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野砲兵第1連隊[[中隊長]]、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]付勤務、参謀本部員、[[イタリア]]駐在、[[陸軍兵器本廠]]付、[[陸軍重砲兵学校]]教官、参謀本部員を経て、[[1938年]](昭和13年)6月から翌年3月まで[[大本営]]謀略課長を務めた。イタリア大使館付[[駐在武官|武官]]、参謀本部欧米課長、参謀本部謀略課長を歴任し、[[日中戦争]]に[[第13軍 (日本軍)|第13軍]][[参謀|参謀長]]として出征。[[1941年]](昭和16年)10月、陸軍[[少将]]に昇進。 |
野砲兵第1連隊[[中隊長]]、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]付勤務、参謀本部員、[[イタリア]]駐在、[[陸軍兵器本廠]]付、[[陸軍重砲兵学校]]教官、参謀本部員を経て、[[1938年]](昭和13年)6月から翌年3月まで[[大本営]]謀略課長を務めた。{{仮リンク|在イタリア日本国大使館|label=イタリア大使館|it|Ambasciata del Giappone in Italia}}付[[駐在武官|武官]]、参謀本部欧米課長、参謀本部謀略課長を歴任し、[[日中戦争]]に[[第13軍 (日本軍)|第13軍]][[参謀|参謀長]]として出征。[[1941年]](昭和16年)10月、陸軍[[少将]]に昇進。 |
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[[1942年]](昭和17年)12月1日、[[支那派遣軍]]総参謀副長となり、[[1944年]](昭和19年)12月14日、[[第6方面軍 (日本軍)|第6方面軍]]参謀長に異動。[[1945年]](昭和20年)3月1日、陸軍中将に進級し、同年4月30日に[[第205師団 (日本軍)|第205師団]]長に補され、[[高知県]]において[[本土決戦]]に備え終戦を迎えた。同年12月、[[予備役]]に編入され、東部復員連絡局総務部長を経て、[[1946年]](昭和21年)6月から翌[[1947年]](昭和22年)2月まで、東部復員連絡局長に在任。 |
[[1942年]](昭和17年)12月1日、[[支那派遣軍]]総参謀副長となり、[[1944年]](昭和19年)12月14日、[[第6方面軍 (日本軍)|第6方面軍]]参謀長に異動。[[1945年]](昭和20年)3月1日、陸軍中将に進級し、同年4月30日に[[第205師団 (日本軍)|第205師団]]長に補され、[[高知県]]において[[本土決戦]]に備え終戦を迎えた。同年12月、[[予備役]]に編入され、東部復員連絡局総務部長を経て、[[1946年]](昭和21年)6月から翌[[1947年]](昭和22年)2月まで、東部復員連絡局長に在任。 |
2022年4月18日 (月) 13:09時点における版
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唐川 安夫 | |
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生誕 |
1895年(明治28年)11月19日![]() |
死没 | 1977年7月29日(81歳没) |
所属組織 |
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軍歴 | 1917 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月19日 - 1977年〈昭和52年〉7月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
福山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。
野砲兵第1連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、イタリア駐在、陸軍兵器本廠付、陸軍重砲兵学校教官、参謀本部員を経て、1938年(昭和13年)6月から翌年3月まで大本営謀略課長を務めた。イタリア大使館付武官、参謀本部欧米課長、参謀本部謀略課長を歴任し、日中戦争に第13軍参謀長として出征。1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進。
1942年(昭和17年)12月1日、支那派遣軍総参謀副長となり、1944年(昭和19年)12月14日、第6方面軍参謀長に異動。1945年(昭和20年)3月1日、陸軍中将に進級し、同年4月30日に第205師団長に補され、高知県において本土決戦に備え終戦を迎えた。同年12月、予備役に編入され、東部復員連絡局総務部長を経て、1946年(昭和21年)6月から翌1947年(昭和22年)2月まで、東部復員連絡局長に在任。
栄典
- 外国勲章佩用允許