文情報センター・アーカイブ室新聞 第65号([[Portable Document Format|PDFファイル]])</ref>。安三郎は敦子との間に2男4女をもうけ<ref name="アーカイブ室新聞"/>、敦子の死後安三郎は再婚している<ref name="アーカイブ室新聞"/>。

2022年4月18日 (月) 12:57時点における版

森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9月25日)は、日本外交官

経歴

福岡県に生まれる。福岡県立中学修猷館を経て、1906年、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業。1907年、高等文官試験外交科に合格し外務省に入省する。

廈門領事館、ホノルル総領事館、安東領事館に在勤後、1919年7月、済南総領事、1923年、イタリア大使館イタリア語版参事官(1926年4月には落合謙太郎大使の帰朝のため臨時代理大使を務めている)を歴任した後、1928年、チリ特命全権公使に就任し1933年5月まで務めている。

妻は天文学者寺尾寿の長女・敦子[1]。安三郎は敦子との間に2男4女をもうけ[1]、敦子の死後安三郎は再婚している[1]

安三郎・敦子夫妻の長女・綾子は義父・寺尾の姉・萩尾ちかとその夫・四郎の孫にあたる平尾玄雄と結婚しているため平尾夫妻は又従兄妹同士で結婚したことになる[1]

栄典

脚注・出典

  1. ^ a b c d 東京天文台初代台長寺尾寿の家系図を入手 - 国立天文台・天文情報センター・アーカイブ室新聞 第65号(PDFファイル
  2. ^ 『官報』第1830号「叙任及辞令」1933年2月7日。
  3. ^ 『官報』第2673号「叙任及辞令」1935年11月29日。